86.『セイル・アストル』
目を開けたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
鼻をつく消毒薬の匂い。
耳に入ってくる、どこか遠い足音と、カーテン越しの小さな話し声。
(……医務棟、か)
そこまで分かるのに、少し時間がかかった。
首を横に向けると、椅子に座ったままうとうとしていたリーナが、はっと顔を上げた。
「レン!」
勢いよく立ち上がる。
目の下にはうっすらクマができていて、髪も少し乱れている。
それでも、顔をくしゃっとさせた笑顔は、見慣れたリーナそのものだった。
「よかった……! やっと起きた……!」
「……リーナ?」
声が、自分でも驚くぐらい掠れている。
「俺、どれくらい寝てた?」
「二日。丸々二日よ。
ずっと熱は高いし、魔力は暴れてるしで、見てるこっちは寿命縮んだんだから」
リーナは胸元のペンダントを指でつまみながら、少しだけ肩をすくめた。
「こっちまで巻き込まれるぐらい、魔力ぐちゃぐちゃで。
近づいていいのかどうかも分かんないくらいだったんだからね」
「……ごめん」
自然と、謝る言葉が出た。
上体を起こそうとした瞬間、肩に鋭い痛みが走る。
「ちょ、動かないで!」
リーナが慌ててベッド際に回り込む。
「その肩、傷は塞がってるけどまだちゃんと治ってないんだから。
起き上がるなら、ゆっくり」
「……ああ。そういえば、切られたんだったな」
ぼんやり思い出しかけたところで、カーテンがそっと開いた。
「起きたか、レン」
入ってきたのは、片腕を吊っているルデスと、後ろからついてくるオルフェンだった。
「どうにか、だな」
オルフェンがこちらを見て、ふうっと息を吐く。
「本当なら、もう一日は寝ていてほしいところだが……正直、時間がない」
「時間?」
聞き返した瞬間、胸の奥がざわついた。
嫌な予感だけが、先に形になる。
「セイルは?」
自分でも驚くくらい、すぐにその名前が出た。
ルデスの表情が、わずかに曇る。
リーナも、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……まだ、持ちこたえてはいる」
先に答えたのは、オルフェンだった。
「外の傷は、ほとんど塞がっている。
問題は内側だ。糸の痕跡が、まだ身体の奥に残っている」
「治癒魔法も、回復薬も、普通にできることは全部やったわ」
リーナが小さく続ける。
「でも、治ったそばから奥の方でほどけていく感じで……
イリスさんでも、完全には抑えきれないみたい」
「……会わせてくれないか」
自分の声が少し震えているのが分かった。
ルデスは一瞬だけ目を閉じ、それから静かに頷く。
「歩けるか?」
「ゆっくりなら、たぶん」
ベッドから足を下ろすと、膝に力が入らず、少しよろめいた。
それでも、リーナが支えてくれたおかげで、どうにか立ち上がれる。
◇ ◇ ◇
セイルのいる部屋は、医務棟の一番奥だった。
扉を開けると、魔法灯の柔らかい光と、治癒魔法の淡い気配が漂ってくる。
ベッドの上で、セイルは仰向けに寝ていた。
胸元にはきれいに巻かれた包帯。
その上から、イリスのものだろう、薄い光の膜が覆っている。
顔色は悪く、唇は青白い。
呼吸も浅く、途切れそうだ。
それでも――
「……レン?」
近づいた俺を見て、セイルはちゃんと目を開けた。
「無理に喋らなくていいから」
そう言いながらも、胸の中の緊張が少しほどける。
「生きてるなら、それで十分だよ」
「いえ……言わせてください」
いつもより弱々しい声だが、それでもハッキリと。
「まずは……すみませんでした。
何度も、レンに魔法を向けて……」
「それは、セイルが謝ることじゃないよ」
思わず、言葉が出た。
「操られてたんだし。
止めきれなかったのは、こっちの方だからさ」
「でも……」
セイルが、かすかに首を振る。
「意識のどこかで、“それでも魔法を撃つ”って、選んでたのは俺です。
だから、一度だけは……ちゃんと謝っておきたくて」
「じゃあ、お互い一回ずつってことで」
自分でも少し無理やりだと思いつつ、肩の力を抜いて笑ってみせる。
「俺は“守り切れなくてごめん”。
セイルは“巻き込んでごめん”。
それでチャラにしよう。……ダメ?」
「……ほんと、都合のいいまとめ方しますね、レンは」
そう言いつつも、セイルの口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「セイル」
リーナが、ベッドのそばまで来て、そっと手を握る。
「もう、喋らなくていいから。
あとは、全部こっちでなんとかするからさ」
「……リーナさん」
セイルが名前を呼ぶ声には、どこか満足したような色が混ざっていた。
「俺、ずっと……
レンが、あなたの隣にいるのが、少し悔しかったんです」
不意に、セイルがそんなことを言う。
「十四層でやっと自分のこの気持ちが分かりました。
魔力が暴走しながらもリーナさんだけは傷付けないようにしていた。
僕は…リーナさんのことが好きなんだと」
「何それ」
リーナが、泣き笑いみたいな顔になる。
「今さらそんなこと言う?」
「だから……」
セイルが、ゆっくりと瞬きをする。
「リーナさん。
僕はあなたの隣に相応しくなかった」
リーナは、黙ったまま握った手から目を離さない。
「殿下」
セイルが、今度はルデスを見る。
「好き勝手ばかりして、申し訳ありませんでした。
でも、最後まで殿下のそばで戦えたこと……誇りに思っています」
「謝る必要はない」
ルデスは静かに言った。
「君は立派に役目を果たした。
それを誇ることだけは、誰にも止められない」
「……はい」
セイルの肩の力が、少し抜ける。
光の膜が、わずかに大きく揺れた。
イリスの回復が、限界ぎりぎりで踏ん張っているのが分かる。
オルフェンが小さく首を振り、ルデスはその仕草だけを見て目を伏せた。
「……レン」
もう一度、名前が呼ばれる。
今度は、本当に小さな声だった。
「ありが……とう、あとは、ま…」
最後の言葉は、途切れてしまった。
魔法灯の光が、一瞬だけ揺れる。
セイルの胸の上下が、ゆっくり、ゆっくりと浅くなっていき――
それきり、動かなくなった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
イリスがそっと彼の瞳を閉じ、短く祈りの言葉を紡ぐ。
リーナは、離そうとしない手を握ったまま、ぽろぽろと涙を落とした。
ルデスは静かに目を閉じ、それから一度だけ深く息を吸い込む。
「……セイル・アストル。
迷宮調査任務において、最期まで役目を全うした」
誰に言うでもなく、その名をはっきりと口にした。
「君の働きは、必ず記録に残す。――それが、私にできる約束だ」
◇ ◇ ◇
それからの数日は、あっという間に過ぎていった。
セイルの死は「迷宮探索中の事故」として処理され、
学園と王都の両方で、静かに葬儀が行われた。
十四層で起きたことの詳細は、ごく一部の人間しか知らない。
教室で飛び交うのは、
「ダンジョンで死人が出たらしい」
「勇者が中で強敵と戦ったらしい」
――そんな、ふわっとした噂だけだ。
俺は、授業に出て、寮に戻って、夜はなかなか寝つけない。
そんな日々を、どうにか繰り返していた。
リーナも、いつも通り隣の席に座る。
笑うときはちゃんと笑うし、怒るときは容赦なく怒る。
ただ、ふとした瞬間に、窓の外を見つめたまま黙り込むことがある。
そういうとき、セイルの横顔を思い出すのは、きっと俺だけじゃない。
(それでも――時間は勝手に進むんだよな)
ぼんやりそんなことを考えながら、いつものように朝食を食べて、学園へ向かう。
◇ ◇ ◇
時間は止まることを知らず、
やがて、大剣術祭の開幕前日がやってきた。
学園の中庭は、いつもとはまるで違う景色になっていた。
観客用の簡易スタンドが組まれ、
各国からの旗や、学園の紋章入りの垂れ幕が風に揺れる。
訓練用だった広場には、仮設の観覧席や、魔法配信用の柱が何本も立っていた。
「……かなり気合い入ってるな、これ」
中庭を歩きながら、思わず声が漏れる。
「そりゃそうでしょ。
王都中から人が見に来るんだから、手抜きなんてできないわよ」
リーナが、資料の束を抱えながら呆れたように言う。
「明日は開会式と、予選の一部。
本戦は三日目予定。……ほら、これが全体スケジュール」
「詰め込みすぎじゃない?」
「詰め込まないと終わらないの。
参加者リスト見てみなさいよ」
渡された紙には、学園内外から集まった剣士たちの名前がびっしり並んでいた。
「レンは、本戦狙いでしょ?」
「いや、まずは初戦だろ。
開始早々、足滑らせてこけるかもしれないし」
「それ、自分で言う?」
リーナがじとっとした目を向けてくる。
「フラグ立てたら、ほんとに転んでも知らないからね」
「気をつけます」
そんなやりとりをしていると、中庭の端から見慣れた金髪が手を振ってきた。
「おーい、レン!」
リアムだ。
今日は鎧ではなく、簡素な訓練着姿。
それでも、歩いているだけで周りの視線が集まるあたり、やっぱり勇者は勇者だ。
「準備、見に来たのか?」
「まぁね。思ったより派手でびっくりしてるところ」
「これでも抑え目らしいぞ」
リアムが苦笑する。
「装飾とか魔法で派手にしてやろうかって、オルフェンが言ってた」
「それいい案かも」
「やめて。運営する側は後片付けもあるんだから」
リーナが小声でぼやく。
「そうだ、レン」
リアムが少し真面目な顔になる。
「明日の開会式で、十五層のボス戦を流すって話、聞いてるよな?」
「ああ。
みんなの前で“迷宮の安全を見せる”ってやつだろ」
「正確には、“十五層のボスを勇者パーティが討伐する様子を見せる”だな」
リアムは肩をすくめた。
「学園の上も王都も、『危ないことがありました』で終わらせる気はないらしい。
『ちゃんと管理できてます』までセットで見せたがってる」
「プレッシャーすごそうだな」
「今さらだよ。こっちはずっとそんな感じだし」
軽く笑ってみせるが、その目はどこか鋭い。
「正直言うと、助かってるんだ。
あの十四層で中途半端に終わったままってのが、一番気持ち悪いからな」
「十五層に、何か手がかりがあるかもしれないってこと?」
「あるかもしれないし、何もないかもしれない。
でも、“何もない”って確かめるのも、俺たちの仕事だ」
リアムはそう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「レンはレンの場所で立っててくれ。
大剣術祭でも、学園でも。――俺は、それを見てさせてもらう」
「……分かった」
自然と、そんな言葉が口から出た。
リアムと別れたあと、リーナが小さく笑う。
「なんだかんだで、リアムもレンのこと頼りにしてるよね」
「どうだろな」
空を見上げると、大剣術祭の旗が高く掲げられている。
その向こうには、まだ見ぬ十五層と、
さらにその奥に潜んでいるかもしれない“何か”がある。
(セイル。お前なら、どう言うかな)
そんなことを一瞬だけ思い浮かべ――
「とりあえず今日は早く寝よっか」
「そうね。開会式の日にあくびしてたら、さすがに怒るから」
俺たちは、中庭を後にした。




