84.『レン』
右手には、ルデス王子から渡された“王の刃”の短剣。
刃の根元にまとわりついた黒い魔力が、鼓動に合わせてどくん、と脈打つたび、レンの足元に淡い風が巻き起こる。
左手には、リゼから貰った短剣。
握り慣れた重さが手の中にしっくり収まり、腕から全身へと、まるで一本の線のように力が通っていた。
肩の傷口からは、まだ血がにじんでいる。
だが、レンの顔には痛みの色ひとつ浮かんでいない。瞳は焦点を失い、ただ黒い気配だけが揺れていた。
「……来るぞ!」
リアムが短く声を上げる。
勇者の剣に光が灯る。
セリカは一歩前に出て盾を構え、オルフェンは半歩下がって杖を握り直す。
イリスは後方で両手を組み、いつでも守りの術を展開できるよう構えた。
床を蹴った瞬間、レンの姿がかき消えた。
次の瞬間には、四人の横。
さらに一歩で背後。
広間の端から端までを、黒い線が走り抜けていくみたいに駆け回る。
“王の刃”から吹き上がる風が、レンの脚を押し出していた。
一歩ごとに、その風がさらに加速を乗せていく。
右の短剣が、リアムの背中めがけて振り下ろされる。
同時に、左の短剣がイリスの腕をかすめるように走る。
「っ、前!」
セリカが叫び、盾を振り向きざまに構えた。
しかし、レンの姿はもうそこにはない。
足音も気配も置き去りにして、既に逆側の柱の影へ移動していた。
「速すぎる……!」
イリスが思わず声を漏らす。
レンは止まらない。
右の“王の刃”が勇者の剣とぶつかり、
左の短剣が盾の縁をかすめ、火花を散らす。
斬撃と風がセットになり、踏み込みのたびに床の砂が渦を巻く。
肩の傷から血が飛ぶが、その動きは一切鈍らない。
「四人とも、背中を合わせろ!」
リアムの声に従い、勇者パーティが中心で輪を作る。
だが、その輪の周りを、レンはさらに狭い軌道で駆け回った。
正面、右、左、背後。
視界の端に映ったと思えば、もう別の方向から斬撃が飛んできている。
右の“王の刃”が、セリカの盾の表面をえぐる。
刃が当たった部分だけ、金属が黒く焼けたように変色した。
「これ……盾を削ってくる……!」
セリカの腕に衝撃が走る。
同じ瞬間、左の短剣が低く滑り込む。
脚を狙う一撃を、リアムが辛うじて剣の腹で弾いた。
「危ないな」
オルフェンが、息を整えながら低く言う。
「あの剣かなり危ないわ、当たったらどうなるか」
レンの足取りは、もはや「走る」というより、跳ね回る風そのものだった。
切り結んだかと思えば、次には柱を踏み台にして上から振り下ろす。
天井近くまで跳び上がり、そこからふわりと落ちながら二本の短剣で斜めに斬り込む。
リアムはそのたびに剣で受け、セリカが盾を差し込み、
イリスが光の膜を張って、かろうじて致命の一撃を逸らしていた。
「でも、全部ギリギリで外してる」
オルフェンが、レンの軌道を目で追いながら言う。
「意識はほとんど飛んでるが、まだ少しだけ残ってるのかも、
それが切れたら、本当に危ない」
双短剣が交差し、勇者パーティの四人の周りに細かい傷を量産していく。
セリカの盾には斜めの傷が重なり、
リアムの腕や肩にも浅い切り傷が増えていた。
それでも、誰ひとりまだ倒れていない。
それはレンの甘さではなく、双短剣の暴走と、かろうじて残された「ブレーキ」がぶつかり合っている中途半端な状態だった。
「セリカ、右! オルフェン、左手首狙えるか!」
リアムが、叩き込むように叫ぶ。
「やってみる!」
セリカが一歩踏み出し、わざとレンの進路の真正面に立つ。
双短剣を握ったレンが、そのまま正面から突っ込んでくる。
右の“王の刃”が盾を叩き上げ、
左の短剣が、その下を抜けて脇腹を狙う――
「今だ!」
オルフェンの杖先から、光の弾が飛んだ。
狙いは、レンの左手首。
ビリッ、と鋭い痛みが走り、レンの手の中の感覚が一瞬だけ空白になる。
細身の短剣が指から抜け落ち、床を転がった。
カラン、と乾いた音が広間に響く。
レンの手から1本剣が落ち、片方だけになった。
レンの脚は、それでも止まらない。
“王の刃”からあふれる風が、相変わらず一歩ごとに加速を乗せてくる。
だが、さっきまでのような「噛み合った流れ」は、ほんの少しだけ削がれていた。
動きはまだ速い。
だが、双剣のときのような、上下左右すべてから同時に襲い掛かる圧は薄れている。
「今のうちだ。まだ“2本のとき”よりは読みやすい!」
リアムが息を吐き、構え直した。
レンは返事もなく、まっすぐに踏み込んでくる。
右手の“王の刃”が、勇者の胸元を狙って一直線に伸びた。
それは、速さだけを突き詰めた、一点突破の突きだった。
「させないって言ってるだろ!」
リアムの剣が、ぎりぎりの角度で“王の刃”の側面を叩きつける。
ガギィィィィン!!
火花が散り、二人の足元の石畳がわずかに沈む。
勇者の剣と“王の刃”がぶつかり合い、押し合いになった。
「オルフェン、刃を抑えろ!」
押しながら、リアムが怒鳴る。
「これ以上、好き放題走らせるな!」
「分かってる!」
オルフェンが杖を構え、“王の刃”の刀身に視線を固定する。
刃の根元に、淡い光がすっと走った。
細い紋様のような光が、刀身に沿ってじわじわと浮かび上がっていく。
じゅっ――。
金属から、肉でも焼いているような嫌な音がした。
黒く暴れていた魔力が、光に絡め取られ、無理やり押さえ込まれていく。
刃の表面を覆っていた闇色が、ゆっくりと薄まり、鈍い銀へと戻り始めた。
レンの足元の風も、少しだけ弱まる。
それでも体は、惰性のように前へ進もうとする。
肩の傷から血が垂れ、息は荒いはずなのに、表情は虚ろなまま。
人の「意思」の気配だけが、そこからすっぽり抜け落ちていた。
「イリス!」
リアムが、押し合いながら叫ぶ。
「ここで落とす! 衝撃を殺せ!」
「任せて!」
イリスが両手を床へ向ける。
広間の石畳一面に、柔らかな光の幕が広がった。
地面がふわりとやわらかくなったような感覚が走る。
リアムが、刃を押し返しながら、柄でレンの鳩尾を強く打ち抜いた。
「――っ!」
息の音も出ない衝撃がレンの体を突き抜ける。
そのまま勢いよく後ろへ吹き飛び、
光の幕へと叩きつけられて――
レンの体が、大きく跳ねてから、静かに沈みこんでいった。
更新日時間違えてました…




