76.危機
リーナの足が止まったまま、ぴくりとも動かない。
「……リーナ?」
呼びかけても返事はなかった。
ゆっくりと、首だけがこちらを向く。
さっきまで心配そうだった瞳から、色が抜け落ちていた。
「これは――」
ルデスが短く息を呑む。
――チリン。
部屋の真ん中で、また鈴が鳴った。
「いい反応ね」
女が、楽しそうに笑う。
赤い糸がふわりと浮かび、リーナの足首と手首に絡みついた。
次の瞬間、リーナの体がすっと動いた。
「っ……!」
迷いのない動きで、彼女はルデスの懐に飛び込む。
そのまま両腕でルデスの腕を後ろから絡め取り、全力で押さえつけた。
「リーナ!?」
「……」
リーナは何も言わない。
ただ、機械みたいに正確な力加減で、王子の両腕を拘束していた。
「悪い、リーナ。
君相手に本気で振りほどくわけにはいかないんだけど」
ルデスは軽く風をまとおうとして、すぐにやめる。
腕を振り払うくらいならできるはずだ。
でも、それをやれば――リーナの骨が折れる。
その計算を、一瞬でしている顔だった。
「さすが王子様。
優しいわね」
女がルデスの横に歩み寄る。
銀の針をくるりと回し、王子の胸元へと伸ばした。
「あなたも、縫ってあげる」
赤い糸が、ルデスの胸の前でふわりと形を変える。
心臓の前に、薄く光の輪が浮かび上がる。
(まずい……!)
俺は体を起こそうとしたが、足に力が入らない。
肩の傷がうずき、頭の中で鈴の音が反響していた。
針先が、ルデスの胸元に触れる――その瞬間。
「……あれ?」
女の顔が、わずかにゆがんだ。
針先から伸びた糸が、見えない何かに弾かれるように、はじけ飛んだ。
「……へぇ」
女は一度目を細め、改めて針を押し当てる。
今度は、さっきより深く。
しかし、結果は同じだった。
赤い糸は触れた瞬間、きれいに切り落とされる。
「何か……入ってるね。
外側から縫える心じゃない」
「悪いね」
ルデスが肩をすくめる。
「僕の心は、そう簡単にいじれないようになってる」
「……加護?」
女がつぶやく。
「それとも、もう別の誰かに“縫われた後”?」
ルデスは何も答えなかった。
ただ、わずかに目だけを細める。
「ま、いいわ」
女はすぐ興味を切り替えたように、軽く指を鳴らした。
「王子様は後回し。
あなたはそこで見てなさい。
自分の“駒”が、どう壊れるか」
リーナの腕に糸が絡み、拘束がさらに強くなる。
ルデスは試しに一度だけ身を捩ったが、その程度では抜けれなかった。
「……リーナを傷つけるくらいなら、このままでいい」
「そう、それでいいの」
女は満足そうに頷き、今度はゆっくりこちらを向いた。
「さてと」
赤い糸が、ふわりと俺の方へ伸びてくる。
「さっきはセイルくんだけにしてあげたけど……
あなたにも、ちゃんと触っておかないとね」
「遠慮しとくよ」
なんとか立ち上がり、短剣を構える。
足はふらついているが、目だけは離さない。
女は少し、嬉しそうに笑った。
「でも、入口はもう作ってあるから」
「入口?」
「ほら」
女の視線が、俺の左肩に向く。
肩の傷が、ズキンと跳ねた。
「セイルくんの魔力、ちゃんと残ってるでしょう?
そこからなら、糸を通しやすいの」
足元から、細い糸が立ち上がる。
それは真っ直ぐ、俺の肩の傷へと伸びていった。
「っ……!」
否応なく、傷口の中に冷たい感覚が入り込んでくる。
(まずい……頭が……)
視界の端がにじむ。
自分のものじゃない“言葉”が、頭の中に浮かび上がりかけた、そのとき――
――ドクン。
胸の奥で、別の何かが脈打った。
腰に差した、漆黒に近い銀の短剣が、かすかに震える。
柄の中から、誰かの息を吸い込むような感覚が広がり、
肩の中に入りかけた“糸”を、ぐいっと引きはがした。
「……あら」
女の顔から、初めて“明確な不機嫌”が浮かぶ。
「なに、それ」
俺自身も息を荒げながら、腰の短剣を見下ろした。
(……今、こいつが……)
女は、少しだけ興味深そうに目を細める。
「面白い玩具を持ってるわね。
でも――入口は、ひとつじゃないのよ」
次の瞬間、女の指先に小さなガラス瓶が現れた。
中には、黒紫に濁った液体が揺れている。
「セイルくんに試してあげた薬。
せっかくだから、あなたにも」
ガラスが割れた。
霧のようになった液体が、一気に俺の口元へと押し寄せてくる。
「……っ!」
避けようとしたが、足がもつれた。
肩の痛みと、全身のだるさが邪魔をする。
嫌な匂いのする霧が、喉から肺の奥へと流れ込んだ。
「かはっ……!」
胃の中が焼けるように熱くなる。
全身の魔力が、無理やりかき混ぜられていく。
「そう、それでいい。
あなたの中の“刃”が、どこまで暴れてくれるか――楽しみね」
女の声が、遠くなった。
耳の奥で、鈴の音と心臓の鼓動が、何度も何度も重なる。
視界の端で、セイルの魔力がさらに膨れ上がるのが見えた。
(……まずい、本気で……)
意識が、ぐらりと傾く。
立っているはずなのに、地面が遠くなったような感覚。
それでも――
ひとつだけ、はっきりしているものがあった。
(……セイルと、リーナは……俺が止める)
そう思った瞬間、
腰の短剣が、今度ははっきりと熱を帯びた。
漆黒に近い銀の刃が、鞘の中で微かに鳴る。
女が、楽しそうにその音を聞いていた。
「いいわ。そのまま壊れてくれれば、
もっときれいな“人形”になる」
広間の空気が、さらに歪んでいった。




