67.遠ざかる足音
魔法陣を抜け
地上に戻るための石段を上り切った瞬間、
レンは、背後の気配が一つ足りないことに気づいた。
「……セイル?」
呼びかけても、返事がない。
静まり返った通路に、湿った風の音だけが流れていく。
「まさか……まだ中に?」
リーナが振り返る。彼女のペンダントが淡く光を放っていた。
その光が、かすかに震えている。
「反応が……遠ざかってる?」
「そんなはずない。全員、十層の魔法陣を通ったはずだ」
ルデス王子の声に焦りが滲んだ。
セイルの魔力の痕跡は、
十層の魔法陣に続く道の途中でぷつりと途切れていた。
「……まるで、消されたみたいだ」
「転移、ですか?」
「おそらく。ただの転移じゃない。気配ごと、切り取られている」
ルデスの眉がわずかに寄る。
リーナの顔色は青ざめ、ペンダントの光も弱まっていた。
レンは剣の柄に触れ、静かに目を閉じた。
(……音が、しない。)
風の音、魔力の揺らぎ、遠くの滴る水の音。
そのすべての中で、“人の気配”だけが消えていた。
「一度、上に戻ろう」
ルデスが判断を下す。
「通路を閉じる。ここで無理に探しても、逆に巻き込まれるだけだ」
「……はい」
リーナが小さく頷いたが、その手は震えていた。
ペンダントの光が消えた瞬間、
彼女はまるで糸が切れたように肩を落とした。
レンは彼女の背中を軽く支えながら、
暗い階段を見つめた。
(……あの位置にいたのはセイルだけ。
つまり、狙われていたのは――)
彼の頭の奥で、鈴のような音がかすかに鳴った気がした。
ただの幻聴だと自分に言い聞かせながら、
レンは剣を抜かずに拳を握った。
「必ず見つけます。必ず」
その声に、ルデスは静かに頷く。
「……ああ。彼が“まだ生きている”うちにな。」
冷えた空気が通路を抜けていく。
階段の先、閉ざされた闇の奥で、何かが確かに笑った。
地上に戻ったとき、空はもう夕焼けに染まっていた。
学園の中庭を抜け、報告のために案内された調査室には、
関係者以外立ち入り禁止の札が掛けられていた。
ルデス王子は最奥の机に地図を広げ、
淡々と報告書をまとめていく。
「他のチームからの報告もあり、十四層までの確認は済んだ。
だが、十層の魔法陣、十三層と十四層の境目この2箇所で“転移痕”を検知。
空間のひずみはわずかに残っていた」
机の上に、淡い青の魔結晶が置かれている。
魔力反応を記録する石だ。
確かに、その中心にひと筋の黒い線が走っていた。
「私たちの知っている転移ではありません。
魔力の流れが“断ち切られている”」
リーナの声は震えていた。
ペンダントの光はすでに消えており、
魔力感知も反応を示さない。
「彼の残留魔力は微弱だが、まだ“生きている”と見ていい」
ルデスが低く言う。
「つまり、敵は殺すつもりではなかった」
「……じゃあ、目的は?」
「――捕獲、だろう」
空気が重く沈む。
その言葉だけが、部屋の中に落ちた金属音のように響いた。
レンは黙っていた。
あのとき、聞こえた鈴のような音。
そして、セイルが消えた瞬間の“気配の断絶”。
――似ている。かつての、あの夜に。
「レン」
ルデスが視線を向けた。
「君の感覚で、何か感じなかったか?」
「……ひとつだけ」
「言え」
「――音、です」
リーナが顔を上げる。
「音?」
「はい。ほんの一瞬ですが、鈴の音のような……
それも、魔力に反応するような響きでした」
ルデスは短く息をのむ。
「……第七使徒。“影を喰う者”か」
「鈴事件の、あの……?」
リーナの声がかすれる。
「だがあれは既に解決したはずだ。
もし同系統の干渉が続いているなら……別の使徒が関与している」
ルデスは地図を閉じ、目を細めた。
「しばらくは表立った行動は取るな。
セイルの件は、王家直属の調査として扱う。」
「……分かりました」
リーナは唇を噛み、目を伏せる。
レンは小さくうなずいたが、胸の奥のざらつきは消えなかった。
会議が終わり、夜の廊下に出る。
窓の外には満月が浮かび、風が薄く揺れていた。
レンは一度だけ、空を見上げた。
「……生きてる。必ず」
その呟きは誰に聞かれることもなく、夜に溶けた。
――その頃。
誰もいない教団拠点の一室で、
“夢を縫う者”がゆっくりと糸を結んでいた。
「心の糸は、柔らかいほど美しい」
針先がわずかに赤く光る。
月の下、セイルの瞳が同じ光を反射した。




