64.解放前の静けさ
学園の地下転移陣から浮上すると、空気の匂いが変わった。
冷たい金属の匂いから、ほんのりとインクと紙の匂いへ。
石造りの通路を抜けた先、報告室の灯りがまぶしい。
「任務終了。第十層のガーディアン、討伐完了」
ルデス王子が簡潔に報告書を差し出す。
受け取った教員が頷きながら記録を取り、ペンの音だけが静かに響いた。
レンは隣で何も言わず、ただ立っている。
戦闘直後だというのに、姿勢は崩れず、呼吸も整っていた。
彼女はその少し後ろで、まだ興奮の余韻を残している。
「ねぇ、すごかったよね? あの風と氷の連携。完璧だった!」
「……いや、まだ全然ですよ」
自分でも驚くほど、素っ気ない声が出た。
ルデスの指揮が完璧すぎて、自分の動きがただ“支え”にしか思えなかったからだ。
報告を終えたあと、ルデス王子が振り返った。
「みんな、お疲れ。――ひとまず休息を取ろう」
その声が不思議とやさしかった。
学園のカフェテリアは、夕暮れの光が差し込んでいた。
任務帰りの学生で賑わい、あちこちで笑い声が聞こえる。
四人で隅のテーブルに腰を下ろすと、
彼女がすぐに注文パネルを操作した。
「私はミルクティー。セイルは?」
「……ブラックで。」
「レンは……やっぱり何も頼まないんだ」
「後で食堂行くからな」
彼の言葉はいつも通り淡々としていたが、
その手がほんの少し震えていたのを見逃さなかった。
十層で見たあの動き。
限界を超えていたように見えたのに、顔には一切疲労を出さない。
(……やっぱり、すげぇやつだな。)
ルデス王子が軽くカップを持ち上げた。
「今回の討伐は、学園記録でも最短の達成だ。
君たちがいなければ、ここまで早く終わらなかった。」
その言葉に、彼女がうれしそうに笑う。
「えへへ、褒められた!」
「俺も一応、頑張りましたけど」
「わかってるさ、セイル」
ルデス王子の微笑みは穏やかで、それが逆に緊張を生む。
王族でありながら、現場の空気を壊さない。
“強い”というより、“完成されてる”――そう感じた。
食後、報告書を整理していたルデスが口を開く。
「次の階層――第十一層から十四層までが、来月より解放される」
その声に、周囲の喧騒が少しだけ静まった。
「今回までが“訓練”だ。
これからは、学園全体を巻き込んだ“選抜”になる。」
「選抜……?」
彼女が小さく呟く。
「つまり、各チームが成果を競い合う形式になる。
上位組は大剣術祭にも推薦される。
実力がすべての世界になるということだ」
ルデス王子は淡々と言った。
けれどその瞳の奥には、静かな熱が見えた。
王族としてではなく、一人の戦士としての光。
俺はカップを握りしめながら思った。
(次からは、本当に“試される”んだな。)
窓の外では、学園の灯りが夜の闇に溶けていく。
それが、次の戦いの始まりを告げているように見えた。
それからちょうど一ヶ月が経った。
学園の空気が、少しずつ変わっている。
廊下を歩く生徒たちは、皆どこか落ち着かず、
会話の端々に「選抜」や「祭典」の言葉が混じるようになった。
昼休みの中庭も、以前より静かだ。
木漏れ日の下で彼女がベンチに腰を下ろし、
いつものように軽く足を揺らしていた。
「セイル、見て。あの木、芽が出てる。」
「もうすぐ春ですから。」
「んー……そういうの、もっと詩的に返してよ。」
「無理です。」
「即答!」
笑う彼女の隣で、俺は弁当箱を開いた。
手作りの簡単なサンドイッチ。
最近は学園全体が慌ただしくて、食堂も混んでいる。
少しだけ、静かな昼が欲しかった。
「そういえば、明日がいよいよ解放日だね。」
彼女の声に、手が止まった。
「……はい。」
「11層から14層まで、一気に解放なんて初めてだって。」
「普通なら、段階的に安全確認をするはずですが。」
「王子が全部調整したんでしょ?」
「ええ。……たぶん、相当無理してると思います。」
ルデス王子は、最近ほとんど休んでいない。
講義にも顔を出さず、地下の調整室にこもりきりだ。
魔力の流れの点検、結界の安定化、転移陣の再構築。
それら全てを、自分の手で確認していると聞いた。
「レンは?」
「朝から訓練場です。ずっと短剣を振ってました。」
「……あの人、止まるってこと知らないの?」
「さぁ。止まったら壊れそうな人ですから。」
「……うん。ちょっと分かる気がする。」
彼女が視線を落とす。
ペンダントの金属が陽を反射して、淡く光った。
その光を見て、俺はふと思う。
(この一ヶ月で、確実に“チーム”になった。
けど同時に、それぞれの方向も、少しずつ違ってきている気がする。)
⸻
その日の放課後、講堂の鐘が鳴った。
学園全体に、王子の声が響く。
「全生徒に告ぐ。
明日より、第十一層から第十四層までを正式に開放する。
これに伴い、各チーム代表者は本館前に集合せよ。」
ざわめきが走る。
通路を行く生徒たちが立ち止まり、互いに顔を見合わせる。
「本当に、明日からなんだ……」
「最深部まで、行けるようになるってことだよな。」
不安と期待が入り混じる空気。
俺は廊下の窓から空を見上げた。
雲が薄く流れ、風が一瞬だけ止む。
(風が止まるとき……何かが始まる。)
彼女が後ろから小さく声をかけた。
「ねぇセイル。明日、緊張する?」
「……正直、少し。」
「うん。私も。」
ペンダントの光が、ほんのわずかに強くなった。
その光が、嵐の前の静けさのように見えた。




