54.セブンナンバーズ-影を喰う者-
視界が戻る。
焦げた大地の匂いが鼻を刺した。
頭の奥で、まだ“あの声”が反響している。
――見ろ、思い出せ。
レンは荒い息を吐き、身を起こした。
視界の先では、リゼが戦っていた。
黒い霧が渦を巻き、その中心で、二つの影がぶつかり合う。
金属の音が夜を裂き、石畳が砕ける。
リゼの双短剣が火花を散らし、相手の刃を弾いた。
敵――黒衣の男。
顔は見えない。
仮面のような面をつけ、瞳孔の代わりに紫の光が灯っている。
「“王の刃”か。なるほど、殿下の犬にしてはよく動く」
声は冷たく、空気を裂くようだった。
リゼは息を整え、構えを変えた。
「虚神教団……セブンナンバーズ、ね」
「おや、名を知っているとは光栄だ」
「第七使徒――“影を喰う者”。報告では最下位とあったけど……」
短剣を構え直し、冷ややかに笑う。
「随分と、強いじゃない」
男はゆっくりと首を傾げた。
「序列は飾りだ。私は“音”の加護を受けた。
神の名のもとに、生者の影を食らう」
闇がうねり、地面から無数の黒い腕が生えた。
それがリゼの足を掴もうと伸びる。
リゼは一歩後ろへ跳び、短剣を逆手に構える。
刃に魔力を通し、一閃。
影が霧散するが、すぐに再生した。
「くっ……!」
影の刃がかすめ、頬を裂いた。
血が一筋、地面に落ちる。
レンはその光景を見つめながら、体を起こそうとする。
だが頭が痛む。
まだ精神干渉の残滓が抜けきっていない。
体が思うように動かない。
「……動け、俺……!」
リゼがもう一度飛び込む。
速度は速い。
しかし、相手の反応はさらに速かった。
黒い刃が軌道を読んで割り込み、リゼの短剣を弾き返す。
「あなたたちは、私達のことを知り過ぎた」
男の声が響く。
「だから沈む。音の底で、永遠に――」
リゼは口角を上げた。
「沈むのは、あなたの方よ」
彼女が地を蹴り、跳んだ。
影の腕を踏み台にして回転しながら落下。
その軌道に、銀の光が走る。
刃が男の肩を裂いた。
だが、黒い血は流れず、煙のように散る。
「――偽物?」
リゼが振り返るより早く、背後から影が襲った。
咄嗟に受け流すが、勢いを殺しきれず、石壁に叩きつけられる。
息が詰まる。
立ち上がろうとするが、足が震えていた。
男が歩み寄る。
「君のような弱者は、好きだ。
折れて、崩れて、静かに消える瞬間が一番美しい」
その手が上がる。
空気が震える。
黒い魔力が形を持ち、槍となる。
――その時。
地を這うような音が響いた。
レンの手が震え、指先が地面を掴む。
目の奥に、まだ母の笑顔が残っていた。
“守る”という言葉が、胸の奥で弾ける。
立ち上がる。
痛みも、恐怖も消える。
視界が冴え、世界が遅く見えた。
リゼが驚いたように振り向く。
「レン……!?」
黒い槍が放たれる。
その瞬間、レンの姿がかき消えた。
――音すら追いつけない速さで。
息を吸う音が、遠くで鳴ったように聞こえた。
風が止まり、世界の色が淡く変わる。
時間がゆっくりと流れ始める――そんな錯覚。
レンは自分の足音を聞いた。
一歩、地を踏むたび、砂粒の舞い方まで見えた。
世界が遅いのではない。
自分だけが、速すぎるのだ。
「……何だ、この感覚……」
耳の奥で、鼓動が鳴る。
心臓の音が剣の拍動と重なり、
血流が全身を駆け抜けていく。
前方、影が動いた。
第七使徒が手をかざす。
黒い霧が渦を巻き、無数の腕が再び地面から伸びる。
だが――もう遅い。
レンは音を置き去りにして動いた。
次の瞬間、彼はもう目の前にいた。
短剣の切っ先が閃光のように走る。
ガン、と鋭い金属音。
火花が散る。
仮面の奥の紫の瞳が揺らぐ。
「見えない……?」
第七使徒の声が震えた。
影の腕が反応するより早く、レンの姿はもう別の場所にあった。
一閃、二閃、三閃――。
黒い霧が飛び散る。
空気が裂け、地面が抉れる。
しかし、刃が通るたび、
影は裂けるだけで消えなかった。
「……やっぱり、軽い……!」
レンが歯を食いしばる。
速さは圧倒的。
だが一撃に“重さ”がない。
切っても切っても、影が再生する。
「神の音に愛された者よ。
その速さは美しい。だが、儚い」
仮面の奥から、冷たい声が落ちてきた。
第七使徒が両腕を広げる。
闇が渦を巻き、空気ごと潰すように押し寄せてくる。
レンはすれすれでかわし、
背後の瓦礫を蹴って宙へ跳ぶ。
「……リゼさん!」
壁際で倒れたままのリゼが、息を整え、
かすれた声で返す。
「威力が足りない……。
あなたの速さは、力を削ぎすぎてるの」
「どうすれば――」
言いかけた瞬間、影の腕が襲いかかる。
レンは地を転がり、受け流しながら刃を振るう。
リゼの声が続いた。
「焦らないで……敵は“音”で動いてる。
その呼吸を聞いて……一瞬、音が止まる場所がある」
レンは目を閉じ、息を整えた。
音が……止む。
その一瞬、彼は足を踏み出した。
――速さが、音を越えた。
閃光のような一撃が、
影の中心を切り裂いた。
黒い霧が弾け、仮面がわずかに傾く。
「……ほう。面白い」
敵が笑う。
血も出ない、だが確かに“傷”が刻まれていた。
リゼは唇を噛みながら、
「いいわ……そのまま、押して……!」
と叫んだ。
レンは短く頷く。
再び構え、双眸に決意の光が宿る。
この瞬間、
“速さ”は武器ではなく、意思になった。




