46.夢
暗闇の中、風の音がした。
懐かしい、乾いた木の香り――それは幼い頃に通っていた稽古場の匂いだった。
「もう一度、構えてみろ。
力じゃない、“流れ”を感じろ」
低く響く声。
目の前に立っているのは、広い背中をした男。
鋭くも穏やかな目をしたその人――レンの父、《ウェポンマスター》だ。
レンは木剣を構え、息を整えた。
「こう……だっけ?」
「悪くない。だが、剣は腕で振るうもんじゃない。
お前の“生き方”が剣になる」
意味がわからなかった。
けれど、その言葉だけは鮮明に残っている。
父の剣はいつも静かだった。
相手を斬るためではなく、守るために動く剣。
けれど一度でも相手を見誤れば、それは命を奪う。
(俺も、あの日――)
記憶が揺らぐ。
血の匂い、倒れた影、伸ばした手。
少年のレンは、その手に“速さ”を覚えた。
追いつけなかった後悔が、速さへと変わった。
「……父さん」
声を出した瞬間、景色が白くかすんでいく。
風の音が遠ざかり、温もりも消えていく。
『なぁ、レン。俺たちが大人になったら――』
そこには少年時代の勇者がいた。
まだ小さく、あどけない顔のまま。
けれどその瞳だけは、真っ直ぐに光っていた。
『一緒に旅に出ようぜ。
どんな敵でも、二人なら倒せるさ』
レンは笑っていた。
その時の自分は、世界がどんなに広くても怖くなかった。
父のように強くなって、勇者の隣で戦うことだけを夢見ていた。
――それなのに。
『レン! やめろ! そいつは――!』
耳の奥で響いた声。
次の瞬間、血の色が広がる。
あの日の記憶が、夢の中で鮮明に蘇った。
勇者の視線。
驚き、怒り、そして――悲しみ。
その表情が、今も焼き付いて離れない。
「……俺は、守れなかった」
寝言のように呟いた瞬間、夢が崩れる。
気がつけば、薄明かりの部屋。
外では鳥の声がしていた。
レンはゆっくりと上体を起こし、息を整える。
隣のベッドにはルデス王子がまだ眠っている。
その穏やかな寝顔を見ているうちに、
胸の奥の痛みが少しずつ静まっていった。
「……リアム、か」
あの日の約束が、遠い過去の夢のように感じる。
それでも、心のどこかでまだ消えきってはいなかった。
(いつか――もう一度、あいつに顔向けできるように)
レンは窓を開けた。
冷たい朝の風が頬を撫でる。
東の空に、ゆっくりと朝日が昇っていく。
昨夜の夢の名残がまだ頭の奥に残っている。
勇者の声。父の背中。
そして、目の前には――穏やかな寝息を立てるルデス王子。
「……よく寝るな」
思わず小さく呟く。
机の上には昨夜のまま開かれた本。ランプの火は消え、芯が焦げて黒くなっている。
王族とは思えぬほど気取らない寝相に、レンは苦笑した。
その時、扉をトントンと叩く音が響く。
「リーナです」
レンは振り向き、ルデスを一瞬見やってから静かに立ち上がった。
扉を開けると、朝の光を背にリーナが立っていた。
「おはよう、レン。……あれ、殿下まだ寝てる?」
「寝てる。昨日遅くまで起きてたみたいだ」
「そうなんだ」
リーナは小さく笑い、声を落とした。
「今日と明日は学園お休みだから、ちょっと朝のうちに顔を出そうと思って」
「助かる。俺も何をすればいいのかまだわかってないし」
その時、背後から欠伸混じりの声が聞こえた。
「ふあぁ……おはよう。話は聞こえてたよ」
ルデスがゆっくりと上体を起こし、髪を指でかき上げる。
寝ぼけた様子のまま、微笑を浮かべた。
「早起きだね、レン君」
「リーナも朝早いね」
ルデスは軽く息を整え、リーナとレンを順に見た。
表情が一瞬だけ真面目なものに変わる。
「――今日は、頼みたいことがある」
リーナが顔を上げた。
「頼みたいこと?」
「最近、街で子供が攫われる事件が起きている。
表には出ていないが、報告がいくつも届いている。
調べるだけでいい。無理に動かなくて構わない」
ルデスは立ち上がり、机の上の紙束を手に取る。
そこには被害のあった地区の簡単な地図が描かれていた。
「もし犯人かアジトの手がかりを掴んだら、すぐに知らせてくれ。
他のメンバーを動かす」
レンは地図に目を落としながら低く言う。
「……調べるだけ、ね」
「そう。危険ならすぐ戻ること。
いいね? 二人とも」
「了解です、殿下」
リーナが軽く会釈する。
レンも短く頷いた。
ルデスは満足げに微笑んだ。
「助かるよ。二人なら、きっと何か掴める」
朝の光が三人を包む。
穏やかな寮の一室――けれど、
これが新しい任務の始まりであることを、誰もまだ知らなかった。




