44."格差"
笛の音が止んだあとも、訓練場にはしばらく声がなかった。
やがて、静寂を破ったのはカイルの取り巻きたちだった。
「な、なんだ今の……!? 一瞬で終わったぞ!」
「見たか? 今、あいつ消えたよな? ズルだろあれ!」
「魔法か? 補助魔法使ったんじゃねぇのか? あんなの反則だ!」
三人の声が重なり、場にざわめきが広がる。
レンが木剣を下ろしても、誰も拍手をしない。
ただ取り巻きたちだけが、悔しさを吐き出すように言葉を続けた。
「カイルは手を抜いてたんだ。そうだろ?」
「そうだよ、あいつ本気出してなかったんだ。
……そうじゃなきゃ、こんな結果になるわけがねぇ」
その輪の中心で、カイルは何も言わなかった。
木剣を握ったまま、うつむいて動かない。
風が吹き、金髪が顔にかかる。
誰も近づけない空気。
ただ、その拳が震えているのを、リーナだけが遠くから見ていた。
砂がさらさらと流れ、彼の足跡をすぐに覆い隠していく。
まるで、さっきの勝負など最初から存在しなかったかのように。
訓練場の端、柵の影に立ちながら、リーナは静かに状況を見ていた。
取り巻きたちの声が風に乗って飛んでくる。
「ズルしたに決まってる!」
「目の前で消えるとか、おかしいだろ!」
誰も彼の動きを見切れていなかった。
それが普通だ。見えるはずがない。
――でも、自分には所々見えた。
リーナはわずかに指先を握る。
(ほんの一瞬。
あの人の体が、空気の流れごと“滑った”……そんな感じだった)
速さじゃない。
力でも、技でもない。
“存在が流れた”ような違和感。
その動きは、美しいほどに自然で、理屈が追いつかない。
「……あれは、魔法じゃない」
呟きが漏れる。
リーナは学園でも上位にいる。魔術も剣も心得ている。
だからこそわかる――今の現象は、どちらでもない。
(殿下は、あれを知ってたのかな)
思考がふと冷える。
王子の指名。突然の警護命令。
そのすべてが、今の一撃に繋がっているように思えた。
――けれど、それでも。
レンが木剣を下ろした時の表情は、ただ静かで、どこまでも人間らしかった。
勝ち誇るでもなく、威圧するでもなく、
ただ“終わったから剣を置いた”だけの自然な動き。
「不思議な人だな……」
思わず零れた声を、誰も聞いていない。
取り巻きの騒ぎはまだ続いていた。
けれどリーナの視線はもう、砂の上に残る二人の足跡に向けられていた。
片方は重く深く、もう片方は軽く、まるで風が通り抜けた跡のように。
リーナはそっと柵から離れた。
日差しがまぶしい。
それなのに、胸の奥には冷たい影が落ちていた。
訓練場の喧騒が落ち着いた頃、空はもう橙に染まり始めていた。
砂の上にはまだ足跡が残り、風が少しずつそれを消していく。
レンは道具を返し終えると、静かに校舎裏の道を歩いていた。
――足音。
「ねぇ、レン」
振り向くと、リーナが夕陽を背に立っていた。
光の向こうで、茶色の髪がふわりと揺れる。
「すごかったね、今日の模擬戦」
彼女は笑っている。けれどその声の奥に、探るような響きが混じっていた。
「そうか?」
レンは軽く首をかしげる。
「自分では、ただ避けただけなんだけど」
「避けただけ、ね」
リーナはくすっと笑い、少し近づく。
「みんな“消えた”って言ってたよ。
でも、私には――ちゃんと見えてた」
レンが目を瞬く。
リーナの茶色の瞳が、真っ直ぐこちらを射抜いていた。
「風の流れが変わったの。あれ、意識してやってるの?」
「……さぁ」
曖昧に笑って答えるレン。
彼自身も、うまく説明できなかった。
沈黙が落ちる。
けれどそれは気まずくなく、どこか柔らかい空気だった。
「ねぇ、レン」
「ん?」
「殿下に言われたこと、気にしてる?」
「……まぁ、少し」
短い返事。リーナは微笑む。
「うん。あの人、面倒くさいけど悪い人じゃない。
でも、少し“見てる世界”が違うんだ」
レンはその言葉に何かを感じたように眉を動かした。
「リーナは、どんな世界を見てる?」
「んー……そうだな」
リーナは夕焼けを見上げ、少し考えるように言葉を探す。
「人が笑ってる場所、かな。
私、それだけでけっこう満足なんだ」
その声は穏やかで、どこか寂しげでもあった。
レンは一瞬だけ、何かを言いかけてやめた。
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。
太陽はもう建物の向こうに沈みかけている。
「そろそろ戻ろっか。門限、過ぎるよ」
リーナが笑いながら歩き出す。
その背中を追いながら、レンは胸の奥のわずかな違和感を押し込んだ。
――あの速さは、何だったのか。
そして、彼女の瞳に映った“それ”は、本当に自分の力なのか。
問いは残ったまま、二人の影が夕陽に溶けていく。




