42.学園
ねこのしっぽ亭の朝
小鳥の声と、下の階から漂う焼きたてパンの匂いで目が覚めた。
レンはぼんやりと天井を見上げ、昨夜の出来事を思い返す。
地下の部屋、王子の微笑、そして――リーナの無表情な瞳。
まるで夢のようだったが、あの感触は確かに現実だった。
ノックの音。
「レン、起きてる?」
ドアが開き、顔をのぞかせたのはリーナだった。
昨日と同じ茶色の長い髪が、朝日を受けて柔らかく光る。
「よし、行こっか!」
屈託のない声に、昨日の冷たさは感じられない。
まるで何事もなかったかのように。
レンは軽くうなずき、支度を整えて部屋を出た。
二人で階下に降りると、リーナの母親が朝の仕込みをしていた。
「いってらっしゃいね、リーナ、レン」
「うん、行ってきます!」
外に出ると、朝の空気が少し冷たい。
ねこのしっぽ亭の前は西門へ続く通り――行商の声と荷車の音が響く。
だが、リーナは軽やかに街の中心へ歩き出した。
「なあ、昨日の……あれ、結局なんだったんだ?」
レンが問いかけると、リーナは振り返らずに答える。
「ん?」
ほんのわずか、笑っているようにも、誤魔化しているようにも見えた。
通りを抜けるにつれ、街並みが変わっていく。
商人の掛け声が減り、代わりに整った石畳と高い塀が続く。
行き交う人々も衣装が上品になり、声を潜めて歩いている。
「ここを真っすぐ行くと学園の門。
右が寮で、正面が学園よ。」
リーナが歩きながら言う。
声は軽やかで、足取りに迷いはなかった。
やがて視界の先、白い尖塔と青い屋根が見えてくる。
リステア王立高等学院――王都の中心、知と権威の象徴。
門をくぐると、制服姿の生徒たちが視線を向けた。
だが、リーナが「おはよー!」と明るく声をかけると、空気が少し和らぐ。
そのまま二人は校舎へと進み、教室の扉を開けた。
中では、すでに何人かの生徒が集まっている。
その中心に、淡い金髪の青年――ルデス・リステア王子がいた。
「おはよう、リーナ」
「おはよー、ルデス王子」
柔らかな声のやり取り。
ルデスはすぐにレンへと視線を移し、穏やかに微笑んだ。
「レン、おはよう」
その一言で、ざわめきかけた空気が静まった。
生徒たちはチラチラとこちらを見ている。
「……おはようございます」
レンは少し戸惑いながらも返した。
数分後、教室の扉が開く。
年配の男性教師が入ってきた。背筋がまっすぐで、黒い外套の襟元には銀糸の紋章。
声は低く、よく通る。
「全員、着席」
椅子の音が一斉に鳴る。
教師は黒板の前に立ち、手元の紙を確認してから言った。
「今日から新しくこのクラスに加わる生徒を紹介する。レン、前へ」
視線が一斉に集まる。
レンは深呼吸をひとつして立ち上がり、前に出た。
「…… レン・ヴァルドです。今日からお世話になります」
それだけの短い言葉だった。
沈黙。誰もすぐには反応しない。
やがて、ルデス王子がゆっくりと手を叩いた。
空気がようやく和らいだ。
生徒たちは小さく拍手を返し、レンはほっと息をつく。
だが――。
教壇に立つ教師の視線が、一瞬だけ鋭く光った。
まるで何かを見透かすように。




