40.不信感
森を抜けると、夕陽が地平を朱に染めていた。
空気に残る血の匂いを振り払うように、レンは無言で歩く。
カイ、ミナ、ゴルドの三人も疲労の色を浮かべながら、それぞれの思考に沈んでいた。
今日の戦い――レンの異様な速さを、誰もまだうまく言葉にできていなかった。
沈黙のまま街道を進む途中、ふいにカイが口を開いた。
「なあ、レン。」
「……はい?」
カイはいつもの軽い笑みを浮かべていたが、その声にはどこか探るような響きがあった。
「今夜、少し飲みに行かねぇか? 二人で。」
「え?」
「たまにはいいだろ。真面目すぎんだよ、お前。たまに力抜かねぇと、疲れちまうぞ。」
その言葉に、レンは一瞬だけ躊躇した。だが、すぐに小さく頷く。
「……わかりました。」
ミナが小さく息をのむ。
けれど何も言わなかった。ゴルドも無言のままうなずき、二人の背を見送る。
あの戦闘の後――二人を止める言葉は、誰の口からも出なかった。
◇
リステアの街に戻るころには、夜の灯が並木道を照らしていた。
カイが選んだのは、ギルド通りから一本外れた静かな酒場だった。
「ここ、うまいんだぜ。ギルドの連中がよく来る店だ。」
扉を開けると、木の香りとランプの灯が迎える。
壁に吊るされた古びた楽器、静かに流れる弦の音。
レンにとっては、少しだけ居心地のいい静けさだった。
「おう、親父! エール二つ!」
「はいよ、カイの兄ちゃん。」
店主が笑いながらジョッキを満たす。
レンは慌てて手を振った。
「あ、俺は果実水で。」
「おう、了解!」
カイが振り返って笑う。
「お前ほんと真面目だな。まぁいいさ、俺が飲むから。」
乾杯の音が響いた。
「お疲れ、今日も無事帰ってこれたな。」
カイの声には、安堵と少しの嬉しさが混じっていた。
レンも笑みを返す。
「……はい。みんな無事でよかったです。」
最初は他愛のない話だった。
ギルドの噂、依頼で出会った変わった人々、次の休みの予定。
だが、ジョッキが空になるたびに、カイの言葉は少しずつ重くなっていった。
「なあ、レン……」
「はい?」
「さっきの戦い……あれ、本当にお前――」
カラン。
会話を遮るように、酒場の扉が開いた。
夜風が一筋、店内に流れ込む。
レンが無意識に振り向くと、そこに一人の女が立っていた。
深くフードをかぶり、表情は見えない。
だが、レンの心臓がわずかに跳ねた。
(――リゼ。)
彼女はまっすぐ歩み寄り、二人のテーブルの前で足を止めた。
「ここ、空いてるかしら?」
低く落ち着いた声。
カイが振り返り身体を見て、笑顔を浮かべた。
「おお、美人さんじゃねぇか! もちろん、どうぞどうぞ!」
レンが止める間もなく、リゼは静かに腰を下ろす。
カイの前のジョッキが半分ほど空いている。
リゼの指先がその縁に触れ――ほんの一瞬、なにかが光った。
「あなたたち、冒険者?」
「おう、そうだ。今日も依頼こなしてきてな。」
カイはもう顔が真っ赤だった。
「お兄さん、強そうね。」
「だろ? こいつ(レン)もな、ちょっとヤバいくらい強いんだぜ。」
リゼが笑みを浮かべ、レンのほうを見る。
「ふぅん……そう。」
その目には、一瞬だけ冷たい光が宿った。
「それにしても、いい夜ね。月がきれい。」
「……ああ。」
レンが答える間に、カイはもう一口飲み干していた。
だがその直後、眉をひそめる。
「……あれ、なんか、眠……」
リゼが小さく指を鳴らすように手を振ると、カイの身体がぐらりと傾き、そのままテーブルに伏した。
ジョッキが転がり、泡が音もなく流れる。
「安心なさい、ただの睡眠薬。少ししたら目を覚ますわ。」
リゼはそう言いながら、レンの方へと視線を向けた。
「――さあ、レン。ついてきてもらおうか。」
酒場のざわめきの中、二人の間だけが別の空気に変わる。
ランプの炎が揺れ、テーブルの上で影が長く伸びた。
レンは立ち上がり、わずかに息を呑む。
リゼの目は夜の闇よりも深く――そして、どこまでも静かだった。




