39. 大きな変化の兆し
朝の光がねこのしっぽ亭の窓を淡く照らしていた。
厨房にはまだ昨夜の香りが残り、外では鳥の声が小さく響く。
扉を開けると、カイ、ミナ、ゴルドの三人がすでに待っていた。
「おはよう、レン。今日はちょっと奥の森に行くぞ。もう依頼は受けてきた。」
カイが軽く手を挙げる。
ミナは穏やかに笑い、ゴルドは黙って頷いた。
レンは肩に荷を背負いながら答える。
「おはようございます。……了解です。」
出発の準備を終えた四人は、街門を抜けて森へと向かった。
途中、カイがふとレンの腰元を見て首を傾げた。
「おいレン、それ……新しい武器か?」
レンは少し驚いたように視線を落とす。
鞘に収められた短剣が、いつものショートソードとは明らかに違う。
「ああ。こっちの方が、なんとなく手に馴染む気がして。」
「へぇ、見た目よりずいぶん軽そうだな。」
ミナが興味深そうに覗き込み、ゴルドが低く唸る。
「……短剣一本で足りるのか?」
レンは小さく笑って答える。
「ええ、きっと大丈夫です。」
森の奥へ進むほどに、光が弱まり、湿った空気が肌を撫でた。
鳥の声が消え、風の音さえ止む。
不自然な静寂。
その奥から、低い唸り声が響いた。
「……出るぞ。」
カイが杖を構える。
同時に、茂みの中から十の影が飛び出した。
灰色の毛並みを逆立てた**森狼**たち。
牙を剥き、円陣を組むように包囲してくる。
「十体……少し多いな。」
ゴルドが低く唸る。
レンは短剣を握り直した。
(大丈夫。いつも通り――落ち着いて。)
風が揺れた。
一瞬、森の音がすべて遠のく。
その静寂を破ったのは、レンの足音だった。
カイが止めるより早く、レンの体が前へと弾けた。
地面の草が抉れ、影が一瞬で間合いを詰める。
一体目。
突進してきた狼の喉を正確に狙い、横薙ぎ一閃。
血が飛ぶより先に二体目が飛びかかる。
腰を落としてかわし、刃を返して脇腹を裂く。
三体目――飛び込んでくる気配を読んで、後ろに跳ねながら下から斬り上げる。
その刃筋は正確で、鋭い。
けれど、まだ“人の動き”の範囲だった。
ほんの一瞬、余裕が残る。
「レン、下がれ!」
カイの叫びが響く。
だが、レンの中で何かが“噛み合った”。
音が変わった。
風の流れが止まり、視界が広がる。
森の奥、木々の葉の揺れ、獣の呼吸――全部、見える。
(……見える。)
レンの足が自然に動いた。
次の瞬間、世界が加速する。
四体目、首筋を断つ。
五体目、爪を受け流して逆手で胸を貫く。
六体目、すれ違いざまに切り上げ――血が空に弧を描く。
そこからの動きは、誰にも見えなかった。
カイが息を吸う間に、七体目と八体目が同時に崩れる。
「……嘘だろ……?」
ゴルドの声が、森の奥でかき消えた。
レンは止まらなかった。
心臓が早鐘を打つ。
体が熱い。
でも、痛くない。
ただ、軽い。
重力が薄くなったような感覚。
風が体を運んでいく。
九体目。
獣の突進を踏み台にし、空中で回転、刃を突き立てる。
十体目。
仲間の死体を踏み越えて突っ込んでくる。
レンは呼吸を整え、真っ直ぐに迎え撃った。
刃がわずかに光を放つ。
その輝きが空気を裂き、轟音とともに狼の巨体を貫いた。
沈黙。
風が戻り、森が息を吹き返す。
倒れた十の影。
レンはゆっくりと刃を下ろした。
最後の一閃が終わった。
レンの刃が空を裂き、血の霧が散る。
倒れ伏す十の森狼。
地面がようやく沈黙を取り戻す。
呼吸は乱れていない。
レンはただ、息を静かに吐いた。
短剣の刃が夕光を反射し、血を滴らせる。
その姿は、どこか人の輪郭を外れていた。
「……おい、レン。」
最初に口を開いたのはカイだった。
しかし声にはわずかな警戒が混じっていた。
「今の……何だ? さっきまでの動き、目で追えなかったぞ。」
レンは返事をせず、血を払う。
空気が静まり返る。
ゴルドがゆっくりと盾を下ろしながら、低く言った。
「……速すぎる。音が遅れて聞こえた。そんなもん、人間の動きじゃねぇ。」
「途中から見えなかった……本当に、何も。」
ミナの声は震えていた。
矢筒を抱く腕がわずかに強張っている。
「レン、あなた……今、何をしたの?」
レンはゆっくりと息を吸い、短剣を見下ろした。
(わからない。俺にも……わからない。)
その沈黙が、さらに空気を重くする。
カイが一歩近づいた。
「……お前、本当にレンなのか?」
冗談めかしたように言ったが、その目には笑いがなかった。
レンは答えず、刃を鞘に収めた。
その仕草までもが、いつもより静かで、異様に整っていた。
沈黙。
風が一度だけ通り抜け、血の匂いを散らしていく。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
やがてミナが小さく息を呑み、視線を逸らした。
「……なんか、怖いよ。」
その一言に、空気が凍った。
レンは小さく首を振る。
「……大丈夫です。俺は、俺ですよ。」
けれど、その声はどこか遠く響いた。
ゴルドがため息をつき、空を見上げた。
「ま、助かったのは確かだ。だが……あんな動き、二度と見たくねぇな。」
カイがゆっくりと息を吐き、口の端を上げる。
「ははっ……まぁいいさ。レンが味方でよかったよ。敵だったら、今ごろ全滅だな。」
その冗談に、ミナが小さく笑いを漏らす。
ゴルドも「全くだ」と苦笑いを浮かべた。
レンも少しだけ口元を緩める。
「……味方ですから。」
カイが軽く肩を叩く。
「そうだな。なら、それで十分だ。」
風が再び森を通り抜け、木漏れ日が戦場を照らした。
血の匂いは薄れ、静けさが戻っていく。
だがその空気の中、レンの胸には――まだ、ほんの微かなざわめきが残っていた。




