36.罪の意識の中で
街へと続く坂道を下るたびに、足音が妙に重く響いた。
午後の陽光が赤く傾き、石畳の隙間を染めていく。
行き交う人々の笑い声や商人の呼び込みも、今のレンには遠い世界の音のようだった。
(……何を、してしまったんだ。)
井戸の底の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
血の気を失った顔。鈍く響いた衝突音。冷たく光る鉄の輪。
そして、手を伸ばしても届かなかったあの一瞬――。
「違う……俺は押してない。」
誰に言うでもなく、唇からこぼれた。
だが言葉にした途端、それが“言い訳”にしか聞こえず、胸の奥がさらに締めつけられた。
(助けようとは……しなかった。)
振り払うように顔を上げる。
通りに差し込む夕陽が眩しい。
屋台では焼きパンの香りが漂い、子どもが笑いながら走り抜けていく。
それは“いつもの街”の風景のはずだった。
けれど、どこか灰色がかって見えた。
心の奥で、何かが軋んでいる。
“人を殺した”という言葉が、何度も何度も反芻されては否定される。
理性は否定しようとするが、体がそれを覚えている。
指先はまだ震え、掌には縄の感触が残っていた。
(あの人……なんで、俺にこんな依頼を?)
考えたくないのに、考えてしまう。
ただの届け物のはずが、何か仕組まれていたような気がしてならなかった。
だけど、今さら問い詰めたところで答えは出ない。
「……報告、しないと。」
呟きながら、レンは拳を握った。
足元の影が長く伸び、街の喧騒に紛れていく。
冷たい風が吹き抜け、首元の布を揺らした。
――石造りの武器屋が見えてきた。
今はただ、あの場所へ戻るしかない。
⸻
報告
武器屋の扉を押すと、いつもの鈴の音が鳴った。
しかし、今日はどこか違う――音が妙に冷たく響いた気がした。
中は静かだった。
客の姿も、店主らしき影もない。
窓際から差し込む光が、埃の粒をゆっくりと浮かび上がらせている。
「……来たのね。」
カウンターの奥、暗がりの中で女が椅子に腰をかけていた。
脚を組み、頬杖をついた姿勢のまま、目だけがこちらを捉えている。
その瞳は、何もかも見透かしているようだった。
レンは言葉を失い、無意識にポーチへ手を伸ばした。
中から小さな鉄の鍵を取り出す。
金属の擦れる音が、室内に小さく響いた。
「……開いたの?」
「ええ。」
短く答えると、女の表情がほんのわずかに変わった。
その目の奥で、鋭い光が一瞬だけ走る。
「ここじゃ話せない。」
そう言うと、女は椅子から立ち上がり、店の入り口を一瞥した。
通りから誰かが笑いながら通り過ぎる声が聞こえる。
「……下に行きましょう。」
地下にて
女は奥の机の前に立ち、腕を組んだ。
「さて――話を聞かせてもらおうか。」
その声には、少しだけ硬さがあった。
レンはゆっくり息を吸い込み、覚悟を決めた。
「井戸の底に、部屋がありました。」
女は黙って聞いている。
「中を見たのね。」
「……はい。拷問の痕跡、骨もありました。
あの院長が、子供たちを……。」
言葉が喉で途切れる。
手が震え、拳を握ると爪が掌に食い込んだ。
「上で院長に見つかって……揉み合いになって……。
俺は押してない、でも……落ちました。」
女の目が僅かに細まる。
数秒の沈黙の後、淡々と告げた。
「片付けは依頼しておくわ。」
「……あの部屋は、なんなんですか。」
「知る必要はない。」
その声には、冷たさと同時に深い諦めが滲んでいた。
「でも――」
「“でも”はやめなさい。
この街の裏には、そういう場所がいくつもある。
あなたが知らなかっただけ。」
レンの息が詰まる。
女は一歩近づき、静かに彼の目を見た。
「初めて人を殺したのね。」
空気が止まった。
「……違う、俺は――押してない!」
「そう。
でも、あなたの中では違うでしょ?」
その言葉が、鋭く胸に突き刺さる。
レンは目を伏せ、唇を噛み締めた。
女は息を吐き、少し柔らかい声で言った。
「……あの男の処理は気にしないで。
あなたは何も見ていない。それでいい。」
レンは小さく頷いた。
女は鍵を机に置き、わずかに口角を上げる。
「約束通り、報酬と……もうひとつ。
あなたの“素性”を見せてもらうわ。」




