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29.クレスト洞窟・第五層 巨躯の主 ―トロルと窮地の冒険者達

 冷たい岩肌に、血が滴り落ちる。

 洞窟の空気は重く、熱を帯びながらもどこか冷たかった。

 耳の奥で鼓動が鳴る。どくん、どくん、と、自分の命がうるさいほどに響く。


 レンは、落ちていたミナの短剣を拾い上げた。

 剣よりも軽く、けれど、不思議と手に馴染む感触。

 柄の冷たさが、逆に心を静めてくれるようだった。


 目前でトロルが唸る。

 巨大な棍棒が、空気を切り裂いた瞬間、頬をかすめた風圧が刃物のように痛かった。

 思わず目を細め、足場を滑らせながらも身を翻す。


 ――避けた。

 身体が勝手に動いた。

 その流れのまま、足を軸にして斬り返す。

 短剣が、トロルの脚の付け根を裂いた。


 鈍い悲鳴。

 厚い皮膚の向こうで、筋が断ち切れる手応えが腕を伝う。

 生温かい血が飛び、顔を濡らした。


 構わず踏み込む。

 もう一撃、さらにもう一撃。

 斬撃は浅くとも、確実に動きを鈍らせていく。


 そのとき、頭上から影。

 トロルの棍棒が振り下ろされる。

 反射的に転がり、すれすれで回避する。

 岩が砕け、破片が雨のように降った。


「レンっ、下がれ!」

 カイの叫びが響く。

 けれど、耳には届かない。もう、止まれなかった。


 ――目の前の敵だけを見ていた。


 息を吐く。肺が焼ける。

 喉が痛い。手が痺れる。

 それでも、動きは止まらない。


 トロルの棍棒が横薙ぎに迫る。

 身を低くし、滑るようにかわして、懐へ。

 短剣を逆手に持ち替え、脇腹を抉る。


 手応え。血の噴き上がる感覚。

 皮膚の下に潜り込むように、刃が通った。


「っらあああッ!!」

 叫びとともに、連撃を叩き込む。

 斬って、避けて、斬って、踏み込む。

 動きは乱れず、流れるようだった。


 トロルの拳が頬をかすめ、視界が一瞬白くなる。

 身体が浮き、壁に叩きつけられる。

 肺の空気が一瞬で押し出され、息が詰まる。


 それでも立ち上がった。

 足が震えても、もう一歩を踏み出す。


 視界の端で、ミナが壁に寄りかかっているのが見えた。

 唇が動く――何か叫んでいる。

 けれど、もう聞こえない。


 トロルが吠える。

 怒りと痛みが入り混じった咆哮。

 その喉奥に光る牙が、月のように白く輝いた。


 次の瞬間、トロルが突進してきた。

 地鳴りのような足音。

 棍棒が真っ直ぐ振り下ろされる。


 レンは走った。

 正面からではない、斜め下へ滑り込む。

 風圧で髪が舞い、土埃が視界を曇らせる。


 足元に飛び込んで、逆手で斬り上げた。

 太腿、腹、胸へと連なる三連撃。

 短剣が走るたびに、赤い線が刻まれていく。


 ――ここだ。


 トロルの膝が折れた。

 バランスを崩し、棍棒が床に落ちる。

 その衝撃が地を震わせ、粉塵が舞った。


 レンは息を荒げながら、最後の一歩を踏み込んだ。

 刃先を構え、狙いを喉元へ――


 「《ウォーターブラスト》!」


 カイの声が響いた。

 水弾が飛び、トロルの顔に直撃する。

 ほんの一瞬、視線が逸れた。


 その隙を、逃さなかった。


 レンは跳んだ。

 全身の筋肉が悲鳴を上げる。

 けれど、それを無視して突き出した。


 刃が喉を貫き、骨を断つ。

 手応え。温かい血が噴き出す。


 巨体がぐらりと揺れ、ゆっくりと崩れ落ちた。

 地鳴りが響き、砂煙が立ち込める。


 レンは息を吐き、肩で呼吸をした。

 膝が震える。

 腕が重い。短剣が、血で滑りそうだった。


 目の前のトロルは、もう動かない。

 洞窟には、荒い呼吸音だけが残った。


 ようやく、終わった――そう思った瞬間、力が抜けた。

 短剣を握ったまま膝をつき、静かに地面に座り込む。


 背後から、足音。

 ゴルドがよろよろと近づき、肩を叩いた。


「……やるじゃねぇか。」

 低い声に、わずかな笑みが混ざる。


 ミナが駆け寄り、レンの顔を覗き込む。

 その瞳に、涙が光った。

「もう、心臓止まるかと思ったよ……!」


 レンは苦笑し、短剣を地面に突き刺した。

 血に濡れた刃が、光苔の淡い緑を反射して美しく光る。


 カイが後ろで深呼吸をしながら、杖を下ろした。

「……助かった。あれ、完全にお前じゃなきゃ止められなかったな。」


 レンは軽く首を振る。

「いや……俺ひとりじゃ、無理だったよ。」


 その言葉に、三人が笑った。

 静かな笑い。疲れ切った笑い。

 でも、確かに生きている笑いだった。


 トロルの死骸の横で、レンは短剣を静かに拭った。

 指で刃をなぞると、ほんのりと温かい。

 スキルの光はない。

 けれど、腕の奥に微かに残る熱があった。


 ――これが、「戦う」ということか。


 レンはゆっくり立ち上がり、洞窟の奥を見上げた。

 光苔が、まるで祝福するように輝いていた。


 剣はなくても、

 戦える。

 今、そう思えた。


 ゴルドが肩越しに呟いた。

「……レン、お前、もう立派な前衛だ。」


 その言葉に、レンは微かに笑った。

「まだまださ。剣も弾かれっぱなしだったし。」


 けれど、胸の奥には確かな実感があった。

 ――この刃で、守れた命がある。


 短剣を腰に差し込み、仲間たちに目を向けた。

「帰ろう。こいつらの耳、持ってなきゃ報酬ももらえないしな。」


 その言葉に、ミナが微笑む。

「うん、そうだね。報告しなきゃ。」


 カイが頷き、ゴルドがトロルの耳を切り取る。

 金属の音とともに、戦いの終わりを告げる静寂が広がった。


 湿った風が再び吹く。

 焼けた血の匂いが薄れ、少しずつ空気が澄んでいく。


 誰も言葉を発さなかった。

 けれど、その沈黙は敗北ではない。

 それは、確かな“生還”の余韻だった。


 洞窟の出口へ向かう足音が響く。

 レンは最後に一度だけ振り返り、倒れたトロルを見つめた。


 戦いの終わり。

 だが、物語はまだ続いていく――

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