124.死後
──息が、できない。
胸の奥が焼けたまま、闇の底から一気に引き上げられる。
次の瞬間、俺はベッドの上で跳ね起きていた。
喉から勝手に声が漏れる。
「っ……は、はぁ……っ!」
肺が空気を欲しがって暴れ、視界がぐらぐら揺れる。
胸を押さえる。裂かれたはずの場所に、傷はない。血もない。痛みも、ほとんどない。
代わりに、爪が通った感触だけが、皮膚の裏側にべったり貼り付いていた。
「……っ」
震える手でシャツをめくる。
肌は綺麗だ。傷一つない。
けれど、そこに見えない線が残っている気がして、指が途中で止まった。
頭の中で、竜の片目がこちらを覗く。
赤く濁った瞳の奥で、何かがゆらゆら揺れる。
床に手をついた瞬間、膝の力が抜けた。
冷たい板の感触が、妙に遠い。
「……っは……」
息を整えようとしても、喉がうまく動かない。
指先がじんじん痺れて、ちゃんと握れない。
窓の外で風が鳴った。
その音だけで、炎と岩と咆哮が、一気に頭の中にぶちまけられる。
熱風。
砕けた石。
黒い渦。
全部まとめて、自分にぶつかってくる感覚。
吐き気が込み上がった。
洗面台まで、壁を伝いながらどうにか辿り着く。
冷たい水で顔を洗っても、頭の奥は冷えてくれない。
鏡の中で、自分の顔がこちらを見返す。
目の下が少し暗い。
それだけで、いつもの部屋が、どこか知らない場所みたいに見えた。
視線を横にずらす。
棚の奥で、小さな木箱が影を落としている。
ダンジョン箱。
◆◇◆◇◆
寮を出た時、どれくらい時間が経っているのか、よく分からなかった。
さっき部屋を出る前に見た空と、何一つ変わっていないはずなのに、別物に見える。
体は、どこも痛くない。
足も普通に動く。
それが、余計におかしかった。
町の空気はいつも通りで、人の声も、馬車の音も、店先の呼び込みも、全部普通だ。
その中を、俺だけが浮いているような感覚で歩いていた。
気づけば、あの路地に足が向いている。
甘い匂いに、薬の匂いを少し混ぜた妙な匂い。
前と同じように、それを辿る。
狭い路地を曲がった先。
控えめな看板と古びた扉。
魔道具屋。
扉を開けると、カラン、と鈴が鳴った。
扉を開けた瞬間、あの甘いような薬の匂いが鼻を刺した。
カウンターの奥で帳簿を見ていた店主が、顔を上げる。
「……よう来たな、坊主」
「笑ってる場合じゃない」
カウンターまで歩き、袋ごと木箱をどん、と置く。
「ダンジョン箱の話だ」
店主はいつもの調子で肩をすくめかけ――俺の顔を見て、動きを止めた。
「……えらい目してるな」
「二回死んだ」
それだけ言うと、店の空気が一段重くなった。
店主の目が細くなる。
「さらっと怖いこと言うやんけ、お前」
「冗談で言えたら楽だったよ」
喉が少し渇く。
「2回ともちゃんと“死んだ”感覚だった。
気づいたら箱の中で、同じ階層からやり直しだった」
店主はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……ちょい待て」
カウンターの下をごそごそと探り、薄い板切れを一枚取り出す。
「本当は箱と一緒に渡すつもりやった注意書きや」
こちらに向けられた板には、短い文が三つ並んでいた。
一、この箱の中から出る方法は「全層踏破」か「死亡」のみ
二、死亡した場合、その時点で到達している最上階から再開
三、同じ箱の中で三度以上死亡した者には、精神の崩壊など深刻な後遺症が出る危険あり
文字を追うほどに、胃のあたりがずしりと重くなる。
「……最初から見せろよ」
低い声が出た。
店主は頭をかいて、目をそらす。
「悪いな。元のダンジョンは、わいと相棒で踏破したやつや。
箱に封じてからも、深く潜ろうとした奴はおらんかった。
ちょろっと回って『二度と嫌や』言うやつばっかりでな」
言い訳じみた声だが、誤魔化してはいない。
「せやから、“本気で百層目指す”やつなんか出んやろって、どこかで決めつけとった。
……完全に、わいの甘さや」
「浅い階だけ回って帰る、ってのも無理だった」
板から目を離さずに言う。
「一回死んだら、その階がスタート地点になる。
仕組みとして、途中で降りる選択肢は最初から出来ない」
店主は短く頷いた。
「そういう代物や。
外の時間を止めて、経験だけ積ませるかわりに、
“退きどき”は自分で見失いやすくなっとる」
板の三つ目の行に、視線が戻る。
三度以上の死亡、精神の崩壊。
胸の奥に冷たいものがじわりと広がった。
(あと一回、あそこで死んでたら)
そこから先を想像したくなくて、無理やり息を吐く。
「三回目は、絶対に試すな」
店主の声が、さっきよりはっきりした。
「わいが知っとる範囲やとやな。
“三回死んで戻ってきた”やつは、おるにはおる。
けどその後は、別人みたいになっとった」
視線が少しだけ遠くを見ている。
「名前がすぐ飛ぶようになったり、炎見るだけで暴れたり、
箱の話し出しただけで泣き出したりな。
身体は元気でも、中身はどっかへいってもうた感じや」
指先が板の端をとん、と叩いた。
「二回戻ってきて、こうして文句言いに来とる時点で、
お前はまだ“戻れる側”や。
……ギリギリな」
「褒められてる気はしないな」
自分でも少し掠れた声になる。
炎の熱。
竜の眼。
光の粒になって消えた瞬間。
全部まとめて、まだ体から抜けきっていない。
「もう入る気はない」
それだけははっきり言えた。
店主は、ふっと口元をゆるめる。
「そらそうや。
今すぐ『もう一周いきます』言うたら、わいでも止めるわ」
「……でも、箱を捨てる気もない」
気づけばそう続けていた。
「強くなれるのは、本当だった。
どこまで届くようになったか、自分でも分かる。
だから余計に、怖い」
店主は少し考え、それから言葉を選ぶように口を開いた。
「一つだけ、忠告しとくわ」
指を一本立てる。
「一つ。 二回死んだ時点で、箱とは引き分けにしとくのが普通や」
視線が、袋の中の木箱に落ちる。
「元になったダンジョンを作ったんは、わいと相棒や。
だからこそ言う。これは、“使うやつの覚悟”ごと食う魔道具や。
わいが口出しできるのはここまでや」
しばらく黙ってから、俺も小さく息を吐いた。
「……今は、押し入れの奥に放り込んでおくよ」
それが精一杯の答えだった。
「壊すなら?」
店主が軽く尋ねる。
「その時は、ここに持ってくる」
即答すると、店主はやっといつもの調子に戻ったように笑った。
「おう、その時は派手に粉々にしたるわ。
タダでとは言わんけどな」
「しっかり金取るんだな」
口の端だけ持ち上げて返し、袋を抱え直す。
店を出ると、路地の空気は妙に澄んでいた。
木箱の重さは変わっていないはずなのに、腕にかかる重みは前よりずっと大きく感じる。
ゆっくりと寮への道を歩き出した。
どこかで、腰の短剣がかすかに震えた気がしたが、今はあえて気づかないふりをした。




