123.ダンジョン箱100F後編
竜の魔力が、広間に満ちていく。
空気そのものが、重くなる。
息をするだけで、肺の中がざらざらと削れそうな感覚。
竜の口元に、光が集まった。
今度は、さっきの熱風とは違う。
地面のひび割れまで震え、赤い光が一瞬だけ消える。
次の瞬間――圧縮された炎と岩と風が、混ざって吐き出された。
火炎。
砕けた岩。
焼けた風。
一直線にぶつけてくる、極端な一撃。
「っ……!」
肺の奥まで焼けるような熱。
反射的に、餓影へ意識を叩きつける。
(吸え!)
『言われるまでもねぇ!』
刃を、吐息の縁へ突き出す。
炎そのものではなく、その周囲の魔力の流れを掴むつもりで。
瞬間、腕の中に、重い熱の塊が押し寄せてきた。
皮膚が焼けるような圧。
それを、無理やり胸の奥へ流し込む。
焼けるような痛みが、内側から一気に広がる。
『今だ、“廻せ”!』
廻影の“型”をなぞる。
吸い込んだ熱と魔力を、上半身から足へ、一気に流し落とす。
足裏が、床を蹴った。
爆発した風を背に乗せ、そのまま横へ飛ぶ。
炎の奔流が、さっきまでいた場所を焼き払った。
遅れて吹き抜けた熱風が、髪と服を焦がしていく。
腕に走った焼けるような感覚は、すぐに内側から“冷めて”いった。
息が荒い。
けれど、まだ動ける。
『今のを受けてたら、灰だな』
「危ないところだった」
口の端から、鉄の味がする。
それでも、笑う余裕が少しだけあった。
竜の喉から、低い笑いが漏れた。
「悪くない。悪くないぞ、小さき者」
だが、その声の底には、何かきな臭いものが混じり始めていた。
「もっと見せろ。もっと、動け。
もっと、砕け。もっと、削れ」
言葉自体は変わらない。
けれど、抑揚のどこかで、何かが軋み始めている。
竜の瞳の端に、赤い色がにじんでいった。
◆◇◆◇◆
どれくらい斬って、避けて、走ったのか分からない。
腕は重く、足は鉛のようになっていた。
浅い傷も深い傷も、数えきれないほど増えている。
餓影が吸い上げ、廻影の“通路”がそれを回す。
動けるようにはなる。
けれど、完全には戻らない。
心臓の鼓動は、ずっと速いままだ。
竜の方も、無傷ではなかった。
頬。
首筋。
前脚。
腹の一部。
鱗はところどころ剥がれ、その下の肉にまで刃が届いている場所もある。
竜の息も、ほんの少しだけ乱れていた。
その胸の上下に合わせて、広間の空気がぐらりと揺れる。
「かつて、金髪の者が刻んだ傷と、そう変わらぬ」
瞳の赤が、さらに濃くなる。
「だが――戯れは終いにしよう」
言葉の抑揚が、一瞬だけ揺れた。
顔をしかめたようにも、苦しげに見えたようにも思えた。
次の瞬間には、広間全体が震動した。
床のひび割れが、一斉に光る。
天井から、石の槍のような物が落ち、同時に地面からも石柱が突き上がる。
上下から挟み潰そうとする動き。
足元に走る振動のテンポ。
ひび割れの広がり方。
竜の目線。
一瞬で全部を読み、最も細い隙間へ滑り込む。
頭上数センチを石柱が通り過ぎ、足元ぎりぎりで床が盛り上がる。
石の破片が頬を打つ。
そこを蹴って、さらに横へ。
崩れていく床と天井の間を縫うように駆け抜ける。
尻尾が、視界の端を掠めた。
風圧だけで、横腹が痺れる。
避ける。
走る。
斬る。
視界の端が、少しずつ赤く染まっていく。
血か、光か、どちらかはよく分からない。
◆◇◆◇◆
決定的な一瞬は、ほんの僅かな油断だった。
竜の前脚が、大きく持ち上がる。
爪の角度、重心の移動――今までと同じパターン。
ここからなら、右へ抜けて爪の外側を回り込み、肩口を狙える。
そう判断しかけた、その時。
竜の肩が、ほんのわずかに揺れた。
これまでにはなかった“溜め”が、ほんの一呼吸だけ加えられる。
(やば――)
足が一歩、遅れた。
前脚が振り下ろされる直前、
竜の尾が、ほとんど音もなく横から走った。
風の流れが、予想と違う方向にねじれる。
横薙ぎに飛んできた尾の先が、視界を埋め尽くした。
反射的に、両腕を交差して構える。
餓影と、もう一つの短剣が、尾の一部を受けた。
骨をきしませるような衝撃。
体ごと、岩盤の床へ叩きつけられる。
肺の中の空気が、一気に押し出された。
視界が白く弾ける。
肋が、何本か嫌な音を立てた気がした。
『まだだ、立て!』
餓影の声が、どこか遠くで響く。
地面から、魔力が引き上げられる。
傷口に焼けるような熱が流れ込み、すぐに冷めていく。
呼吸は戻る。
足も、なんとか動く。
でも――間に合わなかった。
竜の顎が、こちらを向いている。
喉の奥に、さっきよりもはるかに濃い光が集まっていた。
炎と岩と風。
それに、さっきまでとは違う、黒い魔力の渦が混ざっていく。
全身の皮膚が総毛立つ。
(避けるスペースが、ない)
左右は崩れた岩。
背中にはひび割れた壁。
前には、竜の口。
逃げ場は、一つだけ。
前だ。
「……はぁ」
息を吐く。
足を踏み込む。
軽く笑いながら、腰を落とした。
「行くぞ、餓影」
『ああ、最後まで付き合う』
吸い上げられる魔力の感触が、今までで一番重く、熱かった。
竜の口から、光が放たれる。
炎。
岩。
風。
黒い渦。
全部まとめて、一直線にぶつかってきた。
その中心へ向かって、踏み込む。
炎そのものではなく、その“外縁”を斬る。
圧の端を掴んで、体の中へ引き込み、通路を作る。
焼ける。
痺れる。
骨の芯が軋む。
それでも、足は止めない。
炎の中、竜の瞳が見えた。
赤く濁りきっていた色の奥で、
ほんの一瞬だけ、別の色がちらりと揺れた気がした。
その瞬間だけ、動きがわずかに遅れた。
最後の一歩で、跳ぶ。
右手の餓影を、竜の左目へ。
左手の短剣を、竜の喉へ。
届いた。
そう思った次の瞬間、世界が裏返った。
前脚が、視界の下から迫っていた。
逃がしきれなかった膝の角度。
竜の爪が、胸から腹にかけてを、斜めに薙いだ。
痛い、という感覚は、妙に薄かった。
代わりに、体の中の“重さ”が、一気に抜けていく。
餓影の声が、何かを叫んでいる。
でも、その意味は、もう上手く聞き取れなかった。
竜の左目から、血が溢れているのが見えた。
喉のあたりにも、浅くない傷が刻まれている。
竜が、ゆっくりと首を上げた。
赤かった瞳の色が、少しだけ薄れている。
「……ここまで、届くか」
その声は、ほんの少しだけ、穏やかだった。
「小さき者。お前の足は、本物だった」
視界の端で、広間の光が遠くなる。
床の感触が、急に遠のいた。
代わりに、何もない空間へ落ちていくような感覚。
最後に見えたのは、
血に濡れた竜の片目と、その奥でかすかに揺れた何かだった。




