121.最深部へ
九十一層は、拍子抜けするくらい静かだった。
通路は少し広めで、空気も落ち着いている。
最初に現れたのは、銀灰色の毛並みをした狼の群れだった。
普通のウルフより一回り大きく、肩口と胸だけを金属のような骨で覆われた魔物──アーマーウルフ。
前足の運びは重いが、動きそのものは単純だ。
突っ込んでくる前の、わずかなタメ。
その瞬間さえ拾えれば怖くない。
鼻先をずらして、足首を斬り、
体勢を崩したところへ首筋を一閃。
一匹、二匹、三匹。
数はそこそこいるが、動きはもう読みきれている。
◆◇◆◇◆
九十二層、九十三層も、流れは似たようなものだった。
アーマーウルフに加えて、岩のような鱗を持つロックリザードが混ざり始める。
時折、足元の石を弾き飛ばしたり、小さく隆起させてバランスを崩そうとしてくるが、
動きが大きい分、見切りやすい。
前にウルフ、横にリザード。
どちらから倒すか、その場その場で順番を決める。
ウルフが突っ込んでくれば、その軌道を半身で避けて前足を断ち、
リザードが口を開いて魔力を溜める気配を感じたら、その前に喉元を斬る。
敵の種類は増えているが、まだ「速さで押し切れる範囲」だ。
◆◇◆◇◆
九十四層から、空気が少し変わった。
通路が微妙に狭くなり、角が増える。
敵の配置も、こちらの動きを妨害するような形になっていた。
前方にアーマーウルフ。
陰からロックリザード。
そして、壁際には、全身を黒い鎧のような毛で覆ったシャドウハウンド。
シャドウハウンドは、灯りの死角を選んで滑り込んでくる。
気配だけを頼りに、その爪を紙一重で外へ流す。
シャドウハウンドの首を落としつつ、振り向きざまにウルフの足を払い、
リザードの顎が上がった瞬間に喉を突く。
数も多く、動きの連携もいやらしい。
それでも、頭はまだ冷えていた。
汗は滲むが、息が上がるほどじゃない。
傷も浅いかすり傷程度で済んでいる。
(ここまでは、まだ“ちゃんと戦えてる”)
そう思えたのは、九十四層までだった。
◆◇◆◇◆
九十五層に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が跳ね上がった。
重い。
さっきまでとは、明らかに違う。
最初に現れたのは、二足で立ち上がった巨体だった。
灰色の毛。
太い腕。
頭には、ねじれた二本の角。
ホーンゴリラ。
その背後には、ロックリザードの上位種──ロックドラフが、静かに魔力を練っている。
足元の石が、じわりと膨らんだ。
「……っと」
ホーンゴリラの拳が振り下ろされる少し前に、足元の石が盛り上がる。
タイミングを合わせて地面ごと叩き潰すつもりだ。
拳の起動と、地面のうねりを同時に見て、
わざと半歩だけ踏み込む。
拳を肩ぎりぎりで躱し、盛り上がった石を踏み台にして跳ぶ。
ゴリラの腕を駆け上がり、肩口から首筋へ短剣を深く差し込む。
同時に、反対側の腕を使って体勢を立て直し、背後のロックドラフの喉へ王の刃を滑らせた。
巨体二つが、ほぼ同時に崩れる。
その瞬間、餓影がぶるっと震えた。
『ここからだな』
倒れた魔物の体から、濃い魔力が吸い上げられる。
それを廻影の“輪”へ乗せ、体中へ流す。
肩に入っていた鈍い衝撃が、内側から少しだけほぐれる。
さっき地面にかかった負荷で痺れていた足も、動かしやすくなった。
それでも――。
九十五層を抜ける頃には、腕や太もものあちこちに、浅くない傷が増えていた。
◆◇◆◇◆
九十六層では、敵の構成がさらに悪質になった。
先頭にはホーンゴリラ。
その横を、素早いシャドウハウンドが走り回り、
後方からは、甲羅全体に棘を生やしたストーンタートルが、ゆっくりと圧をかけてくる。
ストーンタートルは速くない。
ただ、通路をほとんど塞ぐほどの大きさで、一度位置を取られると横を抜けづらい。
ゴリラの拳を躱しながら、シャドウハウンドの爪をギリギリで外へ流し、
わざと一度通路の奥へ誘い込んでから、足場を変えて反転する。
その途中で、シャドウハウンドの爪が脇腹を浅く裂いた。
熱い線が走る。
息が吸いづらくなる。
すぐさま餓影が魔力を吸い上げ、廻影がそれを傷の周囲へ流す。
血の勢いは少し落ちる。
呼吸も、どうにか整えられる。
だが、「痛くない」わけではない。
ただ「動ける」に変わるだけだ。
(ありがたいけど、これ、やばいな)
そんなことを考える余裕が、まだ少しだけ残っていた。
◆◇◆◇◆
九十七、九十八、九十九層。
数字が増えるたびに、敵の配置はどんどん密になった。
ホーンゴリラが二体。
その足元を、シャドウハウンドの群れが走り回り、
曲がり角の向こうからは、ロックドラフが土槍を飛ばしてくる。
どこか一つでも見落とせば、その瞬間に致命傷だ。
肩を殴られ、肋をかすめられ、
太腿に爪痕が刻まれる。
傷の数が、確認しきれないほど増えていく。
餓影は、倒した魔物から魔力を片っ端から吸い上げる。
だが、すべてを回復に回せるわけじゃない。
『全部治そうとするな。今は“立つ方”を優先しろ』
(言われなくても……)
息が荒い。
喉が焼けるように痛い。
それでも、足は止まらなかった。
痛みの鋭さだけが、逆に意識を繋ぎ止めているような感覚すらあった。
九十九層の通路は、やけに長く感じた。
魔物自体は、九十八層の延長線上にいる連中ばかりだ。
ただ、こちらの体力と集中力が、目に見えて削られている。
一体倒すたびに、膝が笑い、
踏み込みのたびに、視界の端がかすむ。
餓影からも、重たい声が落ちてくる。
『……もうあまり詰め込めねぇな。お前の器が、今はこれ以上入らない』
「分かってる……」
笑おうとして、うまく笑えなかった。
最後のシャドウハウンドの喉を断ち切った時、
通路の先に、小さな広間と石の階段が見えた。
その場で、壁に背中を預けるようにして座り込む。
胸が上下するたびに、肋のあたりがきしむ。
腕を少し動かすだけで、あちこちの傷が引きつって痛みが走った。
それでも、階段の方から吹いてくる風は、冷たく、少しだけ澄んでいる。
その向こうに、百層目がある。
(ここまで来たんだ)
戻る選択肢はない。
そもそも、この箱から出るには、死ぬかクリアするしかない。
ゆっくりと、壁を支えに立ち上がる。
片足を、階段の一段目に乗せた。
膝がぐらりと揺れるが、崩れはしない。
『行くか』
餓影の声が、静かに問いかける。
「ああ」
短く答え、もう一段、足を上げた。
ボロボロの体を引きずりながら、
俺は百層目への階段を登り始めた。




