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120.ダンジョン箱90F

 八十一層を抜けたあとも、ひたすら前に進んだ。


 八十二、八十三……。

 階が進むたび、空気は重く、魔物はしつこくなっていく。


 数の多い狼の群れ。

 狭い通路に陣取る甲殻持ちのトカゲ。

 遠距離から石を飛ばしてくるゴブリンの上位種。


 そのたびに、餓影が少しずつ“仕事”をし始める。


 斬り結んだ瞬間、刃越しに流れ込んでくる、ちりちりした熱。

 それが腕から胸に落ちて、肺の奥を温めていく感覚。


 足が重くなり始めると、じわっと軽さが戻る。

 傷が深くなる前に、鈍い痛みだけ少し薄くなる。


 八十五層を越える頃には、汗は流れているのに、体の芯だけは妙に澄んでいた。


 八十六、八十七、八十八。

 たまに軽く休憩取ってはいるが、戦いを続けるうちに時間の感覚はだいぶおかしくなっていたが、足は止まらなかった。


 八十九層に入ったあたりから、敵の“質”がまた変わる。


 大きめのモンスターが混ざり始めた。

 しかもよく聞くサイズよりかも一回り大きく、一撃も重い。


 でも――


 斬りつけた瞬間、毛皮の下の魔力ごと、餓影が吸い上げる。

 それを、廻影の“輪”を通して体中に巡らせる。


 筋肉がもう一度締まり直すような感覚。

 肺に残っていた重さが、少しだけ抜けていく。


 獣の数は多く、爪も牙も鋭かったが、それでも致命傷まではもらわずに済んだ。


 気づけば、通路の先にいつもの階段ではないものが見え始めていた。


 広い前室。

 重たい石の扉。

 扉の中心には、ごつい角と蹄の紋章。


 《90F》


 石板に、そう刻まれている。

 (……ボスか)


 喉が、ひとつ鳴った。


 足はまだ動く。

 息も整えられる。


 ただ、九十という数字の重さだけが、じんわりと肩に乗る。


『怖いか?』


「当たり前だろ」

 小さく返して、扉に手をかけた。


 冷たい石の感触。

 押し出すと、重たい音を立てて、ゆっくり開いていく。


◆◇◆◇◆


 中は、広い円形の広間だった。


 天井は高く、壁際には何本もの石柱。

 床はひび割れた石畳で、そのあちこちに、焼け焦げた跡のような黒い痕がある。


 その中央に――いた。


 全身を、岩の鎧みたいな皮膚で覆った巨体。

 牛とも獣ともつかない頭部に、ねじれた角。

 四本の脚が、石畳を踏みしめるたびに、床が低く唸る。


 「……ベヒーモス、か」

 名を口にした瞬間、巨体の片目がこちらを向いた。


 空気が、一段重くなる。

 (速さだけで押し切れる相手じゃないな)


 腰を落とし、二本の短剣を構える。

 右手に餓影。左手にいつもの短剣。


 ベヒーモスが、鼻息を荒く鳴らした。

 床の埃が、その一吹きで舞い上がる。


 次の瞬間、足元がぐらりと揺れた。


 地面の下から、鈍い衝撃。

 石畳が持ち上がり、波のように押し寄せる。


「っ――!」


 とっさに跳び上がる。

 遅れて、さっきまで立っていた場所の床が、牙みたいな岩柱に変わった。


 土埃と石片が、視界を白く濁らせる。


『土の魔法だな。足元ばかり見てると飲まれるぞ』


 餓影の声が飛んでくる。


 ベヒーモスの角の周りに、土色の魔力が集まり始めた。

 空気がざらつき、広間のあちこちの石がぶるりと震える。


 (来る)


 地面に掌をかざされたみたいに、足が重くなる。

 同時に、頭の上から影が落ちてきた。


 見上げると、天井近くから岩の塊がいくつも生まれ、こちらへ落ちてくるところだった。


 横に跳ぶ。

 一つは避けたが、もう一つが肩の横を掠めた。


 石片が頬を切る。

 鈍い痛みと一緒に、血の匂いが鼻を刺した。


 その瞬間――


 餓影の刃の中に、ざわ、と何かが流れ込む感覚があった。


 落石に込められていた魔力の残りかす。

 ベヒーモスの足元から滲み出していた土の気配。


 それが、右手から腕へ、胸の奥へと吸い込まれていく。


 胸の中で、廻影の“輪”をイメージする。

 右腕から入った熱を、一度心臓の辺りで受けて、背中、腰、脚へと流し込む。


 重たかった足が、一段軽くなる。


 (……よし)


 落石が止んだ瞬間を狙い、地面を蹴った。


 ベヒーモスとの距離が、一気に縮まる。

 巨体が、鈍重そうな見た目に反して、意外な速さで角をこちらへ向けてきた。


 角の側面に、土がまとわりついている。

 そのまま突っ込まれたら、体ごと持っていかれそうな重さ。


 腹を決めて、踏み込んだ。


 角が視界を横切る。

 頬に、風圧と、石の欠ける音。


 紙一重で内側に滑り込み、左手の短剣で首の付け根を狙う。

 だが、刃は表面の岩に弾かれた。


「固っ……!」


 反射的に、右手の餓影で肩口を叩き込む。

 キィン、と耳に刺さるような音が鳴った。


 岩の表面が、ごくわずかに削れる。

 その削れた破片から、また魔力の粉みたいなものが、餓影を通して流れてきた。


 (通るけど、浅い……)


 ベヒーモスが、怒ったように体を捻る。

 巨体が振り向きざまに尾を振った。


 間一髪で腕で受ける。

 骨に響く衝撃。


 視界が揺れ、肺から空気が押し出される。


 右腕がじん、と痺れる。

 同時に、餓影を通してまた何かが流れ込む。


 土の重さ。

 岩の硬さ。

 それを、廻影の輪で体内に散らす。


 痺れが、ほんの少し早く薄れていった。


『いい感じだな』


 餓影の声は、相変わらず落ち着いている。


『ただ斬り合うんじゃなく、“奪え”。あいつの魔法も装甲も全部、お前の燃料だと思え』


「簡単に言うなよ…」


 ベヒーモスが、再び角に魔力を集め始める。

 今度は、床一面が低く唸った。


 地面から石柱が何本も生え、飛び石みたいに広間を埋めていく。


 足場がでこぼこに変わる。

 (まともに走れって方が無茶だな)


 なら――


 石柱が伸び切る前に、その側面を蹴って駆け上がった。

 不安定な足場を、ほんの一瞬だけ踏み台にする。


 一歩、二歩。


 足裏に、さっき奪った魔力の輪を巡らせる。

 筋肉が、足場に合わせて瞬間的に硬くなる。


 最後の一歩で、まだ伸び続けている柱の先端を蹴った。


 視界が、一瞬だけ開ける。

 ベヒーモスの背中、その少し向こうに頭部。


 空中で体をひねり、右手に餓影、左手に短剣を重ねるように構える。


 胸の奥の輪を、一気に腕へ送る。


 今まで吸い込んできた、土の魔力と獣の熱。

 それに、自分の魔力と体の力を重ねる。


 刃が、きしむように震えた。


「――っ!」


 叫びと一緒に、ベヒーモスの首筋へ両刃を叩きつけた。


 岩の装甲が、悲鳴みたいな音を上げて割れる。

 割れ目から、熱い血と魔力が噴き出した。


 同時に、餓影がそれを吸い上げる。

 廻影の輪を通して、一気に体中に散らす。


 胸の奥が焼けるように熱くなる。

 視界の端が、妙にくっきりする。


 ベヒーモスが咆哮を上げ、暴れる。

 その衝撃で、空中の体が弾き飛ばされた。


 床に転がり、背中に痛みが走る。

 肺から空気が抜ける。


 けれど――


 立ち上がるのに、ほんの数呼吸しかかからなかった。


 体中痛い。

 でも、動く。

 足も、腕も、まだ振れる。


 ベヒーモスの首元には、大きな亀裂が走っていた。

 岩の下の肉が見えている。


 獣が、荒い息を吐きながら、こちらをにらみつける。


 角に、再び土の魔力が集まり始めた。

 残りの力を全部、そこに込めるつもりだ。


『最後だ』

 餓影の声が落ちる。


『奪った分も、残ってる分も、全部まとめて返してやれ』


「……了解」


 ずれかけた呼吸を整える。

 足元のひび割れた石を一歩ずつ踏みしめる。


 ベヒーモスが角を振り下ろそうとした瞬間。


 床が裂け、巨大な岩の刃が何枚もせり上がった。

 それが、扇のように広がってこちらへ迫ってくる。


 逃げ道を塞ぐための一撃。


 正面から行くしかない。


 胸の輪を最大まで回す。

 餓影を握る右手に、今までで一番強い熱を集める。


 足を踏み込むたび、地面から上がってくる土の魔力が、逆にこちらへ流れ込んでくる。

 岩刃の隙間をすり抜けるように、体を最小限だけひねる。


 一枚。

 二枚。


 肩をかすめる石の冷たさ。

 頬を切る鋭さ。


 その度に、刃から伝わる獣と土の気配を、さらに輪に重ねる。


 目の前が、ベヒーモスの喉元だけになった。


「――っ!」


 地面を蹴り、最後の一歩で跳ぶ。


 餓影と短剣を、交差するように突き出した。


 岩と肉と骨。

 全部まとめて貫くつもりで。


 鈍い手応えと、耳を裂く咆哮。

 次の瞬間、ベヒーモスの体が大きく仰け反った。


 角に集まっていた土の魔力が、制御を失って広間のそこかしこで爆ぜる。

 石柱が半分ほど崩れ、砂と破片が雨みたいに降ってきた。


 獣の巨体が、ゆっくりと前のめりに倒れる。

 その影が、こちらにかぶさってきた。


「うわっ――」


 慌てて脇へ転がる。

 すぐ後ろで、床が大きく揺れた。


 しばらく、何も動かなかった。


 土埃と血の匂いだけが、ゆっくりと広間に満ちていく。


 やがって、餓影が静かに言った。


『……よくやったな』


 右手の痺れを意識する。

 膝は震えている。


 けれど、まだ立てる。


 ベヒーモスの体は、完全に動かなくなっていた。


 大きく息を吐き、天井を見上げる。


(……一人で、倒した)

 その実感が、じわじわと遅れて追いついてくる。


 ふと、広間の奥から冷たい風が流れてきた。


 視線を向けると、そこには――


 いつものように、次の階へ続く階段があるだけだった。


 帰り道らしいものは、どこにもない。


「やっぱり……」


 呟きがこぼれる。


 それでも、足は階段の方へ向いていた。


 餓影の重さと、体の奥でゆっくり回り続ける輪の感覚を確かめながら、俺は九十一層への一段目に足を乗せた。

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