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119/123

119.ダンジョン箱81F~

 八十一層の刻印から、ゆっくりと視線を外す。


 通路は、これまでと同じ石造りだ。

 けれど、足を一歩踏み出しただけで、空気の重さが違うのが分かった。


 ひやりとした冷たさに、獣の匂いが混じる。

 鉄と土と、少し甘ったるい血の匂い。


(……行くか)


 二本の短剣を抜く。

 金属の擦れる音が、細く長く通路に伸びて消えていった。


 ゆっくり、歩幅を狭くして進む。

 前に三人で来ていた時より、時間が伸びていく感じがする。


 同じ距離のはずなのに、一歩一歩がやけに長い。


 足音に混じって、別の音が聞こえ始めた。


 爪が石を引っかく、しゃり、とした音。

 鼻を鳴らす、くぐもった息。


 角を曲がった先、薄い魔導灯に照らされて、茶色い塊がいくつも動いた。


 ベビーベア。

 八十層で見飽きたはずの、小さな熊の群れだ。


 ただ、数が違う。

 ざっと見ただけで十頭以上。

 奥の影まで入れたら、もっといる。


「……数が多いな」

 小さく息を吐く。


『一人だと、余計そう見えるだけだろ』

 餓影の声が、刃の奥から響く。

『まあ、悪くない。数が多い方が、色々試しやすい』


(試すって言うなよ)

 そう返しながら、前へ出る。


 ベビーベアの一頭が、こちらを見つけた。

 黒い目がぎらりと光る。

 次の瞬間には、獣の息が一気に近づいてきた。


 ずん、と床が低く唸る。

 小さい体のくせに、突っ込んでくる圧だけは一丁前だ。


 俺は一歩、斜め後ろに流れながら踏み込む。

 風が頬を叩き、毛と土の匂いが鼻先をかすめる。


 横をすり抜けざま、右の短剣で喉元を裂き、

 左の短剣で後ろ足の腱を断つ。


 血が飛び、足元の石が赤く染まる。

 倒れた一体を飛び越えた瞬間、横から別の影が飛びかかってきた。


 爪が、頬をかすめる。


「っ……!」


 熱と痛みが走る。

 薄く切れた皮膚から、じわりと血がにじんだ。


 次の瞬間だった。


 握っている餓影の方から、

 ぞわ、とした冷たさが逆流してきた。


 倒れた一体から立ち上る魔力の残りかすが、

 刃を伝って、手首へ、肘へ、肩へと絡みつく。


 冷たいはずなのに、体の中に入った瞬間、

 じん、とした温かさに変わる。


(……これか)


『そうだ。浅い傷なら、そのまま肌ごと流してくれる』


 ベビーベアの息が、目前に迫る。

 温まる暇もなく、次の一頭が口を開いて噛みついてくる。


 半歩沈み込み、顎の下へ潜る。

 鼻先をかすめる獣臭。

 毛が頬に触れ、ざらっとした感触が残る。


 胸元を通り過ぎる瞬間、下から腹を裂く。

 柔らかい抵抗と共に、また血の匂いが濃くなった。


 さっきの頬の痛みは、いつの間にか薄れている。

 傷口のつっぱりが、じわじわと消えていくのが分かった。


(……ほんとに、消えてくな)


 次から次へと飛び込んでくるベビーベアを、

 足の踏み場を確かめながら捌いていく。


 前に出ては横へずれ、斜めに踏み込み、後ろへ回り込む。

 その度に、狭い通路の風の流れが変わる。


 獣の体が動くたび、空気が押され、引かれ、渦を巻く。

 その間を、こちらの軌道だけが滑るように通り抜けていく。


 一太刀浴びせるごとに、餓影がほんの少し魔力を吸い上げる。

 それが呼吸と一緒に体を巡っていく。


 動きは、いつも通りのはずなのに、

 体の内側だけが少しずつ温まっていく感じがする。


『悪くねぇな』

 餓影が、値踏みするように言う。


『浅い傷も疲労もいつもよりマシだろ』


(楽ではないけどな)

 汗が、こめかみを伝って落ちる。

 一人で全ての方向を見なければならない分、今までより目も耳も忙しい。


 それでも、足は止まらない。

 斬って、避けて、流して、また斬る。


 何度目かの突進を紙一重でかわしたところで、

 右腕に鋭い痛みが走った。


 爪が、袖ごと薄く皮膚を裂いていた。


「……っ」


 腕を振り抜きながら、逆手に持ち替えた短剣でその個体の目を突く。

 悲鳴と共に、獣が崩れた。


 すぐさま、餓影が傷口から魔力の流れを拾う。

 冷たいものが血管を遡るように走り、じんわりと熱に変わっていく。


 痛みが薄れ、腕の重さがほんの少し軽くなる。

(これが、本来の使い方か)


『まあ、片方だけなら“応急処置”だがな』


 餓影の声に、少しだけ余裕が戻る。


 通路の奥から、まだ複数の気配が近づいてくる。

 熊の足音が重なり、床が小さく揺れた。


『そろそろ、もう一つの方も試してみるか?』


(廻影の型、か)


『さっきのロックボアの時より、魔力の量も圧も多い。流れを感じやすいはずだ』


 息を整える。

 通路の真ん中で、敢えて足を止めた。


 左右に広がるベビーベアの群れが、じわじわと包囲の輪を狭めてくる。

 鼻息と足音が重なり、空気が震えた。


 一歩でも遅れれば、壁に叩きつけられて押し潰される。


 刃を握る指先に、意識を集める。


 餓影を通じて吸い上げた魔力が、

 手首から腕へ、胸の奥へ流れ込む感覚をもう一度なぞる。


(通り道……)


 そこに、かつて握った廻影の感触を重ねる。


 魔力が体の中を一周して戻ってくる、あの輪。

 肺の奥を通り、背骨を滑り、腰から脚へ落ちていく軌道。


 実物はない。

 あるのは、ほんの一瞬だけ借りた時の手の感触と、

 その時体を回った“流れ”の記憶だけだ。


 それでも、脳裏にはっきりと線が描ける。


 餓影が吸い上げた魔力の塊を、

 その線に無理やり載せる。


『……ほう、雑だが、悪くない』


 餓影の声が、わずかに低くなる。


 胸の奥が熱を帯びる。

 心臓の鼓動に合わせて、全身を巡る魔力の輪が、少しずつ太くなっていく。


 ベビーベアが、一斉に飛び込んできた。


 声にならない吠え声。

 毛の擦れる音。

 足元で跳ねる石片。


 その全てが、一瞬、ゆっくりに見えた。


 体が軽い。


 足を踏み出した瞬間、地面の反発が、

 いつもより素直に全身へ駆け上がってくる。


 右に滑り込みながら、一体の首筋を斬る。

 振り抜いた勢いを殺さず、そのまま体を捻って後ろへ。


 左から飛びかかった一頭の顎の下をくぐり、

 喉元と前足をまとめて断つ。


 風がひゅっと頬をかすめる。

 爪先に感じる空気の抵抗が、普段より薄い。


 一歩ごとの移動距離が、わずかに伸びている。


(……速い)


 自分の動きが、半歩分だけ前に出ている。

 敵の爪や牙が届くより、わずかに早く懐に入り込める。


 斬るたびに、血と一緒に魔力が溢れ、その一部が餓影へ吸い込まれていく。


 吸い込んだ魔力は、すぐに廻影の“通り道”をなぞって体内を巡る。


 腕の疲れが、走り続けた足の重さが、

 少しずつ薄れていく。


 ベビーベアが一体、また一体と崩れ落ちる。

 通路に撒き散らされた血が、じわじわと足元を染めていく。


 最後の一頭が、恐怖に引きつったような声を上げて突っ込んでくる。


 それを、真正面から迎えた。


 地面が揺れる。

 鼻先に熱い息がかかる。


 踏み込み。

 腰のひねり。

 腕の振り抜き。


 全てが一つの線で繋がる。


 短剣が、額の岩の隙間を正確に抜けて、眉間を貫いた。

 硬い手応えと共に、獣の体がその場で崩れる。


 静寂が戻る。


 息は上がっている。

 汗も滲んでいる。


 けれど、前みたいな“重さ”はない。

 腕を振ってみると、さっきまで走り続けたはずなのに、筋肉の張りがいつもより早く抜けていく。


『……今のだ』


 餓影が、満足そうに言う。


『今みたいに、俺が吸った魔力を、廻影の通り道で回す。これが“吸収と循環”の、一番分かりやすいやり型だな』


(単純って言うほど簡単じゃないけどな)


 苦笑しながら、倒れたベビーベアたちを見渡す。


 通路の奥から、違う風が流れ込んできた。

 血と獣臭に混じって、ひやりとした空気が頬をなでる。


 その先に――階段の気配。


 足元の血溜まりを避けながら、ゆっくりと進む。

 近づくほど、風の温度が変わるのが分かった。


 八十層までの冷たさとは、少し違う。

 もっと静かで、奥に重さを隠したような冷たさ。


『どうする、レン』

 餓影が問う。

『行けるか?』


 一度、短剣を握り直す。


 腕はまだ振れる。

 足も動く。

 頭もはっきりしている。


 何より――さっきなぞった“輪”の感覚が、まだ胸の奥で静かに回っていた。


(……行く)


 階段の一段目に足を乗せる。


『ほう』


(ここで止まったら、また考えすぎて動けなくなりそうだしな。

 どうせ上に行くつもりなら、今の感覚が残ってるうちに少しでも進んだ方がいい)

 自分に言い聞かせるように心の中で続ける。



 餓影は、しばらく黙っていた。

 やがて、ため息とも笑いともつかない声を落とす。


『……いいじゃねぇか。嫌いじゃない』


 階段を上り切る。


 視界が、ふっと揺れた。

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