119.ダンジョン箱81F~
八十一層の刻印から、ゆっくりと視線を外す。
通路は、これまでと同じ石造りだ。
けれど、足を一歩踏み出しただけで、空気の重さが違うのが分かった。
ひやりとした冷たさに、獣の匂いが混じる。
鉄と土と、少し甘ったるい血の匂い。
(……行くか)
二本の短剣を抜く。
金属の擦れる音が、細く長く通路に伸びて消えていった。
ゆっくり、歩幅を狭くして進む。
前に三人で来ていた時より、時間が伸びていく感じがする。
同じ距離のはずなのに、一歩一歩がやけに長い。
足音に混じって、別の音が聞こえ始めた。
爪が石を引っかく、しゃり、とした音。
鼻を鳴らす、くぐもった息。
角を曲がった先、薄い魔導灯に照らされて、茶色い塊がいくつも動いた。
ベビーベア。
八十層で見飽きたはずの、小さな熊の群れだ。
ただ、数が違う。
ざっと見ただけで十頭以上。
奥の影まで入れたら、もっといる。
「……数が多いな」
小さく息を吐く。
『一人だと、余計そう見えるだけだろ』
餓影の声が、刃の奥から響く。
『まあ、悪くない。数が多い方が、色々試しやすい』
(試すって言うなよ)
そう返しながら、前へ出る。
ベビーベアの一頭が、こちらを見つけた。
黒い目がぎらりと光る。
次の瞬間には、獣の息が一気に近づいてきた。
ずん、と床が低く唸る。
小さい体のくせに、突っ込んでくる圧だけは一丁前だ。
俺は一歩、斜め後ろに流れながら踏み込む。
風が頬を叩き、毛と土の匂いが鼻先をかすめる。
横をすり抜けざま、右の短剣で喉元を裂き、
左の短剣で後ろ足の腱を断つ。
血が飛び、足元の石が赤く染まる。
倒れた一体を飛び越えた瞬間、横から別の影が飛びかかってきた。
爪が、頬をかすめる。
「っ……!」
熱と痛みが走る。
薄く切れた皮膚から、じわりと血がにじんだ。
次の瞬間だった。
握っている餓影の方から、
ぞわ、とした冷たさが逆流してきた。
倒れた一体から立ち上る魔力の残りかすが、
刃を伝って、手首へ、肘へ、肩へと絡みつく。
冷たいはずなのに、体の中に入った瞬間、
じん、とした温かさに変わる。
(……これか)
『そうだ。浅い傷なら、そのまま肌ごと流してくれる』
ベビーベアの息が、目前に迫る。
温まる暇もなく、次の一頭が口を開いて噛みついてくる。
半歩沈み込み、顎の下へ潜る。
鼻先をかすめる獣臭。
毛が頬に触れ、ざらっとした感触が残る。
胸元を通り過ぎる瞬間、下から腹を裂く。
柔らかい抵抗と共に、また血の匂いが濃くなった。
さっきの頬の痛みは、いつの間にか薄れている。
傷口のつっぱりが、じわじわと消えていくのが分かった。
(……ほんとに、消えてくな)
次から次へと飛び込んでくるベビーベアを、
足の踏み場を確かめながら捌いていく。
前に出ては横へずれ、斜めに踏み込み、後ろへ回り込む。
その度に、狭い通路の風の流れが変わる。
獣の体が動くたび、空気が押され、引かれ、渦を巻く。
その間を、こちらの軌道だけが滑るように通り抜けていく。
一太刀浴びせるごとに、餓影がほんの少し魔力を吸い上げる。
それが呼吸と一緒に体を巡っていく。
動きは、いつも通りのはずなのに、
体の内側だけが少しずつ温まっていく感じがする。
『悪くねぇな』
餓影が、値踏みするように言う。
『浅い傷も疲労もいつもよりマシだろ』
(楽ではないけどな)
汗が、こめかみを伝って落ちる。
一人で全ての方向を見なければならない分、今までより目も耳も忙しい。
それでも、足は止まらない。
斬って、避けて、流して、また斬る。
何度目かの突進を紙一重でかわしたところで、
右腕に鋭い痛みが走った。
爪が、袖ごと薄く皮膚を裂いていた。
「……っ」
腕を振り抜きながら、逆手に持ち替えた短剣でその個体の目を突く。
悲鳴と共に、獣が崩れた。
すぐさま、餓影が傷口から魔力の流れを拾う。
冷たいものが血管を遡るように走り、じんわりと熱に変わっていく。
痛みが薄れ、腕の重さがほんの少し軽くなる。
(これが、本来の使い方か)
『まあ、片方だけなら“応急処置”だがな』
餓影の声に、少しだけ余裕が戻る。
通路の奥から、まだ複数の気配が近づいてくる。
熊の足音が重なり、床が小さく揺れた。
『そろそろ、もう一つの方も試してみるか?』
(廻影の型、か)
『さっきのロックボアの時より、魔力の量も圧も多い。流れを感じやすいはずだ』
息を整える。
通路の真ん中で、敢えて足を止めた。
左右に広がるベビーベアの群れが、じわじわと包囲の輪を狭めてくる。
鼻息と足音が重なり、空気が震えた。
一歩でも遅れれば、壁に叩きつけられて押し潰される。
刃を握る指先に、意識を集める。
餓影を通じて吸い上げた魔力が、
手首から腕へ、胸の奥へ流れ込む感覚をもう一度なぞる。
(通り道……)
そこに、かつて握った廻影の感触を重ねる。
魔力が体の中を一周して戻ってくる、あの輪。
肺の奥を通り、背骨を滑り、腰から脚へ落ちていく軌道。
実物はない。
あるのは、ほんの一瞬だけ借りた時の手の感触と、
その時体を回った“流れ”の記憶だけだ。
それでも、脳裏にはっきりと線が描ける。
餓影が吸い上げた魔力の塊を、
その線に無理やり載せる。
『……ほう、雑だが、悪くない』
餓影の声が、わずかに低くなる。
胸の奥が熱を帯びる。
心臓の鼓動に合わせて、全身を巡る魔力の輪が、少しずつ太くなっていく。
ベビーベアが、一斉に飛び込んできた。
声にならない吠え声。
毛の擦れる音。
足元で跳ねる石片。
その全てが、一瞬、ゆっくりに見えた。
体が軽い。
足を踏み出した瞬間、地面の反発が、
いつもより素直に全身へ駆け上がってくる。
右に滑り込みながら、一体の首筋を斬る。
振り抜いた勢いを殺さず、そのまま体を捻って後ろへ。
左から飛びかかった一頭の顎の下をくぐり、
喉元と前足をまとめて断つ。
風がひゅっと頬をかすめる。
爪先に感じる空気の抵抗が、普段より薄い。
一歩ごとの移動距離が、わずかに伸びている。
(……速い)
自分の動きが、半歩分だけ前に出ている。
敵の爪や牙が届くより、わずかに早く懐に入り込める。
斬るたびに、血と一緒に魔力が溢れ、その一部が餓影へ吸い込まれていく。
吸い込んだ魔力は、すぐに廻影の“通り道”をなぞって体内を巡る。
腕の疲れが、走り続けた足の重さが、
少しずつ薄れていく。
ベビーベアが一体、また一体と崩れ落ちる。
通路に撒き散らされた血が、じわじわと足元を染めていく。
最後の一頭が、恐怖に引きつったような声を上げて突っ込んでくる。
それを、真正面から迎えた。
地面が揺れる。
鼻先に熱い息がかかる。
踏み込み。
腰のひねり。
腕の振り抜き。
全てが一つの線で繋がる。
短剣が、額の岩の隙間を正確に抜けて、眉間を貫いた。
硬い手応えと共に、獣の体がその場で崩れる。
静寂が戻る。
息は上がっている。
汗も滲んでいる。
けれど、前みたいな“重さ”はない。
腕を振ってみると、さっきまで走り続けたはずなのに、筋肉の張りがいつもより早く抜けていく。
『……今のだ』
餓影が、満足そうに言う。
『今みたいに、俺が吸った魔力を、廻影の通り道で回す。これが“吸収と循環”の、一番分かりやすいやり型だな』
(単純って言うほど簡単じゃないけどな)
苦笑しながら、倒れたベビーベアたちを見渡す。
通路の奥から、違う風が流れ込んできた。
血と獣臭に混じって、ひやりとした空気が頬をなでる。
その先に――階段の気配。
足元の血溜まりを避けながら、ゆっくりと進む。
近づくほど、風の温度が変わるのが分かった。
八十層までの冷たさとは、少し違う。
もっと静かで、奥に重さを隠したような冷たさ。
『どうする、レン』
餓影が問う。
『行けるか?』
一度、短剣を握り直す。
腕はまだ振れる。
足も動く。
頭もはっきりしている。
何より――さっきなぞった“輪”の感覚が、まだ胸の奥で静かに回っていた。
(……行く)
階段の一段目に足を乗せる。
『ほう』
(ここで止まったら、また考えすぎて動けなくなりそうだしな。
どうせ上に行くつもりなら、今の感覚が残ってるうちに少しでも進んだ方がいい)
自分に言い聞かせるように心の中で続ける。
餓影は、しばらく黙っていた。
やがて、ため息とも笑いともつかない声を落とす。
『……いいじゃねぇか。嫌いじゃない』
階段を上り切る。
視界が、ふっと揺れた。




