118.強くなる為に
ギルドからの帰り道、陽はだいぶ傾いていた。
王都の石畳を抜け、学園寮の門をくぐる。中庭には、もうほとんど人影がない。
部屋の扉を開けると、中は静まり返っていた。
ルデスのベッドはきちんと整えられたまま。
机の上には、朝と同じように書類が積まれている。
まだ戻ってない
部屋を見回す。
リーナが来た形跡もない。いつもの雑なメモも、空になったマグカップも見当たらない。
(きっと、二人とも忙しいんだろうな)
剣を壁にもたせかけ、ベッドに腰を落とす。
ロックボアとの戦いで、体は軽く温まっている。むしろ、物足りないくらいだ。
じわじわと、さっきまで意識をそらしていた考えが浮かび上がってくる。
(このまま、ここで大人しくしてればいいんだろうけど)
天井を見上げる。
(……試す、ってなると)
頭の中に、北の山々の輪郭が浮かんだ。
資料室で見た地図。ベビーベアの生息域。その更に奥。
魔道具屋が話していた「竜の影」の話。
(北の山の竜、確かめに行くか?)
考えた瞬間、胸の奥が冷たくなる。
今の自分の力。
餓影と、廻影の型を合わせたとしても。
あの規模の影と、本当にやり合えるのか。
(……いや、無理だな)
自分で自分にそう言い切る。
もし本物だったら、今じゃ勝てる気がしない。
逃げ切れる想像も、うまくできなかった。
竜のイメージを、頭から追い出す。
代わりに浮かんだのは、部屋の隅にひっそり置かれた、小さな木箱の影だった。
(この辺りで、他に試せる場所……)
視線が、自然とそちらへ吸い寄せられる。
ダンジョン箱。
あの中なら、餓影の「回復」を試すにも十分すぎる環境だ。
魔物も、数も、強さも、切り替えながら相手にできる。
ただ――
目を閉じると、すぐにあの光景がよみがえった。
血の匂い。
折れそうな足。
八十層の、圧し潰されるような一撃。
光の粒になって消えたルデスとリーナの背中。
指先が、知らないうちに震えていた。
(正直、あの“死ぬ感覚”は……もう味わいたくはない)
喉の奥が、少しだけ熱くなる。
でも――
(それでも、試すなら、あそこが一番最適だよな)
自分で自分に言い聞かせるように、ゆっくり息を吐く。
怖がるだけで何もしなければ、きっとこのままだ。
せっかく目の前に「強くなれる場所」があるのに、何もせずに避けてばかりで。
(……それじゃ、多分、あいつらに追いつけない)
勇者リアムや、大剣術祭・本戦優勝のイオン
ベッドから立ち上がる。
棚の奥にしまっていた木箱を、そっと取り出した。
手のひらに収まるほどの大きさなのに、持ち上げるときの重さは、不思議と重く感じる。
蓋の縁を指でなぞる。
(今度は……一人だ)
前は三人で入った。
ルデスが横に立って、リーナが後ろを支えてくれていた。
今回は、俺だけ。
怖い。
ただ、それだけじゃない。
今の自分の力を、ちゃんと確かめておきたい。
一階層から、今の状態でどこまで行けるか知りたい。
そう思っている自分も、確かにいる。
「……よし」
小さく呟き、部屋の真ん中に箱を置く。
床に膝をつき、両手でしっかりと蓋を押さえた。
(餓影)
『聞こえてる。やる気だな』
(ああ。今日は、一人で試す。
1階からどこまで行けるか、自分でも試してみたい)
『一人でか。まあ、嫌いじゃねぇよ、そういう無茶は』
わざと軽い調子の声が、少しだけ背中を押してくる。
深く息を吸う。
肩から力を抜き、蓋に置いた両手に意識を集中させる。
(怖いなら、さっさと強くなれ)
自分で、自分を急かすみたいに。
「行く」
小さくそう言って、蓋を押し上げた。
白い光が、視界を一瞬で埋め尽くす。
◆◇◆◇◆
足元に、固い感触が戻ってきた。
石の床の冷たさ。
魔導灯の淡い光。
かすかに湿った空気の匂い。
感覚は、最初に入ったときとよく似ている。
ただ、一つだけ――決定的に違うものが目に入った。
目の前の石壁に、簡素な文字が刻まれている。
《81F》
「……は?」
思わず声が漏れた。
単調な石造りの壁。
遠くで魔物の気配が、かすかにうごめいている。
でも、“一階層”じゃない。
数字を、もう一度見直す。
八十一。
1ではない。
前に死んだ場所の、すぐ先。
『どうやら、続きかららしいな』
餓影の声が、妙に楽しそうに響いた。
『中途半端にクリアした階層は、ちゃんと箱が覚えてるってわけだ。八十まで踏破済み、次は八十一』
「ちょっと待ってくれ」
額に手を当てる。
鼓動が、さっきより速くなっているのが分かった。
(……一階からやり直すつもりだったのに)
少しずれていたことに、ここに来て気づかされる。
この箱は、クリアした階層は「終わった」と見なしている。
中で死のうが関係なく、進んだ分だけ前に進む。
八十までたどり着き、そこで全滅した。
だから、次はその続き。
《81F》
数字が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
『どうする、レン』
少し悩むが気持ちを固める、握った短剣に力を込める。
『ふん』
餓影が、かすかに笑った。
『行くしかねぇな』
「ああ」
小さく答える。
まだ一歩も踏み出していないのに、背中にはもう、汗がじっとりと浮かんでいた。
それでも。
俺は、通路の先へ向かって歩き出した。




