114.真の名
数日たったある午後。
軽い素振りを終えてタオルで汗を拭いていると、寮の前で声をかけられた。
「レン」
顔を上げると、そこに立っていたのはルデス――と、その後ろに、フードを深くかぶった細身の人影。
「久しぶり」
フードを外したのは、リゼだった。
髪をひとつにまとめ、無表情に近い顔でこちらを見る。
「時間、少しもらえる?」
「……もしかして見つかった?」
自分でも分かるくらい、声が少しだけ早くなる。
リゼは小さく頷いた。
「殿下から話す?」
「いや、お願いする」
ルデスが一歩下がる。
リゼは、ごく短く要点だけを告げた。
「三百年前に、王の刃を使っていたエルフ。
それらしい人を見つけた」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
「今は、王都からそう遠くない場所で隠居してる。
身元は確認済み。昔、王城の近衛にいた記録も残ってた」
「……本当に?」
「本当に」
リゼはそこで初めて、ほんの少しだけ表情をゆるめた。
「行く?」
「行く」
迷う時間は、ほとんどなかった。
◆◇◆◇◆
王都の外れ、小さな森を抜けた先に、それはあった。
石垣に囲まれた、こぢんまりした屋敷。
庭には、手入れされた古い木が一本だけ立っている。
門をくぐり、リゼの案内で中庭を進む。
「緊張してる?」
横を歩くリーナが、小さな声で聞いてきた。
「少しだけ」
正直に答える。
ルデスは何も言わないが、背筋をいつも以上に伸ばしていた。
扉の前で、リゼがノックする。
「お客さん、連れてきたよ」
中から、落ち着いた声が返ってきた。
「入りなさい」
部屋に入ると、そこは質素な居間だった。
壁際に本棚が一つ。
窓際には小さな机と椅子。
その椅子に、ひとりの男が座っていた。
長い金髪を後ろで束ね、
耳は人間より少し長く、尖っている。
歳は……人間の見た目で言えば、四十代くらい。
けれど、その瞳の奥にある時間の重さは、明らかにそれ以上だった。
「よくいらっしゃいました、第2王子殿下」
男はまず、ルデスに視線を向ける。
「王城からの書簡は読ませてもらった、お時間をいただき感謝する」
ルデスが丁寧に頭を下げた。
「こちらが、例の短剣の使い手――レン・ヴァルドだ」
紹介されて、一歩前に出る。
男の視線が、俺の腰のあたりに落ちた。
そこにあるのは、二本の短剣。
(……)
空気が、ひと瞬だけ張り詰める。
男はゆっくり立ち上がった。
「その黒銀の短剣を、少し見せてくれるかね」
「……分かりました」
鞘から、王の刃を引き抜く。
闇を溶かしたような銀が、部屋の光を鈍く返した。
男は、その刃を真正面から見つめる。
瞳の奥に、懐かしさと、少しの痛みがほんのり混じる。
「まだ、形を保っていたか」
小さな独り言のような声。
その時だった。
(レン)
頭の奥で、刃の声が響いた。
(悪い。二人にしてくれ)
(え)
あまりに唐突で、思わず眉が動く。
「どうした?」
ルデスが小さく問いかけてくる。
「……王子、少しだけ、この人と二人きりにさせてもらっていいですか」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
ルデスは一瞬だけ目を細め――それから、短く頷いた。
「分かった。リーナ、リゼ、外で待とう」
「え、ちょっと――」
リーナが何か言いかける。
リゼが、そっとその袖を引いた。
「殿下の判断だし、レンが頼んでる」
「……分かったわよ」
リーナは不満げな顔をしながらも、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋の中には、俺と、エルフの男と、王の刃だけが残った。
しばしの沈黙。
先に口を開いたのは、男の方だった。
「……そうか。もう目を覚ましているのか」
その言葉の意味を、俺には掴みきれない。
だが次の瞬間、黒い刃の気配が、ふっと変わった。
言葉は聞こえるのに、
その先に続くはずの「内容」が、うまく頭に入ってこなくなる。
エルフの男が、低く何かを問いかける。
刃が、何かを返す。
声の調子だけは分かるのに、
それが具体的な言葉に変換されない。
まるで、水の中から会話を聞いているようだった。
男の横顔。
刃の光。
時々、男の肩が、ほんの少しだけ震える。
笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか。
どれも、はっきりとは分からない。
時間の感覚が、薄くなる。
やがて、ふっと空気が緩んだ。
男が、王の刃にそっと触れる。
「……ああ」
その一言だけは、はっきり聞こえた。
何を肯定したのかは、分からない。
ただ、その声には長い時間の重さと、少しの安堵が混じっていた。
(レン)
頭の奥で、再び刃の声が戻ってくる。
(悪い、待たせたな)
俺の手が、自然と伸びる。
男は、柄をこちらへ向けて差し出してきた。
「預けていたものを、返そう」
「……ありがとうございます」
受け取った瞬間、
刃の重さが、少しだけ変わったような気がした。
重くなった、というより、
“落ち着いた”ような、そんな感触。
扉の外で、足音が近づく。
「入っていいか?」
ルデスの声だ。
「どうぞ」
答えると、扉が開く。
リーナとリゼも、一緒に戻ってきた。
「話は終わったの?」
リーナが首をかしげる。
「うん。まあ、だいたい」
うまく説明できる自信はないので、それだけに留めた。
エルフの男は、三人を見渡す。
「殿下。書簡にあった件については、私から王城宛に正式に返答を出しておこう」
「助かる」
ルデスが軽く頭を下げる。
「あなたの名は――」
「今はただの隠居だよ」
男は、静かに笑った。
「昔の名は、もう必要ない」
その言い方が、妙にすっきりしていた。
帰り際。
部屋を出ようとしたとき、男が小さく俺を呼び止めた。
「レン・ヴァルド」
振り向く。
「その刃のことを、一つだけ言っておこう」
男の視線が、俺の腰の短剣に落ちる。
黒銀の刃と、もう一本の短剣、その両方を見ていた。
「本来、その短剣には名がある」
ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「吸収を担う一本──《餓影》
循環を担う一本──《廻影》」
胸の奥が、かすかに鳴った。
「……餓影、廻影」
思わず、繰り返していた。
「どちらも、一本だけでも十分に力を発揮する。
だが、二本そろった時にこそ相乗効果が生まれる。
片方が喰い、片方が巡らせる。そう作られている」
男の視線が、ちらりとリゼの方へ流れる。
「元々は、対になる一対として鍛えられたものだ」
男は、わずかに口元をゆるめた。
「覚えておくといい。
片方だけだと危うい刃だが、二本同時に振るえばどうにか使えるかもしれない、もしくはこいつが言うことを聞いてくれれば、な」
その声に、脅しの色はなかった。
ただ、よく知っている者の忠告の響きがあった。
「その刃は、扱いを間違えれば世界ごと巻き込む。
だが、正しく振るう者の手にあるなら──
きっと、その逆もできる」
意味を全部は掴みきれない。
ただ、その視線がまっすぐで、冗談ではないことだけは分かった。
「……がんばります」
それしか言えなかった。
男は、満足そうに目を細める。
「そうか」
それきり、もう何も言わなかった。




