111.生の形
――冷たい水を、一気に肺へ流し込まれたみたいだった。
「っ、は……っ!」
喉が勝手に空気を求める。
視界に入ってきたのは、木の天井と白い壁――寮の部屋。
床の固さ。
インクと紙と、ほんの少しだけ残ったご飯の匂い。
(……戻った)
頭でそう判断するより先に、手が震え始めた。
「レン!」
横から、勢いよく抱きつかれる。
リーナだった。
「レン、レン……生きてる、生きてる……!」
耳元で、同じ言葉が何度も繰り返される。
抱く力が強すぎて、肋がきしんだ。
「……っ、ちょっと、苦しい」
かろうじて声を出すと、リーナがびくっとして腕を緩める。
「ご、ごめ……あ、でも、喋れるなら大丈夫、だよね。
ね、大丈夫、だよね?」
早口で畳みかけながら、笑っているのか泣いているのか分からない顔をしていた。
少し間をおいて、ルデスの声がした。
「……どうやら、全員、戻れたな」
床に片手をついて、ゆっくり上半身を起こしている。
息は整っているはずなのに、言葉の端が少しだけかすれていた。
誰も動かない時間が、しばらく続いた。
部屋の中にある音は、呼吸と心臓の音だけ。
それなのに、耳の奥では、さっきまでの「別の音」がまだこびりついている。
牙が肉を噛む音。
骨が折れる音。
血が跳ねる音。
それらが、一拍遅れで脳裏に戻ってきては消えていった。
「……時計」
リーナが、不意につぶやいた。
壁の時計を見上げる。
「……ほとんど入った時と変わらないね。
ふふ……やっぱり、止まってたんだ」
笑っているが、その目はどこか焦点が合っていない。
「時間の性質については、説明通り、ということだな」
ルデスが静かに言う。
「こちらでは一瞬。中では……」
言いかけて、そこで言葉を切った。
どれだけ時間が経っていたのか。
誰も、口に出そうとはしなかった。
ふと、机の上が視界に入る。
蓋を閉じた木箱が、ただそこにあるだけなのに、
部屋の空気が少しだけ重くなる。
誰も、手を伸ばさない。
触れる気配さえ見せない。
まるで、そこだけ“穴”が空いているみたいだった。
「レン、どこか……痛い?」
隣でリーナが尋ねる。
その指先が、俺の袖をつまんだまま離れない。
「……大丈夫」
考える前に、そう答えていた。
実際、痛みはない。
血も出ていない。
動けば、ちゃんと動く。
ただ、さっきまでここに“なかった”はずの重さが、
自分の両手の内側にだけ残っている。
何度か開いたり閉じたりしてみても、その感触は消えなかった。
ルデスも、両腕を軽く回してみせる。
「外傷は、ない。動きも問題ない」
そう言いながら、視線は箱の方へは決して向けなかった。
「……さっきなんだけどさ」
自分でも驚くくらい、小さな声が出た。
リーナとルデスが、こちらを見る。
「さっき、死んだあと。
一瞬だけ、真っ暗なところに行った」
音も匂いもない空間。
そこで待っていた、刃の線でできた人影。
「王の刃と話したんだ。」
自分の声の温度が、自分でよく分からない。
できるだけ余計なところは削って、必要なところだけを話した。
――なぜ落ちたか、問われたこと。
――傷や疲労の話をされたこと。
――三百年前の使い手に会わせろ、という条件を出されたこと。
エルフの剣士。
三百年前に王に仕え、今もどこかで生きているはずの者。
そこまで言って、一度口を閉じた。
「……それで」
ルデスが、ゆっくりと息を吐く。
「お前は、どうしたい」
「正直、よく分からない」
答えながら、自分の手のひらを見下ろす。
さっきまで、血と毛並みと、ぬるい温度がこびりついていた手。
「でも、話を聞いている限り……
そこまで筋の通らない要求でもない気がする」
王の刃からすれば、自分を捨てていった昔の持ち主。
そこに何か思うところがあっても、おかしくはない。
「一度くらい、本当にいるのかどうかは、確かめてもいいかなって」
声が少しだけ掠れた。
「王城の記録を漁ろう」
ルデスがはっきりと言う。
「三百年前の近衛、英雄、宮廷剣士。
エルフの剣士となれば、なおさら名は残っているはずだ」
ほんの少しだけ目を細めた。
「私はさ」
リーナが、ぽつりと口を開く。
握っていた手を離そうとして、やっぱり離せないまま。
「レン一人が、そういうの抱えてるの、嫌。
知らない間に、どっかに行っちゃいそうで、もっと嫌」
笑っているのに、目の端だけ赤い。
「聞いたからって、上手いこと言えないかもしれないけど……
知らないふりして隣にいるのは、無理だから」
「……悪い」
その一言しか出てこなかった。
少しだけ沈黙が落ちたあと、
リーナが、わざと明るく声を上げる。
「じゃあ、とりあえず何やるか決めよっか」
指を一本ずつ折りながら、数えていく。
「一つ、この箱はしばらく封印。あの死ぬ苦痛は頭をおかしくする…
二つ、王城で三百年前のエルフ剣士を探してもらう」
2人は静かに頷いた。
窓の外を見上げると、空の色は箱を開ける前と変わらない。
特別休暇の二日目。
寮のざわめき。
遠くの笑い声。
全部、さっきまでと同じ世界のはずなのに――
目を閉じると、最初に浮かぶのは別の景色だった。
血のついた毛並み。
光になって消えた二つの背中。
そして、何もない黒。
(……寝れるかな)
誰にも聞かせない声が、胸の中でこぼれる。
答えは出ないまま、俺はゆっくりと息を吐いた。
とりあえず今は、生きてここにいる。
それだけを、指先の感触で何度も確かめるしかなかった。




