11.川辺の影と、初めての閃き
森の奥、川のせせらぎだけが響いていた。
レンはしゃがみ込み、鍋の底を指でこすりながら、水の冷たさを感じていた。
昼の風は柔らかく、木々の隙間から差し込む光が水面にゆらめきを描く。
洗った鍋の金属が太陽を受けて光を弾き、その反射が彼の瞳を淡く照らした。
「……いい日だな。」
思わず漏らした言葉に、川面がきらりと応えたように光る。
彼は深呼吸をした。
ここ数日、ようやく落ち着いてきた。
村を出て、街で登録し、初めての依頼をこなした。
小さな成功だったが、心のどこかに“仲間と生きる”実感があった。
「父さん……俺、少しはやれてると思うよ。」
その呟きが風に溶けた時だった。
――空気が、変わった。
さっきまで心地よかった風が、急に止まった気がした。
葉のざわめきも、鳥の声も、途切れる。
代わりに、肌の奥がざわつくような感覚。
何かが近くにいる。
根拠はない。
だが、何年も父に叩き込まれた“戦いの勘”が告げていた。
気配。微かな殺気。
レンはゆっくりと立ち上がった。
手の中には、洗いかけの包丁。
水滴が刃先からぽたりと落ち、川面に波紋を広げる。
カサリ、と茂みが揺れた。
小さな音。鳥でも降りたのかと視線を向ける。
だが、違う。
空気の張り詰め方が、明らかに“生き物”のそれだった。
茂みの奥、白い毛並みがちらりと見えた。
丸い体、短い耳――うさぎのような姿。
「……かわい――」
言いかけた言葉が途切れた。
白い影が地面を蹴り、突進してくる。
風を切る音。
目が追いつかないほどの速さ。
その額には、小さな角。
「ホーンラビット……!」
反射的に身を引く。
背中の剣に手を伸ばそうとしたが――届かない。
足元が滑り、石に足を取られる。
目の前に迫る白影。
考えるよりも先に、体が動いた。
右手が自然と構えを取る。
握っていた包丁が陽光を弾いた瞬間、刃が淡く光を帯びた。
――閃光。
飛びかかる獣と交差した瞬間、
空気が震えた。
耳に届くのは、風を裂く音。
視界に残ったのは、一筋の光の線。
ホーンラビットの身体が宙を舞い、川辺の苔の上に転がった。
川面が波打ち、飛び散った水滴が光を散らす。
静寂。
レンは息を詰めたまま、動けなかった。
包丁を見下ろす。
刃先に、淡い光の粒がまだ残っている。
それはすぐに消えたが――確かにそこにあった。
「……今の、なんだ?」
胸の鼓動が速い。
剣を振る時とは違う、体の奥から湧き上がる感覚。
重さも、迷いもなく、ただ自然に動いた。
まるで、手の中の武器が“導いた”ようだった。
足元のホーンラビットは動かない。
小さな角が地面に転がり、淡く光を失っていく。
その姿は、美しくも儚かった。
レンは包丁を持ち直すと、
再び川に手を伸ばし、静かに刃を洗った。
血が水に溶け、流れの中へ消えていく。
その指先には、まだ微かな震えが残っていた。
「……悪かったな。驚かせたのは、こっちかもしれない。」
包丁を丁寧に水から上げ、袖で軽く拭い、
最後に布で磨いてから腰の袋に戻す。
その表情には、まだ理解できない戸惑いがあった。
――今の感覚、あれは一体……。
川の流れが音を取り戻す。
鳥がまたさえずり、木々が風に揺れた。
まるで、何事もなかったかのように。
遠くから声がした。
「レンー! まだ洗ってんのかー!?」
カイの大きな声が木々に反射して広がる。
「すぐ戻る!」
陽の光が川面を照らす。
その反射が、包丁の刃をほんの一瞬だけ照らした。
それは偶然の光か、それとも――
眠っていた力が、再び息を吹き返した合図だったのかもしれない。




