109.ダンジョン箱80F
八十層の扉の前で、しばらく無言の時間が流れた。
石の壁にもたれたまま、三人とも肩で息をしている。
「……よし」
先に立ち上がったのはルデスだった。
「このまま長く休んでも、疲れはそう簡単には抜けない。
ここまで来た以上、扉の向こうを見ずに引き返す方が、むしろ危険だ」
「確かにね」
リーナも、ゆっくりと壁から背を離し、額の汗を袖で拭ってから、苦笑した。
「レン」
ルデスが視線を向けてくる。
「行けるか?」
「行くしかないだろ」
俺もゆっくり立ち上がり、握り締めた短剣に力を込めた。
腕は重い。
足もきしむ。
でも――まだ、動ける。
「リーナは俺たちが倒し終わるまで外にいる?魔法使えないならただ危ないだけだ思うけど」
「ついて行くよ、2人が居なくなったあとどうすればいいか分かんないし」
リーナが、いつもの調子に戻そうとするみたいに笑う。
「八十層のボス、さっさと倒して、
『なんだ、案外余裕だったね』って笑って帰ろ」
「それ、フラグってやつだぞ」
ルデスのツッコミに、三人で小さく笑い合う。
それから、扉の前に並んだ。
ルデスが真ん中。
俺が右。
リーナが左。
石の扉に、ルデスの手がかかる。
重い音を立てて、扉が開いていった。
◆◇◆◇◆
八十層のボス部屋は、広かった。
天井が高く、足音がよく響く硬い床。
壁際には、折れた柱のような岩がいくつも立っている。
奥の暗がりで、ずるり、と何かが動いた。
姿を現したのは、二足で立つ巨大な狼だった。
全身を黒い毛皮で覆い、
肩から腰にかけて、分厚い骨の装甲のようなものが巻きついている。
両腕には、鎧のような鉤爪。
背中からは棘の生えた尾が伸びていた。
「……何あれ」
リーナが、思わず息を呑む。
「狼型と、魔獣の混ざりもの、って感じだな」
ルデスが短く言う。
「近接主体にみえるな、あの尾と口元の魔力の揺れ方からすると、
中距離の技も使ってきそうだ」
黒い獣は、こちらをじっと見つめ――低く唸った。
床が、わずかに震える。
「行くぞ」
ルデスが剣を構え、一歩前へ出る。
俺も短剣を構え、リーナは後方で待機している。
次の瞬間、黒い影が弾けた。
圧倒的な速度だった。
さっきまで立っていた場所を、鉤爪が抉り取っていく。
「っ!」
身を捻ってかわすと、すぐ横でルデスの剣が火花を散らした。
重い衝撃音。
鉤爪と武器がぶつかり合う。
「レン、右!」
ルデスの声と同時に、
黒い尾が、横薙ぎに俺の方へ飛んできた。
しゃがみ込む。
頭上を棘がかすめ、石柱をまとめてへし折った。
「硬さも、速さも、七十層までとは別物だな」
ルデスが、押し込まれながら苦笑する。
「けど――やることは変わらない」
俺は獣の死角へ回り込み、短剣を下から突き上げた。
骨の隙間を狙った一撃。
浅いが、確かな手応えがある。
黒い獣が、低く吠えた。
その振動だけで、肺が揺れる。
「リーナ!」
「分かってる!」
リーナの魔法が、獣の足元で爆ぜる。
短い光と衝撃。
ほんの一瞬だけ、動きが鈍った。
ルデスの剣が肩口を斬り裂き、
俺の短剣が、脇腹をえぐる。
血が飛ぶ。
――だが。
「……まだ、浅い」
ルデスが歯を食いしばる。
黒い獣は、傷をものともしていなかった。
尾がうなり、鉤爪が振り下ろされる。
岩の柱が次々と砕けていく。
その合間を縫って、俺たちは走り続ける。
何度も斬り、何度も避け、何度も体勢を立て直した。
時間の感覚が、曖昧になっていく。
どれだけ動いたのか分からない。
腕は重い。
脚は鉛みたいだ。
ルデスの頬には血が流れ、
「……回復、一回分くらいなら絞り出せる」
リーナが、かすれた声で告げる。
「次の致命傷まで取っておく」
「それまでに、決めるしかないな」
ルデスが短く返し、黒い獣の前へ出る。
俺は、獣の側面へ滑り込みながら、肩口の傷を狙う。
そこだけ、骨の装甲が薄い。
何度も斬りつけ、少しずつ肉を削る。
黒い獣の唸り声が、低く変わった。
動きが荒くなる。
鉤爪の軌道に、苛立ちが混ざった。
「効いてきてる……!」
リーナの声が聞こえた瞬間だった。
黒い獣の尾が、地面を強く叩きつけた。
床から、黒い衝撃波のようなものが走る。
「――!」
避ける間もなく、足元から体をすくい上げられた。
視界がぐるりと回り、
背中から床に叩きつけられる。
肺から空気が抜けた。
「っ、ごほっ……!」
横を見ると、リーナも同じように吹き飛ばされている。
ルデスは一瞬だけ膝をつき――すぐに立ち上がった。
黒い獣は、視線をリーナへ向けている。
「――来る!」
リーナの前に、黒い影が迫る。
前足が振り上げられる。
「リーナ!!」
反射的に叫んだ。
それより早く、ルデスが動いた。
剣を捨て、全力の体当たりでリーナを突き飛ばす。
振り下ろされた鉤爪が、
ルデスの胸と肩口をまとめて抉り取った。
血が、砂のように散る。
次の瞬間――
ルデスの体が、ふっと軽くほどけた。
無数の光の粒になって、宙へ舞い上がる。
「え……?」
リーナの手から、ルデスの服の端がすり抜けた。
掴もうとした指先からも、光の粒がこぼれていく。
「ルデス――!」
叫びも、掴もうと伸ばした手も、
何一つ届かない。
光の粒は、きらきらと瞬きながら、
目の前でゆっくりと消えていった。
「やだ……やだ、やだやだやだっ!」
リーナの声が、崩れる。
「待って、どこ行くの、ルデス……!
まだ……まだ何も、終わってない……!」
黒い獣の尾が、またうなる。
今度の標的は、リーナだった。
「リーナ!!」
まだうまく息もできていない体を、無理やり動かす。
走る。
転びそうになりながら、前へ。
尾が振り抜かれる。
リーナの体が、宙に浮いた。
「――っ!」
間に合わない。
そう思った瞬間――
リーナの体も、光の粒になった。
黒い尾が貫いたのは、もう“形を失いかけた”輪郭だけ。
光が、一気に弾ける。
夕焼けみたいな、淡い金色の粒。
「……リーナ」
声が、ひどく小さくなる。
伸ばした手は、何も掴めないまま宙を切った。
光は、指の間をすり抜けていく。
広間には、俺と黒い獣だけが残った。
耳が、変なふうに静かだ。
心臓の音だけが、やけにうるさい。
「……ふざけるなよ」
声が、勝手に出た。
「連れていきすぎなんだよ……!」
足が、床を蹴る。
もう体中が悲鳴を上げている。
息も、ろくに入らない。
それでも――止まらなかった。
黒い獣が吠える。
鉤爪が降り、尾が薙ぎ払われる。
斬って、避けて、滑って、また斬る。
視界の端で、自分の血が飛んでいるのが見える。
腕が切れ、
脇腹が裂け、
足にも痛みが走った。
体が勝手に傾き、
踏み込みが浅くなる。
それでも、短剣を握る手だけは放さなかった。
黒い獣の動きも、明らかに鈍っていた。
肩口からは、赤黒い血が流れ続け、
片目はもう潰れている。
息も荒い。
背中の棘も、何本か折れていた。
「あと、一歩」
自分に言い聞かせる。
「あと一歩だけ、前に出れば――」
黒い獣が、最後の力をかき集めるみたいに吠えた。
全身の筋肉が盛り上がり、
鉤爪が、上から振り下ろされる。
避ける余力は、もうない。
なら――
「…道連れにしてやるよ」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
前に出る。
真正面から。
振り下ろされる鉤爪の内側に、自分から飛び込む。
胸に、焼けるような痛み。
同時に、短剣を両手で握り直し、
黒い獣の喉元へ、渾身の力で突き上げた。
骨の隙間を抜け、
刃が肉と何か硬いものを貫く感触。
黒い獣の体が大きく震えた。
世界が、ゆっくりと傾く。
自分の視界も、同じように揺れた。
足元の感覚が消え、
どこが床でどこが天井なのか分からなくなる。
黒い獣が、崩れ落ちる。
同時に、自分の体も力を失って倒れていった。
(ああ――)
どこかで、冷静な自分がいた。
(これは、落ちていく感覚だ)
視界の端から、自分の体がほどけていく。
指先。
腕。
胸。
輪郭が崩れ、光になっていく。
ルデスと、リーナと、同じように。
「……やっと終われるのか」
安堵と痛みから解放されていく感覚の中、そんな言葉が浮かぶ。
それから――
全部が、暗くなった。




