108.ダンジョン箱 限界
どれくらい潜ったのか、もう正確な感覚はなかった。
十層を抜けて、二十層、三十層――。
敵は少しずつ固く、数は多く、動きはいやらしくなっていく。
最初の大きな回復は五十層だった。
囲まれた時に無理やり突破して、全員まとめて傷だらけになった。
その時、リーナは大きい回復魔法を使った。
詳しく聞いたことはなかったが、ペンダントに残された魔力は少ないと言っていた。
六十層のボス戦のあとも大きい回復魔法を使った。
「……ふざけてる」
ルデスがそう漏らした、巨大な鎧の魔物相手の戦い。
勝ちはしたが、兜の中まで血が流れ込むくらいには斬られ、殴られた。
リーナは二度目の大きな回復を絞り出し、
ペンダントの光も、さっきより明らかに薄かった。
大きな傷は消えた。
けれど、細かい切り傷、打撲の痛み、骨のきしむ感じ――
そういうものは、じわじわと残り始めていた。
どれだけ動いても、腹は鳴らない。
喉の渇きも、不思議と薄い。
それが、だんだん笑えない違和感になっていた。
◆◇◆◇◆
七十層のボス部屋の前に立った時には、
三人とも、顔つきが少し変わっていた。
呼吸は整えたものの。
体の奥に、抜けない疲れがたまっている。
服はところどころ破れ、
腕や首には包帯が巻かれていた。
「ここを越えたら、どこかで落ち着いて考えよう」
ルデスが、短くそう告げる。
「この箱を今後どうするかも」
「わかった」
俺も頷く。
リーナは、ペンダントを指で押さえながら小さく息を吐いた。
「魔力も、そろそろ底が見えてきたしね。
ここから先は、回復は本当に必要な時だけ」
「もう十分使いすぎてるけどな」
ルデスの冗談めいた一言に、俺たちはわずかに笑ってから、扉に手をかけた。
石の扉が開く。
七十層の広間は、今までと少し違っていた。
床には、低い草がまばらに生え、
天井からは太い根のようなものが垂れている。
小さな森の一角を切り取って、そのまま閉じ込めたような空間。
奥で、何かが動いた。
最初に目に入ったのは、巨大な影。
分厚い毛並み。
太い前足。
丸太みたいな胴。
人間三人分くらいの大きさの――ビッグベア。
その足元に、ひと回り小さい影が二つ。
ベビーベアが、低く唸りながらこちらを見ている。
「数は三。どれも近接型」
ルデスが剣を構える。
「俺が大きい方を抑える。
レンは子ども二匹の動きを止めろ。
リーナは援護と、どうしてもという時だけ回復だ」
「了解」
「任せて」
それだけ確認して、ビッグベアが吠えた。
重い足音が、広間を揺らす。
「来る!」
ルデスが正面に踏み込み、ビッグベアの振り下ろした前足を剣で受ける。
鈍い音。衝撃で床石が割れた。
同時に、二匹のベビーベアが左右から回り込んでくる。
俺は右側の一匹へ一直線に走り、
足元を狙って短剣を突き込んだ。
毛皮の下の肉をかすめ、バランスが崩れる。
その上から、もう一匹の頭を蹴って距離を取る。
「こっち見なさい!」
リーナの声と共に、短い光がベビーベアの目の前で弾ける。
ほんの一瞬だけ動きが鈍る。
その隙に、一体の首筋へ短剣を深く差し込んだ。
温かい血が跳ねる。
ベビーベアが叫び声をあげ、そのまま崩れた。
「あとは一匹!」
そう言いかけた瞬間、横から重い衝撃が飛んできた。
もう一匹のベビーベアの前足が、俺の脇腹をかすめる。完全に油断した!
「っ……!」
視界が揺れ、息が一瞬止まった。
(まだ、動ける)
歯を食いしばり、転がるように距離を取る。
少し離れたところでは、ルデスがビッグベアと正面からぶつかり合っていた。
剣と爪が何度も交差し、火花が散る。
ビッグベアの一撃は重く、速い。
ルデスのマントはすでにあちこち裂け、
腕にもいくつか血の筋が浮かんでいた。
「ルデス!」
リーナの回復の光が、一度だけ彼を包む。
大きな傷がふさがる気配。
それと一緒に、ペンダントの光が目に見えて弱くなった。
「これで、もう回復は使えないっ……!」
リーナが小さく息を呑む。
ベビーベアが再びこちらへ突っ込んでくる。
足音に合わせて、床を蹴る。
頭上をかすめる爪。
肩に熱い痛み。
それでも止まらない。
相手の横をすり抜けざまに、足を二本まとめて斬る。
ベビーベアが崩れたところへ、もう一度短剣を突き込む。
重い体が動かなくなるのを確認する暇もなく、今度はビッグベアの咆哮。
「レン、下がれ!」
ルデスの声と同時に、巨大な影が横薙ぎに突進してきた。
避ける。
石の床が砕け、飛び散った破片が頬を裂いた。
じわ、と血の線が視界の端を染める。
(ここで引いたら、ルデスが持たない)
息を整え、足を踏み込む。
ビッグベアの死角に滑り込み、
短剣で肩の付け根と脇腹を何度も切り刻む。
厚い毛と脂肪のせいで、手応えは重い。
それでも、確かに動きが鈍ってきていた。
「リーナ!」
ルデスが叫ぶ。
「動きを一瞬止められるか!」
「――一回だけ!」
リーナがペンダントを握りしめ、最後の光を弾けさせる。
ビッグベアの目の前で、眩しい閃光。
巨体が、ほんの一瞬だけ硬直した。
その隙に、ルデスの剣が首元に深く入り、
俺の短剣が心臓の辺りを貫く。
ビッグベアの体がびくりと震え、そのまま大きく崩れ落ちた。
重い音が、広間に響く。
しばらく、誰も動かなかった。
「……終わった、よね?」
リーナの声が、かすかに震えている。
ビッグベアの体は、しばらくしてから光の粒になって消えていく。
魔物が消えた跡に、また小さな魔法陣付きの台座が現れた。
「……終わった」
ルデスが、ゆっくりと剣を下ろした。
その腕にも、脇腹にも、細かい傷がいくつも開いている。
俺も、あちこち痛い。
脇腹、肩、腿、頬。
全身がじんじんと熱を持っていた。
リーナは、ペンダントを見下ろして小さく息を呑む。
「もう、光が戻らない……」
声は、ひどく静かだった。
「魔力、完全に空っぽ。
ペンダントに魔力入れないと使えない」
「俺の方も、もうあまり残ってない」
ルデスがそう言う。
いつもより、声音が低い。
「ここから先は、回復抜きで行くことになる」
「……戻る方法が分かっていれば、ここで一度引き返すんだけどね」
リーナが、苦く笑う。
「まあ、戻り道がないのは、
ここまでで嫌というほど分かったし」
俺たちは、七十層から、魔法陣へ乗った。
足元の光が揺れ、視界が切り替わる。
◆◇◆◇◆
七十一層から先は、余裕のない戦いばかりだった。
一体一体は、何とかなる。
でも、こちらの体は確実に削られていく。
リーナは何も出来ず
俺とルデスの負担は、その分だけ増えた。
腕に新しい傷が増えるたび、
古い傷が痛みを思い出したようにうずく。
包帯の予備も減っていく。
服を裂いて代わりに巻いた箇所も、もういくつ目か分からない。
「次の階で、短めでもいいから休むぞ」
「うん……」
そんな会話を、何度も繰り返した。
七十五層を抜けたあたりで、
自分の足が少し重くなったのが分かる。
今までの経験から何も飲食しなくてもいいと、頭で分かっていても、
体の感覚がまったく追いついてこない。
七十九層の最後の魔物を倒した時には、
三人とも、息は荒く、服はぼろぼろだった。
リーナは壁にもたれ、肩で息をしている。
ルデスの剣の切っ先にも、わずかに揺れがあった。
「……あと一層」
ルデスが、前方を見据えたまま言う。
「もう俺たちは限界だ、次で絶対死んでしまうだろう、正直死ぬのは怖いが…」
「どうせ死ぬなら、せめて八十層のボスだけは見ておこう」
「賛成」
俺も、短く返す。
「そこで本当に限界だと思ったら、その時は――その先のことを考えるしかない」
リーナも、小さく頷いた。
最後の通路を抜けると、石壁に刻まれた文字が目に入った。
《80F 門》
大きな両開きの扉。
六十層や七十層のものよりも、少しだけ重そうに見える。
足の裏に伝わる疲労。
包帯の下でじんじんと主張する痛み。
それでも、不思議と足は止まらなかった。
(残り20なのに、ここが限界なのか…)
そう思ったところで、ルデスがふっと息を吐いた。
「今日は、ここまでだ」
振り返り、俺とリーナを見る。
「この状態で無理に扉を開けても精神的にも肉体的にも無理だ、
一度ここで体と頭を落ち着かせて、
次の作戦を決める」
「……うん」
リーナが、少し遅れて頷く。
「八十層の向こうがどんな地獄かは知らないけど、
行くしかないんだ」
俺も、壁に背を預けて座り込んだ。
痛みと疲れだけが、静かな通路に残っている。
出口も、終わりも、まだ見えない。
それでも――
ここまで確実にレベルは上がっている、この感覚を
絶対に無駄にはしたくないと、強く思った。




