異動・適応障害の始まり
適応障害のきっかけ
数年で新卒から勤めた保育園が閉園した。
年度終わりと年度始めは一日も空きは無く、余韻は次の職場の仕事中に感じることになった。
年長の担任になり、少人数の割に初日から大変になる予感のするクラスだった。
朝の会で殴り合いの喧嘩が始まり、椅子をわざと倒して注意される。
隣の友だちを突然叩いて笑ったり、走り回ったかと思えば主活動で散歩へ行く直前に座り込んでしまう。
「お散歩いかないの?」「こっち来んな」/「じゃあ先生と玄関まで行こうか」「お前はもう喋るな、死ね」
これらの関わりが活動内容が変われど、ほぼ毎日だった。
園長先生は、その子の機嫌が良い日は私を褒めた。
「散歩行けたね!成長してるよ」
私はそれが繰り返されるうちに、もう褒めないでくれと思うようになった。
心がすり減る音なのか、その子が癇癪を起こして暴れている音なのかわからなかった。
もう一人担任の先生がいた。 脚のすねを蹴られるとすぐにあざになる。
痛がっている暇はない。またすぐに頭突きしてくるのでよけなければならない。
保育では、子どもが叩いたら叩く前に止められなかったことを保護者に謝罪することになっている。
叩かれて、蹴られてわたしが謝る毎日。 わたしのことを大好きだというその子。
わたしもその子を愛してあげなければいけなかった。 どんなに反抗されても、痛いことをされても
わたしは「痛い」と言えない。「あなたが怖い」と子どもには言えなかった。
毎日考えることは同じだった。室内活動がいいな。
何故ならほかの保育者の手を借りることが出来、散歩へ行く行かない・公園から帰らない等のトラブルが生まれないからである。
年度末まででこの子たちは卒園する。だから頑張ろうとカウントダウンしていた。
行事は、殴り合いが始まらないかを考えて子どものペアを組んだ。
その子は男の子だから「彼」としよう。
彼は、日常的に家庭内暴力を受けていた。
子どものように嫌がったり、わがままを言うことは、叩かれ制圧されることとわかっていた。
だから、家ではわがままを言わないし癇癪も起こさなかった。
保育園では、私の前ではその我慢が爆発してしまっていた。 だから彼はなにも悪くない。
わたしの心身の痛みは、彼の我慢であり、彼にとって救いだったんだと思う。
彼は発達障害の疑いが強くあった。数年前から疑いがあったが、保護者からの同意が受けれず
適切な支援も受けてこれていない。
わたしは、次第に夜眠れなくなった。
次の日のことを考えると呼吸が早くなり、息が出来なくなった。
涙が滝のように出て、前が白く見えなくなった。
お風呂に入る度に見覚えのないアザや切り傷を見つけた。
それでも私の保育は上司に認められている。
間違っていない。
ただ、薬を飲んで過ごすことは未知の世界で精神をおかしくしている気さえしていた。
慕える先輩保育士の勧めで心療内科へ行った。人生で2回目だった。
「医学的には休んだほうが良い状態ですね」と言われ、そりゃそうだろうと思った。
休めなかった。一度一定期間休んだら、もうあの地獄に戻れるわけがなかった。
3日間、その後も仕事に行ったが、休憩後に立ち上がれなくなり、保育室へ戻れなくなった。
今思えばもう無理だった。震えて事情を話せなかった。
もう、私に対して危害を加えるすべての子どもが怖かった。
何故わたしが少しずつアザだらけにならなけれはいけないのか。
何故わたしは「死ね」と言われて「お前は喋るな」と愛すべきものに言われているのか。
何故目の前が真っ白なのか。
月20万を稼ぐのに、こんな仕打ちを受けなければならないわけがなかった。
園長先生は何も分かっていない。
彼は成長していない。機嫌がいい日なだけだ。
彼はできたんじゃない。わたしが叩かれて、すっきりしたから落ち着いているだけだ。
私は愛されて育ってきた。大人になって子どもから暴力を受けて生きていくことはできない。
じゃあ、彼は誰が救うのか。




