13.王都探索
夜――
王都リオニス・セントラルの明かりは遅くまで街を照らしている。
王城での謁見と宣告、巨大な都市のざわめき――すべてが非日常で、ゼクスはまだ自分が現実の上を歩いている気がしなかった。
支給された宿舎は、王都中央区の外れ、静かな裏通りに建つ白い石造りの建物だ。
村の掘っ立て小屋とは比べものにならない頑丈な扉、柔らかなベッド、磨かれた床。
けれど部屋に一人きりになると、やけに広くて、落ち着かない。
(……母さん、見てるか。俺、本当にこんなとこまで来ちまったぞ)
天井をぼんやりと眺める。
村長に教わった剣の感触、アズマやクレアの笑い声――それらが、もうずっと昔のことのように感じる。
「……寝れるか、こんなもん」
シーツを握りしめ、思わず呟く。
外では衛兵の足音、遠くで祝祭の音楽が響いていた。
夜明けが訪れる頃、ようやくゼクスは浅い眠りについた。
――
翌朝。
宿舎の食堂で簡単な朝食をとった後、侍従から王の伝言が伝えられる。
「これから四年間、諸君らには厳しい鍛錬が課される。だが、その前に、王都の空気に慣れることが肝要だ。
今日は各自、好きに過ごすが良い。王都内であれば外出も許可する」
「休暇、ってやつか……」
ゼクスは呆然としながらも、心の奥底でほっと息をついた。
食堂では、他の竜の器たちもそれぞれの席についている。
シュティアはきちんとした身なりでパンをかじり、レーヴはそばに立ち食事を見守っている。
オスカーはテーブルに足を乗せ、既にワインを空けている始末だった。
「よう、ゼクス。王都のメシ、どうだ?田舎とは違うだろ」
オスカーが笑いながら声をかけてきた。
「まあな。味は……うまいけど、慣れないな」
「そのうち慣れるさ。四年もいるんだからな」
ゼクスは窓から差し込む陽射しを見上げ、
(せっかくだし、ちょっと散歩でもしてみるか)
と立ち上がる。
「どこか行くのか?」
レーヴが声をかける。ゼクスは少し身構えて、
「……街を見てくるだけだよ」
「不用意な行動は控えろ。王都は田舎とは違う」
「心配すんな。何かあったら叫ぶから」
レーヴはじろりと睨むが、シュティアはどこか考え込むように俯いている。
(……昨日はあれだけキツく言われたのに、何なんだろうな)
ゼクスはそう思いながら、重い扉を開けて王都の街へと歩き出した。
――
王都リオニス・セントラル。
大通りには朝市の屋台が並び、果物や焼き菓子、スパイスの香りが入り混じる。
行き交う人々は色とりどりの衣服に身を包み、露天の小さな魔法道具屋では浮遊するランタンや、温度を自在に変える鍋などが飾られている。
(すげぇな……全部ピカピカだ)
ゼクスは素直に感動していた。村にはなかったものだらけだ。
屋台でパンを買い、露店の果物を眺めていると、ひとりの老婆が声をかけてきた。
「若いの、初めての王都かい?」
「あ、えっと、はい……見ての通り、田舎者なんで」
「ふふ、最初はみんな目を丸くするのさ。王都の飯はうまいよ。ここらの蜂蜜パンは評判だし、お祭りの日には焼き肉串もいい」
ゼクスは照れくさそうに礼を言い、蜂蜜パンをひとつ買って歩き出す。
村の屋台とはまるで違う、色鮮やかな祭りのような賑わい。
少しだけ気分がほぐれる。
角を曲がると、手品師の大道芸や、魔法で浮かぶ紙人形のパフォーマンス。
魔法が日常の一部として溶け込む王都の光景が、ゼクスにはまだ夢の中の出来事のようだった。
(魔法使いが本当にこんなに……)
ふと、道端のベンチに腰掛けてパンを齧りながら、
(村のみんなにも見せてやりたいな……)
などと考える。
――
やがて日も高くなり、屋台の数も人の波も増えてきた。
ゼクスは食べ歩きしながら、賑やかな露店通りをあてもなく歩く。
「ちょっと待ってよ、それは三つで一セットじゃないの?」
どこかで聞いた声がした。
ゼクスがそちらに顔を向けると、フードを深く被った小柄な少女が店主と押し問答をしている。
(……あれ、シュティア?)
最初は人違いかと思ったが、亜麻色のボブの髪がのぞいている。
「だから、三つ買ったら少しは安くしてほしいって言ってるのに……!」
「王女様も値切るんだな……」
思わずゼクスは声を漏らす。
シュティアはギクリと振り向き、一瞬ゼクスを睨みつける。
「な、なんであなたがここにいるの?」
「こっちのセリフだろ。王女様がこんなとこで何してんだ」
「見れば分かるでしょ。……お腹が空いてただけ」
どこかムキになって答えるシュティア。
その手には大きな肉まんが三つ。
「全部一人で食うのか?」
「悪い?王女だって、空腹には勝てないの」
思わずゼクスは笑いそうになるが、なんとか堪える。
「……なら、俺ももうちょっと屋台見て回るつもりだけど、一緒に回るか?」
「別に、あなたと一緒にいる必要はないけど……」
言いながらも、なぜかシュティアはゼクスの後ろについてくる。
二人は少し距離をあけて並んで歩き出した――。
王都の賑わいのなか、ゼクスとシュティアは並んで歩いていた。最初こそ距離をとっていたものの、屋台の行列に押されて自然と近づく。
串焼きや焼き菓子、見知らぬ異国のスープまで手に取る二人。ふとシュティアが、ゼクスをじっと見た。
「ねえ、あなた……本当は何を考えているの?」
唐突な問いかけにゼクスは口ごもる。
「何って、腹減ってることくらいしか……」
「違う。そうじゃなくて――」
シュティアは食べかけの肉まんを少し握りしめる。
その横顔には、王城の玉座で見せた“軽蔑”と“苛立ち”がまだ残っていた。
「昨日のことよ。あなた――選ばれたのに、逃げようとした。
自分勝手な理由で、みんなから託された運命から目を逸らした。
……なのに、どうして平然としていられるの?」
ゼクスは立ち止まる。王都のざわめきが一瞬遠のいた気がした。
「平然、なんか……してねぇよ」
声が掠れる。シュティアはじっとゼクスを見据えたまま、返事を待っている。
「正直、怖かったんだ。あんなの、誰だって逃げたくなるだろ。
“命を差し出せ”って突然言われて……俺はそんなの納得できなくて、ただ……」
「ただ?」
「……ただ、仲間を巻き込みたくなかった。アズマやクレア、村のみんなまで危険な目に遭わせたくなくて――
でも……結果的に全部巻き込んじまった。……情けねぇよな」
自嘲気味に笑うゼクス。
その背を、シュティアが黙って見つめている。
「――私だって、怖いわよ」
小さな声で、シュティアが続ける。
「怖いし、悔しい。選ばれたくて選ばれたんじゃない。
けど、それでも私は、みんなの期待や……この世界の未来を守るために、前を向かなきゃいけないと思ってる」
ゼクスは黙って、シュティアの横顔を見つめる。
「……だから、あなたみたいな人を見ると、腹が立つのよ。
ちゃんと向き合ってくれなきゃ、許せないの」
二人の間に、しばし沈黙が流れた。
やがて、ゼクスは静かに言う。
「……悪かった。俺、もう逃げねぇよ。
お前に、そう思われたままじゃ終われねぇからな」
シュティアは驚いたようにゼクスを見上げる。
「……なら、しっかりしなさいよ。私の足を引っ張らないで」
「言われなくても、そのつもりだよ」
ふたりは、もう一度歩き始めた。
王都の喧騒がふたりの背に戻ってきたとき、わずかに空気が和らいでいた。
「……あそこのスープも美味しそう」
シュティアが屋台を覗き込む。店主が大鍋で煮込む、香辛料の効いた白いシチュー。
「……じゃあ、次はそれだな」
ゼクスがひとつ注文すると、シュティアは遠慮がちに受け取る。
「……ありがと」
スプーンですくって一口。
シュティアの目が一瞬、ぱっと輝く。
「おいしい……っ」
思わず、もう一口。また一口――
頬を膨らませて、ふわっと微笑むシュティア。
ゼクスはふと、その横顔を見ていた。
玉座の間で見せた冷たい視線や威厳、村の少年を睨みつけたあの王女が――
今は、どこか無防備に、子どものような素直な笑顔を浮かべている。
(……こいつ、こんな顔もするんだな)
スプーンを口に運ぶたび、シュティアの髪がふわりと揺れる。
「おいしい」
「これも食べてみたい」
目の前の屋台に並ぶ新しい菓子パンにも、興味津々。
ゼクスは思わず笑ってしまう。
「姫さん、よく食うな。村のアズマといい勝負だぞ」
「う……べ、別にいいでしょ。王都に来てから、ずっと緊張してたんだもん」
「そうか。……まあ、悪くない顔してるよ」
ゼクスが何気なくそう言うと、
シュティアは顔を赤らめ、急いでシチューをもう一口飲む。
「――からかわないで」
そう言いつつも、どこか満更でもなさそうだった。
・
通りの賑わいの中、突然、人混みをかき分けて駆けてくる影があった。
「シュティア様……勝手に抜け出すなど、危険すぎます!」
きりっとした青年の声。
レーヴ・ガラクス――
青い外套、銀の短剣。王都で最も剣技に長けた騎士のひとりが、王都の衛兵を伴い血相を変えてシュティアに駆け寄る。
その視線は、シュティアからゼクスへと釘付けになる。
怒り、動揺、そして深い疑念を含んだ鋭さ。
「どういうことですか。なぜ……シュティア様が“時の器”とこんなところで?」
シュティアは口を開きかけて言葉に詰まる。
「……その、偶然……」
「偶然? そんなはずがないでしょう。
王都の混雑の中で偶然出会い、しかも“仲良く食事をしていた”――
説明してください、シュティア様!」
声が少し震えていた。
レーヴはシュティアの隣に立ち、ゼクスを真っすぐ睨みつける。
「貴様……。
自分が“竜の器”に選ばれたからといって、私の主に近づくつもりか。
下賤の身でありながら、なぜシュティア様と――」
「は? なんだよそれ。偶然会っただけだし、シュティアは自分で決めてついてき――」
「言い訳は無用だ!」
レーヴはゼクスの胸倉を掴む勢いで前に出る。
衛兵が制止するのもかまわず、声が震える。
「村出の貴様が、シュティア様と親しげに並んで歩くなど、絶対に許されない!
お前のような存在が、この王都で、姫様の傍に立つ資格はない!」
ゼクスも黙って睨み返す。
(こいつ、マジで本気で怒ってやがる……)
「別に、俺は“資格”なんて気にしない。選ばれたからここにいるだけだ」
「その選びが間違いだと言っている!」
「やめて、レーヴ!」
シュティアが慌てて二人の間に立ち塞がる。
だがレーヴは、なおもゼクスに視線を突きつける。
「本気で姫様に何かあれば、俺が貴様を斬る。それだけは覚えておけ」
ゼクスは少しだけ身を引きながらも、目は逸らさない。
「脅しは効かねえよ」
「……貴様!」
レーヴの手が剣の柄にかかる――
一触即発。
王都の街のざわめきが遠のき、三人の間にはぴりぴりとした緊張が満ちる。
シュティアは小さく息を呑み、
「お願い、レーヴ。本当に何もしてないの。ただ……王都が初めてで、迷っていたの。ゼクスと偶然会っただけ……」
レーヴはしばらく黙ったままシュティアを見て、ようやくゆっくりと剣から手を離した。
「……姫様のご命令とあらば、従いましょう。ですがゼクス・アイゼン。
私の目の届くところで姫様に近づけば、容赦はしません」
その瞳にはなおも怒りと疑念が残っていた。
ゼクスは大きく息を吐き、
「……上等だよ。俺だって、舐められて終わるつもりはない」
再び街の喧騒が戻ってくる。
だが三人の間に残った緊張は、しばらく消えることはなかった。
シュティアは胸元でパンを握りしめたまま、そっとゼクスの方を見やる。
(私、なぜこの人と一緒にいたんだろう……)
ほんのり残る甘いクリームと、ぴりぴりした空気――
王都の青空の下、竜の器たちの新たな関係が、静かに始まりつつあった。