国を失った王女は猫の国で目を覚ます
――音が、ない。
風のさざめきも、鳥の声も、木々のきしみすらも。すべてが、ぴたりと止まっている。
湿った土の匂いだけが、鼻腔の奥をくすぐった。
彼女は、泥にまみれたマントのまま、地面に倒れていた。
息はある。けれど、自分が生きているという実感が、どこにもなかった。
「……ここは……」
かすれた声で、そう呟く。声帯がまだ、自分のものに思えない。
まぶたの奥には、紅く燃え落ちる城の幻が、なお焼きついていた。
剣戟の音。母の叫び。弟の手の温もり。
最後に、自分を突き飛ばした騎士の、背中。
「……生き延びろ、だなんて……」
その言葉が、どれほど自分を傷つけたか、騎士は知らないだろう。
涙も、もう枯れていた。
何も欲しくなかった。ただ、眠っていたかった。
だがそのとき、不意に――
「ようこそ、旅人さん」
誰かの声がした。穏やかで、やさしく、少しだけ掠れている。
まぶたを重たく持ち上げると、視界に映ったのは、奇妙な存在だった。
――猫? いや、猫に似た“人”。
灰色の毛に覆われた中年の男のような姿。
とがった耳、金色の瞳、そして長く揺れる尻尾。
それは、どう見ても猫のようで、猫ではなかった。
「……わたしは……死んだのですか?」
彼女の問いに、その猫は静かに首を横に振った。
「いいえ。ただ、少し“遠く”へ来られただけですよ。ここは、“忘れられた者”が辿り着く場所」
「……忘れられた……?」
「ええ、あるいは――自分自身を忘れた人たちの、終着点です」
その言葉に、胸の奥が、かすかに軋んだ。
猫はしゃがみ込み、泥まみれの彼女の肩に、そっと手を置いた。
肉球のように柔らかい掌が、じんわりと温かい。
「名前を、聞いてもいいですか?」
問いかけに、彼女は黙って首を振った。
「……忘れたいのですか?」
今度も答えない。だが、否定もしなかった。
猫はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、柔らかな手で彼女を抱き起こし、
ふかふかの毛布にくるみ、背中を支えるようにして立ち上がった。
「では、“旅人さん”と呼ばせてもらいますね」
それが、この世界での彼女の、最初の名前だった。
* * *
彼女が再び目を覚ましたのは、ほんのり甘い香りに包まれた、あたたかい部屋の中だった。
窓の外には、霧に包まれた森が広がっている。
木でできた天井。ぽたりぽたりと湯が落ちる音。
枕元には、小さな丸い影が、そっと座っていた。
「……猫……?」
茶色のふわふわした毛並み。まんまるの目。
それは、まさしく“ただの猫”だった。
けれどその猫は、彼女の顔を見ると、ふにゃっと微笑んだように見えた。
そして、そっと前足で、湯気の立つマグカップを彼女のほうへ押し出した。
その中身は――
パンとミルクを煮詰めたような、甘くて優しい匂いのスープだった。
小さく、胸が震えた。
「……あたたかい……」
その言葉とともに、ほんのわずかに、目から熱いものがこぼれ落ちた。
* * *
「おはようございます、旅人さん」
再び目を覚ますと、あの灰色の猫がそばにいた。
穏やかな瞳、少し丸い背中、そして揺れる尻尾。
彼は、何事もなかったように湯気の立つカップを差し出してくる。
「今日は、ミルクとさつま芋のスープです。……よく眠れましたか?」
彼女は小さく頷いた。体はまだ重いが、昨日よりは少しだけ、目の奥の霞が晴れている。
「……名前、聞いても?」
「ええ、もちろん。わたしは“サビ”と申します。ここの、まあ……案内人のようなものですね」
「サビ……猫?」
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」
にやりと笑うその表情は、まさしく猫のそれだった。
* * *
部屋を出ると、町が広がっていた。
丸い屋根の小さな家がぽつぽつと並び、石畳の路地には、大小さまざまな猫たちが歩いている。
毛皮をまとったままの者もいれば、軽やかな服を着て人の姿に近い者もいた。
「ここは“ミャウ・ロア”と呼ばれています。
心が傷つき、居場所をなくした旅人が、最後にたどり着く場所です」
サビが言うその言葉に、彼女は足を止めた。
「……最後?」
「はい。最後、あるいは――最初の一歩、かもしれません」
路地を抜けた広場に、小さな屋台があった。
湯気を上げる大きな鍋のそばには、茶色の毛のもこもこした小さな猫。
昨日、マグカップを運んでくれた子だ。
「チャオ、ですね。無口ですが、面倒見が良い。スープ屋をしています」
チャオは旅人に気づくと、ぱたぱたと尾を振って鍋のふちをコンコンと叩いた。
「……作ってみたい、の?」
チャオは、こくりと頷いた。
そして鍋のそばに置かれていた木の杓文字を、そっと彼女に手渡した。
「……え……わたしが?」
チャオは何も言わず、ただ鍋を指さす。
さつま芋と豆乳のスープが、ほのかに甘い香りを漂わせている。
彼女はそっと杓文字を握った。重さはない。けれど、心がざわりとした。
「……昔、やってみたかったの。料理……人に食べてもらうのが、夢だった」
つぶやくと、チャオはくるりとしっぽを巻き、うれしそうに目を細めた。
そのまま、黙って湯気の中で待っている。
彼女はゆっくりと鍋をかきまぜる。
火加減は、チャオがちょんちょんと指示してくれる。
具材が踊るたびに、胸の奥が少しずつ、あたたかくなっていく気がした。
* * *
スープをよそい、広場のテーブルに置くと、通りすがりの猫が足を止めた。
ひとくち食べて、ふにゃっと顔をゆるめる。
「へたくそだけど……なつかしい味ですね」
猫はにっこり笑って、去っていった。
彼女は驚いていた。
“自分の作ったもの”を、誰かが食べて、微笑んだ。
それは、剣でも魔法でもない――けれど、確かに何かを救ったような気がした。
サビが言った。
「料理というのは、小さな魔法なんです。
火と水と時間を混ぜて、“いのち”を整える魔法。
……あなたには、きっと向いている」
胸の奥に、ぽっと小さな炎が灯った気がした。
リュシアはまだ名乗っていない名前を、心の中でそっと呼びなおした。
旅人ではない、自分自身として――もう一度、生き直すために。
* * *
泉へと続く小道を歩く途中、一匹の猫がリュシアの前に現れた。
それは、深いグレーの毛並みをした長毛種の猫だった。
瞳は夜空のように濃い青で、背中には金色の羽根模様が一本、くっきりと走っている。
「あなたが、リュシアさんですね」
落ち着いた口調と、品のある所作――どこか書記官のような雰囲気を持っていた。
「ノアです。記憶の泉の案内役をしています。
サビから、あなたが“心の声を聞きに来た”と聞きました」
リュシアは自然と息を整えた。
この猫のまなざしには、無理に癒そうとする優しさではなく、
「あなた自身で、真実と向き合いなさい」という静かな覚悟があった。
* * *
朝靄が森を包み、静けさがあたりを満たしていた。
小さな村の外れにある泉――それが、猫たちの間で「記憶の泉」と呼ばれている場所だった。
「ここに来ると、自分のいちばん大事だった記憶が見えるの」
サビがそう言って、リュシアを案内した。
泉の水面は、まるで鏡のように澄んでいた。
リュシアがそっとその縁に立つと、風が止まり、空気が変わる。
水面が揺れる。
次の瞬間、景色が変わった。
――そこは、ヴァンルース王国の城門。
白銀の城壁と、朝焼けの空。
その中に立っているのは、十七歳のリュシア・エステラ・ヴァンルース。
王女として、父の命を受けたばかりの、まだ幼い少女だった。
「和平の証です、リュシア様。あなたが門を開ければ、誰も傷つきません」
そう言ったのは、隣国アルダンの王子――かつて婚約を交わした男だった。
リュシアはその言葉を信じ、重たい鉄の門を開けた。
……それは、裏切りだった。
雪のように美しい城が、剣と炎に呑まれてゆく。
父王が倒れ、母が叫び、弟のレオナードが手を伸ばす。
「姉さん、逃げろ!」
彼女は、逃げた。命じられたとおりに。
その背に、弟が叫ぶ声が、ずっと焼きついている。
泉の中で、血に染まった少女が膝をつき、うずくまっていた。
現実のリュシアもまた、泉の前で崩れ落ちる。
「私が……私がすべてを壊した。
ヴァンルースを、家族を、弟を……!」
拳を握っても、悔いても、過去は変わらない。
王女でありながら、守れなかった。選んだ結果がこれだった。
けれど――そのとき。
『王女殿下、我らは誇りに思っております』
『あなたの指示で、子どもたちは逃げ延びました』
『あなたは、最後まで王女でした』
声が、泉から響いた。
それは、忠臣ベルハルトの言葉。
命をかけて城を守った老兵の、最後の記憶。
そして、弟の声も。
『姉さんのパン、焦げてたけどさ――でも、うまかったんだ』
小さなパン屋の厨房。
焦げたパンを頬張って笑っていた、幼い日の弟レオナードの姿。
『本当は……姉さんが料理人になる夢、応援してた。
王女じゃなくなっても、生きて。好きなこと、やってほしい』
リュシアの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「私は……王女として、生きようとした。
でも、もう一度生きるなら――今度は、自分のために」
記憶の泉が静かに光を放ち、過去が薄れていく。
代わりに、胸の奥に小さな灯火が残った。
母から受け継いだ魔法――魂の灯が、再び彼女の中で燃え始めていた。
* * *
その日の午後、村の広場の一角に、小さな屋台が立った。
「今日だけの、旅人のカフェ。ね、いい名前でしょ?」
サビが微笑み、チャオがはしゃぎながら材料を運ぶ。
リュシアは、ひとつのパンを焼いた。
焦げ目のついた、素朴なパン。名前は「レオナード」。
「焦げても、ちゃんと、おいしい」
口にした猫が、目を細めて笑った。
それだけで、胸が熱くなった。
その日、彼女はスープを作り、パンを焼き、はじめての“お店”を開いた。
客は猫ばかりだったけれど、それでも心は満たされていた。
夜、店じまいをしていると、ノアがリュシアに包みを手渡した。
中には、母の手で刺繍されたマントと、古びたレシピ帳。
「旅立ちの贈り物です。あなたは、もう大丈夫だから」
リュシアはマントを肩にかけ、小さく息を吸った。
「……ありがとう。私は料理人になります。旅をして、世界を巡って、私の味を探します」
そう宣言したその瞬間――
「まって! ぼくも行く!」
チャオが彼女の足元に飛びついてきた。
「焦げパンの続きも食べたいし、姉ちゃんのスープももっと飲みたいし!」
「わたしも。記録係として、同行します」
サビが静かに背負ったノートと羽ペンを見せた。
リュシアは驚いて笑った。
「……じゃあ、みんなで行こう。焦げパンとスープを持って」
猫たちが「やったー!」と飛び跳ねる。
小さな荷車に鍋とパンを積み、光の道へと一歩踏み出す。
振り返ると、猫たちの村が見えた。
自分を癒し、再び歩き出す勇気をくれた場所。
「ありがとう」
その一言を残して、リュシアは歩き出した。
王女でも、逃亡者でもなく――旅する料理人として。
胸の奥の灯火が、あたたかく揺れていた。