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過去と夜明け 短編版

作者: えすてい

8,000字くらいの長い短編です。

20分くらいで読めると思います。


目が痛くなったら途中でお止め下さい。

どうぞよろしくお願いします。

 「あの頃に戻れるのなら」なんて。

 そんな甘い妄想が、私にも残ってたんだ。


 安物の加湿器が霧状に水を吹き上げた。

 私の頭に降りかかるそいつは、全然仕事をしない。

 部屋中の湿度なんか気にしないと言った風に、足元だけを濡らしていく。

 通話アプリの通知を気にしなくなって気が楽になった。

 同じ時間をあれだけ過ごしたというのに、別れた瞬間からはもう何もなかったかのように過去の物となる恋愛ごっこ。

 仕方ないじゃん、私は所詮合わせることしかできない平凡な人間なのだ。

 「つまらない」と吐き捨てられるのには慣れていた。

 彼の好みに合わせて買った洋服や化粧道具が、今見ればくすんだ色をしていることに、盲目だった私は気付けなかった。


『わ、私も同じの持ってるよ………』

『え………うわー、マジで最悪』


 学生時代の頃の私は、顔を覆いたくなるほど純粋で、白痴で、ちょっぴり痛かった。

 みんなの好きなものを好きになって、媚びへつらって、それで私は幸せになれた。

 部屋の天井を見上げる。

 私は後悔してるのだろうか。

 あの時ああすれば良かったとか、あの時あんなことをしなければとか、無意味に過去を振り返っては、ありもしない今を想像してみせる。

 合理性に欠けるなんてことは分かってた。

 だけど、何かが違っていたら私は変われていたんじゃないか。

 脳裏に浮かんだあどけない笑顔を見せた彼女。

 もう戻れない過去。

 薄汚れた部屋の中で、肺の中に空気を吸い入れた。

 私はタバコの煙を噴き出すみたいに、無我夢中で空気を吐きだす。

 溜まっていた悪いものを少しでも減らしたかった。

 ……なにやってんだろ、私。

 馬鹿馬鹿しくなって時計をちらと見る。

 そろそろ出勤しないとだ。

 立ち上がって姿見に映る私自身を見た。

 スラックスについた糸くずを取り払い、短くなった髪の毛を揺らしてみせる。

 楽だけど、私には似合わない。あんな言葉を鵜呑みにするんじゃなかった。

 ストーブの電源を切り、厚手のコートを羽織る。

 去年買ったローヒールの靴は、底が擦れてさらに歩きやすくなった。

 開けたドアから冷たい風が飛び込んで頬を掠める。

 思わず身を竦めて襟元に顔を埋めた。

 聖夜を控えたこの季節。

 外をいく労働者に吹き付ける風が、日の登らない暗い道を静かに通り抜けていく。

 リモートワークが盛んになった昨今、過去のものとなりつつある疫病に言いしれない感慨を持つのは、私だけではないだろう。

 身を粉にして働くなんて言葉が嘲笑される時代でさえ、こんな寒さと戦いながら出勤しなくてはならない事実に、私はやるせなく思った。

 この境遇は私が望んだことなのだろうか。

 他人に流される人生が如何に楽で、如何に滑稽か。

 他責に生きてきた歪な轍を何度も振り返る。

 それはもうどうにもならないところまできていた。

 私は今の自分が大嫌いだ。

 過去に戻ってやり直せるなら、こんな毎日を繰り返すような真似、二度としない。


 軽快な音が鳴って扉が開く。

 私は路面電車に乗り込んでスマホを読み取らせる。

 機械が点滅し、甲高い電子音が響く。

 流れるように移動した座席の前、立ったままつり革に掴まり、私はなんの気なしに車内広告をじっと眺めた。

 ぼんやりとした日陰の町並み。歩く人々が、寒さに身を固める。

 ややあって、私はとある視線に気が付いた。

 窓の外から目線を下げると、マフラーを巻いた紺色の制服姿の女の子と目が合った。

 澄んだ瞳。あどけない表情。

 薄っぺらな自分を照らし出されたかのように、その目に私は閉じ込められた。

 気まずくなった私は瞼を閉じる。

 見てはいけない。あんな無垢なものの中に、私が収まってはいけない。

 真っ暗になった瞼の裏側で私は自問する。

 なんで、こんな惨めなのだろう。

 いつから、私はこんな風になったのだろう。

 女子高生の気配を感じながら、私は昔の記憶を脳裏に思い描いた。

 後悔に努める日々は今に始まったことじゃない。

 私は昔から何一つ変わってなどいなかった。

 灰色の濃霧が、胸中に燻る。




 ■■◇■■




「北條さん、北條さんってば!」

 苗字が呼ばれるのは決まって叱られる時だけだと思っていた。

 だけどこの声はどこか若々しく、懐かしさがあった。

 眠気まなこを擦りながら声の主に目を向けようと瞼を持ち上げる。

 ぼやけた視界が明るくなった。

 誰かが私に再び声をかける。

 だけど、反応の芳しくない私に業を煮やしたのか、その人は強引に私の腕を引いた。

 よろめき立ち上がった私の膝から、呆気なく鞄が滑り落ちる。

 はっとした私は目元をこすって覚醒を促す。

「もうなにしよん! はよいくよ!」

 もう一度声が聞こえ、私はやっと声に反応した。

「え、ま、待ってよ!」

 何が何だか分からず、引きずるようにして鞄の紐を手繰り寄せる。

 そのまま両開きのドアをくぐって外にまろび出た。

 駆動音とともに扉が閉まる。

 振り返ると、電車のドアが見えた。

 窓際に座っていた年配の男性が、何事かとこちらを見ていた。

 私は辺りを見回す。

 ここは、駅……?

 なんだか、懐かしい景色だった。古びた大きな駅。行き交う通勤通学の人々。

 学生の頃はよくこの電車を乗り換えに使ったものだ。

 ホームの数がやたらと多く、色々な路線が駅と直結している。

 だけど変だった。この駅は数年前に改築が終わり整備されたはずだ。

 私の眼の前には今は無き地上階の改札口が、あの頃のまま残されていた。

 ……どうして?

「北條さん………大丈夫………?」

 心配そうな声が耳に入ってきた。さっきから私の名を呼ぶ声、聞いたことがある。

 顔を向けた私は、大きな衝撃を受けた。

「凛………?」

 高校からの同級生。向井凛が、驚いた顔で私の横に立っていた。

 最後に会った時のまま、何も変わらない。

 いや、幼くなっているような気さえする。

 懐かしい、本当に懐かしい。

 華奢で小さく、愛らしい顔立ち。

 昔遊んだドールハウスの住人であるウサギやリスにそっくりだったが、彼女の前でそれは禁句だった。

 寒さで顔が赤くなった彼女が目を白黒させながら呟く。

「え……今、凛って……」

 私は怪訝な顔を作って凛を見た。

 何を今更言っているのだろう。私たちは大学まで一緒だったのに。

 眉根を寄せた私、そしてようやく事のあべこべさに気が付いた。

 待って、やっぱり変だ。なんで凛が高校生の格好して一緒の電車に乗ってるの?

 私は目線を下げて自分の体をまじまじと見つめた。

 ………なにこれ、どうなってるの?

 高校の時愛用していたキャラメル色のダッフルコート。その下には凛と同じ制服を着込み、覆うような紺色のスカートと膝下までの靴下を履いている。

 もちろん、こんなものに着替えた覚えはない。

 握りしめていた鞄には見覚えのある某黄色い熊のぬいぐるみ。

 これは確か、実家にずっと置いてあったはずだ。

 状況の飲み込めない私に、凛が心配そうに尋ねた。

「本当に大丈夫? 具合悪いの?」

 見上げる彼女の仕草に、私は胸が突かれる思いだった。

 私は過去の自分になっているし、凛も過去の凛だ。

 広い駅舎もあの頃のまま、古くてぼろぼろ。

 私の脳内だけが、私の知っている未来から来ていた。

 鼻で笑いながら頭を振って凛に返事をする。

「ううん、平気、心配かけてごめんね」

 これは夢だ。そうに違いない。

 うん、私はまだおかしくなってない。

 私は変なテンションで嬉しくなって目を輝かせた。

 天井を見上げ懐かしさを全身で浴びようと、腕を広げる。

 夢、そうよ。夢じゃなきゃこんな光景、説明がつかない。

「……北條さんって……面白いね……」

 あくまで取り繕ってくれる凛の言葉。そう言われた私は、恥ずかしさよりも臆面ない喜びが溢れてくるのを感じた。

 彼女ともう一度会って話しができるなんて、まさに夢のようだ。

 高校一年生の冬、私は東京から引っ越してきた。

 都会に慣れた私にとって、地方で暮らすことがどんなことか、あの頃はよく分かっていなかった。

 電車は来ない。コンビニは少ない。山と畑はやたらと近い。訛りに訛った地元の人間と、チャンネルの少ないテレビ欄。

 まさに異世界への転生。

 流行りの言葉に乗せられて、そんな世迷い言が出てきてしまう。




 ■■◇■■




「着いちゃった………」

 私は開いた扉の前で立ち尽くす。

 かつての同級生たちが教室という甘美な箱の中で、垢抜けない姿のままあの頃の再現を私に見せている。

 これは何かの冗談だろうか。

 凛と一緒に通学路を歩くなんて何年ぶりだろう。

 はしゃいでいた私は夢から覚めたくない気持ち半分のまま、いつかは覚めてしまう儚さを思い嘆いていた。

 だけど、いつまで経っても夢は終わろうとしない。それどころか、さもこれが現実なのだと突きつけられているような気さえした。

「教室、間違っとらんよ?」

 凛が後ろから私の背中を押し、同時に入場。

 幾人かの刺さるような視線が私たちに向けられた。

 並べられた机の配置を横目に見る。

 あぁ、そうそう、こんな感じだったっけ。

 立ち竦む私に凛が尋ねる。

「どしたん? 席忘れた?」

「………ごめん、どこだっけ」

 冗談だと思った彼女は、私の真面目な返答に狼狽える。

「えっ? ほんまにいいよる?

 ………まぁ、土日挟んどるけえしょうがないか………」

 ごめん、凛。転校してすぐの席とか、もはや覚えてるはずがない。

 私は心の中で謝りつつも、心がざわつくのを感じていた。

 視界の端に映る、私のクラスメイトたち。

 優しく笑う凛が、私の胸を切なくする。

 ドクン、と心臓が脈打つのが分かった。

 あぁ、そうだ。席は覚えてなくても、今日起こる出来事だけは覚えている。

 私と凛が友達になったきっかけの日。

 親友との、最初の思い出。

 聞こえはいいが、それが必ずしも楽しいことばかりでないことを、どうか知って欲しい。

 東京という都会からやってきた私が、地方で暮らすということがどういうことか、私はこの日知ることになる。

「北條さんじゃん、ウケる」

 席につこうと肩掛けを下ろした直後、正面から声をかけられた。

 来た。私は冷や汗をかく。

「向井さんと一緒に来たん? 都会よりも通学路複雑?」

「あんまり自慢ばっかしちゃ()()()()?」

 ケタケタと笑う三人組の女生徒。

 スカート丈を上げシャツを出して着崩す。

 明るめのリップは校則に違反してなかっただろうか。

 派手な服装と出で立ち。口調までもが威圧的。

 青春の御旗を握るのは、いつだって彼女たちのような存在なのだろう。

 何も言わない私をにやけ顔で嘲笑う。

 クラスの雰囲気が不穏に包まれ、談笑のボリュームが一気に下がった。

 窓ガラスから差し込む日光が、斜めに明暗を作り出す。机や椅子の細い足がうっすらと影を伸ばし、私の足元と繋がる。

 隣にいた凛が息を呑むのが分かった。

 正義感が働いたのか、彼女はここで言ってしまう。

「……横田さん、そういう言い方は……」

 小さな彼女の小さな言葉。

 私はその言葉にどれだけ救われただろう。

 だけどその想い、横田たちには目障りだったんだろうな。

「なに? 向井さんと北條さん、仲良くなったんじゃ。あ、そう」

 言葉は短かったが、痛烈な響きが教室に広がった。

 横田の放った言葉は内と外との線を明確にした。

 大きな態度でふんぞり返る彼女たちは、私と私の肩を持った凛にその歯牙を向ける。

 この日から、私と凛はクラスから浮いてしまう。

 横田たちのような顔の広い生徒に目をつけられ、私たちの高校生活から多くの青春が失われる。

 東京からきた私は、単に聞かれた質問に答えていただけだった。

 だけどそれを嫌味だと受け取った彼女たちは、あることないこと吹聴して回った。

 顔色伺いの気の小さな私にそれらを否定することもできず、私の中の標準語さえ彼らはからかいの対象とみなした。


 授業が全て終わる頃、私はこれが夢ではなく現実のものだと悟った。

 私は十年前の過去に起きた出来事をもう一度繰り返している。

 教科担当の先生。記憶に上書きされる授業内容。黒板消しの匂い。母親のお弁当。

 電車で凛に起こされたところから始まったノスタルジックな再会が、ごまんと私に降り注いだ。

 これは一生願っても叶わない類まれなる奇跡だった。

 私は教室の中で小さく俯いた。

 初めの頃に感じていた興奮はいつしか冷めきり、腫れ物を扱うような瞳で見られる。

 別にこんなこと、もう一度体験したいなんて気持ちはちっともなかった。




 ■■◇■■




「かんぱーい!」

 激しいテンションでグラスを煽る先輩たちにつられ、私と凛は烏龍茶のコップに口をつけた。

 キラキラと眩しい店内は騒々しく、大人数での飲み会はあれが初めてだった。

「凛ちゃんたち飲んでるー?」

 ふわりといい匂いのする香水を漂わせ、茶髪にマッシュの先輩が私たちに声をかける。

 光ったピアスと塩顔の美形に、私は少し引いてしまった。

「私たちまだ未成年ですよー!」

 軽い調子で返す凛は少しだけ楽しそうに見えた。

 凛、こういうのがタイプなのかな。

 軽薄そうな男だと思った私は、本音をうまく飲み込んだまま調子を合わせる。

 凛と同じ大学に入ってすぐ、私たちは新入生歓迎会のコンパに誘われた。

 本当は可愛い凛だけが目当てだったのかもしれない。でも、誰だって本音は隠したいに決まっている。

 その飲み会だって、最初から歓迎会を装った別の何かだっただろうに。

 大学二年生の冬頃、凛と先輩が破局したことを知る。

 私たちはもうその頃、あまり顔を合わせることがなくなっていた。

 凛が私と仲良くしていたのは高校で他に居場所がなかったからで、見た目も性格もいい彼女は大学ですぐに友達の輪を広げていった。

 社交的でない私は、程なくして彼女のそばには居られなくなる。

 明るくなった彼女の事を、何度か目で追った。

「ね、夏休み友達とバーベキュー行くんじゃけど、一緒に行かん? 久しぶりに遊ぼう!」

 屈託のない笑顔でそんなことを言われたら、私の胸は苦しくなる一方だった。

 彼女の優しさは、底知れない。

「わ、私はいいよ。気を遣わせちゃうし、楽しんできて」

 なんであんなこと、言っちゃったんだろう。

 凛の誘いを断る理由なんてないはずなのに。心の底から、嬉しいはずなのに。

「そっか………」

 残念そうに零しながらも、それでも笑顔を崩さなかった彼女の顔を見て、私は我儘を思った。

 もっと食い下がって欲しかった。

 なんでって、聞いて欲しかった。

 彼女の優しさで、自分を肯定したかった。

 失恋した彼女の寂しげな姿を教室の中で見た私。

 その背中を支えてあげたかったけど、その時隣にいたのはもう私ではなかった。

 救えない彼女の心と嫉妬する自分の醜い心が、激しく己を責め立てた。

 悔しくて虚しくて、通話アプリの凛の名前を、私はたった一人の親友を、そっと瞼を閉じるように消し去る。

 凛の優しさに付け入るようなことはしたくない。

 私はもう、彼女の足枷にはなりたくないんだ。




 ■■◇■■




 下校する生徒の隙間を縫って、放課後の校舎を駆けた。稜線に沈みゆく夕日から真っ赤な光が差し込む。

 夢なら、それでいい。夢じゃないなら、変えなきゃいけない。

 私たちを結ぶものが、こんな始まりなんて堪えられなかった。

 あの時ああすれば良かったとかあんなことしなければとか、そんなこと、思いたくもなかった。

 後ろめたさを抱えたまま彼女と過ごした時間は、後悔しか残らない。

 そんなの、私はずっと嫌だったんだ。

 凛に会って、伝えなきゃ。私の分まで背負わなくてもいい。負い目なんて考えなくていい。

 私はただ、凛とずっと友達でいたい。

 根暗で、無口で、醜くて愛想のない、こんな私でも。

 庇ってくれたあなたに、必要として欲しかった。

 下駄箱に靴を落とした彼女の姿を見つけて、荒らげたままの息で私は彼女の名前を呼んだ。

「凛っ……!」

 怯えたような顔をした彼女。

 今日一日、誰とも口を効いてない。私のせいで、彼女まで酷い目にあったんだ。

 名前を呼ばれて驚いた凛は、瞳の中に私を映しだす。

 南向きの昇降口は、すでに暗がりが広がっていた。銀色の傘立てが、鈍く光る。

「私ね……、私……っ!!」

 言いかけたと同時に猛烈な目眩に襲われた。

 抗えない意識の泥濘に足元がふらつく。

 だめ、まだ私、何も………!

 膝を落とした私に誰かが駆け寄った。

 朦朧とする耳元で、何かを叫んでいるのが聞こえる。

 しっかりしなきゃ、まだ何も、言えてないのに。

 煮え立つような怒りとは裏腹に、落ちゆく瞼を持ちこたえられず、私の視界は暗くなった。

 ただ眠るのとは違う。魂ごと吸い取られるような脱力感と、冷たくなっていく私の心。

 体の自由さえも効かなくなり、あれだけ激昂した思考だって、泡のように弾けていく。

 凛……凛……

 さんざめく陽の光は、遂に山の向こう側に隠れてしまった。




 ■■◇■■




 車窓から見える景色が明るくなり、私は目を覚ました。

 どうやらつり革に掴まって立ったまま少し眠ってしまったらしい。

 なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。

 暖かくて、切なくて。同時に急かされるような気持ちにさせる。

 何かしなくちゃいけなかったような、でもそれがなんなのか、もう分からなくなっていた。

 夢と現実の狭間を行き来する私は、目の前の座席に座る高校生くらいの女の子と視線が合う。

 何故だか不思議と目を逸らせず、彼女もまた、私の方をじっと見つめていた。

 なんだろう、このあどけなさ、どこかで。

 何かに似ている気がする、そう思った時、急に女の子が立ち上がった。

 揺れる車内。不安定な足元。赤く染まる手すりの金属。

 私を見つめる彼女が、ポッケからハンカチを取り出してこう告げる。

「大丈夫ですか? 具合、悪いんですか?」

 何が? と聞こうとした私の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「あれ、あれ? ごめんなさい、私、どうして………」

 私は言いながら、流れてくるとめどない涙に困惑する。

 紺色のブレザーがぼやけた視界の端で滲んだ。

 そうだ、私、こんな制服をさっきまで着ていた。そして誰かに訊かれたんだ、大丈夫って。具合悪いのかって。

 その瞬間、靄が晴れたようにはっきりと私は全てを思い出した。

 凛、凜だ。

 私、やっぱりだめだったんだ。ごめん、ごめんね。

 言いたかったことがあったのに、夢の中でさえ言えなかった。

 あの日から始まった悪夢に、もう一度やり直すって決めてたのに、結局私は何もできなかった。

 顔を手で覆う。悔しくて虚しくて、溢れる涙を抑えられなかった。

 どうして、どうして間に合わなかったの。

 合理性を欠いた私の後悔は、いつだって消えない傷をただなぞっているだけだ。


 気遣って私と一緒に電車を降りてくれた彼女は、私の手をぎゅっと握りしめて告げる。

「大丈夫ですよ。大丈夫、大丈夫……」

 泣きじゃくる大人の私を彼女は懸命になだめてくれた。

 凛のように、優しい笑顔で。

 変えられなかった過去の夢を、私はどうして見てしまったのか。

 ――――そうだ。過去を過去のまま終わらせてはいけない。

 あんな後悔は、二度としたくないんだ。

 私は涙を拭ってスマホの画面を明るくする。

 見慣れた通話アプリの中、あの日消せなかった彼女の名前にもう一度触れた。

 凛ちゃん。私の中で懐かしさが再び広がっていく。

 非表示の欄から再び現れた彼女のメッセージ、数十件。

 『連絡して』『どうしたの?』『私、なにかした?』『ねぇ、おねがい』

 胸がカッと熱くなる。取り返しのつかないことをしてしまった。

 急いで通話に切り替えて、スマホを耳にあてがう。

 彼女が電話に応えるかどうかよりも、しゃくりあげる声が上手く出るか、そんなことが気になってしまった。

 咳払いして喉を整え、鼻水をすすって白い息を吐き出す。

 ………だけど、スマホは単調なリズムを取り続け、しばらく経ったが通話は繋がらなかった。

 固まってしまった同じ画面に映っているのは、二人が好きだった黄色い熊。

 涙の伝う頬が赤く上気する。

 ………あぁ、そうだよね。もう何年も前だもん。

 雲の切れ間から青空を仰ぎ見た。線路の脇をひたすらに車が通り過ぎ、寒風にのって私の濡れた目元がひりひりと傷んだ。

 会社、遅れちゃうかも。メイクし直さなきゃ。

 私が夢から覚めたような気持ちになった時、




「――――ちゃん、聞こえる?」




 風の音に混じって声がした。

 握りしめていたスマホを驚きで落としそうになる。




「もしもーし……あれ……?」




 耳にあてがったまま、私は声が出せなかった。

 目一杯堪えたけど、涙がどんどん溢れ出てくる。

 聞きたかった声。

 私の、私の大事な親友。

「凛ちゃあん………!!」

 必死に出した声は、恥ずかしくて死にそうなほど大きかった。

 じゃないと、言葉にならないと思った。

「聞こえた。どうしたんよ急に。

 ………あ、ていうかちょっと、ねぇ! その前に私に言うことがあるじゃろ?!」

 凛は、変わらない。変わらずにいてくれた。よかった。ほんとによかった。

「ごめんねぇ………」

「……………まったくもう。ええよ、水に流しとく。私、ずっと待ちよったんよ」

 通話越しにも、彼女の笑顔が手に取るように分かった。

 どうしようもないくらい優しくて、ちょっとつらい。

 私はさらに謝った。

「ずっと、友達でいたかったのに、私………ごめんね」

「知っとるけえそんなこと。………だって言ってくれたじゃん、あの日。

 『凛、私と友達になって! 絶対後悔なんてさせないから!』って。いきなり名前呼びじゃし、ふふ………今でも覚えとるんよ」

 鈍色の校舎、玄関口で、私は言ったんだ。凛に、言えてたんだ。

 これからもずっと友達でいたいこと。

 後ろ向きじゃなくて、お互いが惹かれ合うように結びつくこと。

「凛ちゃん、ごめんね」

「もうええけえ。………ね、今度会おうよ。久しぶりに顔みたい」

「………うん、私も会いたい………」

 何度も何度も頷いて、私はやっと笑顔になれた。

 ひさしの付いた路面電車の小さな駅の中。

 今まで燻っていた胸の中の暗い影が、照らし出された朝日によってさらさらと払われていくようだった。



 あれが夢だったのかは今でも分からない。

 でも、過去の自分に戻れるとしたら、私はやっぱり、今日みたいな日がいいなって、そう思った。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

宜しければ、感想など一言でもいいのでお願いいたします。

お粗末さまでした。

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― 新着の感想 ―
爽やかで切なくて温かくて。青春の眩しさと苦さがぐっと伝わりました。寝る前に素敵な物語が読めて嬉しかったです。最後がハッピーエンドで良かったと思いました。ありがとうございました。
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