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失せ恋  作者: 桃巴
1/2

ⅡーⅠ

「いいのかい?」


 魔女のしゃがれた声に女は頷いた。


「損な性分だねえ」


 苦笑まじりの声に、女も苦笑いで応じた。

 魔女がゆっくり立ち上がり、戸棚から小瓶を取り出すと、机の真ん中に置く。


「さてと、簡単にはやらない魔女の薬だ。ちゃんと、おさらいするよ」


 魔女が腰を下ろす。


「さあ、もう一度おしゃべり。辛くても口にしてもらうよ。薬など使わなくても、吐き出すことで昇華することだってあるからね。その上で、こいつを手にするのか決めたらいい」


 魔女の尖った爪がツンと小瓶に触れた。

 女は胸の前でギュッと両手を重ねた。

 潤んだ瞳。

 瞬き一つ。

 机に落ちた雫。

 吐息。

 紡がれる。

 失せ恋。



「ありふれた話ですわ」


 懐かしむように女は言った。


「私は村外れでひっそり暮らしておりましたの。両親は鬼籍、兄を戦争で亡くして、天涯孤独の身でした。一年前のことです。水汲みで川に向かった際、川岸に打ち上げられていた男を助け介抱しました。目覚めた男はなんと記憶喪失。フフッ、どこぞのおとぎ話のようでございましょ?」


 魔女がクツクツと笑う。


「恋が芽吹くのにうってつけだね」

「ええ、ええ、そうです。……男は戦火から生き延びたのでしょう。服装と剣、体躯を見ればわかりますもの。でも、男の傷は深く、体を起こすまで回復するのに一カ月ほどかかりました。そこからは穏やかな日々でしたわ。貧しいながらも、心地よい生活が数カ月ほど続きました。男の記憶は戻っておりませんでしたが、剣を扱うことは体が覚えていたのです。半身をさらけ出し、剣を振るう姿に心ときめかぬ女などいましょうか? 数カ月もの長き介抱と世話した者に、心寄せない男などいましょうか?」


「ああ、そうさ、いないだろうね」

「……いいえ、私は記憶のない男の心細さにつけ入った、悪女だわ。だって、男は私以外に頼れる者がいないから、だから、だから……」


「ああ、あんたのその想いも理解できる」

「私の場に誰か別の女をすげ替えたとて、きっと男はその女に心寄せたことでしょう。つまり、そういう危うい状況下の恋でした。はたして、恋と言えるのか? 他の誰かであっても落ちた恋でございましょう。それは、私が男の側であっても同じでしょうね。いいえ、恋に落ちた……のではなく、あの状況下で二人の男女が必ず通るべき恋なのです。避けられぬ、必然と言いましょうか」


「それを運命と言う者もいる」

「運命、定め。ええ、私と男が必ず通る定めであった……運命の恋。なんと素敵な響きでございましょう」


 女は宙を見つめる。

 その目に映っているのは想い出だろう。


「互いに気遣い、穏やかに笑み合い、姿を探し合い、声を耳にし、指先の温もり、肩枕のうたた寝、膝枕の昼寝、梳かす髪、梳かされる髪、吐息を喰み……人肌を知りました」

「フンッ、綺麗事は耳が腐る」

「流石、魔女様。お見通しですのね。記憶喪失の心細さと天涯孤独の心細さ、それを、互いに埋めあったのでしょう。これが、運命の恋でなく……普通の恋であったなら、温もりは心身を満たし安心に繋がったことでしょう。ですが、私たちのそれは……不安と背中合わせでございました」


 女の視線が、宙からゆっくり下がって小瓶を見る。


「薄氷に立っているかのようでしたわ。ひょんなことでパリンと割れ、冷たい水の中に沈んでいくのではないか、と」

「例えは良いが、ちゃんと明言しな」

「記憶喪失という薄氷がパリンと割れ、記憶が戻った男が消えていなくなる。男は男本来の場に戻り、本物の温もりに安心し、私は私本来の天涯孤独に戻り、温もりは自身で抱きしめる両腕だけになるの、と」


 女が両腕で自身を抱きしめた。


「温かい飲み物でも淹れてこよう」


 魔女が立ち上がって台所に消えた。

 バチッと暖炉の火が爆ぜる。

 女はハッと暖炉を見つめてから失笑した。


「寒いのは心なのに」


 両腕を解き、両手を眺めた。

 少しだけ荒れた手を見て、ホロリとまた雫が落ちた。


「薪割りも火起こしも、長らくしていなかったから、柔な手に戻っていたのね。また、血豆から始めなきゃ」


 男が暖炉係だったからだ。


「ほれ、飲みな。生姜湯だ」


 コトンとカップが机に置かれる。

 魔女がまた女の対面に座った。

 女はカップを両手で包み、生姜の香りを吸い込む。


「いつも、私より早く起きるんです。火を起こし部屋を暖めてくれていました。目覚めの白湯まで用意してくれて」


 それが、早朝鍛錬前の男の日課になっていたのだ。

 ゆっくりとじんわりと、心は溶け合っていったのだろう。心地よい生活だと女が感じるほどに。

 女はカップに口をつける。

 仄かに立つ湯気に、女は愛おしそうに目を細めた。

 何気ない早朝の想い出が、女の喉を通っていく。

 生姜湯でなく、白湯を飲んでいるのだろう。


「……続けな」

「はい、魔女様。時折、男が遠い目をするのに気づいたのは……半年経った頃だったでしょうか。男は本来あるべき自身の場を遥か遠くに望んでいたのかもしれません。ええ、薄氷は私の知らぬ間にヒビ割れ始めていたのです。フフッ、私ったら、また妙な例えをしてしまいましたね。記憶は戻ってきていたのでしょう。劇的に思い出すのではなく、きっと緩やかに徐々に、と。私も幼い頃の想い出が、ある日ふわっと花開き、そういえばこんなことがあったわ、などとしんみり思い出すことがありますから」


 女は湯気をフッと吹いた。

 宙に消える湯気に、また目を細めている。


「まどろむ目覚めが如くか、寝ぼけ眼の起きがけの如くか。そんなところだろうさね」

「まあ、魔女様ったら、私より例えがお上手ですのね。ええ、確かにそうでございましょう。男は記憶喪失でなく、半年ほど寝ぼけ眼だっただけ。とてもしっくりくる言い方ですね」


「それで?」

「私は卑怯者でしたわ。何も、何にもせず、穏やかな生活を享受し続けましたのよ。見て見ぬふりと言いましょうか、気づかぬふりと言いましょうか、男が告げぬことをいいことにです。ね、悪女でございましょう?」


 魔女が笑う。


「あんたのそれが悪女の基準なら、世の大半の者は悪人になっちまうよ。魔女のあたしゃあ、極悪人だねえ。醜い心が悪ってんなら、人間皆悪人さ。ああ、すまないねえ。私が話しても仕方がない。さあ、続けてくれ」

「……穏やかな日々、不安を隠す日々、醜い心を蓄積する日々、到底、恋に満たされた日々とは言えませんでしたわ。フフッ、憧れはあったのです、初恋に。ウズウズと胸くすぐる春を待つような初めての恋を。けれど、現実はなんと儚くも苦しいものでした。夏のような焦がれ、秋のような哀愁、冬のような凍る絶望、胸の中は目まぐるしく乱れるのに、目の前には暖炉が優しい温もりを私に灯し続けてくれるのです。全ての感情にキュッと胸が締め付けられる日々へと変わっていきました。そうして、また数カ月が過ぎたのです」


 女は一気に紡ぐと大きく息を吐き出した。

 ここからが、おとぎ話でいうなら佳境なる。

 そうわかっている魔女は話を促さすことなく、女の言の葉を待つ。


「男は優しかった。ずっと、寝ぼけ眼でいてくれたのです。私たちの恋は、心を晒さぬ恋に変わっていったのでしょう。苦しくて苦しくて、情けなくて情けなくて、醜くて醜くて、悔しくて悔しくて、だって、そうでしょ? 男が記憶が戻ったことを明かさないのは、私を傷つける現実になるからこそだとわかっていたから。記憶が戻っても、私の幸せに続く現実となるなら告げるはずだもの!」


 女の声に感情がのる。

 息が荒れ、次第に呼吸が乱れ出す。苦しい息遣いで言の葉は吐き出される。


「……っ、……うっ、わたっ、私はっ、ぅっ……ぅっ……あの、夜、男の苦し、……げなっ、呻き声で、目覚めましたっ」


 女の心の堰が崩れた。


「その、名をっ、私は口にしたくはありません!! 別の女の名をっ、別の……女の……男が……帰るべき、本来の場の……女の……名を……口にし、『待っていてくれ、必ず戻るから』とっ、ハッ、ッハッ、ハァッ、…………ァ、…………ッ、フゥー…………フゥゥ。ーーーーーー フフッフフッ、ウフフ……フフッ、寝言を聞いたのです。ああ、早く起こして上げなければと思いました。私と過ごした日々から目覚めさせて上げなければと」


 激情が溢れ出した後、荒れた呼吸を抑え込み、何がおかしいのか笑ってしまっている。そして、スンと女は静かな口調へと戻った。


 ツゥーと、女の頬に流れた一筋が、堰から溢れ出た最後の雫だったのだろう。

 女が目を瞑り、ゆっくりと開けた時には虚空を見つめる瞳へと変わっていた。


「私は決めましたの。私と男の恋の期間を。あと一カ月だけと。最初に男を川岸から救い純粋に介抱したと同じ期間と決め、懸命に恋に捧げました。苦しいよりも楽しさが勝るように、情けないよりも溌剌と、醜いよりも恋をする乙女であり続け、悔しいよりも嬉しい時間に浸ろうと。限りある時間だけれど、限りあるからこそ全身全霊で。目覚めさせて上げなければとしながらも、一カ月も期間を設けたのです。でも、いいではないですか。男が本来の場に戻ったなら、きっと一生の時間を待っていたお方と過ごすのでございましょ。私は一年も満たない期間だけ、それも最後の一カ月だけの恋の時間なのですよ?」


 女はニッと笑った。それが、女の作る最大の悪笑みなのだろう。


「ね、悪女でございましょう? 迷子がもう家の場所がわかっているのに、その手を離さず帰さないのですから」


 魔女はまだ黙っている。このおとぎ話を最後まで聴くために。

 問うたのに、魔女が黙って待っていることに女は頷いた。


「当たり前の感情も受け入れました。構わず、いっぱい泣いたわ。目覚めて出される白湯よりも、温もりがあった方がいいの、と。部屋なんて冷たくってもいいから、と。ずっと傍に居たいの、目覚めたくないのと駄々をこねて。いっぱい、いっぱい甘えて、たくさん、たくさん笑って。出会えて幸せよ、と。

ーー内心で……この一カ月は私の一生物の恋とするのだから。忘れないわ、この幸せな一瞬一瞬を。想い出を増やしていくの、独りとなっても一生満たされるような想い出を。……本当は時間が止まればいいと思いながら。その感情も愛おしく、心に留めておくのーー」


 丁寧な言葉遣いでなく、拙い乙女のような、心そのものをのせたような発言だった。

 懸命に恋をしたのだ。

 どんな感情も受け入れる恋を。


 女は大きく息を吸い込んだ。


「その日は訪れました。空がどこまでも青く広がる日でしたわ。男の素振りを傍らで眺めていましたの。緑の風がソッと背中を押したのかしら? 気負いなく、いつもの会話のように、『そろそろお戻りになられたら?』と。男は最初、私の言葉の意味がわからなかったようです。空を見上げ、鳥でも飛んでいるのかと確認しましたのよ。私が空飛ぶ鳥にでも呟いたとでも思ったのでしょうね。でも、青い空に鳥も雲さえもありません。本当に真っ青な空でしたの。『その剣を振るう元の場へ』と。本当にありふれた日常の会話のように、私は紡いだのです」


 優しい言葉遣いに戻った女は微笑んだ。

 とてつもなく優しさが溢れる微笑だ。

 見た者の心が澄んでしまうような。


「……『……そうだな』と男が応えましたの。二人で青空を見上げました。何も言葉がいらなかったのです。私たちにしかわからないでしょう、心が……解れていきました。男は私の横に座り、二人でただただ、青を、若すぎる青を、酸っぱいのか、甘いのか、熟す前の青を、色づく直前の青を、いつまでも移ろわない真っ青な空を眺め続けました。そして、『忘れないわ』『忘れない』と、互いに、同時に告げましたのよ。同じ言の葉を、同じ瞬間に紡いだことで、私の心は満たされました」


 女が小瓶を見つめる。

 魔女の薬が入った小瓶を。


「翌朝、男は早起きをし、火起こしし、暖炉を灯し部屋を暖めました。台所で湯を沸かして、私に白湯を持ってきました。ありふれた日常なのに、終わりの朝であるとわかります。私は、いつものように、起きたくないわと枕に顔を埋めました。男が私の頭を優しく撫でました。イヤイヤと駄々をこねる私の髪を男の指が梳いています。『待っていてく』ーー(聞きたくないわ!! 寝言と同じ言葉など!!)ーー『ありがとう、起きました』男の言葉を遮りました。そして、グッと堪えて顔を上げましたわ。男が少しだけ驚いたというか、予想していなかったのでしょう、私は泣いてなどいませんでしたから。瞳に膜さえなかったと断言できます」


 女は小さく呼吸を整えた。


「『じゃあ、行ってくる』『ええ』たったそれだけの会話でした。白湯に口をつけ、軽く手を振りましたわ。外に出て見送りなどしませんでしたの。もちろん、『いってらっしゃい』とも口にしません。だって、ここは男の帰る場でないのです。これから向かう場でこそ、『ただいま』と口にし『お帰りなさい』と迎えられるのですから」


 女はおもむろに自身の髪を手で梳く。


「男が出て行っても、私はしばらく白湯の入ったカップを両手で包んだまま、冷めてしまったそれをフゥフゥとしていました。湯気などとうに出なくなっていた水面に男が梳いてくれた髪が映っています。……『私も梳いています(好いています)』と応えました。これからは自分自身で髪を梳くのね、とも。突如、衝動が沸き起こり、家を出ました。ただ、もう見えぬその姿を追いかけられることはできず、数歩進んだ足は崩れ落ちました。立ち上がる力などなく、顔だけを空に……移ろった空が、青だけではない空が見えました。パリンと……何かが砕け、私は溺れましたの、私の心、体、髪の先までも全てが慟哭にっ……溺れっ」


 続く言葉などいらないだろう。

 魔女がもう十分わかったとでも言わんばかりに首を横に振った。

 女が胸に手を当て、か細い呼吸を繰り返す。

 次第に落ち着いていった女は、大きく息を吐きだした後、顔を上げ魔女を見た。

 魔女がフッと笑う。


「こいつを欲するかい?」


 魔女の尖った爪が小瓶をツンと突いた。


「はいっ!」


 女は躊躇なく即答する。


「正直に答えてくれ。なぜ、あんたはこれを男に飲ませようとするんだい? あんたが飲んだ方が楽になるんだ、『忘却薬』だからねえ。男を忘れ溺れた心を救ってくれる。苦しさから解放されるんだ。大半の者は、自分で飲むために手にする。だが、あんたはこれを男に飲ませたいんだろ?」


 女は静かに頷いた。


「一つの恋と二つの恋だからですわ。私は一つの恋。男は二つの恋。一つの恋でもこんなにも心身を焦がすのに、男は本来の場で幸せに包まれる恋と、避けることができなかった故の運命の恋、二つの恋を背負ってしまったのです。一つの恋にしてあげなければと思うから。幸せであってほしいと願うから。一つでもこんなにも、こんなにも、ここが」


 女は胸に手を当てている。

 一つの恋でもこんなにも胸を焦がすのに、と。


「こんな重想を二つも抱えているなんて」


 だから、一つを忘れさせてあげなければ、と。


「それでいいのかい?」


 最初の問いに戻った。

 女は頷く。


「私への恋を失せさせてあげたくて。男は必ず戻るから。帰ってくるのではなく、私を選ぶのではなく。『さようなら』を二人で過ごすために」

「さようならでなく、あんたを選ぶかもしれないだろ?」

「……私を選ぶ未来であっても、私を選ばず元の場に帰る未来であっても、二つの恋を背負って生きていくことに変わりありません。選ばれた方も、ずっと不安を抱えましょう。男が遥かに遠くを見る瞳に。男にはまっさらな青のように雲一つない心であってほしいのです。幸せであってほしいから」

「じゃあ、あんたの幸せは?」

「ちゃんと、先ほど申しましたわ。

ーーこの一カ月は私の一生物の恋とするのだから。忘れないわ、この幸せな一瞬一瞬を。想い出を増やしていくの、独りとなっても一生満たされるような想い出をーーと。

それが、私の幸せです」


 女は確かにそう口にしていた。


「損な性分だねえ」


 二度めの苦笑まじりの声に、女も苦笑いで応じることができた。

 魔女が小瓶に手をかざす。

 フワッと小瓶が歪んだ……ように見えたのは、魔女の力が小瓶へ注がれたのだろう。


「さあ、男専用の『忘却薬』の出来上がりだ。これを飲ませれば、男のあんたへの恋心は失せる。一年の記憶も朧げで曖昧になる。言うならば、大怪我をして目覚めるまでに一年かかったみたいにね。不確かな記憶は次第に忘却する。あんたのこともだ。それでいいかい?」

「はい。自然な忘却ですのね」


 一年全てをいきなり忘却してしまうことはできない。

 飲ませた後の男が立ち行かなくなる。それこそ、本当の記憶喪失になるだろう。


「お代をいただくとするかね。そうだねえ、お代は……」


 魔女が女を見つめる。


「男が梳いたあんたの髪と交換だよ」


 女の瞳が揺れた。

 魔女の薬には代償が必要だ。

 魔女が望んだ代償は、男が梳いた(好いた)女の髪。一生物の恋の一部であろう。


 魔女は懐から鋏を取り出して、小瓶の横に置いた。


「さあ、どうする?」

「……ぁっ、ま、待って……少しだけ時間をくださいませ」

「ああ、いいさ。心が決まったら来るがいいさ。またのお待ちを」


 魔女が出入り口に視線を投げる。


「いえ! 最後に髪を梳きたくて、その時間をいただけますか?」

「なんだい、そうかい、勘違いしちまったよ。いいさ、好きなだけ髪を梳かせばいい」


 女は頷く。

 手持ちの巾着から櫛を取り出すと、髪を愛おしそうに梳いた。

 髪が艶めく。


 魔女は女の手が止まるまで、邪魔することなく眺めていた。


 ーー

 ーーーー

 ーーーーーー


「ありがとうございます、魔女様」


 女は櫛を置き、鋏へと手を伸ばした。


「あたしが切るよ。あたしが欲しい分だけいただくとするかね」


 女よりも早く鋏を取ると、魔女は立ち上がって女の背後へと移る。

 女がソッと目を閉じた。

 魔女の手が女の髪を掬う。

 手触りを確かめるように、数本の髪を魔女の指が摘みスーッと動く。


 シャキ


「え?」


 女は鋏の音に反応した。


「二本ばかりいただいたよ」


 魔女が摘んでいるのは、女の髪の毛二本だった。


「え?」


 またも女は反応する。

 目を見開いたかと思うと、数度瞬きをした。


「それ、だけ?」


 バッサリと切られると思ったのだろう。

 魔女がクツクツと笑う。


「人の髪ってのは、色々と宿っている。良くも悪くも力を持っている。束で欲しいもんじゃないさ。あたしゃ魔女だ。鬘職人じゃない」


 魔女はフンッと鼻を鳴らした。


「特にあんたの髪は……聖な力を持った髪だ。小指の爪先の長さ程度でも魔女の薬の源のなる。楽しみだねえ、これで作る薬はきっと特級品になるだろうねえ」

「……そう、ですか」


 女は少し呆けている。


「ほれ」


 魔女が小瓶を女の方へと動かす。

 女はホッとした穏やかな顔つきで手を伸ばした。

 が、女が小瓶を手にする瞬間、魔女が小瓶を掴んだ。


「待て」

「え?」


 女が戸惑っている。


「なぜだい?」


 魔女が目を細めてジッと女を見つめる。


「この薬を手にする者は、必ず、苦しい顔をする。自身で飲むにしろ、誰かに飲ませるにしろ、内心では『忘れたくないと』『忘れてほしくはないと』思いながら手にするんだ。あたしが『やっぱりやらない』と口にした方がホッとする者さえもいる。この薬で苦しい心が解放されるとわかっていても。だから、手に入れても、使う時までも、使う時でさえ、心は穏やかにはならない。なぜ、ホッとした?」

「ぁっ、それは……」


 女に動揺がみられる。

 魔女は女の頭に手をかざす。


「ゃっ」


 その手から逃れるように、女は身を丸めた。


「ああ、なるほど。自身で飲まないのは、飲めないのは、その腹を守るためか」


 女の手はお腹を包んでいた。

 手をかざす魔女からは、普通ならば両手で頭をかかえて身を守ろうとするものだろう。

 魔女の手が女の頭をポンポンと撫でた。


「命を宿しているね、その腹は」


 ガタン


 台所から物音がした。

 女も魔女も顔を向ける。


 ヌャーゴと白猫が姿を現す。


「チッ、さっきの生姜を落としたか。いや、ちょうどいいさ。もう一杯どうだ? 腹は冷やせないだろ」


 魔女が椅子にかかっていた毛布をポイッと女に投げた。

 女は毛布で身を包む。否、大事そうに腹を包み、魔女に深々と頭を下げた。


「魔女様、ありがとうございます」

「ったく、全部吐き出せって言ったのに、この魔女を謀ろうとは恐れ入った。……その命を盾に、男を得ることもできるだろうに」


 女は応えず小さく首を横に振る。

 そんなことはできないとばかりに。


「そんなことをしたら、恋が穢れてしまうから」

「そうかい。なりふり構わず男を得ようとする者もいるが、あんたはなりふり構わず恋を守ろうとするんだねえ。あんたの恋だけでなく、男の恋も。男が大事で、男を悩ますもんは全て払おうとしているんだろ? 一緒に過ごしたあんたの記憶だけじゃなく、運命の産物さえも。男の心を守るために」


 女は腹を愛おしそうに撫でる。


「私の幸せです」

「なるほどねえ。男は元の幸せ一つ。あんたは宿った幸せ一つ。思慮深いというかなんというか……やっぱり言うなら、損な性分だねえ」


 女はそれにも応えず、魔女を見つめるだけだ。

 そう、女は全てを出したから。もう、口にすることはないのだろう。


 なんと温かく哀しい恋なのだろうか。

 なんて綺麗で悲しい恋なのだろうか。

 温かく綺麗な恋が失せるのだ。


 二杯めの生姜湯を飲んだ女は、魔女の見送りで帰っていく。巾着に魔女の薬『忘却薬』の小瓶を入れて。


「幸せにおなりよ」


 魔女の呟きは女には聞こえない。

 女が遠く影になってからの言の葉だったから。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 文書のリズムが心地よいです。 [一言] 次の話まで読むと、おお!ってなるのですが、この部分だけでもとても好き。 文書のリズムが素敵なので、朗読してしまいましたが、心地よかったです。
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