第二話
「リリエル、何してんだいッ! また鞭で叩かれたいのかい!?」
「ひっ……ご、ごめんなさい!」
鞭で地面を叩く音が聞こえる。農場の主の妻であり、農場の監視者、マダム・メイガンだ。彼女が鞭を鳴らすたび、農場で作業をする子供たちが肩を震わせる。
私がこの世界に来てから……リリエルになってから二日が経過した。二日しか経っていない、とも思うけれど、この二日間で思い知らされたことがある。
それは、ここが紛れもない現実世界なのだということ。私の夢や妄想の類ではなく、一つの現実なのだということ。
そして、それはつまり……ここが『化け物伯爵と幸せなお嬢様』の中の世界であることは確実だということ。
驚くべきことに、私は物語の中の主人公に憑依してしまったということだ。いや、生まれ変わったというべきか? その辺りはよく分からない。でも、赤子として生まれ変わったわけじゃないから、やっぱり憑依という表現がしっくりくる。
今が小説でいうどの段階なのかも、おおよそ把握出来た。この小説は、リリエルがラスール農場で奴隷のように扱われるシーンから始まるけれど……まさしく、今がそのタイミング。
証拠はいくつかある。物語序盤で死んでしまう子供がまだ生きていることや、小説で起きていたイベントなどの発生の有無。それらを総合的に考えると、今は恐らく小説でいう第一話から第二話にかけての部分。
それでもって、リリエルがこの農場から解放されるのが小説第二十八話。時間軸で言うと……第一話から約半年後。
(ま……待てないっ! 私、そんなに待ってられない……!)
現代っ子の私には、リリエル本人のような強靭な精神力はない。こんな劣悪な環境下で半年間も過ごすことなど不可能だ。
なら、どうするか。そんなものは決まっている。物語の進行を、早めるしかない。
(本当にこれが物語の中の世界なのだとしたら……私の特権は、『未来』を知っていること。有効に使わなきゃ宝の持ち腐れでしょ)
違法薬物の手入れをするふりをして、私は農場からの脱走プランを練った。
まず手堅い方法その一。物語の進行通り、『とある人物』に助けてもらう。ただし、タイミングだけを早めて。
これは最も手堅い方法だ。本来の物語通りであるため、安全にこの農場から出られることが保障されている。
ただし、タイミングを早めるのが難しい。本来であれば、そのとある人物が『偶然』この町に立ち寄って『偶然』この農場を視察し、『偶然』リリエルと出会うことで救出のフラグが立つ。
つまり、『偶然』物語よりも早いタイミングでこの農場を訪れてくれなければ、そもそも成立しない方法なのだ。私の知る限り、小説本編にそのような描写はなかった。手堅いといえば手堅いが、最も実現が難しい手段だろう。
方法その二。特別な策を弄さずに、こっそりとこの農場から抜け出す。
最も簡単なようで、これまた難しい。ラスール農場には監視者であるマダム・メイガンの他に、場内を徘徊する番犬がいる。
更には立地も悪い。四方を森に囲まれた農場だ。迂闊に森に出れば、そのまま迷って野垂れ死ぬ可能性もある。
それに……この方法だと、ここにいる全員を救うことが出来ない。良くて数人だろう。
方法その三。奴隷の子供達、全員で協力して反乱を起こす。恐らく、これが最も現実的な方法だろう。
(……でも、リスクが大きすぎる)
現在、この農場にいる子供奴隷の数は三十二。その殆どがろくな食事も与えられず、痩せ細っている。そんな子供達を寄せ集めたところで、とてもこの農場を制圧出来るとは思えない。
失敗した時のリスクだってある。まず間違いなく、首謀者である私は殺される、他の子供達だって、半数は見せしめで殺されるだろう。
……危険だ。私達にはあるのは、この違法薬物を手入れ、栽培するための劣悪な道具だけ。対する敵は、ラスールとマダム・メイガン、それと多数の番犬達。
(無理だ……戦力差がありすぎる……)
八方手詰まり。ああでもない、こうでもないと唸っていると、一人の子供が声をかけてきた。
「キミ、大丈夫?」
「え?」
それは少年だった。いや、少女とも見間違えそうなほどの……美少年だ。
元は鮮やかな金色だったのだろう。土に塗れて燻んだ髪とこけた頬。それでもなお溢れ出る美貌に、思わず目が奪われる。
(あ……アラン……アランだ、この子)
一目見て分かった。小説序盤の重要キャラ、アラン。小説本編では彼の挿絵はなかったが、『まるで少女のような顔立ちの少年』だと評されていた。実物を前にすると……『確かに』と唸ることしか出来ない。
「手を止めてるとマダム・メイガンに目を付けられるよ。あの人、もう少ししたら昼寝の時間だから」
「う、うん……ありがとう、アラン」
隣に寄り添って、作業するふりをしたアラン。名前を呼ぶと、彼はきょとんとしてこちらを見つめた。
「僕の名前、知ってるの?」
……しまった。私は小説本編でアランのことを知っているけれど、『リリエル』が彼と話すのはこれが初めてのはずだ。
「あっ、ちが、違うの! マダムに呼ばれてるのを聞いて……」
「ああ、そうなんだ。キミの名前は?」
慌てて言い繕う私と違って、アランは落ち着いた様子で微笑んでいた。ここがこんなに殺伐とした場所でなければ、一瞬で恋に落ちてしまいそうだった。
「わ、わたしはリリエル。リリィって呼んで」
「分かった。よろしく、リリィ」
アランはそう言って、手を動かし始める。今度は『ふり』ではない。少し離れた場所をマダム・メイガンが巡回しているが、幸い、私達を怪しんでいる様子はない。
私も同じように、作業を再開する。けれど、何とも言えない違和感が棘のように胸に刺さっている。
(……アランと初めて話したのって、こんなに最序盤だっけ……?)
小説の第一話が投稿されたのが今から三年前。二年ほど前に読み直してはいるものの、正直言って、私は物語の細部の細部に至るまでを記憶しているわけではない。元々、記憶力は悪い方だ。
ただ、主要な人物が登場するシーンはおおかた記憶しているつもりだ。私の記憶通りだと、アランの初登場は、こんなに早くはなかったはず。
(『私』がリリエルに憑依したから、物語が少し変わってる……? それもそっか。小説と全く同じ動きをしてるわけじゃないんだし……)
私が小説と違った動きや発言をするたび、物語が小説から逸れていく。それは当然のことだろう。多分、アラン初登場のフラグを、意図せずここで回収してしまったということだ。
しかし、それはつまり。
(それってやっぱり……私が、物語を『変えられる』ってことだよね……?)
私の動き一つで物語が変わる。それはつまり、私が望んだ通りに、物語を『変えられる』ということ。非業の死を遂げた人を救い、迎えてしまった最悪の結末さえも変えることが出来るということ。
隣で穏やかに作業をするアランを見つめる。正規の時間軸よりも早く彼と接触出来たことは、もしかすると、とても幸運なことなのかもしれない。
「ねえ、アラン」
「ん? どうしたの?」
呼びかけると、彼は手を止めてこちらを見た。子犬の耳の幻覚が見える。子犬というキャラではなかったはずなのに。
「絶対……絶対、生きてここから出ようね」
そう言うと、アランは少し驚いた様子で、目を丸くしていた。
「……どうだろうね。僕達、多分、死ぬまでここで働かされるよ」
「ううん。出られるよ、きっと」
遠くない未来、この農場はある登場人物の手によって解放される。リリエル含め、子供達はここから出ることが出来るのだ。それが、小説本編で半年後の話。
私の力強い言葉に、アランは表情を崩した。小さな希望に縋り付くような、そんな笑みだった。
「……そうだね。生きて、出られたらいいね」
アランは再び、作業に戻った。私の言葉はただの戯言に聞こえたかもしれないが、今はそれでいい。
今度こそ……いや、この世界では、アランは『死なせない』。彼も一緒に、生きてここを出るんだ。