⑤さよならキャトルくま
老人ホームのレクレーションでの漫才が終わると、またぽっかり心に穴が開いてしまった。どこか無気力になっていた。
泉さんとの食事の機会が支えとなっていたが、それも断られそうで、数日過ぎても改めて言い出せなかった。
その後、気分一新として、サイドボードの中身を捨てることにした。
妹の明子の提案で、少しでも売れそうなもの、引き取ってもらえそうなものは、リサイクルショップへ持って行くことにした。
捨てる捨てないとなると色々な思いに捉われるが、人手に渡るとなると少し気持ちは柔らいだ。
捨てる用のダンボールの中に、こけしだとかの想い出の品々を入れていった。それは気持ちを切るように速やかに行いつつ、きれいに丁寧に並べていった。
これまでずっと当たり前だった居間のサイドボードが、空になっていった。
前村家が、家族の記憶が消えていくようであった。時折、今片付ける必要があるのかと後ろ髪を引かれつつ、手を動かすことで寂しさを千切っていった。
一緒に漫才をしたピンクのクマは捨てる側にいた。仕分けが進んでいくと、次はピンクのクマの番となった。
やはり間抜けな顔でこちらを見ていた。ピンクのクマを手に取ると、改めて見回して考えつつ、背中が溶けているのを確認し、捨てる箱に入れた。箱の中でやはり間抜けな顔でこちらを見ていた。
そして、箱を閉じた。ピンクのクマは暗がりの中に収まった。
翌日、私は仕事で車椅子のご老人たちと散歩に出ていた。暖かく気持ちのいい日で、お散歩日和であった。空には青空が広がり、白い雲が浮かび、風が心地良かった。
ここにいるご老人たちは、自分の親というより、祖父母を思い出させてくれた。すると、車椅子のお婆さんが話しかけてきた。
「あんた、面白かったね」
漫才のことのようである。
「あ、ありがとうございます」
「あのクマ、よく持ってたね」
「え?ピンクのクマですか?」
「そう。あれ、キャトルくまでしょ?」
私はあのクマのことは皆無で、ルーツも名前も知らなかった。
「知らないのかい?」
「わからないです。家にあったので、思い付きで持ってきました」
「あれはキャトルくまって言ってね。私がまだ小学生で、戦災前のものだったよ。下町でこしらえててね。近所で作ってて、箱にたくさんいるのを見たよ。アメリカなど外国へ売られてね。私はたまたま父からプレゼントされて、兄弟で持ってたんだ」
「あのクマがですか…」と私が言うと、お婆さんは続けた。
「そう。確かにあれだったよ。兄弟との想い出があったから、よく覚えてんだ」
「まさか、まだお持ちですか?」
「もうないよ。空襲で焼けた時になくなっちゃったよ。家と兄弟たちとね」
私は静かに聞きながら車椅子を押していた。
「あのクマを見た時、幼く逝ってしまった弟と妹を思い出してね。あんたの漫才は面白かったけど、兄弟たちが出てきてね。でも悲しいというより、兄弟たちと楽しい気持ちになったよ」
お婆さんはそう言って、一人で笑っていた。
「また連れてきてよ」
そう言うお婆さんに「ピンクのクマですか」と聞き返した。
「そう。また会いたいからさ。会わせてちょうだい」
ピンクのクマはもういなかった。しかし、そうとは言えなかった。手放したとは言えなかった。
家に帰ると、空っぽのサイドボードがいつもの居間に座っていた。次はサイドボードを捨てる予定であった。さらに台所の品。茶箪笥、押入れ、寝室、物置の中のものと、次々と処分する予定であった。
家中のものを無くして一新するつもりであった。それで私の生活が、人生がリセットされるもりでいた。やり直したかった。
しかし、サイドボードにはピンクのクマの残像が映っていた。いつもの間抜けな顔でこちらを見ていた。
私は大きな勘違いに気が付いた。断捨離をして一新しても、想い出を心にしまっても、きれいにしても、その意味は違っていた。
父に母にお爺ちゃん、お婆さんと、この家にいた先人は、何を思ってここに想い出の品を飾ったのであろうか。それは喜びであったり、楽しさだったはずである。
それを選別して処分したとしても、私が藪から棒に捨てられるものではなかった。私を育てた先人の喜びの中で、私は育ったのだから。
昼間のお婆さんとの会話を思い出した。
お婆さんは、現在九十歳で東京は下町の生まれとのことで、近所であのセルロイド製のキャトルくまが作られており、空襲で亡くした兄弟のこともあり、キャトルくまをよく知っていたという。
話はそんなキャトルくまの話から、何故か私の話へとなっていった。
「おもしろいことはこれからも考えなさい。たくさん言いなさい。しなさい。人生なんて幸も不幸もやってくるが、どちらと取るかは自分だから。あんたとクマを観た時、弟と妹を思い出すけど、それは二人ともケタケタ笑ってる姿だった。ほんとは辛く悲しくなるはずなのに。この歳になってあのクマを見るとは思わなかった。見たらきっと辛かったのに、それが笑って兄弟を思い出したの」
家の中のものを無くしても、私は一新などしなかった。一新もリセットも、環境ではなく、私自身の問題であった。
過去が頭を惑わすといって、回りの物を捨てても、仮に命を捨てても、やり直すのは私の問題であった。当たり前である。サイドボードの想い出に八つ当たりしただけであった。
私はキャトルくまだけは、手元に戻そうと考えた。
間抜けな顔だと散々思ったが、独りとなってしまった漫才では、相方もしてもらった。前の日の晩には、徹夜でのネタ作りとネタ合わせも隣りでつきあってくれた。そのそばにいてくれたピンクの顔は凛々しかった。
私は翌日、数日前に出したリサイクルショップへ向かった。店に入り事情を話し、しばらく待たされると責任者が出てきて言った。
「申し訳ございません。お客様の物はほとんど処分に回してしまいました。お探しのものはどのようなものですか」
「ビニールでできたピンクのクマなんです」
私がそう答えると、聞いていた店員が店長に言った。
「セルロイドのクマがありましたよ。ジャンクでしたが、「懐かし堂」さんに送るものに入れたやつですよ」
「あ、あれか。あったな」
そう言って、店長は私に振り返ると、また申し訳なさそうに言った。
「処分しない一部は、仲間内のお店に送ってしまいまして、そちらにお伺いいただいてもよろしいですか」
私はお礼を言って、その「懐かし堂」というリサイクルショップの場所を聞いて、すぐに向かった。
店長からは、手元に戻すには買取になると言われたが、お金は構わないと話した。さらに先方へ電話してくれるとのことであったが、手間かけてもいけないので、すぐに行くことを伝えお断りした。
その場所は、都内でも電車と徒歩で小一時間はかかった。最寄駅を降りるとスマホの地図アプリを頼りに歩いた。商店街から角を曲がりしばらく歩いた突き当たりに店はあった。角を曲がりと二百メートル程先にそれらしき店が見えた。
私はひたすら歩いた。もうすぐ会えると思って歩いた。「懐かし堂」という店の名前の文字が見えた。
キャトルくまからも見えていた。キャトルくまは思った。
「洋一か?なんだなんだ必死そうな顔して。俺を迎えにきたのか。笑」
道の真ん中には、一点を見つめこちらに真っ直ぐ向かう洋一がいた。
「まさか俺を手放しておいて、迎えにきたのか。初めは捨てようとしてたじゃんか。笑」
洋一の顔が悲しく焦った顔から、和やかな顔になっていった。
「嬉しいじゃないか。でも…」
こちらへ歩く洋一にクマは言った。
「もういいよ。ありがとう。俺のお務めは終わったんだ。お前は生まれ変われ」
私は店が近づくにつれ安堵が湧いてきた。家にキャトルくまだけは持って帰りたかった。店の手前まで来ると、店の中で並んでいるピンクが見えた。
仲間たちと立っているようであった。まるで遊んでる子供を迎えに行くような感じであった。もう一度会える。どんでん返しである。
私は蔑ろにしていた。家族も自分の人生も。何一つきちんとしていなかった。悪さもしなければ、良いこともしなかった。すぐそばにあった幸せに浸っても、感じることはなく、有り難みを感謝することもなかった。人に幸せを与えたこともなかった。人を想ったこともなかったのではないだろうか。人生をぞんざいにしていた。愛が足りなかった。
店の中に入り歩み寄る洋一にクマは思った。
「そんなこと思われたって、別に俺はお前を恨んじゃいないよ。急にどうしたんだよ。笑。八つ当たりした上に、またお前は俺を巻き込むのか。お前に俺はもう必要ないよ。捨ててもいい。だから、お前が変わるんだ。もうすぐお前には春が来る。そしたら新しい証を見つけ、それを糧に励みに幸せなるんだ」
私はピンクのキャトルくまの前に立った。それはサイドボードの中にいたうちのキャトルくまであった。いつもの顔でこちらを見ていた。
まずはキャトルくまに謝った。
「ごめんなさい」
そう呟くと、普通に自分のもののように手を伸ばした。
しかし、私はその手を止めて、ゆっくりと引いた。
「売約済」
キャトルくまの足元にはそう書かれた紙が貼ってあった。
間に合わなかった。
早過ぎるだろ…。
しばらく立ち尽くしていた。
私は目の前のキャトルくまに深く頭を下げて呟くように言った。
「これまでありがとうございました。さよなら」
そして、私は前を向くことにした。
また面白いことを考えることに決めた。
****
⑥その後
キャトルくまの俺は、なかなかモテるもんで、早々にコレクターの女の人に買われていったんだ。
いくらで買われたか?それは内緒だよ。
今は葛飾区は立石六丁目の「乙女屋」っていう昭和レトロの店にいる。そこは俺よりは年下ばかりだが、懐かしい連中に囲まれている。
老人ホームじゃないぞ。
天国かって?
縁起でもないこと言うなよ。みんなちゃんと生きてるよ。
時々外国人が来ると買われていく奴もいる。みんなはそんな奴らを「留学」と言っている。
俺も留学したいな。
洋一のとこのような一般家庭のサイドボードの中ではなく、花でも飾ってくれるお金持ちの家がいいな。
洋一の奴はその後、泉ちゃんって娘を食事に誘ったそうだ。駅前のファミレスに予約を入れようとしたから、先祖の連中でそこそこ人気のレストランにするように念じたそうな。
先祖も大変だよな。笑
支払いは?
そうそう。あいつ、割り勘って言いかけたから、また先祖の連中であいつに支払わせたそうな。
親の顔が見たいってか。そりゃ先祖の中にいるだろ。笑
俺はテッドかって?
違うよ。キャトルくまだっての。
完