①家の中のキャトルくま
彼はいつも居間のサイドボードの中から、私たち家族の目に付く場所にいた。
それは私が物心の付いた頃からではないかと思う。彼とはピンク色のくまの「キャトルくま」という人形である。しかし、その名前とルーツを知るのはずっと後のことであった。
サイドボードの彼には、かつて活気のあった私の家の中から、私の半生まで全てを見られていた気がする。と今、改めて思わされた。
普段、彼を見ることもなく、彼に触れることもない。ピンク色がいるのはわかっているが、それが自然でしかなかった。
初めてか久しぶりか、彼を手に取ると、それはすごく軽く古いビニール人形であった。背中が少し溶けてるようにも見えたが、日光の紫外線も外気にも触れてなく、状態はとても良かった。私は彼をサイドボードの中へ戻した。
彼はいつものとぼけた顔でこちらを見ていた。
私、前村洋一はこの家の長男で、今年で43歳になる独身男である。半年前の今年の春、七十八歳の父親を亡くした。母親も三年前に他界していた。兄弟は、結婚して嫁いだ三歳下の妹がいるが、近くにはいなく滅多に帰ることはなかった。
この数年で両親を亡くし、寂しい気持ちと介護から解放された解放感と、自分の歳と現状から、複雑な気持ちが日々続いていた。私は独身を貫くつもりもないが、歳と見た目と収入から結婚は程遠かった。
そんな私の仕事は、老人介護の仕事である。
かつて家でも介護をしていて、仕事でも介護をしていた。仕事が家で役立ち、介護する家族の立場が、仕事で生かされてもいるといったところであるが、いずれ先の私を介護する人はいないと笑いのネタにしたりする。
老人介護の仕事も今年で五年目となるが、それまで未経験で、学歴は三流大学を出るも資格もなく、平社員の薄給である。それまでは職を転々としており、偉そうに言えばいろいろやったといえる。さらに二十九歳まではお笑い芸人をしていた。
面白い人と言われることはあるが、笑わせる人ではなく、笑われる人でしかなく、そこがわからず七年も活動していた。
お笑いの相方は、関谷雅樹という高校の同級生であった。その彼とスベラーズというコンビを組んでいた。スベラーズとは階段に貼る滑り止めの商品名で、笑いをスベらない意味でつけたが、その名前を付けるセンスがスベっていた。
相方の雅樹は非常にだらしなく、良く言えばマイペースな男で、漫才コンクールの決勝でドタキャンした男である。決勝でのネタをざんざん練習して、決勝の前日に就職が決まって大阪へ行くと言い出した。そんなこと急に決まるわけがなく、初戦から就職での大阪行きは決まっていたという。しかし、許せないが憎めない男であった。
そんな彼からたまに連絡があり、この日も連絡があった。
「(もしもし、俺やねん)」
「何だよ。そのインチキな大阪弁は」
彼はとっくに地元の東京に帰って来ていた。
「(いやぁ、久しぶりに漫才やんないか)」
「やらねぇよ。何だよ急に」
「(いやぁ、思い出しちゃってさ)」
「何をだよ」
「(お前との漫才)」
「四十過ぎて独身で漫才って、ネタにもならねぇよ」
「(どこかでやる機会探してよ)」
「そこから俺に頼むのかよ」
彼とはその後、堂々めぐりで押し問答が続いた。
彼とはたまに顔を合わせているが、いきなり何で漫才なのであろうか。それも解散して十四年も経って…。しかし、私は彼とのこのやり取りが好きだった。
漫才をやる機会。
それが無い訳ではなかった。今度、職場の老人ホームで、グループの施設も交えてレクレーションが催されることとなり、その企画で担当の職員から相談を受けていた。
担当の職員は、山下泉といい、私よりひと回り年下の三十代前半の女子で、「泉さん」と呼んで仲良くしていた。仕事では私より先輩で、主任という立場でもあった。何かと私に話しかけてくれる可愛い先輩であった。
参加者は、普段来てくれるボランティアの演歌歌手や、手品師、学生の落語家が参加してくれるが、他に何かないかということとなっていた。
雅樹とスベラーズの漫才などとは微塵も考えなかったが、雅樹からの電話で少し考え始めていた。
私が元漫才師ということは、職場の人は誰も知らず、家族と地元の同級生の一部しか知らない黒歴史となっていた。
その事実を泉さんに知られることがどうなのかを、一番に考えていた。
しかし、泉さんの助けになるのなら、やってみたいというのもあった。また、あの決勝でみすみす逃した夢を、最後のチャンスとして笑いを取りたいというのもあった。
もう一度だけ漫才がやりたかったのだ。そして、雅樹に連絡することにした。