1 まやかしの世界
僕が高橋化学工業を退職して二年半が経った。株式投資をしながら東京で悠々自適な生活をしている。競馬の配当金を最大限に活用して、儲かる株だけを購入した。未来を知っている僕は、この不公正取引で自分だけでは使い切れぬ財産を得ていた。
東京メトロの駅から徒歩五分のタワーマンションの三十階。それが僕の住居だ。一階には防災センターが備えられてセキュリティ対策は万全だった。地下階からは複合商業施設とも繋がっていて、日常の買い物や食事にも便利に利用できる。他にも劇場や水族館などのレジャー施設が多くあるので退屈することはなかった。
夜になれば、部屋から眺める夜景が素晴らしい。巨大なJRの駅の背後には、全国チェーンの電機店・カメラ店などのビル群。そして、区庁舎やホテルの高層棟。その先にはスカイツリーが眺められた。
「現実とは、ただのまやかしだ」
ユダヤの物理学者がそんな言葉を言っていたような気がする。本当の僕はこの世界には存在しないのに、こんなにも贅沢な生活をしている。田舎の町工場にいた時には想像もしなかった変貌だ。
「このまま朽ち果てるには、お誂え向きじゃないか」
存在しないのだから、皮肉に嫌味に生きていくしかない。真面目に働き、苦労して生きるなんて意味のないことだ。
「まやかし、まやかし。そうさ、ここはまやかしの世界さ」
菩提重工で働いていても、こんな景色は僕の人生では絶対に眺められない。ここだから出来た偽りの体験でしかない。
勤労感謝の日の前夜、僕は国技館に来ていた。照明が消されて建物の影が月夜に闇のように浮かんでいる。明日は高専ロボコンの全国大会がここで開催される。建物から出て来る学生たちの皆は意気揚々としている。地方大会を勝ち抜いて、念願の全国大会出場を果たしたのだ。誰もが全国一を夢見て希望に満ち溢れていた。
「摩唯伽ちゃんは夢を果たせたのだろうか」
岐阜を去って以来、僕は摩唯伽ちゃんを忘れることに努めていた。僕との世界にいた彼女とは違う摩唯伽ちゃんなのだから、僕と関わるべきではない。この世界で自由に生きて行って欲しいと思う。
しかし、それでもどうしょうもない程に気になってしまう。高専ロボコンは僕が摩唯伽ちゃんに人生の道標にした重大な運命の岐路なのだ。
出場校リストに岐阜高専があった。そこに入れるメンバーは三人。ロボット研究会に所属する大勢の中の一握りでしかない。
「きっと頑張ってくれているよね」
明日の本戦の健闘を願いつつ、僕は時の経過を忘れて佇んでいた。
「―――さん」
誰かを呼ぶ声が近くでした。僕はここに知り合いなんていないので無視することに決め込んだ。まやかしの世界で生きる僕は孤独なのだ。
「佐藤さん?」
女性の声が僕を呼んでいた。暗がりの中を近付いて来る影に僕は身構えた。影がもう一つあったからだ。富裕層になった僕を妬むものは少なからずいる。護身の道具は常に持ち歩いている。鞄の中に手を入れて、催涙スプレーを取っていた。
「やっぱり佐藤さんだぁ」
声の女は長い髪をしている。遠くからの車のライトで照らし出されていた。そして、もう一つの影は男だ。茶髪で革ジャンを着ているように見える。たくさんの鋲で装飾されているのが闇の中で光った。




