5 鯨飲馬食
「ごめんなさい。私服が決まらなくって。それに靴も」
電話の向こうで彼女が困った声で言った。僕はぎょっとした。何を言っているんだと呆れさえする。旅行に行くのではない。出張であり、しかも行く先は実験センターだ。そんなものなんて全く必要ない所なのが分っていないのか。
そうだった。僕は説明していなかった。
「きららちゃん、外出はしないから私服はいらないよ。作業服だけで十分なんだ。あと、簡単な部屋着とパジャマでもあればいいよ」
「そうなんですね」
電話を切った後、また三十分して、やっと彼女が現れた。大きなキャリーバッグを持って、僕が乗る社用車に手を振った。
「すみません、すみません」
ぺこぺこと何度も頭を下げて近付いて来る彼女は申し訳なさそうにしている。何とも驚いたことに、彼女はリュックも背負っていた。僕には女性の持ち物が分っていない。いったい何を持って行くつもりなのだろうか。とにかく時間が押しているので、急がなければならない。
「女の子って荷物が多いんだねぇ」
皮肉で言ったつもりだが、彼女は笑って「そうなんですよぉ」と言うだけだった。
「社員食堂はもう終わっているから、何処かで食べて行こうか。きららちゃんは苦手な食べ物ってあるの?」
「私ですか。私は生のお魚が食べられないです。煮たり焼いたりしたものは、まだ大丈夫なんですが、生ものは絶対に駄目です」
「あぁ、そういう人いるよね。以前食中毒で苦しんだとかで」
「私は、――― 私は、それで両親を亡くしたんで」
僕は言葉に詰まった。そんな理由があるなんて想像すらしていない僕は、ハンドル操作を誤りそうになった。彼女に申し訳なく思い、無神経な質問をした焦りで、視界が極端に狭くなった。
「佐藤さん、危ないですよ。ちゃんと前を見て運転してください」
「あっ、あぁ。―――ごめん」
「よそ見しないでくださいね。事故を起こしたら、謝ってもらっても許しませんよ」
「いや、御両親を―――」
「えっ、嫌ですね。本気にしたんですか。そんなの冗談ですよ」
彼女は高らかに笑った。
「お肉食べましょうよ、お肉!」
お腹を押さえて空腹感を確かめているのだろう。歯を剥き出して、何かを食べる仕草をした。僕は慎重な運転に専念する。それにしても冗談にしては、何て悪趣味なのだろうか。僕の気も知らずに、彼女は昼御飯に夢中なようだ。移り行く景色を眺めながら、ふんふんふんと変な節回しの鼻歌を歌っている。
新入社員なのに随分と余裕がある態度だ。もしかすると彼女は残忍な性格を持ち合わせているのだろうか。しかし、それは容貌に似合わない。どこから見ても世慣れしていない田舎出の女の子で、初々しい純真さが魅力に思える。
国道沿いをしばらく行くと、少し薄汚れた食事処がある。小さい店だが、広い駐車場は昼食時には満車のことが多かった。
「鯨飲馬食? これってお店の名前ですか」
彼女は口を尖らせて眉根を寄せている。あまり良い店とは思っていないのだろう。何料理の店なのかは外観では分からないので当然かもしれない。
「安くて美味いと先輩たちから教えられた店だよ。実験センターに行く時は、みんなはここで腹ごしらえをするんだ」
「へぇー、御用達になっているってわけですね」
「んー、御用達がお気に入りの意味で言っているのなら、きららちゃんの言う通りなんだけど―――」
僕は御用達の本来の意味に拘ってしまう小さな人間だったりするのか。芸能人御用達とかの足繁く通う店という意味合いは現代的な使い方で、この場で彼女を正す必要もないと反省した。
「入ろう。今日は先輩として僕が奢るから遠慮しないでね」
「ホントですか!」
彼女はびっくりした顔と嬉しい顔の両方をしている。本当に遠慮しないで食べるつもりなのか、無心にガッツポーズをキメていた。それなのに僕は女の子が食べる量なんてたかが知れていると侮ってしまっていた。
中年の作業服姿の客が多い。特にニッカポッカが目立つ。近くに土木建築現場があるのだろうか。如何にも鳶職人らしい姿は最近では減っているように思う。
「ここのテーブルにしよう」
僕の勝手な苦手意識でしかないが、その人たちとは距離を置いてしまう。イメージが悪く見えてしまうのだ。当人たちはそんなことはないのだろうが、ガラが悪いような偏見を持ってしまっていた。作業着販売で有名なワークマンに行けば、もっとお洒落な平ズボンでも買えるだろうになとお節介な考えを言いたくなる。