33 隠れ家
寮の玄関ロビーで彼女は待っていた。テーブルを囲んで長椅子が四方に置かれている。彼女はそこに座って入寮者たちと談笑していた。人気者の彼女だ。僕を見ると手を振って合図を送っていた。
誰もが彼女が待っていたのは松本だと思っていたのだろう。僕の姿を見るなり、全員の表情が変わった。意外な目つき、敵意の目つき。しかし、僕は胸を張って彼女を呼び寄せた。
「きららちゃん、行こう」
彼女を僕の行き付けの店に連れて行こうと思う。それによって僕という人間性を知って貰いたい。それで彼女が受け入れてくれれば何よりなのだ。
彼女が乗っていた自転車を二人乗りして行った。暫く走れば住宅地の中に昔ながらの定食屋がある。女将さんとお婆さんの二人が切り盛りするカウンター席しかない小さな食堂だった。メニューはそれほど多くはない。入店してすぐに僕たちは『日替わり定食』の晩酌セットを注文した。
「ここは寮の奴らが来ない穴場なんだ。うちごはん的な手料理が食べられるよ」
待つ間もなく料理は提供されてきた。これがこの店の魅力でもある。カウンター越しに女将さんが真四角なお皿に盛ったお惣菜を渡してくれる。メインが鶏もも肉の唐揚げとサバの味噌煮。付け合わせにマッシュした里芋サラダと胡瓜の酢の物、きんぴら、大根の煮物に冷奴とアジのたたき。
「きららちゃん、お酒はどれにする?」
日本酒の一升瓶がカウンターの奥に並んでいる。セルフで好きな銘柄を注ぐことが出来た。
「どれでもいいんですかぁ」
彼女が目の色を輝かせた。一通り見た挙句、戦国武将の名の銘柄の緑色の酒瓶が気になる様子だ。
「グラス一杯ならいいよ。どれだけ入れても一杯は一杯だ」
半分でも摺り切りでも自由なのだ。彼女はどれだけ注ぐだろうか。
「何て素敵なお店なんでしょう」
摺り切りまでとはいかないが、グラスを少し傾ければこぼれそうだ。彼女は大好きに日本酒を飲めるとあって嬉しそうにしていた。
「あとは白御飯と味噌汁か、雑炊が付いてるよ」
「私、お雑炊がいい!」
「じゃあ、お酒の後に出して貰おうね」
「これで千五百円なんですか。佐藤さん、何故もっと早く教えてくれなかったんですか。私、ここに通いますよ」
「えーっと、僕の隠れ家だからねぇ」
「じゃあ、私の隠れ家にもしてください」
彼女は僕の手を取って頼んだ。何の違和感もない。僕の感情は半年前の夏の日に戻っていた。
「それじゃあ、佐藤さんに乾杯」
「きららちゃんに乾杯!」
グラスを合わせて、美味しいお惣菜を肴に飲んだ。アルコールが入ると、僕の心の鍵が開かれ易くなる。潜在意識は自分でも知らないものがあったりするものなのだろうか。
「東大卒だったんだって?」
「げっ、一番初めに言いましたよね」
「いや、聞いてない」
「ちゃんと言いましたよ。その後に訊かれた時は、化学を専攻していたって言いましたけど」
彼女は情けない顔をした。伝わっていなかったことが悲しいのだろうか。化学を専攻していたと聞いていたが、大学名を僕は聞いた覚えがない。それが東大ならば尚更だ。僕の大学とは、何かとライバル視される大学だからこそ忘れる筈がない。
「聞いていなかったんですかぁ」
僕が悪いように彼女が言う。しかし、そんな筈はない。確かに聞いていないのだ。
「園田課長に連れられて行った時に、初めて会いましたよね。そこで自己紹介しましたよ」
「んー」
その時は珍しい名前に気を取られていた。武鎧という強そうな名前が、高校生っぽい女の子の印象に合わない。そんなことばかりを考えていたような気がする。
「だから開発部に配属されたんだなぁ」
「あれ、何だか誤魔化しましたか。話題を無理に進めようとしている気がします」
「うっ」
東大卒を聞いていなかったことに知らん振りをした僕を許してくれない。彼女は僕の言うことをいつもしっかりと聞いている。それなのに僕は彼女を軽く見ていた。先輩だから、教育担当者だから、機械を良く知っているから、そんなたくさんの優位さで彼女を僕は侮ってしまった。その傲慢さから彼女が僕を裏切らないと勝手に思い込んだ。
彼女は自由なのだ。僕を選ぶのも、選ばないのも自由。勿論他の誰かを選ぶのも自由だ。でも、山藤が言ったように選ばせる努力は必要なのかもしれない。




