32 イエローコンパイラ
二時間ばかり残業をする日が続いた。別に苦痛ではないし、それどころか僕にとっては幸いだった。定時に寮に戻ってもすることがない。下手に時間を持て余せば、彼女のことを考えてしまうからだ。山藤が言った通り、僕は後悔している。もっと早く行動を起こすべきだったのだ。
「もう今更だよな」
とっぷりと日が暮れて、寮への帰路に就く。満月が東の空に上がっている。空港から飛び立つ飛行機がその輪郭の中に重なって見えた。あれに乗って遠くへ行きたい。自由に飛べればどんなに良いか。これから休みに入る週末を、どのように過ごそうか。本気で逃避する自分自身を考えていた。
路面を揺らめく光が見えた。僕は背後から自転車が来たのだと判断して、道の端にそろりと寄って進路を譲る。そうするとダウンジャケットを羽織った女の子が通り過ぎた。僕にはその後姿に見覚えがあった。否、そんなものではない。見間違うことも、見逃すこともない後ろ姿だった。
「きららちゃん!」
思わず声を掛けてしまった。こんな場所で、こんな時刻に擦れ違うなんて思ってもいなかったからだった
キイイイイィィィーーーッ!
自転車のブレーキ音がうるさく響いた。
「佐藤さん・・・ですか?」
彼女は暗がりの中に立つ僕を怪しんで見た。街灯はあるが、疎らで場所によっては他人を見分け難い。しかもここを通るのは菩提重工の社員しかいないので、同じ作業服を着ていると余計に見分けがつかなかった。
「久しぶりだね」
「お疲れ様です」
彼女はつれなく言う。暗い中にいるのだけれど、あまり顔を見ようともしない。
「お出掛け?」
「はい、ちょっと夕飯の買い物に」
「そうなの。だったら・・・」
僕は言い掛けた言葉を飲み込んだ。そんなことを言っても良いのだろうか。彼女を困らせることにならないかと躊躇った。
「だったら、何ですか?」
彼女が僕を見てくれた。そして、僕の言葉を聞き洩らさないのは、新入社員教育をしていた時と同じだった。いつでも彼女は僕の話を聞いてくれる。それなのに素直に話さないのは僕のほうだった。それでは駄目だと分かっているから、返事に窮してしまう。
「食事に行かないかい」
遂に言ってしまった。焦っていたからと彼女に謝ろうか。
「あっ、ごめん。そんなの彼氏に悪いよね」
「えっ、彼氏って?」
「松本と付き合っているんだろ」
「どうしてですか」
「みんながそう思っている」
「そんなの嘘ですよ。付き合っていませんよ」
「でも、いつも一緒にいるよね」
「あぁ、あれですか。あれはイエローコンパイラの話をしているんですよ」
僕には彼女が言った名詞が理解出来なかった。コンピュータ用語なのだろうか。
「私って、イエローコンパイラが好きじゃないですかぁ。だから、松本さんとイエローコンパイラの話をしてて、CDを貸してくれるって言われたので」
「イエローコンパイラ?」
「えー、知らないんですか。今人気の音楽ユニットなんですよ」
彼女はやれやれという表情をした。流行についていけないオヤジを見る目をしている。
「それよりも、食事に連れて行ってくれるんですか?」
「ん、あぁ。着替えたら連れて行ってあげる」
作業服姿では何処にも行けない。一旦寮に戻らなければならなかった。それにしても、彼女について皆が間違った目で見ていたとは考えもしなかった。僕は認識を改めねばならないと知る。何事も思い込みでは駄目なのだ。確認しなければ真実は分からないものだ。特に彼女という人は、そんな人なのだ。




