14 僕の役割
「これは冗談では済まされないですね!」
ぴしゃりと強い口調で彼女は脅迫の言葉を口にした。真顔で僕の顔を覗き込み、視線を逸らすことを許さない。蛇に睨まれた蛙とは僕のことだ。体がすくんで動けない。僕は人事部に自首している自分を想像していた。
「佐藤さん、今すぐにそこから出て来てください」
逆らう余地を与えてはくれない。僕は大人しく彼女に従った。重い足取りで機械の中で、そこかしこに躓いた。足元を見ていても、それが危険であると判断できない。手を突きながらどうにか機械背面に転がり出た。
蒼い顔色をした野山係長が、彼女と駆け付けて来る姿が見えた。僕の人生は呆気なく終わった。簡単なものだなと思う。しかし、こんなにも容易く終わりがやってくるなんて想像していなかった。だが、それが現実というものなのだろう。僕が思っていたよりも甘くはないのだ。
「間抜けなことをしやがって!」
野山係長が開口一番に僕を叱責する。言い訳なんてしない。僕は罪を認めている。彼女の前では往生際が悪い最期は見せられない。男らしく潔く死ぬべきだ。
「どこだ?」
「はぁ?」
何がなのだろうか。僕には係長が言っている意味が分からない。
「耳です。右耳」
彼女がけたたましい声で言う。そんな鋭く高い声が出せるのかと僕は不思議に思った。
「何だ、これっぽっちか。こんなのは絆創膏でも貼ってやれば十分だ」
蒼い顔をしていた野山係長がほっとしていた。
「何です?」
耳と言われて手で触れてみると、濡れている感触があった。何だろうと手を見ると赤く染まっていた。
「消毒します」
彼女は携えてきた救急箱を開けた。ピンセットで脱脂綿を取り出して、消毒液をたっぷりと含ませている。
「そこに座ってください」
壁際の折り畳み椅子を目で合図する彼女。僕は事態が呑み込めないので従うしかない。冗談では済まされない事態で、どうして救急箱が登場するのだろうか。怪我を治療してから処分されるのだろうか。野山係長が僕の様子を観察しているが、まだ完全に不機嫌さを解消した表情をしていない。
「そんなつもりではなかったんです」
つい未練がましい言葉を言ってしまった。
「じっとしていてください。ちょっと沁みるかもしれないですよ」
消毒液を含んだ脱脂綿を耳に当てられた。冷たい感覚と、シュワシュワと泡が弾ける音がする。怪我をした記憶もないので、彼女が言ったような傷口に沁みるという感覚はなかった。
「痛くないですか?」
「大丈夫ですか?」
「他に痛いところはないですか?」
ひたすらに彼女は心配をしてくれている。僕にはそんなにしてもらう価値がない。無意識に欲望を満たそうとしてしまう詰まらない男だ。
「絆創膏って、地域によって呼び方が違うらしいですね」
彼女はバンドエイドを貼りながら呟いている。地域でその商品が普及した結果、その商標名が絆創膏そのものの呼び名として認知されてしまった。サビオやカットバンと呼ばなければ、絆創膏だとは思われないのだ。
「ステープラーはホッチキス、ラップはサランラップと同じだね」
「さすがに佐藤さんは物知りですね。ステープラーなんて知りませんでしたよ。因みに私はクルックルッのクレラップを使ってますよ」
彼女は治療完了したという合図に、僕の肩を叩いた。救急箱を片付けて、野山係長にご心配をお掛けして済みませんと謝った。
「作業に戻れますか、佐藤さん。私に指示していただけば、何でもしますから宜しくお願いします」
違っていた。僕はそう悟った。彼女は僕に不快を感じていない。否、僕に何も感じてはいない。ただの教育担当者でしかないのだ。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど、僕ってきららちゃんの何?」
そんなことを訊くものではない。彼女が何て答えれば良いのか困惑させることだ。
「あははは、そんなの決まってるじゃないですか。私の先生ですよ。宜しくご指導をお願い致します」
無邪気に言う彼女。そうだった。それが僕の役割だった。何を血迷っていたのだろうか。彼女は新入社員。そして、僕は教育担当者。それ以外には何もない。相手が男性社員だったら、こんなことは思わない筈だ。明確に割り切ろう。僕にはそれが出来る筈だ。出来る筈なのだ。
それからの僕は、粛々と作業を進めた。自らの役割も大いに果たした。もう馬鹿な真似はしない。彼女の先生として、彼女の将来を考えて教育していく。
どんな女性社員になってもらいたいのか。仕事で男性社員には負けない彼女だ。そうはいっても対抗しろと言うわけではない。女性らしい仕事で結果を残してほしい。男では出来ないきめ細やかさ。そんな仕事ができる女性社員になってくれれば最高だ。




