権力の構造について
権力という力は、非常に不思議な力です。
一般に「力」というものは、その人の持つ能力や素養に由来します。
例えば、「腕力」ならば腕の筋肉の発する力です。
「知力」ならば頭脳の働きによる思考能力です。
「魅力」は容姿や仕草、雰囲気や話術などを総合した他人を引き付ける能力でしょう。
「財力」となると体内にあるものではないですが、当人の所有する財産とそれを活用する能力でしょう。
基本的に「力」というものはその本人に大元があります。
しかし、「権力」の源はどこにあるのでしょう?
権力者に向いた才能というものはあるでしょう。しかしそれは、権力者になれば有能であるというだけで、権力そのものではありません。
昔の王侯貴族や権力者の家系のように、権力者になりやすい血筋というものもあります。しかしどれほど由緒正しい血筋でも必ず権力を持つとは限りません。
それでは、権力という力はいったいどこから出て来るのでしょうか?
そもそも権力とは何か。端的に言えば、人に指示を出し、従わせることです。
元々は管理職の職能、仕事上の役割だったはずです。
人間、一人でできることには限界があります。多くの人が協力することでより大きな仕事を成し遂げることができます。
けれども、二人いれば一人の二倍、十人いれば十倍の仕事ができるという単純なものではありません。二人だけでも一人の場合よりも何倍も作業ができることもあれば、十人集まっても互いに邪魔になって一人の方が速かったなどということもあり得ます。
複数の人が協力して仕事をする場合重要になるのが、だれが何の作業をするのかという割り振りと、別々人の行った作業をうまく合わせる仕事の進め方になります。
仕事をするのが二人や三人ならばたいした問題はありません。仕事の割り振りや進め方も、何か問題が起きた時にも全員で話し合えばよいのです。
しかし、百人、千人の人手を投入する大規模な仕事の場合、民主的に全員で話し合っていたら何時まで経っても仕事が進みません。
そこで登場するのが管理職です。直接の作業は行わず、仕事の全体を見て人の割り振りや作業の進め方の指示、トラブルの対応などを行います。
大きな仕事では管理者を置くことで他の人は自分の作業に集中でき、問題が発生しても管理者に相談すればよくなり、円滑に仕事を進めることができるようになります。
この管理者の役割は重要です。今でも失敗して火を噴いたプロジェクトを立て直すには、人員を投入するよりもプロジェクトマネージャーを変えた方がうまく行くという場合もあります。
仕事の成否が管理者の力量に大きく左右されるため、仕事の成功の功績も、失敗の責任も、管理者に大きな比重が置かれます。
本来役割の違いでしかないはずの管理者が「偉い人」扱いされるようになったのは、この辺りが理由だと思います。
また、仕事を成功させるために、管理者の行う内容は多岐にわたります。
困難な作業や重要な作業を担当させる人間は、高い技術を持った者や信頼できる者を割り当てる必要があります。なので、各人の評価を行わなければなりません。
管理者の指示に従わず、自分勝手な作業を始める者が出ると、仕事全体を失敗に導く危険性があります。きちんと仕事をしない者にはペナルティーを科す必要も出て来るでしょう。逆に優れた成果を上げた者には褒賞を与えて、全体のやる気を上げる場合もあるでしょう。
作業者の評価、賞罰、そして作業の割り振り。これらは、仕事上のものであっても、他の関係者に大きな影響を及ぼします。
濫用すれば特定の人を苦しめたり、逆に必要以上に良い目を見せたりすることも可能です。濫用し過ぎると仕事そのものが失敗して責任を取る破目になりますが、規模の大きな仕事ならば一人や二人優遇したり冷遇してもそれほど影響は出ないものです。
結果として、職務の範囲を超えて逆らえない相手になります。職権を乱用しなくても、正当な職務の範囲内でもある程度の優遇や嫌がらせは可能なので、下手に嫌われるだけで面倒なことになります。
仕事が大規模て重要なものであるほど、そこに決定権を持つ管理者の影響は大きくなります。多くの人の生活や人生にかかわるほどに大きな影響力を持つと、多くの人が従うしかない権力者になるのです。
権力の力というものは、他者を従えるという力です。ここで最初の疑問に戻りましょう。何故人は権力に従うのでしょうか?
人を従える力は他にも存在します。
物理的な力で従える場合、武力や暴力と呼ばれます。
金で雇うことで従えるならば、それは財力でしょう。
権力の場合も、従った場合の利益、従わなかった場合の不利益によって人を従えています。
しかし、権力者が利益や不利益を与える方法は、人に対して指示を出すことです。その指示に対して当人や周囲の人間が従うことで利益や不利益をもたらします。
つまり、権力というものは、人々が従うことで、人々を従わせることができるのです。
ちょっと不思議だと思いませんか?
逆に言えば、誰も従わなければ権力は力を持ちません。実際に、絶対的な権力を持つ王様でも周囲の人間が悉く叛けばその力を失い倒されてしまいます。
権力という力の源は、権力者本人ではなく、その者の権力を認める周囲の人々の方にあるのです。
以上のことを踏まえて、権力を得るために必要なことを改めて考えてみると、それは従うべき人々に認められることであると言えます。
少人数のグループ内で権力者となるリーダーを決めるという場合は、全員が納得する実力者をその座に据えることもできるでしょう。
面倒なのは、同じくらいの実力者が複数いたり、集団の人数が多すぎて最もふさわしい者が誰か分からない場合でしょう。
同格の権力者が複数現れて誰の指示に従えばよいのか分からない、という状態は最悪です。組織的に仕事を進めることが困難になり、迷走したり、互いに足を引っ張り合ったりしかねません。
こういう場合に簡単な方法は、より上位の権力者に誰に権限を与えるのかを決めてもらうことです。権力者が複数いても、権限の及ぶ範疇がはっきりしていたり、上下関係がきっちり決まっていたりして、誰の指示を優先して従えばよいかはっきりしていれば問題ありません。
ただし、この方法では一番上、最高権力者だけは決められません。この最高権力者が空位のまま放置しておくと、仕事が止まったり組織が分立したりして面倒なことになります。
特に国の運営のような重要な仕事で元首が不在のままだったりすると、行政サービスが止まったり内乱が起こったりとろくなことになりません。
だから、この手の特に重要な権力者の地位は誰が付くか、どうやって決めるかということがルール化されていることが多いのです。
世襲制というのもそのルールの一つです。昔は親の財産と共に仕事も子供が引き継ぐことが普通でした。特に、特別な知識や技能を必要とする仕事は、子供のころからそうした教育や訓練を行う環境がなければ身に付かないものもあります。
そして、仕事を子供が引き継ぐのが当たり前の世の中では、権力を持つ仕事を子供や血縁者が引き継ぐことも当然のこととして周囲の理解が得られたのです。
周りの人間が納得して認めることが権力を生み出す源なので、世襲制というものもその時代に合った合理的な方法だったわけです。
現代は民主主義で、国会から地方自治体の議会まで選挙で議員を選びます。これは民主主義として民意を政治に反映させるための手段でありますが、権力者に「選挙で選ばれた」という正統性を与えるものでもあります。
世襲で引き継ごうが、選挙で選ばれようが、周囲が納得し認めれば権力が発生するという構造は変わらないのです。