嫌煙運動に付いて
勘違いしている人や、よく分かっていない人もいそうな気がするので、一応書いておきます。
嫌煙運動というのは、タバコの害を絶対に許さない健康志向ではありません!
嫌煙運動とは読んで字のごとく、煙が嫌いだと言う人々の起こした運動です。その主張はただ一つ、「タバコの煙は迷惑です。」これだけです。
健康被害の主張は、迷惑であるということを示すための理論武装でしかありません。
本来ならばこのような運動が起こることの方がおかしいのです。
海外の状況は知りませんが、少なくとも日本では他人に迷惑をかける趣味は社会的に潰されます。
喫煙がタバコの煙を嗜む趣味である以上、他人に迷惑をかけ続ければ規制されるのが当然なのです。
普通ならば、反対運動が盛んになる前に趣味を守るための行動――マナーの向上とか、自主的なルールを作って守るといった行動に出るものです。自主規制って、自衛の手段なのです。
昔読んだアマチュア無線関係の書籍にこんな感じの言葉がありました。
「もしあなたが電波を発しいて周囲で電波障害等の問題が発生したら、即座に電波の発信を止め、原因が判明して対策が取られるまで決して電波を発してはいけない。
たとえ相手の機器の問題であってもあなたが電波を発するまでは発生しなかった問題なのだから。」
アマチュア無線というのは、行う人にも無線設備にも免許が必要な結構厳しく管理された趣味です。しかし、法律を守っているからと開き直るのではなく、問題を起こさないようにここまで気を付ける必要があるということです。
趣味を守るためには、他者への迷惑をかけないように、このくらい徹底して気を遣う必要があるのです。
しかし、これまでタバコを吸う人はどれだけ他人への迷惑に気を配ってきたでしょうか?
個人的には迷惑をかけないように注意している人もいるでしょうし、JTもスモーキンクリーンなどのキャンペーンを行ってきました。しかし喫煙者全体としてはどうでしょう?
この場合、マナーの良い人間がどれだけいるかではなく、マナーの悪い人がどれほど目立つか、迷惑を被った人がどれだけいるかということが問題になります。
趣味を守るためには、一部のマナーの悪い人を如何に減らすか、表に出さないようにするか、という点が重要になります。
この点、喫煙者全体として、タバコの煙による迷惑を極力減らすということが全然できていなかったと思います。
原因は色々あるでしょうけれど、一つには日本に喫煙文化が育ってこなかったのではないかと思います。
日本にタバコが入って来てある程度普及したのは江戸時代初期ぐらいになります。しかし、これを持って日本には江戸時代から続く喫煙文化があったというのは早計です。
江戸時代の喫煙方法は、煙管を使用したものです。今の日本に煙管を使っている人がどれだけいるでしょうか? 江戸時代から続く喫煙文化を受け継いだと言えるのはこの人たちだけです。
煙管による喫煙は少々手間がかかります。まず刻みタバコを少量丸めて先端に詰め、火を点けます。吸い口から煙を吸い、終わったら灰を取り出します。
一度に吸う量は少ないため、長時間吸い続けるのは面倒です。他の仕事をしながらタバコを吸うこともできないでしょう。また、ヤニが溜まるので煙管の手入れは欠かせません。
手間がかかる分、煙管だけの方が同好の士の間での情報交換なども進み、喫煙文化として発展したかもしれません。
明治になると、紙巻きたばこが入ってきます。
個人的には、この紙巻きたばこが諸悪の根源ではないかと思っています。
煙管に比べて、紙巻きたばこは扱いが簡単です。火を点けるだけですぐに吸えて、吸い終わったら捨てるだけです。一本吸い終わるまでの時間も長めだから、歩きタバコも、ながらタバコもし放題です。
タバコを吸うことに専念しない分、喫煙を趣味として意識しなくなってしまったのではないでしょうか。
また、手軽な紙巻きたばこの普及によって短い時間に庶民に一気に広まったのも問題だと思います。
急速な普及は、紙巻きたばこの手軽さも相まって、先達から手ほどきを受けたり教えを請うたりするプロセスをすっ飛ばします。この結果趣味としての文化の形成が阻害されたのだと思います。
そして急速に普及し、喫煙人口が一気に増えたことが、喫煙に関する様々な問題の原因の一つだと思うのです。
喫煙者の数が多くなればマナーの悪い人も一定数現れます。と言うか、喫煙文化が形成されていないので、初期のころは一般的な喫煙のマナーそのものが存在しなかったのです。
昭和の頃には、道端や駅のホームの下の線路上にはたばこの吸い殻が散乱していました。散乱している吸い殻を見て、他の喫煙者も気楽にタバコの灰や吸殻をポイ捨てするようになるわけです。
マナーの良い人で、灰皿の近くでしか吸わないか、携帯用の灰皿を用意して吸う程度で、吐き出した煙にまでは意識が向かなかったのです。
さて、戦時中は物不足でタバコも配給制になったりしたようですが、戦後になって景気が上向くと、再びタバコの消費が増えて行きます。
明治のころからタバコは専売にして国の収益になっていましたから、健康に害があると分かっていても、国としては禁止等できなかったのでしょう。
昭和の後半、ピーク時には成人男性の喫煙率は八割にもなっていたそうです。戦後復興でがむしゃらに働く人たちに、禁止されたヒロポンの代わりにでも使用されたのでしょうか?
この時代は、タバコが苦手な人には非常に辛い時期であったことは想像に難くありません。成人男性の八割というのは単に喫煙者が多いというだけに留まりません。女性の社会進出が進んでいなかった当時、非喫煙者の多い女性と未成年者は社会的な発言力が小さかったのです。喫煙を問題視する声は社会的に無視されました。
大半の職場ではタバコを吸う人の方が圧倒的多数派でした。タバコが苦手な人というのは、非喫煙者の中でもさらに一部の、非常に少数派になります。
職場ではタバコを吸うことが当たり前になり、吸わない人の方が少数派、タバコで辛い思いをしている人などは理解の外という状態だったのです。
また、趣味で他人に迷惑をかけることは許されませんでしたが、経済発展を優先していた時代には仕事で迷惑をかけることは見逃されていた部分があります。各種公害が蔓延したのも同じ理由でしょう。
本来喫煙と仕事は全く関係ないもののはずなのですが、働く者の多くが喫煙者で、職場でタバコを吸うことを考慮せざるを得なくなって喫煙も仕事の一部のような感覚になっていたのだと思います。
だから、当時はタバコで迷惑が掛かっているという認識そのものがほとんどありませんでした。非喫煙者でもタバコを吸う人がそこいらじゅうにいるのが当たり前という感じになっていました。
「たばこの煙くらい我慢できなければ、社会に出てやっていけないぞ。」とか言われるような時代だったのです。煙が苦手、嫌いというのはただのわがまま扱いされかねませんでした。
喘息等でタバコの煙に耐えられないくらいでなければ考慮されず、下手をするとそういった例外的な人は「病院へ行け!」と言って社会から排除されかねません。
病人や被害者が悪者扱いされる風潮は今でもあるのですが、どうにかならないものでしょうか。
このような、嫌煙者にとって絶望的な状況で事態を改善するためには、まずタバコの煙が迷惑であることを理解させる必要がありました。
そのために嫌煙運動で行ったことが、「タバコの健康被害」を前面に押し出すことでした。
喫煙が健康に対して害になることは以前から知られていました。実は江戸時代からすでに知られていたらしいです。
そして受動喫煙でも健康に害が出るというデータが出てくれば話は速いです。
タバコの煙が嫌いだ、不快だという主張に「そんなものは我儘だ」と言い張る人でも、健康を損なっていると言われれば迷惑であることを理解できるでしょう。
一旦迷惑が掛かっていることが理解されれば、人に迷惑をかける趣味は排斥される方向に動きます。
また、社会も変化しました。公害が問題としてクローズアップされ、仕事のためとは言え駄目なことは駄目と経済優先から意識が変わって行きました。
女性の社会進出が進み、女性の発言力が高まりました。ついでに女性の喫煙率も上がったりしましたが。
一方でほとんど変わらなかったのが、喫煙者自身の意識だったと思います。
分煙が始まったあたりで、趣味を守るための行動を適切に行っていれば、喫煙に関する状況は今とは異なっていたでしょう。
しかし、喫煙者側から有効な方策が出て来ることはありませんでした。全く何も考えられなかったわけでないのでしょうが、少なくとも大きな流れにはなりませんでした。
このあたり、タバコが文化として育っていないと感じるところです。喫煙者の数は多かったのだから、その一部だけでも集まれば様々なことができたはずです。
おそらくほとんどの喫煙者は、ただ何となくタバコを吸い始めて、そのまま止められなくなっただけなのではないかと思うのです。
数は多くても喫煙者同士の仲間意識はなく、喫煙文化を担うつもりもない。嫌煙運動が盛んになっても自分と関わらないうちは他人事で、自分がよく利用する施設が禁煙になってようやく文句を言い出すのです。
多くの喫煙者は、ただ文句を言うだけで、自分から何かをすることなく、誰かがどうにかしてくれるのをただ待っていただけだったのではないでしょうか。
この体たらくでは世の中の流れを変えようがありません。嫌煙側は、世の中何処へ行っても煙から逃れられない地獄をずっと耐てきたのです。そして、苦言を呈しても全く相手にされなないか、その場限りの対応でごまかされてきたのです。今更喫煙者の泣き言に耳を貸すいわれはありません。
それに、喫煙者の文句も微妙に見当外れだったり、現状の改善には役に立たないものが多かったのです。
いくつか印象に残っているものを挙げてみます。
・「自分の身体の健康について、人様にとやかく言われる筋合いはない!」
これを嫌煙運動に対して言うのは見当違いもいいところなのです。
嫌煙運動では理論武装として健康被害を前面に打ち出しましたが、喫煙者自身の健康については全く気にしていません。
それどころか、人によっては自分の健康に対してもさほど気にしていません。健康被害はあくまで理論武装で、本当に伝えたいことは「タバコの煙は迷惑です」という一点なのです。
だから喫煙者が早死にしようと病気で苦しもうと、逆にヘビースモーカーにもかかわらず健康で長生きしようが関係ありません。自分が、そして煙の苦手な人がタバコの煙で苦しまなければそれで良いのです。
喫煙者本人の健康を気にするのは、WHOか厚生労働省、あるいは当人の身内でしょう。WHOはともかく、医療費削減に悩む厚労省や勝手に早死にされても困る身内の人は、あれこれと口出しする筋合いは十分にあると思います。
・なぜかマイカーを引き合いに出す
ハイブリッドカーや電気自動車も登場した昨今は見かけなくなりましたが、昭和の終わりころや平成の初めころには、なぜか喫煙に関する議論に自家用車の是非を絡めようとする人がいました。
これは完全に詭弁です。喫煙の是非と、マイカー所有や使用の是非は全く関係のない問題です。ガソリン車の吐き出す煙とタバコの煙は全くの別物ですし、嫌煙運動でマイカーを推進しているわけでもありません。
全く関係ないものを持ち込む行為は、議論を発散させ、議論そのものを妨害するための詭弁の手法です。喫煙が迷惑だという主張を、環境問題や排ガスの公害問題にすり替え、別の話にしようとするものです。
この論法の弱点は、マイカーの所有を否定する方向に話が流れてしまうと、マイカーと喫煙の両方を擁護しなければならなくなることです。一家に一台どころか、一人に一台に迫る勢いで自動車が普及し、誰もがマイカーを持ちたがっていた時代だからこそ出て来た主張でしょう。
最近はCO2削減の関連で、ガソリン車から電気自動車への移行する動きが強まっています。この状況で喫煙とマイカーを絡めても、ガソリン車の存続を訴えるか、煙を出すという共通点すらなくなった電気自動車を関連付けるというかなり無理な主張にしかなりません。
マイカーに乗って排気ガスを出すことが許されるなら、タバコの煙も許されるべきだと主張した方々、電気自動車時代に向けて禁煙の準備はよろしいですか?
・「俺たちはいったいどこでタバコを吸えばいいのだ!」
実はこれ、一番言ってはならない台詞です。何故かと言うと、自分がタバコを吸うための場所を他人に任せてしまっているからです。
元々嫌煙運動で喫煙所を作ったのは、喫煙する人を一箇所に集めることで、煙の存在しない場所を確保するためです。喫煙者に便宜を図る気持ちはほとんど無いのです。
だから、嫌煙側に喫煙所を委ねてしまったら、より遠く、より数少なく、不用意に煙に晒される危険のないように辺鄙な場所へ追いやって行くことは必然です。
本当ならば、喫煙者側が率先して喫煙所を作って「これで問題ないか」と聞くべきだったのです。そうすれば、喫煙所の設置に関しては主導権を握れたでしょう。
似たような台詞に「だったら何メートル離れればいいんだ?」というものがあります。
タバコの煙が漂ってくるので近くで吸うなと苦情を言われた場合の言葉になりますが、これは聞かれた方も困ります。
タバコの煙というものは、何メートル離れたら消滅するというものではありません。風上ならば一メートルでも問題ないこともあれば、風下の場合は十メートル以上離れても強い匂いが届く場合もあります。
苦情を言う側の目的は距離を取ることではなくタバコの煙に害されないことです。下手な数値を言って、「言われた通り〇〇メートル離れたから問題ないだろう」と開き直られても困ります。だから余裕をもって絶対に大丈夫な距離を答えるしかないのです。
これも、「近くで吸われると困る」という苦情が来る前に、煙がそちらに向かわないような工夫をするとか、風向きまで考えて吸うから迷惑がかからないという信頼を得ておくとかやっておくべきなのです。
この手の対応をちゃんとやらないと、禁煙の場所が増えるだけです。
実は、私自身はタバコの煙が死ぬほど嫌いです。地球上からタバコが無くなってしまえばいいと思っています。
だから、喫煙者がバカをやって自滅し、喫煙場所がどんどん無くなろうが、タバコそのものが手に入らなくなろうが構いません。
しかし、喫煙を趣味として楽しみたいとか、文化として後世に残したいと思うのであれば、喫煙者自身がちゃんと趣味を守る行動をしてほしいと思うのです。
趣味を守るための行動は、他人に迷惑をかけないことが第一歩なのです。