旧約聖書を読んでみた
ちょっと興味があって旧約聖書を読んでみたことがあります。聖書としてではなく、岩波文庫でですが。
目的は、神様に突っ込みを入れること。
と言いますか、聖書の物語について少々疑問に思っていたことがあったのです。
カインとアベルの逸話において、殺されてしまったアベルはそれまでですが、カインの方はその後も子孫が続いていきます。
ここで問題です。カインの嫁さんはどこから現れたのでしょうか?
これは、最初の人間、最初の一人を想定すると必ず出て来る問題です。最初の人間の伴侶はどこからやって来るのか。
アダムに対するイブは神様が直接作りました。
ノアの洪水の話では、ノアの三人の息子は妻と共に箱舟に乗り込んでいます。
しかし、アダムとイブの子供であるカインの妻はいったい何者なのか?
ちょっと想像してみましょう。
1)イブと同じく神様が作った。
2)アダムとイブから生まれた。つまりカインの姉か妹。
3)人間以外の存在を娶った。
さて正解は?
旧約聖書を読んでみると、何も書いてありませんでした。カインの妻は名前すら書かれていません。
神様が作った女性ならばさすがに何も書かれていないということはないでしょうから、1)は無いでしょう。
アダムは九百三十歳まで生きてたくさんの子供に恵まれているので、2)はあり得ます。しかし、キリスト教でもユダヤ教でも近親婚はタブーだし、アダムの娘の話ならば何も書かれていないのも不自然です。
3)は日本ならば神様や動物が嫁いでくる話はあるでしょうが、旧約聖書の世界ではちょっとありそうもないですし、あったとしても何も書かれていないということもないでしょう。実際に、神の子(天使)が人間の娘を娶る話は旧約聖書に記載されています。
では、結局カインの妻は何者なのでしょうか?
実はカインとアベルの話をよく読んでみると、地上には普通に人がいるみたいなのです。
弟を殺した罪でその地を離れて放浪しなければならなくなったカインは、神様に泣き言を言います。
「わたしを見つける人は誰でもわたしを殺すでしょう」
それに対して神様は、「カインを殺す者があったら、その人は七倍の復讐を受けなければならぬ」などと物騒なことを言ってカインに一つのしるしを与えるのです。
地上にいる人がアダムとイブの子供、つまりカインの兄弟ならば、カインを見つけたら打ち殺すというのも妙ですし、神様がカインだけを優遇するのも変です。
おそらく地上にいるのは、アダムとイブとは関係のない、自然発生的に存在する人間なのでしょう。
キリスト教の聖書として考えると、「アダムとイブは全ての人間の先祖なのではないの?」と妙なことになりますが、ユダヤ教の聖書として考えれば問題ありません。
ユダヤ教では、聖書の神はユダヤの民だけの神です。アダムとイブはユダヤの民の先祖であり、それ以外の人間とは関係ありません。ユダヤの神に作られなかった人間がいてもおかしくないのです。
旧約聖書では、アダムとイブの子孫、カインの子孫、ノアの子孫などを数代に渡って名前を列挙しています。この手の名前を列挙する記載は、神話などを編纂した時の権力者が、その血統の正当性を示すために行うものだと思うのです。
つまりユダヤの国では、神に直接造られたアダムとイブの血をより色濃く受け継いだ直系の子孫と、そこから少し血の薄まった一般の民がいて、さらに自分たちの神とは関係のない、ユダヤ民以外の者とはっきりと分かれているわけです。
キリスト教では、聖書の神を全人類の神に拡張し、アダムとイブを全人類の始祖にたことで、全人類が平等に神に救われる民になりました。
その代りに、どこかで近親婚が行われないと辻褄が合わないことになっているのです。
さて、改めて読んでみると色々と発見があるものです。有名な話だと思っていても、じっくりと読んでみると意外と知らないことがあったりします。
皆さんも、特に聖書の話を元にした物語を作ろうと思っている人は、一度宗教的なものを横に置いて読んでみることをお勧めします。
例えば、有名な七日間の天地創造ですが、「光あれ」で始まる天地創造の前の状態というものがあります。
「地は混沌としていた。暗黒が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていた」
という具合です。
よく、ビッグバンを「光あれ」と対応させるような考えがありますが、あれは間違っているわけです。七日間の天地創造では、光より前に水があったのです。
七日間の天地創造は、無から有を生み出すような創造ではなく、無秩序から秩序を生み出すタイプの創造です。特に最初の三日間はその傾向が強いです。
一日目、明るい昼と暗い夜を分ける。
二日目、天と地を分ける。
三日目、海と陸を分ける。
最初の「光あれ」だけは存在しなかった光を生み出したようにも見えますが、それ以外は元からあったものを加工して形作っている創造です。
また、二日目の内容も興味深いです。ここで神が行ったことは、地上の大水を上下二つに分割し、その間に大空を造ります。大空は天井のようなもので、これで天地二つの大水を分けています。
つまり、旧約聖書の世界観では、空の上には水があるのです。ノアの洪水の話でも、神は天の窓を開いて雨を降らせています。
また、この七日間の天地創造を念頭に置くと、ノアの洪水の話は単に水攻めにして地上を滅ぼしただけでなく、天地創造の前の状態に戻したという見方もできます。
天地創造はその後、三日目の陸を造った後に植物を、四日目に太陽と月と星を、五日目に鳥と魚と海の生き物を造ります。そして六日目に地上の動物と人を造り、七日目に休みます。
ところが、旧約聖書にはもう一つ創造の話があります。アダムとイブを造る話がこれ一つで世界の始まりの物語になっています。そしてアダムとイブの創造と七日間の天地創造には食い違いがあります。
七日間の天地創造では六日目に家畜や獣やその他地上の動物を造った後に人を造ります。しかし、アダムとイブの話では、まず土くれから人を造り、人を助けるパートナーの候補として鳥や獣を造ります。その後アダムの肋骨からイブを造ります。
同じ聖書の中で人と鳥や獣を作る順序が逆になっています。
岩波文庫版の註釈では七日間の天地創造の部分は司祭資料、アダムとイブの創造の部分はヤハウェ資料となっていて別系統の物語を一つにまとめているみたいです。
他にも、アダムとイブが禁断の実を食べてエデンの園を追放される話と、カインがアベルを殺してその地を去ることになる話とは、罪を得て神の下を去るというテーマが全く同じです。
と言うか、エデンの園を追い出されたアダムとイブの子供とされるカインとアベルが、何故か神と一緒に暮らしているのです。たぶん、同じテーマで別々に存在した話を繋ぎ合わせて、後からカインとアベルをアダムとイブの子供ということにしたのではないでしょうか。
それから、読み進めて行くと微妙に多神教の影を感じました。
元々旧約聖書はユダヤ教の聖典であり、ユダヤ教はユダヤの民以外に対して信仰させるような宗教ではありません。
つまり、ユダヤ教以外の異教徒が存在することは当然で、異教徒が信仰する別の神というものも世間ではありふれていたはずです。
有名なモーセの十戒の最初の一つは、自分以外の神を信じてはいけないというものですが、その理由は他の神が存在しないからでも、偽物であるからでもありません。
私は嫉妬深い神だから、と言っているのです。他所の神の浮気したら祟っちゃうぞ、という感じです。
他の神の存在を明確に否定していないんですよね。肯定もしていませんが。
これも、ユダヤ教として考えれば、ユダヤの民以外はこの神の管轄外なのでどのような神を信じようが関係ないわけです。他民族の信仰する神が存在しようがしまいがユダヤの民には関係のない話なのです。
一方でユダヤの民に対しては、神自らが作った人間の子孫であり、神が頑張らなければこの世に存在しなかった人々なのだから、自分以外の神を信奉されたら納得がいかないということになります。
ユダヤ教は他民族の宗教や多神教の世界観とうまく折り合っていたのだと思います。
さて、旧約聖書は多少のちぐはぐさや矛盾を含んでいても、ユダヤ教の聖典として問題なく成立しています。
しかし、これがキリスト教の聖典となるとまた別の問題が出てきます。
キリスト教では聖書の神を全人類の神とし、アダムとイブを全ての人の祖としました。こうでもしなければ自分の造った人の子孫にしか興味のない神には相手にされないし、どれだけ罪を贖っても神の国に迎え入れられることはありません。
自分以外の神を信じると妬いてしまう神が全人類の神であるとしてしまうと、他の神の入り込む余地がありません。キリスト教が一神教になったのはこのためでしょう。
ここで問題となるのが、異教徒の扱いです。ユダヤ教ではユダヤの民以外は異教徒で何の問題もありません。しかし、キリスト教において異教徒は、同じ神によって生み出されたアダムとイブの末裔ながら、唯一絶対の神の存在を忘れ去り、異教の神を信奉する堕落した重罪人ということになってしまいます。
旧約聖書の神は嫉妬深いだけでなく、罪を犯した者には厳しく罰を与えるかなり容赦ない神です。出エジプト記では異教徒であるエジプト人に洒落にならない嫌がらせをした祟り神でもあります。
ノアの洪水で自分の創造した人も動物も滅ぼし、ソドムとゴモラを町ごと滅ぼした神が、堕落して異教徒に成り下がった者を許しておくのでしょうか?
厳しく罰を与える神というものは、元からの信者に戒律を守らせるという点では優れていますが、異教徒を改宗させて信者にするという点では不向きです。別の神を信じているだけで罪となり罰を与えるような神を今更信仰したいと思う異教徒がいるでしょうか?
キリスト教が誕生したのは、ギリシャ神話をそのまま受け継いだ多神教の古代ローマ帝国です。少数派の新興宗教が「改宗しなければ神罰が下る」とか言っても信者は増えないでしょう。
それに、旧約聖書に記された戒律の類はユダヤの民の生活・風習に根付いたもののはずです。あまり厳密に守らせようとすれば他民族には無理が生じるでしょう。
だからキリスト教ではその辺り色々と緩くなっています。そうでなければマイナーな弱小宗教のまま消滅していたでしょう。
世界宗教となるためには、神そのものの性格も、ユダヤ教の容赦なく罰を与える厳しい神から、赦し救う優しい神に方向転換する必要があったわけです。