偏食者の言い分
アクションありがとうございました。
昔ネット上で、「偏食」という言葉に条件反射のように反応して「我儘なだけ」と返す人を見たことがあります。
それだけしか言わないので、何がどう我儘なのか、その真意は分かりません。
もしかすると、ものすごく我儘で偏食な人間が身近にいるのかもしれません。
ですが、一般論として「偏食=我儘」と結び付ける考えは私には理解できません。
偏食は好きでやっていることではありません。
嫌いでやっているのです。
私もどちらかと言えば偏食です。
子供のころから好き嫌いが激しく、食べられないものが多くあります。
その偏食な人間として言わせてもらいます。
「偏食は不幸です。」
本人が言っているのだから間違いありません。
他の多くの人が「美味しい」と喜んで食べる同じ料理を、まったく美味しいと感じない、場合によっては食べられないほど不味く感じるのです。
皆が美味しい美味しいと食事を楽しんでいる中で、一人だけ全く楽しめないのです。
これが不幸でなくて何でしょう。
拙作の「メシマズ異世界地獄」は、この他の人が美味しいと言うものを食べても美味しく感じないことの苦しみを描いたものです。
分かり易く異世界の話にしてありますが、現実のこの世界にも同じ苦しみを味わっている人が間違いなく存在します。
偏食者は不幸で、辛く苦しい思いをしています。
ですが、世間一般では「偏食は我儘」みたいな認識の人も多いような気がします。
子供向けの物語の中には、「好き嫌いのある子どもが、色々あって嫌いな食べ物に挑戦し、美味しく食べられるようになってめでたしめでたし。」みたいな話がよくあります。
あれ、絶対に嘘です。現実にはあり得ません。
偏食でなくても、苦手な食べもの、どうしても好きになれない食べ物の一つや二つ、多くの人が持っているでしょう。
不味いとしか思えなかった食べ物を、頑張って食べたら美味しくなったなんて経験のある人いますか?
我慢して食べきることはできたとしても、いきなり美味しくはなりません。
つまり、「子どもの好き嫌いなんて、本当は美味しく食べられるのにただ我儘で嫌いと言っているだけ」みたいな認識が無意識のうちに入っているのではないでしょうか。
「天下無敵のゴーヤーマン★」という歌があります。NHKの「みんなのうた」でも放送されたことがあるので知っている人も多いでしょう。
私はこの曲を聞いた時、ちょっと危ないと思いました。
だって、ゴーヤーマンは「野菜嫌いをやっつけて」しまうのです。
もちろん、歌の主旨としてはゴーヤーの美味しさで野菜が嫌いとか言わせないという意味なのでしょう。
けれども、小学生あたりが聞いたら物理的にやっつけることを思い浮かべるのではないでしょうか。
アンパンマンだって、ばいきんまんをぶん殴って退けています。
下手に流行ったら、給食を残した子供を「ゴーヤーマンごっこ」と言っていじめたりしないでしょうか?
そして、いじめが発覚した時に、「いじめは悪いが、好き嫌いをする方も悪い」などと言いだす大人がいないと言い切れるでしょうか?
いじめた側に理解を示せばいじめに加担することになりかねません。
教師や自分の親が「いじめられたくなければ好き嫌いを直せ」とか言い出したらもう最悪です。下手をすれば不登校一直線です。
たかが好き嫌いと侮ってはいけません。本当に駄目なものを無理やり食べさせようとしたら、最悪吐きます。
どうしても飲み込めなくて口の中から吐き出すだけならばまだましで、堪えようもなく胃の中身をぶちまけることだってあります。
小学校で吐いたら、卒業するまで「ゲロ」呼ばわりされますよ。
いじめを受けるような子供の扱いは推して知るべしです。
好き嫌いで食べないことを非難する人でも、食物アレルギーやその他の病気で食事制限がかかっていて食べられないものがある人にとやかく言うことは無いでしょう。
とやかく言ったり、無理やり食べさせようとする人がいたら、正しい知識を身に付けて態度を改めてください。
医師の指導に基く食事制限ならばそれは治療行為の一環です。中途半端な知識で異を唱えたり無理やり食べさせようとするならば、それは治療の妨害に当たります。
アレルギー体質の人にアレルゲンとなる物質を摂取させれば最悪死にます。そこまで行かなくても、アレルゲンから遠ざけることがアレルギーの治療方法であり、やはり治療妨害になります。
病気に理解を示さずに治療を妨害するような人は今では少数だと思いますが、最初から理解があったわけではありません。
食物アレルギー以外で食事が制限される病気として有名なのが糖尿病でしょう。血糖値をコントロールするために摂取する糖質の制限が行われることがあります。
この糖尿病に対して、「贅沢病」と呼んで揶揄するような時代もありました。
毎日腹いっぱい飯を食って、そのカロリーを使い切るほどの重労働を行わずにブクブクと太った贅沢者が罹る病気。
そんなイメージがあったのです。
だから、食事制限に関してはとやかく言われなくても、糖尿病だというだけで贅沢三昧したあげくの自業自得だと言った偏見で見られていたのです。
肥満が糖尿病のリスクを高めることは確かですが、血糖値をコントロールするインスリンの分泌がうまくいかなくなることが原因なので別に太っていなくても糖尿病になる場合はあります。
糖尿病に対する認識が変わったのは、社会が変化したからでしょう。
日本国内で飢える人がほとんどいなくなる程度に豊かになった一方で、あまり体を動かさないデスクワークの仕事が増え、一般的な生活をしている人でも簡単に太ってしまうようになりました。
今ではだれでも糖尿病に罹るリスクはあるし、健康を考慮した食事を取ったりジムに通って運動したりする余裕のある人の方がリスクを下げられるようになってしまったのです。
贅沢病などと言う人はほとんどいないでしょう。
けれども、正しい知識が広まって理解が深まったわけではありません。
単に、少数派に対する偏見が、少数派でなくなったために自然消滅したにすぎません。
アレルギーに関しても似たようなものです。
昔はアレルギーは珍しい病気でした。
食物アレルギーと単なる好き嫌いの区別が付いていなかったり、「慣れれば平気になる」ものだと思い込んでいる人がいたりしたことでしょう。
世の中が清潔になり過ぎたせいで免疫系のバランスが崩れてアレルギーになると言った説もあるそうで、今ではアレルギーは珍しくありません。
特に花粉症で悩む人は多いでしょう。アレルギーはすっかり身近な病気になりました。
身近な病気になると無関心ではいられません。
花粉症が死ぬほど重症になることはまずありませんが(絶対にないとは言い切れない)、食物アレルギーの場合は最悪死にます。
自分がアレルギーでなくても、自分の子供がアレルギー体質だったら?
うっかりアレルゲンを含む食事を子供に与えたら大変なことになります。
あるいは小学校の生徒が食物アレルギーだったら?
教師が「病気に負けるな!」とか言って変な熱血指導で無理やりに食べさせて死亡事故でも起こせば社会問題になります。
無知は時に罪になります。
身近にアレルギー体質の人が増えてきた昨今、最低限の知識はないと危険です。
余談ですが、アレルギーに対する偏見や誤解が復活するのではないかと、ちょっとだけ心配しています。
アレルギーの治療法として減感作療法と呼ばれるものがあります。
これは、アレルギーを引き起こす原因物質を少量ずつ与える治療法で、花粉症の治療に用いられる舌下免疫療法なども減感作療法の一種です。
意図的にアレルゲンを与えることでその状態に体を慣らすのですが、「慣れる」という言葉が誤解を生みます。
一般に、毒物や細菌などに対して「慣れる」という場合、免疫が強化されてその毒物や細菌の目印となるたんぱく質に即座に反応して攻撃を行う状態になることです。
初めて来た土地で生水を飲んだら腹を下したけれど、しばらく暮らしているうちに平気になった、みたいな現象です。
一方、アレルギーとは本来無害な物質に対して免疫が反応し、正常な細胞を攻撃して炎症を起こす状態です。
毒物や細菌に対するのと同じ意味で「慣れ」てしまうと、アレルギーはより酷くなります。
困ったことに、アレルギーで炎症が発生すると(本当は免疫細胞による攻撃が原因なのに)体内に侵入したアレルゲンが犯人だと判断して免疫が強化されてしまいます。
だから、アレルギーの治療はアレルゲンを遠ざけることが基本になります。
減感作療法は、アレルギーの症状が現れない程度のアレルゲンを投与することでその物質が安全であることを免疫に憶えさせ、免疫反応を抑制する部分を強化することを目的に行われます。
加減を間違えると失敗して悪化します。最悪、アナフィラキシーショックで命に関わります。
だから、減感作療法は医師の指導の下に行われます。舌下免疫療法でも定期的に通院して医師が経過を見ます。
中途半端な知識で「慣れさせればいいのだろう」とか言って素人療法を始めたりしたら死人が出かねません。
そこまで馬鹿なことをする人はまずいないと信じたいのですが。
さて、少数派に対する差別と偏見の源は無関心にあります。
自分とは関係ないと思っているから、不確かな風説をろくに確かめもせずに信じます。
ついでに、悪いことを少数派に押し付けるような心理もあるようです。
血液型性格診断などでも人数の最も少ないAB型に悪い内容が当てはめられることが多いと聞いたことがあります。
少数派に対する差別や偏見をどうにかするには、無関心でいられない程度に多数になるか、さもなければ多くの人の興味をひくようなショッキングな出来事でもないと難しいでしょう。
例えば、昭和の頃には、社会に出たら仕事上の付き合いで酒を飲まなければならない、と言う考えが一般的でした。
仕事の後に上司や部下や同僚や取引先の人と飲むのも仕事の内で、勧められた酒は飲まなければ失礼、飲めない人は頑張って飲めるようにならなければいけない。
酒に弱い人、酒が嫌いな人、付き合いで飲んでも楽しめない人には辛い時代でした。
それが、アルハラなどと言って無理に飲ませることも問題行為と認識されるようになった背景には、女性の社会進出などの社会の変化の他に、飲み会での事故が増えた事が挙げられます。
ある時期から大学生が飲み会を行うようになり、「一気飲み」のような無茶な飲み方飲ませ方をして急性アルコール中毒で倒れる人が続出しました。
飲み会で楽しく飲んでいただけなのに、救急車が出動する事態になったら大事です。
そんな大事が何度も起こって、「大人(成人男性)ならば誰でも酒を飲めば嬉しい」みたいな社会的固定観念から脱却したのです。
そしてようやく酒に弱い人とか飲み会で飲んでも楽しめない人と言った少数派が認識されるようになりました。
しかし、偏食や好き嫌いに関してはなかなか理解が進まないだろうと思っています。
まず、偏食や極端な好き嫌いは常に少数派です。
世の中に出回る料理は、常に多数派の味覚に合わせた味付けが行われます。
偏食な人間が主流になれば、その好みに合った料理が作られ、嫌われた料理は廃れていきます。
そして、主流になった料理の多くが好みに合わない少数の人が「偏食」と呼ばれることになるのです。
今はみんなが美味しいという料理が、時代とともに好みが変わって食べられなくなったとすれば、「昔はこんなに不味いものを食べていたんだ」と言われることになります。
逆に、昔は食べなかったものが一般的に食べられるようになることもあります。
例えば、昔はご飯とマヨネーズの組み合わせはあり得ませんでした。
今でもご飯にマヨネーズをかけて食べる人は少数派だと思うのですが、おにぎりの具にツナマヨは当たり前になりました。
むしろ、ツナマヨ入りのおにぎりを拒否する人の方が珍しいでしょう。
頑としてツナマヨおにぎりを拒絶する人に「美味しいから食べてみろ」と勧める行為は、偏食の人間に嫌いな食べ物を食べさせようとする行為と本質的に変わりありません。
また、偏食によって社会的に問題になる事件が起こると言うこともなかなか考えにくいです。
偏食な人間に無理やり嫌いなものを食べさせてもせいぜい吐くくらいでそこまで大事にはなりません。
子供に対して「好き嫌いをなくすため」と称して本人の嫌いなものばかりを食卓に並べ、結果として子供が栄養失調で倒れたり、最悪餓死したりすれば大きな問題にはなると思います。
けれども、その場合でも偏食や好き嫌いよりも、児童虐待やネグレクトの問題として話題になるのではないでしょうか。
子供が栄養失調になろうと、ストレスでうつ病になろうと、餓死しようと、偏食で苦しんでいたことにはなかなか目が向かないと思うのです。
場合によっては「好き嫌いするから栄養失調になるんだ」などと被害者を非難する人も出て来るでしょう。
だから、機会があれば偏食の者は自ら主張しなければならないのではないかと思います。
偏食に対する偏見は多くあると思います。
例えば、偏食な人でも食べ残すことに罪悪感を持つことがあると言ったら信じられますか?
別に不思議なことではありません。子供の頃から食事を残して叱られて育っていますから。
罪悪感程度で食べられるようになったら苦労はしません。
むしろ、残したくないから苦手な料理は可能な限り食卓に出さないようにします。
そうして、食事のメニューが偏るからこその偏食です。
また、食べ残しを嫌うため、食べられるものに関しては多少無理しても食べます。
私の場合、多少量が多いと感じる場合でも、体調が悪くて食欲の無い場合でも、普段美味しく食べられる範囲の料理ならば普通に食べ切ります。
苦手なものを無理やり食べることに慣れているので、あまり食べたくない状態でも普通に食べることができます。
もしも「偏食の人間は太りやすい」といった統計データがあるとすれば、その要因の一つは食べられる料理は残さず食べようとする偏食者の行動にあるかもしれません。
それから、偏食や好き嫌いに関して、問答無用で「食わず嫌い」と決めつける人もたまにいます。
この食わず嫌いについて、無意識にでも「一度でも食べれば美味しく食べられるようになるはず」「食わず嫌いは食えば治る」と思い込んでいたりしませんか?
偏食とか好き嫌いとかに関係なく、初めて見る料理でも「美味しそう」「不味そう」と食べる前から予想することは多いでしょう。
予想が大きく外れれば印象に残りますが、だいたい予想の範疇となる場合も多いのです。
見た目、匂い、使用している食材や調味料、調理方法、その他事前情報等から味をある程度予想できることは珍しくありません。
偏食の人間だって、様々な料理やら食材やらに挑戦した経験はあるのです。嫌いな食べ物に出会わなければ偏食にはなりません。
食べる前から自分には食べられそうにない料理はある程度予想できます。
食わず嫌いであることは確かにその通りだとしても、実際に食べてみたらやはりだめだったとなる可能性はそれなりに高いのです。
この「試してみたけど駄目だった」を考慮せず、「食わず嫌いは食えば治る」と決めつけているから、「好き嫌いは全て食わず嫌い」という思い込みが発生してしまうのです。
また、食わず嫌いの克服に挑戦することは勇気のいることです。特に外食で試すことはリスクが高いのです。
試してみて美味しく食べられたのならば何の問題もありません。
美味しいとは思えなくても、どうにか飲み込むことができれば私的には成功です。
けれども、ダメなときはどう頑張っても喉を通りません。
最悪は、堪えようもなく吐きます。口の中だけでなく、胃袋の中身ごと。
一度口にした食べ物を吐き出すのは辛いし屈辱的です。食べ残し同様に罪悪感も感じます。
胃袋の中身まで吐き戻してしまえば周囲に迷惑もかかります。
だから、最悪を考えれば外食で食わず嫌いの克服に挑戦は怖くてできません。
そして、失敗して口や胃の中から食べ物を吐き戻してしまった場合、「食わず嫌いは駄目」とか言って食べさせようとした人は何と言うと思います?
「よく頑張ったね」とねぎらってくれますか?
そのような理解のある人が、食わず嫌いだと決めつけたり、食べるように強要して来ることは無いと思うのです。
食べられずに吐き戻したら、「汚い」と言って怒りだすのではないでしょうか。
嫌いなものを食べて吐くことは、おそらく酒を飲んで吐くことよりも理解されません。
この手の、実は相手のことを何も考えていない人間の言うことを聞いてはいけません。結果に責任を取らず、全てこちらが悪いことにされてしまいます。
偏食に対する偏見や無理解の中で特に大きいのは食べ物の「嫌い」に対する感覚なのではないかと思うのです。
私の場合、普通に食べられるけれども好みではない、他に好物があればそちらを選ぶ、という程度では「嫌い」とは言いません。
偏食に至るほどの「嫌い」は、食べることが苦痛になります。
「苦虫を噛み潰したよう」という表現がありますが、正にそんな感じです。
苦手なものを食べることで、顔に出るほどの強い不快感や苦痛を味わうことになります。
(嫌いなものを食べる不満から仏頂面になってるのではなく、味や食感から来る不快感に耐えきれずに顔を顰めているのです。)
食べられる範疇で最大限に「嫌い」なものになると、それこそ泣きながら食べることになります。
味を感じないようにパンやご飯などを一緒に口の中に放り込んだり、味がしなくなるまでひたすら無心で噛み続けたり、逆にほとんど噛まずに多めの水で無理やり流し込んだり。
比喩や誇張でなく、目に涙を浮かべながら必至になって食べているのです。
そうして、食べるだけで苦痛になることはあまり理解されていないように思います。
苦痛であることを理解せず、「もっと美味しいものを食べたいとごねている」とでも思っているから「偏食=我儘」という発想が出て来るのではないでしょうか?
もしもその苦痛を我慢しないことが我儘だというのなら、偏食ではない普通の人は普段の食事でどれほどの苦行を行っているというのでしょう?
食育とは、食べる苦痛を押し隠して美味しそうに振舞うことですか?
偏食とは、自分のこだわりぬいた逸品しか食べないという主義主張ではありません。
好き嫌いとは、もっと美味いものをよこせと駄々をこねる行為ではありません。
ただ、耐え難い苦痛を避けたいだけなのです。
苦痛を避けることが我儘だと言うならば、とても残酷で生き難い世界です。
努力が足りないというのなら、何をどう努力すればよいのか教えてください。
確実に偏食が治る方法があるのなら、多くの偏食者が挑戦するでしょう。
少なくとも、嫌いなものを無理やり食べても、嫌いなものを好きになることはありませんでした。
身に付いたのは、味を誤魔化して無理やり飲み込む技術くらいです。根本的に苦痛は無くなりません。
これを「偏食を克服した」と言う人はいないでしょう。
理解され難い偏食の辛さですが、本当は、その気になれば理解は難しくないはずです。
偏食ではない、好き嫌いはしないという人でも、一品や二品くらいは苦手で食べられない料理や食材があっても不思議はありません。
そんな、食べられない料理ばかりがならば食卓が毎日のように続く日々を想像してみてください。
もしも、「嫌いな食べ物など何一つない」とか「その程度どうということは無い」という人は、明らかに失敗した不味い料理を思い浮かべてください。
漫画等創作物の世界では死ぬほど不味い料理を作る人物が登場することがあります。
メシマズ系ヒロインなんて言葉もあります。
食べた瞬間に噴き出したり、気絶したりするほど不味い料理という表現は、誇張はあるにせよ一般的に認識されています。
不味い料理を作る人間にも二種類いて、作った料理を本人が食べても不味いと思う味見しない系の人と、自分では美味しく食べてしまう味音痴系の人に分かれます。
味音痴系の人ばかりの世界、あるいは味音痴に台所を占領された日常を想像してみてください。
その料理のレパートリーの中にどうにか食べられる料理があれば、そればかりリクエストすることになるでしょう。
偏食の出来上がりです。
物語の中だけの絵空事とは限りません。
食の好みは国とか地域とかで結構変わります。
海外旅行をすれば、その土地の人は美味しいと言う食べ物が全く口に合わないなんてこともあるでしょう。
戦時中、日本軍の捕虜になった米兵が、「黒い紙と木の根を食べさせられた」と言ったそうです。
捕虜虐待を行ったかのような証言ですが、黒い紙=海苔、木の根=ゴボウのことです。
国や文化が異なれば、まともな食べ物とすら認識されない場合もあるのです。
食文化が大きく異なる国に単身海外赴任して現地の食事にどうしても馴染めない場合、周囲の人からどう見えるでしょうか?
日本国内でも、臭いの強烈な「くさや」とか、「いなごの佃煮」や「蜂の子」のような昆虫食など駄目な人には辛い食べ物はあります。
自分がどうしても食べられないものを周りの人間は美味しそうに食べ、「こんなにうまいものが嫌いだなんて我儘だ」などと言われたら。
どんな気持ちになるか、想像してみてください。
子供のころに苦手だった食べ物が、成長するにつれ食べられるようになるには、二つのパターンがあるのではないかと思います。
一つは、強い刺激に対する耐性が付くこと。
子供は感覚が鋭敏です。特に、強い刺激に対しては大きく反応します。
子供が注射を嫌がるとか、熱いお風呂に入れないとか、そういった類です。
味の中でも「辛い」(唐辛子の辛さ)は味覚ではなく痛覚なのだそうです。
幼い子供ほど、痛みを我慢することは困難です。
子供向けの料理に、甘口とかワサビ抜きとか刺激を抑えた味付けのものが多いのはそのためです。
しかし、成長すると刺激に対して耐性ができます。
ぶっちゃけ、鈍感になったから多少の刺激物の平気になったということです。
これが成長による味の好みの変化の一つです。
もう一つは、「美味しい」を学習したということ。
本来、味覚は食べてよい物と悪い物を判別するために発達したと考えられます。
味を楽しむなどという行為は、食べるものに不自由しなくなってから生み出された応用にすぎません。
だから、味覚の中には食べるべき味と食べてはいけない味が存在します。
例えば、「甘い(甘味)」は生物のエネルギー源となる糖分の味です。
「しょっぱい(塩味)」は動物にとって必要不可欠な塩分の味です。
「うま味」の成分であるグルタミン酸はたんぱく質を構成するアミノ酸の一種で重要な栄養素です。
いずれも摂取する必要のある成分なので、好ましい味として感じられます。
逆に、「苦い(苦味)」は基本的に毒の味です。
「酸っぱい(酸味)」は腐敗(発酵)によっても発生する味です。
「辛い(辛味)」に至っては味覚ではなく痛覚、つまり直接的な危険信号です。
これらは基本的に避けるべきものであり、いやな味として感じられます。
しかし、世の中は大雑把な味の分類だけで決まるほど単純ではありません。
苦かったり酸っぱかったり辛かったりする食材の中にも無害で有用な栄養素を含むことはあります。
植物の中には食べられないために苦かったり酸っぱかったりするものもあります。
微生物が分解した食物の中には毒素ではなく有用な栄養素が含まれることもあります。
毒性があっても少量ならば問題なく、毒を避けるよりも栄養素を摂取することのほうが重要となる場合もあります。
だから、本能的に嫌う嫌な系統の味であっても、後天的な学習で美味しく食べられるようになる仕組みがあります。
具体的には、周囲の人間が美味しそうに食べているところを見ることで美味しい食べ物であると学習し、自身も美味しく食べることができるようになる、といったことが起こるそうです。
つまり、子どもの好き嫌いを無くしたければ、親が色々なものを美味しく食べて見せることが重要、ということになります。
もちろん、それだけで全てがうまくいくとは限りませんし、逆方向に学習する可能性もあります。
食べ物に関して嫌な思いをすれば、食べられなくなるほど嫌いになっても不思議はありません。
嫌いな食べ物を無理に食べさせようとする行為は、その食べ物に対する嫌な思い出を追加し、偏食を悪化させる可能性があるのではないかと思います。
親としては、子供に何でも食べて丈夫で健康に育って欲しいのでしょうが、子供は親の思い通りには育ちません。
好き嫌いに関しては、ただ厳しくすれば食べられるようになるとは限らないのです。
そもそも、偏食の何が悪いのでしょうか?
もちろん、偏食は不幸です。偏食になってしまった当人には嫌な思いをしたり困ったりすることが多々あります。
でも、困るのは当人であって、他人から非難されるいわれはないと思うのですが。
「食べ残しはもったいない」「一人一人の都合に合わせて食事を用意するのは大変」
そんな理由で偏食を非難する人もいるかもしれません。
仕事関係とか、人付き合いとか、社会で生活していると様々な理由で自分の食事を他人に任せる場面があります。
人から出された食事を残すのは心苦しいですし、残して破棄される料理はもったいないと思います。
すごく正当な非難に思えますが……そのセリフを食物アレルギーの人に対しても言えますか?
いえ、別に食物アレルギーの人が食べないことに文句を言って欲しいわけではありません。
アレルギー体質の人に無理やりアレルゲンを含む食品を摂取させることは傷害罪になりかねませんし。
ただ、単なる好き嫌いでもアレルギーで食べられない場合でも、食べ残しが破棄されることも、人に合わせてメニューを変えることが手間になることも変わりはありません。
「アレルギーでもないのに食べ残すのは許さない」
と言うと説得力がありそうに聞こえますが、見方を変えると、文句を言いやすいところに対して文句を言っているだけとも取れます。
アレルギーの人が食べないことを非難すると、問題になって自分が逆に非難されかねないから何も言わない。
好き嫌いで食べない人を非難しても、賛同する人が多いだろうからどんどん文句を言う。
これって、反撃される恐れのない相手を選んで攻撃する、弱い者いじめと同じ構図です。
そもそも、本気で食べ残しをなくしたいのなら、一人一人の事情に合わせてメニューを調整するくらいのことをしなければなりません。
食事を食べ残す理由は、アレルギーと好き嫌いだけではありません。
食物アレルギー以外にも食事が制限される病気は色々とあります。
全面禁止ではなくても量を控えるように言われることもあります。
絶対に食べてはけないのでなければ食べろと言いますか?
宗教的に食べてはいけないものがあることもあります。
牛を神聖なものとして食べないヒンドゥー教や豚肉を禁止しているイスラム教などが有名ですが、世の中に宗教はたくさんあります。
妙な戒律を持つ新興宗教があったり、古くから存在する由緒正しいけれどマイナーな宗教や同じ宗教でも宗派によって教義の解釈が違うことなんかもあります。
さらには宗教というよりも地域の風習的な決まり事として何々を食べてはいけない場合もあります。
食べても健康に問題はありませんが、食べないことに文句を言いますか?
宗教的な戒律ではなくても、菜食主義のように個人的な思想信条に基いて特定の食べ物を食さない場合もあります。
特定の食べ物ではなく、もともと食が細くて量を食べられない人とか、その日の体調などでどうしても食べられない場合等もあります。
どこでどう線を引きますか?
好き嫌いと言っても、偏食になるほどの「嫌い」は、食べようとすることに苦痛を伴います。
人に苦痛を強要することは許されるのでしょうか?
人の健康を害するようなことを強制しようとすれば問題になります。
アナフィラキシーショックとか急性アルコール中毒とかになれば救急搬送されることになり、責任問題に発展することもあります。
宗教的な戒律に抵触することを強要するのも危険です。
信仰の自由に抵触するだけでなく、その宗教団体や信者を敵に回す恐れがあります。
このあたりのことは理解している人も多いでしょう。
ただ、マイナーな宗教やあまり有名でない地方の風習などだと理解されない恐れがあります。
単に嫌いなものを食べたくなくて嘘をついていると思われるかもしれません。
思想信条に基いて食べる物を制限する行為はさらに理解され難くなります。
宗教的な戒律と異なり、誰かに禁止されているわけではありません。自分の意志で食べる物を選んでいるのです。
その思想信条が理解されなければ、個人的なわがままで集団行動を乱している、と受け取られかねません。
菜食主義は比較的有名ですが、同じ菜食主義でも動物由来の食べ物を一切食べない、乳製品や卵なら食べる、肉は食べないけれど魚は食べる等、人によって結構違いがあります。
だから、「菜食主義なら肉を使わなければいいんだろう」程度の認識では相手の食べれないものを出す可能性があります。
そこそこ知名度のある菜食主義でもその程度の認識です。もっとマイナーな対象ならば、尊重すべき思想信条とは思われない可能性が高いです。
例えば、私はお酒を全く飲まないのですが、そのことを知っている人の多くは私が酒に弱くて飲めないと思っているでしょう。
実は、飲んだことがないので私自身体質的に酒に強いのか弱いのか知りません。
体質的に飲めたとしても酒類を飲むつもりは一切ありませんが、理解されるとは限らないしいちいち説明するのも面倒なので、酒に弱いと思われたまま放置しています。
有名ではない食に対する信条は、個人的な変なこだわりと認識され、社会的な要請の方が優先されると考える人も多いのではないでしょうか。
つまり、何かのイベントなどで出された食事は文句を言わずに食べろ、と。
本人が本気で嫌がっているものを強制して裁判沙汰になるほど問題が大きくなれば、マイナーな宗教の戒律でも食に対する信条でもある程度認められる可能性はあると思います。
健康を害するような行為でなくても、教義や信条に反する行為を強要されることで精神的苦痛を受けたと判断されます。
単なる好き嫌いであっても、嫌いなものを食べることを強要されたことで苦痛を受けたと主張することができます。
ただ、どの程度の苦痛かという点が客観的に分かり難いことが問題になりますが。
もう一つありそうなのが、偏食だと栄養が偏って健康に悪いという批判です。
それだけだとあくまで個人の問題と言えますが、医療費が増大して医療保険制度の負担になるとか言えば他人が口出しする口実になります。
ただ、私はその主張に対してはちょっと懐疑的です。
確かに偏食は食べる物が限られる分、摂取する栄養が偏る危険が高くなります。
ですが、好き嫌いなく何でも食べれば栄養のバランスはとれるものでしょうか?
偏食でなければ栄養のバランスに問題ないとすれば、世の中にあふれるサプリメントは誰が使用しているのですか?
サプリメントは不足している栄養を補うためのものです。飲めば健康になる魔法の薬ではありません。
日常の食事で必要な栄養を十分に摂取できていれば必要ないものです。
偏食はあくまで少数派であり、偏食の人間だけが必要とするのならば需要は少なく小さな市場のみで流通するマイナーな存在になったはずです。
好き嫌いがあろうとなかろうと、栄養バランスのとれた食事をとるように気を付ける必要があることに違いはありません。
偏食の場合は、食べられるものが限られる中で工夫しなければならないと言うだけです。
ついでに言うと、私は個人的に「これは体に良いものだから食べなさい」といった言葉をいまいち信用する気になれません。
全国の「お母さん」は子供に健康に育ってほしくて、色々と体に良いもの、健康のに良いものを選んで食卓に並べることもあるでしょう。
でもちょっと待ってください。
貴女は医者ですか? 栄養士ですか?
専門家がきちんとした知見に基づいて体に良いものを選ぶのならば心強いですが、ほとんどの家庭の主婦は素人です。
それって、どこかで聞きかじった知識の受け売りではありませんか?
買ったことで安心して使われることのない健康器具のように、子供に何か健康に良さそうなものを与えたとして自分が安心しているだけではありませんか?
昭和のころ、主婦をターゲットにした昼頃のテレビ番組で「健康に良い食品」が紹介されると、事前にその情報を得ていたスーパー等が特売コーナーを作って大々的に売り出し、たちまち完売するといったことがあったそうです。
子供のころ、テレビで紹介された体に良いとされるなじみのない食材が突然食卓に並んだ経験のある人もいるのではないでしょうか。
けれども、子供のころに食べた健康に良い食材をその後もずっと食べている人は少ないでしょう。
この手の流行は一過性です。
テレビで紹介された直後は興味を持つ人が急増して売り切れ続出し、入手困難になります。
そうこうするうちに別の健康に良い食品がテレビ等で紹介されると多くの人の興味もそちらに移り、売り場での扱いも縮小されて忘れ去られていきます。
よほど味が気に入ったとかがない限り、何度も食べることはないでしょう。
健康食品の類は、効果はあると言っても微々たるものです。
強い作用がある場合は医薬品になります。
どれ程優れた薬でも、良い作用のみで悪い作用が全くないということはあり得ません。
副作用どころか主作用であっても扱いを間違えれば悪影響があります。例えば、低体温の人に強力な解熱剤を与えたらどうなるか、等と考えるとわかりやすいでしょう。
強い薬ほど種類や量を間違えるとまずいことになるので、医師や薬剤師など専門家の判断が必要になります。
医師の処方を必要としない市販薬の場合でも、用法用量を間違えれば体に害になります。
健康食品は市販薬よりもさらに効果が低いから、普通に食べる分にはほとんど害にはならないのです。
食事の中の一品として何度か食べたくらいでは、良い効果も悪い効果も実感できるほどに出てくるはずがありません。
その食品が間違いなく健康に良いと、根拠を持って言える人は意外と少ないのです。
科学的根拠があるとしても、効果が認められた条件――どの程度の量をどのくらいの期間摂取したとか、被験者の生活環境とか体質的な条件とか――そうした細かい部分はあまり知られていないものです。
この手の問題は、定性的な議論だけではなく、定量的な議論も重要になります。
その食品にどんな効果があるかだけではなく、どの程度の量をどのくらいの期間食べればどれくらいの効果があるのか。
結局、食事はバランスなのです。
健康に良い食品を片端から全部食べていったら、その恩恵に与る前に食べすぎになるでしょう。
本人に必要な効果のある食品を選んで長期的に無理なく摂取する習慣を作ることが正しい手法でしょう。
単に「健康に良い」とか「〇〇に効果がある」とか聞いただけで人に勧めるのは無責任な行為だと思います。
結局のところ、偏食の人間を嫌う根本的な理由は、自分が好きな食べ物を美味しく食べないことが気に入らないのではないかと思うのです。
「同じ釜の飯を食う「寝食を共にする」」といった言葉もあります。
人の心理として、同じものを一緒に食べることで連帯感や仲間意識が生じたりします。
逆に言えば、同じものを食べない人は仲間ではないように感じるのかもしれません。
だから、同じものを食べていない人を見つけると、無意識にでも仲間との絆を深める、あるいは仲間に引きずり込もうと考えて食べさせようとするのでしょう。
ただそれは、酔っ払いが「俺の酒が飲めないのか!」と絡むのと本質的に変わらないことだと思うのです。
最後にもう一点。
こんな話を聞いたことがあります。
「ロバを引っ張って川に連れてくることはできる。頭を下げさせて水面に口を近づけさせることもできる。でも水を飲ませることはできない。」
周囲がどれだけおぜん立てしても、最終的には本人の意思が優先される、みたいな言葉だったと思います。
けれども、人間は時には飲みたくないものを飲まされ、食べたくないものを食べさせられます。
人間の意志は、ロバ以下なのです。




