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駄文庫  作者: 水無月 黒
57/58

勁の話

ブックマーク登録ありがとうございました。

 この連載の第一回目のテーマは「気」でした。

 中国武術において「気」と並んで重要な概念に「勁」と呼ばれるものがあります。

 今回はこの「勁」について考えてみたいと思います。

 中国武術に詳しくなくても、「発勁」とか「化勁」と言った言葉を聞いたことのある人もいるでしょう。

 この「勁」とはいったい何なのでしょうか?

 創作物の中では、「気」と混同するような形で「勁」を神秘的なエネルギーのように描いているものもあります。

 しかし、それは間違い、もしくは物語の中で定義された現実とは別の「勁」です。

 それでは、現実の「勁」が何なのかと言えば、「物理的な力」の事です。

 一般的な中国語において、「勁」と「力」に意味の差はないそうです。

 武術において「力」は重要なので、武術と関係の無い一般的な意味での力と区別するために「勁」を使用しているのでしょう。


 ただし、具体的に何をどうすれば「勁」になるのかは、門派によって変わるようです。


 一口に中国武術と言っても多種多様です。中国には様々な流派門派の武術が存在します。

 中国は広大です。様々な気候や地形の場所が存在します。

 その広大な大地に多種多様な人々が住んでいます。少数民族も数多くいるため、様々な風習、宗教、歴史を持った人達がいます。

 環境や生活が変われば戦い方も変わってきます。

 中国拳法に北派や南派と言った大きな分類を聞いたことのある人もいるでしょう。

 南船北馬と言って、中国の北部では馬が、南部では船が主要な交通手段になります。つまり、戦争でも北部では馬に乗り、南部では船に乗って戦うことが多くなります。

 その結果、北派は馬上で戦うことを、南派は船上で戦うことを想定する傾向があります。

 他にも、仏教とともにインドから伝来した武術由来の少林寺拳法とか、回教徒(イスラム教徒)に伝わる武術とか、ルーツの違うものも存在します。

 想定する戦場、使用する武具、戦い方等様々な条件が異なれば、必要となる技術もまた異なってきます。

 技を支える力である「勁」も変わってきます。

 敵を打ち倒す力を「勁」、その勁を相手に叩きつける技術を「技」と考えれば、全く別物に見える多種多様な「技」も同じ一つの「勁」を用いているなどと言うことはありそうです。

 たぶん、武芸の達人ならば一つの「勁」を用いて様々な「技」を繰り出すのでしょう。

 攻撃の威力と言うものは、技の凄さではなくそこに籠められた「勁」の強さが影響すると思うのです。

 達人は鍛え上げた「勁」を使用しているからこそ、簡単な技でも高い威力になるのだと考えられます。

 そう考えると、人間の体の構造なんて誰でも大差ないのだから、力の出し方使い方は共通で、どのような流派門派でも「技」の形が違うだけで根本的な「勁」は同じと言う可能性もあるかと思ったのですが、どうも違うようです。

 ネット上で武術の経験者が勁について話していた時、具体的な方法になると他派の人から「そんなやり方聞いたことがない」と言った反応が返って来るのを見たことがあります。

 おそらくそれは良い事です。人の身体には様々な可能性があるということなのですから。

 武術的な力である「勁」を鍛え引き出す方法が一つしかないのなら、病気や怪我や何らかの体質でそのただ一つの方法が使えなかったり鍛えられない人には武術の可能性が無くなります。

 けれども、様々な「勁」が存在するのならば、その中から自分に最も合ったものを選ぶこともできるでしょう。

 強さを極める道は一つきりではないのです。


 しかし、そうなると「勁とは何か?」と言う問題が振出しに戻ります。

 人によって異なるようでは何をもって「勁」と呼べばよいのか分かりません。

 そこで、私は少し考えました。

 以前「気」について考えた時は、実態の無い概念として「気」を捉えてみました。

「勁」についても同じように考えられるのではないでしょうか。

 つまり、武術的に正しい方法で鍛え、正しい手順で引き出した力を「勁」と呼ぶのです。

 これならば、流派門派で異なっていても問題ありません。

 何ができているかではなく、その流派の教えに則していること、その門派の術理に従って正しく力を引き出していることが「勁」であるか否かを見分けるポイントになります。


 門派によって詳細は異なるとしても、武術全体として「勁」に共通する傾向のようなものは存在します。

 以前、「武の極み」の話の中で、武芸を極めて行くと最終的には効率を求めるようになるだろうと考えました。

 武術の本番は人と人とが殺し合う戦場です。目の前の敵を倒してそれで終わりとはなりません。

 常に全力を出し続けていれば、すぐに力尽きてしまいます。

 筋肉は、最大出力を出し続けていればすぐに疲れてしまいます。

 だから、「勁」は瞬間的なものになります。

 通常は不要な力を極力抜いた状態から、攻撃を加える一瞬だけ最大の力を発する。

 そうした力の使い方が「勁」なのです。

 漫画等では力強さを表現するために、筋肉をパンパンに膨れ上がらせたり、血管が浮き出るほどに力んだりすることがありますが、そういった力の使い方は「勁」にはなりません。

 特に「力む」と言うのは「勁」とは正反対の力の使い方です。

 人間の身体を動かす筋肉は、関節を曲げる筋肉と伸ばす筋肉がセットで存在します。

 この曲げる筋肉と伸ばす筋肉を同時に緊張させる行為が「力む」ことです。

 これは非常に無駄なことです。

 曲げる筋肉も伸ばす筋肉も頑張って力を出しているのですが、それぞれの力が相殺して何もしていない状態です。完全に相殺していなければ動きますが、その動作には不必要な負担を無駄に筋肉にかけ続けている状態です。

 また、力んだ状態からは素早い動きもできません。

 力んだ状態から動くには、力を抜く必要があります。

 曲げるためには伸ばす筋肉の力を抜き、伸ばすためには曲げる筋肉の力を抜く必要があるのです。

 とっさの行動で力を抜くというのは難しいものがあります。反射的な動作は力が入る動作になりやすいのです。

 逆の作用をする筋肉の力を抜ききらなければ、それは動作の邪魔をします。

 力むと遅くて弱くなるのです。

 ただ、力んだ姿はいかにも「力が入っている」ことが見て分かりやすいです。だから漫画やゲームや映像作品では力んだ姿を描きます。

 しかし、現実には力んでも筋肉に余計な力が入って疲れるだけで意味はありません。

 力は入れるものではなく、出すものだそうです。

 筋肉を膨れ上がらせる行為も同様です。

 力こぶを作って筋肉を強調して見せる行為は、力を籠めて筋肉を収縮させている状態です。やはり無駄に力んでいるのです。

 鍛えた結果筋肉が大きくなったのならばともかく、その場で膨らましても筋力が強くなるわけではありません。

 そうした、強い力を示すパフォーマンスではなく、動く瞬間、攻撃を加える瞬間にだけ強い力を出し、それ以外の時は筋肉を休ませていると言うのが武術として理想的な力の使い方になるのです。

 中国武術では、余計な力を抜いてリラックスした状態を放鬆(ファンソン)といいます。

 決して力まず、放鬆の状態から一気に強い力を出し、終われば即座に脱力して放鬆に戻り、次の動作に備える。

 そんな使い方をする力が「勁」なのです。


「勁」が物理的な力であることを理解すれば、他の「勁」の付く言葉についても理解は難しくありません。

「発勁」とは勁を発すること。つまり、武術的な力を引き出す行為です。

 どこかの漫画で、「発勁」を必殺技のように描いているのを見たことがありますが、実際には技に威力を乗せるための基本中の基本です。

「化勁」とは相手の勁を化すこと。

 攻撃の方向を逸らしたり、攻撃の威力を無害なものに変化させたりする受け流しの技術になります。

 他にも、「聴勁」などと言うものもあります。これは、相手の勁――力の流れを感知してその行動を予測する技術です。

 中国武術の練習法の一つに推手と呼ばれるものがあります。

 二人一組で向かい合わせに立って、手首の辺りを触れ合わせた状態で押したり引いたりします。

 この推手を「足の位置がずれたら負けのバランスゲーム」だと勘違いしている人がたまにいますが、推手はゲームではなく訓練です。

 まず、聴勁で相手の力と動作を正しく把握し、相手が押してきたらその分引き、相手が引いたらその分押すと言うことを繰り返します。

 重要なことは、相手の力に対応した力を正確に籠めることです。力が強すぎても弱すぎても駄目です。

 力が強すぎればただの力比べになったり、そこから相手が急に力を抜けば体勢を崩されることもあります。

 力が弱すぎても相手に押し込まれたり、逃げられたりします。

 つまり、正確な聴勁と正確な発勁が揃って必要になります。

 また、相手の力が自分の体の中心線に真直ぐに向かってくる場合は腕をひっこめただけでは押し込まれます。

 なので、そうした場合は化勁で受け流す必要があります。

 そうやって、様々な勁の使い方を訓練するのが推手です。


「勁」は物理的な力であり、筋肉より生じます。

 武術において「勁」は非常に重要な概念です。しかし、武術は脳筋ではありません。

 筋肉が多くて力が強ければ有利な場面も多いでしょう。けれども、筋肉に頼っていればより強い筋肉の持ち主には勝てません。

 体の大きい人、小さい人、筋肉の付きやすい人、付き難い人、人それぞれ個性があります。

 体が大きくて鍛えれば鍛えただけ筋肉が付く恵まれた体質の人を最強に仕立て上げることだけが武術の目的ではありません。

 例えば、八卦掌の開祖である董海川は宦官でした。

 宦官は去勢された男性であり、男性ホルモンの分泌が減るためにどうしても筋肉が付き難くなります。

 そんな筋肉的には不利な人物の創始した武術が、今では内家三拳の一つに数えられる有名な武術です。

 力に頼らない技術と言うのも当然ありますが、効率的に強い力を引き出す手法も「勁」には含まれているのではないかと思います。


 私見ですが、武術的な力には「静的な力」と「動的な力」の二種類が存在すると思います。

 静的な力とは、維持する力です。

 自分の体勢を維持し、外部からの影響で崩されないように踏ん張る力のことです。

 持続的な力を体を動かす筋肉で賄おうとすると大変です。すぐに疲れてしまいます。

 だから、静的な力は筋肉よりも骨、技よりも形を使用します。

 物理的に言えば、力を加えて何かを動かすためにはエネルギーが必要ですが、動かない分にはエネルギーは必要ありません。

 外部からの力に自分の力をぶつけて対抗するのではなく、その力に対して強い形を作ることで耐えるのです。

 体勢を維持するだけならば、そこまで強い力は必要ありません。

 中国武術には站椿功と呼ばれる鍛錬があります。

 特定の姿勢を保ちながらただ立っているだけに見えますが、実際にやってみるとなかなか大変な修行です。

 特になれない人は、ちょっと正しい姿勢に直されただけで物凄く辛くて続けていられなくなります。

 ところが、達人になると何時間でも同じ姿勢を維持できるのだそうです。

 理論上、動かなければエネルギーを消費しません。同じ姿勢で立っているだけで疲れるのは余計な力が入っているからです。

 そうした無駄な力を極力排し、正しい姿勢を自然体で維持する。

 その正しい姿勢は外力に対して強い構造を持ち、力を籠めて踏ん張らなくても体勢を崩されることはない。

 これが私の考える静的な力です。

 一方、動的な力とは、及ぼす力です。

 対象に力を加えてこちらの思う状態に変化させる、攻撃ならば相手を打ち倒すための力、つまりは「勁」のことです。

 この動的な力として求められるものは、人外の怪力ではありません。

 鉄の装甲を引き裂く膂力とか、十メートルもの高さを飛び越えるジャンプ力とか、あれば便利で強力な武器になりますが、鍛えて得られるレベルでない特殊能力を前提にした技術なんて誰も継承できずにすぐに途絶えてしまいます。

 人一人殺すために、人外の力も、大量殺戮兵器も必要ありません。

 小さなナイフ一本でも、正確に急所に刺し込めば、重要な臓器を破壊して致命傷を与えることができます。

 武術において有用な力は、相手の守りの最も強い部分を破壊して相手の体全体を押しつぶすような大雑把な力ではありません。

 相手の一番弱い部分を一点突破で突き破る、刃物のように鋭い力こそが重要なのです。

 雑で大雑把な力では、相手の弱い部分だけではなく強い部分まで巻き込んでしまうため、より強い力が必要となります。

 一瞬一点に集中して強く力を発し、それを精密にコントロールして正確に対象にぶつける。

 それが武術における動的な力、「勁」の使い方だと思うのです。


 もう一つ、「勁」に関して重要だと思うことは、特定の筋肉に依存した力ではないだろうという点です。

 漫画的な表現で、腕の筋肉を肥大化させて強力なパンチを放つとか、脚の筋肉をパンパンに膨らませて凄い脚力で走るといった描写がよくありますが、それらは嘘です。

 拳は腕ではなく腰で打て、みたいな話はよく聞きます。

 弓道の弓も、腕ではなく背中で引くものだそうです。

 手を使うなら腕の筋肉だけ、足を使うなら脚の筋肉だけなんてことはありません。

 腕力だけ、脚力だけでどうにかしようとする行為を「小手先の技」と呼びます。

 スポーツでも同様でしょう。

 野球のバットやテニスのラケットを腕力で振り回すのは素人です。

 腕とか脚とかの筋肉は鍛えれば発達して強力になりますが、それだけでは不十分です。

 強靭な腕の筋肉で拳を突き出しても、土台となる体、足腰がしっかりしていないと威力なんて出ません。

 脚力だけが強くても、上半身がフラフラしていたら全力で走ることもできないでしょう。

 一部の筋肉だけに頼るのではなく、複数の筋肉が連動して全身の運動で強い力を出すことが重要です。

 これは、かなり高度な技術が必要になります。

 腕とか脚とか直接対象に作用する部位を動かす筋肉ならば分かりやすいですが、離れた部位のどの筋肉をどう動かせば力となって外部に作用するのかを理解することは難しいでしょう。

 闇雲に全身に力を込めたところで効果がないどころか逆効果になりかねません。下手に力むと力の伝達を阻害しかねません。

 また、全身の筋肉を使用したとしても、それらがバラバラなままでは意味がありません。

 タイミングを合わせて一つの力としてまとめ上げるからこそ大きな力になるのです。

 単体の筋力ならば腕や脚などの目だった筋肉を鍛え上げた方が強いでしょう。

 けれども、小さな力でもたくさん束ねればそれ以上に大きな力を生み出すことができます。

 また、一つ一つの筋肉の力はそれほど強くなくて良いので疲れにくく、ハードな筋トレでムキムキに鍛えなくても強い力を発することができます。

 多くの筋肉の力を束ねているので一ヵ所や二ヵ所に問題があっても力を出すことはできるし、ハードトレーニングを続けなければ維持できないような筋肉量を必要としないので歳を取って体力が衰えたとしても「勁」は簡単には衰えません。

 日本や中国の武術は年老いた老達人が若者を凌駕する強さを見せつけるイメージがありますが、その根源がこの「勁」の特徴だと思います。

 こうして書くと良いこと尽くめに見える「勁」ですが、反面修得は難しくなります。

 一ヵ所の目立つ筋肉だけならば使い方も鍛え方も単純です。

 若くて体力のあるうちはハードトレーニングにも耐えられ、筋トレでどんどん筋肉が付いて行く過程は楽しくもあるでしょう。

 十分に筋力が強ければ、単純な腕力だけでもそれなりの強さを発揮します。

 けれども、それだけでは筋肉の限界で頭打ちになります。

 体質的に筋肉が付き難い人もいますし、ハードなトレーニングを続けるにも様々な制約があります。

 そして、歳と共に確実に衰えて行きます。

 だから、若いうちは分かりやすく鍛えやすい筋力に頼りつつも複数の力を統合する手法を学び、やがて複数の筋肉の力をまとめることができるようになればムキムキに鍛えた筋肉に頼らなくても強い力を出せるようになるのでしょう。

 人の体には普段自分で意識している以上に数多くの筋肉があります。たくさんの筋肉と関節があるから複雑な動きができるのです。

 一つの筋肉の出力を二倍に強化するにはそれなりにハードなトレーニングで筋肉を増強しなければなりません。

 しかし、十の筋肉の力を一つにまとめれば、一つの筋肉をそれぞれ一割増(1.1倍)にするだけで全体として二倍の力になります。

 最初は上半身と下半身の連動と言った大まかな力を連動させることから始まって、より細かな力まで統合していくことでより強くなって行くのだと思います。

 武術の達人などが「生活の全てが修行」みたいなことを言うことがありますが、ここで言う「修業」は筋肉をムキムキにするようなハードトレーニングではありません。

 武術的に正しい力の出し方、武術的に正しい体の動かし方、武術的に正しい姿勢といったものを日常生活に取り込み、日々実践していつでも自然に行えるように鍛える。それが修行の内容です。

 武術的に正しい力の事を「勁」と呼びますが、武術と関係ない一般的な生活で身に付ける力を「拙力(せつりょく)」と呼びます。

 入門したての初心者は拙力を使って武術の技や動作の真似をします。おそらく、拙力しか使えないうちは、それっぽい技を使えても試合で勝ったとしても、初心者や素人を脱することはできないのだと思います。

 ところが、上級者になると逆に日常生活の各所に武術の動作が入り込んで行きます。

 武術的に正しい姿勢で立ち、武術的に正しい足運びで歩き、武術的に正しい動作で動き、使う力は全てが勁。

 こうなると強いです。

 強さを維持するために日常的に修行をしなければならないのではなく、何時でも何処でも何をしていても修行になるのです。

 ハードトレーニングを行う場合はトレーニングを行う時間を確保する必要があります。トレーニング用の器具も必要です。

 トレーニング中は基本的に別のことはできませんし、筋肉が付けばその分負荷を上げないと現状維持も難しくなります。

 何かの都合で時間が取れなければ中断を余儀なくされ、長く休めば再開するのも一苦労になります。

 本格的な運動は、少し忙しくなると継続が難しくなる、そんな経験をしたことのある人も多いでしょう。

 しかし、日常生活の中に修行を紛れ込ませることができれば話は変わります。

 仕事をしながらでも家事をしながらでも修業を行うことができるので、修行の時間を捻出する必要はありません。

 筋肉を強化するならばある程度疲れるまで負担をかける必要がありますが、「勁」の訓練は小さな力を集めて強い力にすることです。それで疲れるならば未熟なだけです。

 日常生活に修行を組み込んで、さしたる負担もデメリットもありません。

 何もしていないように見えて毎日修行を続けているのだから強くなります。

 まあ、その状態になるまでが大変なのですけれど。


 武芸にしてもスポーツにしても、修行というと筋肉を鍛えるハードトレーニングのイメージがあります。

 あるいは特訓のイメージでしょうか。

 そうしたイメージは、素人考えです。

 特訓――特別訓練とは一部の技術の習得や身体能力の向上を短期間で集中的に行う行為です。

 それは、テスト直前の一夜漬け勉強のようなもので、ある意味一時しのぎの行為です。

 特訓よりも、通常行っている地道な訓練の方がよほど重要なのです。

 試合の日程が決まっているスポーツならばまだ意味があるのですが、武術における本番である殺し合いの戦いはいつ発生するか分かりません。

 訓練で体力を使い果たしたところに攻撃を受けたら目も当てられません。

 だから、最初から戦力外の未熟者ならばともかく、一人前の武人は常に余力を残しながら日々の修行を行う必要があります。

 日常的な動作で修行になるというのは理想できなのです。

 そして、特訓で鍛えた筋肉は同様の訓練を続けなければどんどん衰えて行きます。

 しかし、日常的に使用される筋肉はなかなか衰えないものです。


 さて、複数の力を一つにまとめて大きな力を生み出すという考え方をした場合、それぞれの力を出すタイミングが非常に重要になります。

 例えば、拳を打ち出す動作を考えた場合、言葉で表現すると次のようになります。


 まず、踏み込んだ足が地面を蹴る力を腰へと伝え、腰の捻りも加えて背中へ伝え、背中から肩、肩から腕を通して拳にその力を伝える。


 こうして書くと、足から順々に、体の中をうねるように力が伝わっていく様子を思い描くのではないでしょうか。

 けれども、実際には、足と同時に手が動くのだそうです。

 足で踏み込むと同時に拳を打ち付けているのです。そうでなければ足で発生した力を拳から叩き込むことはできません。

 ついでに、思考で追えるほど力の伝達がゆっくりだったら、相手にしても見てから避けられます。

 最初にこの部分で力を発して、次にこちらの筋肉を動かしてと、頭の中で順々に考えても間に合いません。

 経験者ならば理解しているでしょうけれど、素人が思うよりも力の伝達は瞬間的です。

 理屈で考えても実行できないから、ひたすら練習あるのみです。

 頭でっかちでは役に立たないけれど、力任せの脳筋では単なる拙力になってしまい勁を習得することができません。

 奥の深い世界です。


 ところで、私は「溜め」と言うものが本来必要ないのではないかと考えています。

 創作物の中では、強い攻撃や必殺技の前には「溜め」を作ることが共通認識、ある種の様式美になっています。

 映像作品ならば「溜め」を表現することで、次にすごい攻撃が来ることを示唆して全体として迫力のある戦闘シーンを表現することができます。

 また、「敵を倒せる技があるのだけれど、そのために必要な溜を作る隙が無い」といった制約をかけることで物語の流れをコントロールすることもできます。

 ですが、ちょっと考えてみてください。人間の体には、力を溜める仕組みはありません。

 魔法とか異能とか人外の力やメカで戦うのならばいくらでも溜が必要な設定が可能ですが、生身の人間が自身の肉体で戦う場合は体内に力を溜めておくことなどできません。

 人の力を溜めることのできる武器として分かりやすいのは弓でしょう。

 弓に矢を番えて弦を引くと、弓が撓んで元に戻ろうとする力が蓄えられます。

 そして、手を離せば蓄えられた力が一気に解放されて勢いよく矢が飛んで行きます。

 矢を撃ち出す力の大元は人力です。他に動力はありません。

 しかし、一度弓に力を溜めることで、直接手で投げるよりもずっと勢いよく威力のある矢を射ることができます。

 人の体だけでは力を溜めることなどできないため、道具を作って利用しているのです。

 人の体内には発条(バネ)もゴムもありません。あったとしても、身体運用に応用して筋力以上の力を引き出せるようなものではありません。

「体のバネを使って」のような表現はありますが、それはバネのように伸びたり縮んだりする動作を指すものであって、本物のバネが体に備わっているわけではありません。

 生身の人間が道具を使わずに力を溜める方法は、私は二種類しか思いつきません。

 一つは、運動エネルギーとして溜める方法。助走をつけて体当たりするような行動です。

 もう一つは、位置エネルギーとして溜める方法。相手を高く持ち上げて投げ落とすような手段です。

 どうです? 「溜め」のイメージとはかけ離れているでしょう。

 じっと動かないままどれだけ力んだところで、無駄に疲れるだけでどこにも力は溜まらないし、当然溜め込んだ力を一気に解放なんてこともできません。

 しかし、「溜め」という言葉は創作物(フィクション)内での造語ではなく、現実に存在する概念です。

 人体に力を溜める機構など存在しないのに、実際の「溜め」とは何を行っているのでしょう?

 これも私見なのですが、私は「溜め」によって力を揃えているのではないかと考えています。

 複数の力を一つにまとめることで大きな力となることは、勁に限らず間違いのないことでしょう。

 ただし、複数の力がバラバラのままでは弱い力が五月雨式に作用するだけで強い力にはなりません。

 強い力にするためには、それぞれの力を同時に作用させる必要があります。

 力のタイミングを合わせる単純な方法の一つは、全ての力が出そろうまで待つことです。

 つまり、力を籠め始めてもその時点では動かず、まとめあげる複数の力が入ったところで動きを止めていた力を抜いて一気に動き出すのです。

 複数の力が同時に作用するので強くなるはずですし、一旦動きを止めてから強い力を発する動作は力を「溜め」ているように見えます。

 ただし、この方法は無駄が多いのです。

 力を籠めて動かないのは力んでいる状態です。力が揃うまでは無駄に力を入れている状態です。

 おそらくは、一番強くてわかりやすい部分の力が真っ先に出て来ると思うので、強い力を止めるために必要な力も強くなり、強い力を長く維持する必要があります。

 最初からすべての力がタイミングを合わせて対象に作用するように調整して出力することができれば、この「溜め」は不要になります。

 けれども、それはとても難しいことです。

 普段意識していないような筋肉を精密に操り、一瞬で伝達する力の僅かな差異をぴったり合わせるように調整する。

 頭で考えながら実行できる範疇にありません。

 だから、最高高率を一旦諦めて溜めを作り、一度動きを止めることで力の流れを理解できるところまで落とし込んでいるのです。

 腕が上がって最初からある程度揃った力を出せるようになれば、溜めの時間はどんどん短くなって行きます。

 最終的には、溜め無しで同じことができるようになるでしょう。

 溜めが無くなれば待ち時間が無くなるので速くなり、無理やり揃えなくても最初から力がまとまっているので強力になり、余計な力みが無くなるので疲れにくくなります。

 様々な面で、格上は強いのです。

 本当に溜めの無い動作が可能かと言われれば、たぶん可能です。

 おそらく、「寸勁」と呼ばれる技術は溜めを無くした攻撃方法です。


 中国武術に興味がなくても、「寸勁」という言葉を聞いたことのある人は多いでしょう。

 香港映画でブルース・リーが披露したことで、「ワンインチパンチ」として世界中に有名になりました。

 映画で有名になったと言っても、創作物内の架空の技ではなく、実在する技術です。

 まあ、創作物の中などでは「触れただけで相手を倒す神秘の技」みたいな扱いをされることもありますが、それは誤解です。

 寸勁は一寸の距離から打ち込む打撃で、距離が短い分外から見ると動きが小さくて地味です。

 そのため、「触れただけ」に見えますが、やっている側は全力で打ち込んでいるのです。

 また、一寸の距離から打ち込む寸勁の他に、一分の距離から打ち込む分勁とか、ゼロ距離から打ち込む零勁などという言葉もあるそうです。

 ただし、距離によって打ち方が変わるわけでもなく、総称して短勁と呼びます。

 短勁に対して、距離を空けて打つ普通の打ち方は長勁と呼びます。

 短勁が高い威力を持つ理由を知りたいならば、長勁の威力の理由を考えるべきでしょう。

 距離に関係なく、拳の威力の大元は筋肉の発する力です。筋力そのものは、打つ距離には関係ありません。

 考えられることの一つは、拳を加速することで運動エネルギーとして力を溜めているということです。

 ある程度の距離があった方が拳に速度を乗せることができます。

 ただ、その効果がどれほどあるかは少々疑問です。

 拳だけでは軽いのです。全体重を乗せた運動エネルギーならばかなりのものになるでしょうが、拳だけではその数%です。

 代わりに速度を上げようとしても限度があります。どこかの漫画のように音速を超える拳などは不可能です。

 もう一つ考えられることは、拳が移動している間に複数の力が拳に乗るのではないかということです。

 前述の「溜め」と同じように、距離を移動する間に力を揃える効果があるのではないかと思うのです。

 個人的には後者を有望視しています。

 拳打の威力は、拳を当てた後に、さらに押し込むことで高まります。

 拳は相手の背中を狙って打てという話もあります。

 いえ、背後から襲えという話ではなく、相手に当たったところで終わりではなく、背中側まで届かせるくらいの勢いで打たないと威力が出ないということです。

 他にも、「パンチ力」に対して「握力」が関わっていると主張する人がいます。

 物理的には、指を曲げて握り込む力である握力が殴る威力に関係するとは考えられません。

 これは、握力で拳を加速させるとかではなく、当たった瞬間に握り込むことを意識することで拳を相手にねじ込む動きになるのだと思います。

 拳が相手に当たってからの力が重要ならば、同じような力を加えれば距離が無くても似たような効果を得られるはずです。

 ただし、拳打と同様の攻撃力を得るためには、瞬間的に強い力を発する必要があります。

 加速による運動エネルギーや拳を動かす動作と時間で力を揃えることができないので、最初から打ち込む一瞬に力を集約する必要があります。

 つまり、溜めを作らない拳打です。

……溜めを作って威力を出すこともできるでしょうけれど、相手に触れるギリギリの超至近距離で動きを止めるのは致命的な隙になると思います。

 大きく腕を振るような腕力に頼らず、体内で生み出した力を一瞬一点に集中して一気に相手に叩きつける拳打。それが「寸勁」の正体です。


 短勁は恐ろしい技術です。

 ただし、その恐ろしさは威力の高さのことではありません。

 威力の高さは、どれだけ凄い技を使ったのかではなく、その技に威力が乗るようにどれだけ修業したかが重要です。

 短勁の恐ろしさは、その使い方です。

 その性質上、短勁は外すことがありません。

「当ててから打つ」のが短勁です。必中の距離まで近付いてから打つのだから外しようがありません。

 空振りというのは意外と消耗します。

 打った拳が当たればその威力は相手が受け止めてくれますが、空振りした場合は自分で止めなければなりません。

 全力で打ち出した拳を止めるには、同じだけの力が必要です。

 ちゃんと止めないと、伸び切った腕にさらに引っ張る力が働いて腱や関節を痛めます。

 鍛えた強い力は、扱いを間違えれば自身の体を壊します。

 だから、空振ると単純計算で二倍の力を消耗します。

 また、避けられることを考えると、全力で打つことはできません。

 空振りで消耗することもそうですが、全力で空振ればそれは大きな隙になります。

 空振って良い事は何もありません。当たらない拳は打たないが原則です。

 こんな言葉も聞いたことがあります。


「もしも十の力を持っていたら、八の力で打つ。相手が逃げたら、二の力で追う。」


 ここで言う二の力とは余力です。

 全力で打ってしまえばそれ以外の事を行う余裕はありませんが、余力があれば打った後に行動の修正を行うこともできます。

 相手が避ける方向に拳の軌道を修正したり、追いつけないと判断したら空振った後の体勢を立て直したり反撃に備えたりする準備を行うこともできます。

 止めの一撃とか、確実に当てられる状況でなければ全力の攻撃なんてできません。

 けれども、短勁は必ず当たります。必ず当たる距離まで接近しなければ打てないのだから、間違いなく当たります。

 空打ち無駄打ちは一切無し、外さないから全力で打ち込めます。

 相手が短勁の使い手の場合、打たれたら終わりです。回避も防御も間に合わず、ただ耐えるしかありません。

 短勁を防ぐには、打たせないように立ち回るしかありません。

 そして、短勁の使い手だからと言って、短勁しか使わない、使えないとは限りません。

 拳や蹴りを掻い潜って相手の懐に潜り込み、密着した状態からの組打ちで反撃しようとしたら短勁の打撃を喰らったとか。

 いかにも力の無いひょろひょろの拳だと思って無視していたら、当たった瞬間に強力な短勁を打ち込まれて大ダメージとか。

 そういったことが起こり得るのです。怖いでしょ?


 異論はあると思いますが、私の考えている「勁」はこんな感じです。

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