誤解、曲解、誤用、誤訳
リアクションありがとうございました。
今回は小ネタを集めました。
・錬金術
最近のファンタジー作品を見ていると、錬金術を魔法の一種として扱っているものが多くあります。
有名なところでは「鋼の錬金術師」。あれは完全に攻撃魔法扱いで錬金術を使っています。
それから、ゲームのアトリエシリーズも錬金術のイメージに影響を与えているでしょう。
レシピを入手して材料を集めれば、途中経過は分からないままに何だか便利なものが出来上がる。それはまるで魔法のようです。
本当は、レシピに従って材料を加工する手順があるはずですが、ゲームではその過程の詳細までは表現していられないので、いきなり完成品が出来上がったように見えます。
まあ、魔法のある世界ならば素材の加工に魔法を使っていても不思議はありませんし、魔法の一種としての錬金術が存在する世界設定に文句を言う必要もないでしょう。
ただ、現実のこの世界における錬金術は魔法ではありません。
錬金術は、化学の前身となる学問です。
英語で錬金術(alchemy;アルケミー)と化学(chemistry;ケミストリー)が微妙に似ているのは偶然ではありません。
地水火風の四大元素と言うと魔法の属性の事をイメージする人も多いかと思いますが、「元素」という言葉は現代と同じで万物を構成する根源的な要素の事です。
四つの元素の組み合わせであらゆる物質ができているのならば、その組み合わせを変えることで別の物質に変化させる――例えば卑金属を貴金属に変えることもできるはず。
生命だって肉体という物質でできている以上、元素の組み合わせで説明できるはず。
錬金術師がホムンクルスを作ろうとしたのも、生命の神秘を探求するためです。
そうした世界の真理を探究する学問が錬金術だったのです。
別に金やその他の物を作ることが錬金術の目的ではありません。それは仮説を証明するための実験に過ぎません。
ただ、研究を続けるにはお金が要ります。
現代でも研究費を捻出するために、その研究成果がどれほど世の中の役に立つかを主張することが良く行われますが、それは昔も同じです。
パトロンとなる貴族やら大金持ちやらに金を出させるために、「鉛を金に変えることができる」と説明することになるのです。
たとえ実現したとしても、それは真理を研究する上での副産物に過ぎません。
学術的にどれほど素晴らしい成果を出したとしても、素人からは「で、それが何の役に立つの?」となることはよくあります。
残念ながら、金を出すのは素人です。分かり易く得られる利益を強調して説明する必要があります。
日本語で「錬金術」と訳されたのは、「利益を強調した宣伝」の部分だけ伝わって、「金を作り出す技術」のことだと解釈されてしまったのでしょう。
錬金術の研究者が直接やって来ることはなかったと思うので。
その時の誤解は現代でも続いていて、創作物の中の錬金術は「何か有用な物を作り出す技術」と言う扱いになっていることが多々あります。
まあ、この辺りの扱いは物語の科学者が変なものを作り出すマッドサイエンティスト扱いされることが多いのと同じようなものです。
・誤訳系
イエス・キリストに関する「処女受胎」というのは誤訳だと聞いたことがあります。
日本語に訳する際の誤訳ではなく、もっと昔の、おそらくラテン語辺りに訳した際の誤訳でしょう。
本来は、「未婚の母」くらいの意味だったようです。
偉人の出生には不思議な伝説が付きものです。
たとえ誤訳だと分かっていても、キリスト教の関係者からはその方が神秘性が増して箔が付くとそのままにしたのではないでしょうか。
誤訳とまでは言えなくても、本来の意味からずれてしまった訳語と言うものもあります。
例えば「錬金術」という訳語は、「(研究を進めれば)金を作り出すこともできる(可能性がある)」と言う謳い文句が反映されたものです。
真理の探究を行う学問と言う本質は失われ、金を作り出す技術であるかのような訳語になってしまいました。
また、「knight」を「騎士」と訳すのも微妙なところがあります。
英語の「knight」は語源的には「侍者」や「従僕」といった意味で、馬に乗る人の事ではないそうです。
古代社会では騎馬民族でもなければ乗馬は特殊技能でした。特に馬に乗って戦う騎兵はそれなりの期間専門の訓練を受ける必要があります。
つまり、ただ軍役として集められた一般人ではなく、職業軍人として日本の武士のような階級の人だけが騎兵になることができたのです。
そうした馬に乗る人というイメージの定着した社会階級を騎士階級と呼ぶようになったのでしょう。
結果、馬に乗らなくてもナイトは騎士になったのです。
そして、「knight」の象徴が馬になった後で翻訳されたから「騎士」という訳語が当てられたのでしょう。
他には、「witch」を「魔女」と訳したのも女性のイメージが強かったからでしょう。
魔女狩りでは女性への差別や社会的地位の低さから、主に女性が「魔女」として捕まり、裁判にかけられました。
ただし、魔女狩りで「魔女」として捕まり処刑された男も存在したそうです。
男だから「魔女」ではない、は通用しなかったのです。
おそらくは、元々「witch」に女性限定の意味はなかったのでしょう。
しかし、魔女裁判で「魔女」と認定されるのはほとんどが女性だったため、「witch」と言えば女という認識が定着してしまったのでしょう。
女性のイメージが定着したから、「witch」に「魔女」という訳語が当てられ、「男の魔女」がおかしな表現になってしまったのです。
別パターンとして、中国語と日本語の微妙な差があります。
例えば、中国で「飯店」と書くと「ホテル」のことだって知っていますか?
「北京飯店」は「北京ホテル」という意味です。
実は、「飯店」というのは「hotel」の音訳(外国語の発音に漢字を当てた当て字)です。
音を当てただけなので漢字の意味は全く関係ないのですが、「ホテルならば食事も出る」ということで意味的にも割と良い訳なのだそうです。
ただ、日本人からすると「飯店」から「ホテル」を連想するほど音が似ていないので「飯屋」と勘違いしてしまうのです。
中華料理屋を「○○飯店」と呼ぶのは、中国風の名前にしようとして、ちょっとずれたものです。
もう一点、中国でコンピューターのことを「電子計算机」のように書きます(最近は「電脳」の方を使うようですが)。
この「机」の字、実は日本語の「机」ではありません。
中国の簡体字(漢字を簡略化して書いた現代の中国の文字)で「机」に見える漢字は、元は「機」の文字でした。
つまり、「電子計算机」と書いてあるように見えて、「電子計算機」なのです。
なお、日本語の「机」は中国では「卓」の字を使うそうです。
・プラスアルファ
何か新しい要素、未知の何かを付け加えるという意味で、「+α」と書くことがよくあります。
定着した表現だと思うのですが、これ間違っています。
本来、未知の要素を示すアルファベットは、ギリシャ文字の「α」ではなく、「x」です。
つまり、「+x」と書いたのが始まりだったのです。
何故「+x」が「+α」になったかと言えば、単なる見間違えです。
サラサラっと走り書きで書いた「x」の左側の上下が繋がると「α」に見えるのです。
ちょっと想像してみてください。明治大正時代に西洋の技術を学ぶために招いた外国人講師が、日本人の学生に向かって講義をしています。
そして、「ここに何らかの新しい要素を加える必要がある!」などと言いながら黒板に「+x」と書くのです。
アルファベットの筆記体は、単語を一筆書きの様に続けて書けるように書き崩してあります。
雑に書けば余計なところがくっついて見えることも珍しくありません。
アルファベットに慣れていない日本人が見れば、「x」を「α」に見間違えても不思議はありません。
同じように、アルファベットを見間違えた例がもう一つあります。
映画「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」の中に「ジゴワット」という謎の単位が出てきます。
このうち、「W」は電力の単位ですが、「ジゴ」とは何か?
元々は、「ギガワット(gigawatts)」だったそうです。
しかし、手書きで「giga」と書いた場合、最初の「g」の頭がつぶれると点を打ち忘れた「j」に、最後の「a」の縦棒が跳ねすぎると「o」から次の文字に続く線に見えます。
結果として、「giga」が「jigo」に見えてそのまま「ジゴ」と読んだという話です。
まあ、他にも「giga」が「jigo」に近い音に聞こえる方言があって、SF考証を聞きに言った科学者の訛った発音をそのまま文字にしたら「ジゴワット」になったという説も聞きました。
どちらが正しいかは分かりませんが、誰かつっこむ人はいなかったのでしょうか?
・絵によって固定するイメージ
世の中には、絵が付くことによってその絵のイメージが広まって定着することがよくあります。
例えば、「妖怪」の元となる話を調べると、怪現象の話であって、妖怪そのものが出てこないことも多くあります。
そうした「怪現象」「不思議な話」に対して、その現象を引き起こしている犯人を想像し、絵として表すことで「妖怪」が誕生します。
京極夏彦さんによると、怪異をキャラクター化することで妖怪になるのだそうです。
つまり、鳥山石燕や水木しげるといった人たちは妖怪を絵に描いたのではなく、絵に描いたことで妖怪を生み出したのです。
また、旧約聖書でアダムとイブが食べ、エデンの園を追放される原因となった果実は、「禁断の実」「知恵の実」と呼ばれています。
その「禁断の実」がリンゴのことだとは一言も書いてありません。
宗教画の中でリンゴの実として描かれていたことで「禁断の実」=「リンゴの実」という認識が広まったらしいです。
他にも、エルフの耳が横に長いイメージもイラストが元になっています。
本来の伝承の中のエルフは、別に耳が長いとか尖っているとか言った特徴はないそうです。
ファンタジー世界の種族としてのエルフを創造したのはJ・R・Rトールキンですが、その作中でも特に耳の長い種族と言う設定は無いそうです。
ただ、エルフのイラストを描く際に、「人間と区別するために悪魔のように尖った耳を付ける」と言うことが行われたようなのです。
特に横に細長い耳を持つエルフのイメージが定着したのは、「ロードス島戦記」のディードリットからだと聞いた覚えがあります。確証はありませんが。
・相似形の魔法
蟻は自分の体重の何倍もの重さを持ち上げることができる。人間サイズの蟻がいれば何百キロもの荷物を持ち上げられる。
バッタは体長の何倍もの高さまで跳び上がることができる。人間サイズのバッタならば十数メートル跳ぶことも可能。
こんな話を聞いたことはありませんか?
これ、大嘘です。
前半は間違っていませんが、人間サイズにした時に思ったような能力を発揮することはないのです。
「サイズを十倍にしたら、全てを十倍にすればよい」という単純な計算は成り立ちません。
相似形で拡大・縮小する場合、面積は二乗、体積は三乗で変化します。これが様々な面で効いてきます。
例えば、筋肉の力はおおよそその断面積に比例します。つまり、力は二乗で変化します。
サイズを十倍にしたなら、力は百倍になるのです。
一方、体重は体積に比例します。つまり、体重は三乗で変化します。
サイズが十倍ならば、体重は千倍になります。
力が百倍になっても体重が千倍なのだから、体重に対する力は十分の一に減ります。
自分の体重の十倍の物を持ち運べる小さな虫がいたとします。
この虫の体重を「1」としたとき、虫の力は「10」の重さの物と自分の体重を加えた「11」の重さを運ぶことができます。
この虫の大きさを十倍に拡大すると、力は百倍となり自分を含めて「1,100」の重さを運ぶことができます。
しかし、虫の体重は千倍の「1,000」になるため、差し引き「100」の重さの物しか持ち運ぶことはできません。
つまり、サイズを十倍に拡大すると、自分の体重の十分の一の物しか持てなくなるのです。
相似形で拡大すれば、二乗で増える力よりも、三乗で増える体重の方がより大きくなります。倍率が増えれば増えるほどその差は拡大し、体重に比べて非力になって行きます。
つまり、蟻でもバッタでも相似形のまま拡大して行けば、やがて自重を支えきれなくなります。
逆に、人間も相似形で小さくすることができれば、体重の何倍もの物を持ち上げたり、身長の何倍も跳び上がることもできるはずです。
割と有名な話なので、知っている人も多いと思うのですが、物語の中では「十倍の大きさにしたから能力全部十倍」みたいな計算をすることもよく見かけます。
昆虫の能力を取り込んだ元祖は、バッタの跳躍力を取り入れた仮面ライダーでしょうか。
その後も昆虫の能力を取り込んだヒーローや敵側の怪人などが出て来る物語は幾つも作られています。
しかし、現実は違うのです。
動物や虫の形や動作を真似たロボットの研究なども行われていますが、元の生物とそっくりの形では上手くいかないと聞いたことがあります。
生体と機械では素材や動力が違うということもありますが、大きさが異なるとそのままの形では上手く能力を再現できないのです。
鳥の姿をそのまま大きくして再現した飛行機械が成功しなかったのも同じような理由でしょう。
・名言 or 迷言
「少年よ大志を抱け」(Boys, be ambitious.)
クラーク博士が帰国する際に言った有名な言葉です。
ですが、クラーク博士の日記などを調べても「日本の学生にこんな言葉を送った」みたいな記述は存在していないのだそうです。
つまり、クラーク博士は特別思い入れのある言葉を送ったのではなく、当時母国で使われていた言い回しか慣用句的な挨拶をしただけだというのです。
それを直訳したら、何だかすごく重みのある言葉になってしまったという話です。
(そう言う話を紹介したテレビ番組を見た記憶があるのですが、裏は取れませんでした)
普段何気なく使っている言い回しにも、よくよく考えると深い意味があったり、語源には大層な物語があったりすることもあるものです。
「お客様は神様です」
演歌歌手の三波春夫さんの言葉です。
この言葉の真意は、「自分の歌は神様に聞かせるつもりで歌っている」と言うことだそうです。
つまり、客として来ている人間を神様扱いしているのではなく、目に見えない神様をお客様扱いしているのです。
お客様を神様として敬い、どんな無理難題も唯々諾々として従うという意味ではありません。
ただ、日本の神様というのは、人が無条件で従わなければならない絶対的な存在ではありません。
貧乏神も疫病神も神様です。
人々に災厄をもたらす荒魂を祀り上げて恵みをもたらす和魂とする。
これが歴史的に日本のやり方です。
つまり、無理難題を吹っ掛ける困ったお客様や、理不尽な要求を突きつけるモンスタークレーマーも上手くあしらって利益につなげる、というのがお客様を神様扱いする商人の真意なのかもしれません。
「そこに山があるからだ」
これはイギリスの登山家ジョージ・マロリーの言葉だそうです。
何だか高尚で哲学的な言葉に聞こえるかもしれませんが、実は深い意味などありません。
皆さんは、登山家が何故山に登るのか分かりますか?
登山が趣味の人か、身近に登山家がいる人でなければ本当に理解している人は少ないでしょう。
好きで山に登っている人にはそれだけの理由があります。
山でしか見えない絶景、山に棲息する植物や動物、難所を越えるスリルと達成感等々。
しかし、それらを体験していない人に説明したところで真に理解されることはありません。
登山に限らず、多くの趣味は似たようなものです。
マラソンのランナーは、何故苦しい思いをしながらも走るのか?
格闘技では痛い思いをしながらどうして戦うのか?
いい年をした大人が漫画やらゲームやら面白いのか?
コスプレなどと言って奇抜な格好をして何が楽しいのか?
楽しいのです。面白いのです。でも、分からない人には分かりません。
こういったものは体験してみないことには本当の楽しさは分からないものです。
体験しても分からない人は、何を言っても理解できないでしょう。
泥酔して醜態をさらしたり、二日酔いに苦しむ様子を見て、「何でお酒を飲むの?」と質問する子供に何と言えば説明できるでしょうか?
たぶん、「大人になればわかるよ」とか言ってごまかす以外できないのではないでしょうか。
同様に、「何故山に登るか」と聞かれても、分からない人を理解させることのできる言葉はありません。
そもそも登山家の気持ちなど気にしていない人がほとんどでしょう。
ただ、世間の注目を浴びるような出来事が起こると、有名人(になった人)に質問が殺到するのです。
登山を知らない新聞記者が、登山を知らない読者に受けの良いコメントを求めてしつこく質問を繰り返すのです。
ただの山男に、素人を納得させる気の利いた言葉を期待するのは酷でしょう。適当な言葉でごまかすしかありません。
ただし、ジョージ・マロリーの場合はもっと単純です。
ジョージ・マロリーは当時まだ誰も登ったことの無かったエベレストの頂上を目指していました。
三度のエベレスト遠征隊に参加して、三度目の挑戦でお亡くなりになっています。
その二度目の遠征の後に行われたインタビューで、「なぜエベレストに登りたかったのか?」と問われて「そこに山があるから(Because it's there.)」と答えたのだそうです。
漠然とどこでもいいから山があれば登るという話ではなく、前人未到の世界最高峰がそこにあるのだから、登山家ならば当然登るだろう! といったニュアンスだったようです。
「パンが無ければお菓子を食べればいい」
有名なセリフですが、マリー・アントワネットはこの発言をしていません。
フランス王妃マリー・アントワネットは飢えに苦しむ国民に無関心で贅沢をしていたわけではありません。
むしろ、食糧難への対策も行っていたそうです。
しかし、マリー・アントワネットはフランス革命で処刑されてしまいました。
フランスの国民を苦しめた悪政の象徴として、悪人らしいイメージがあった方が都合が良かったのでしょう。
フランス革命は王政から民主制に移行する市民革命であり、人権宣言など良いことを言っているのですが、反面群集心理に支配されて理性を失った蛮行も行われています。
怒りに任せて処刑してしまった国王や王妃は悪人でなければならなかったのでしょう。
そう言えば、以前フェイクニュースに関する報道を見たことがあります。
何か悪いことをしている人達の映った画像を見て憤慨している人に、実はそれがフェイクニュースであることを伝えると、
「この画像はフェイクだったとしても、あの連中は同じようなことをしているに決まっている!」
と、怒りを収めることはなかったそうです。
一度付いてしまったイメージは、それが嘘だと分かってもなかなか離れないようです。
・バハムートはドラゴン?
最初にバハムートをドラゴンの名前としたのは、漫画でしょうか? ゲームでしょうか?
いつの間にやら共通認識になっていて、バハムートと言うとドラゴンが出て来る物語も珍しくありません。
ただ、ある時ふと気が付きました。バハムートがドラゴンであるはずかありません。
バハムートはベヘモット(ベヒモス)の事です。ベヒモスをドラゴンと思う人はあまりいないでしょう。
同じ語源で同じ対象を指す言葉であっても、地域や時代によって異なる発音になることがよくあります。
古代ローマの英雄ユリウス・ガイウス・カエサルの「カエサル」の部分がドイツ語では皇帝を意味する「カイザー」になり、英語では「シーザー」になります。
キリスト教の教祖である「イエス・キリスト」も英語では「ジーザス・クライスト」になります。
ベルセルクとバーサーカーがだいたい同じ意味であることを知っている人は多いでしょう。
ベルセルクをアルファベットで書くと「berserk」となりますが、「ェル」と発音している「er」を「ァー」と読めば、「berserk」は「バーサク」になります。
バーサクに「~する人」を表す「er」を付けると「berserker」となります。
同じ綴りでも国によって読み方が異なるため、違った発音になります。
ところで、旧約聖書の、つまりユダヤ教の神様の名前をご存じですか?
唯一無二の存在に名前など無い、などと言うことは無く、ちゃんと名前があります。
「ヤハウェ」「ヤーウェ」「エホバ」
全部同じ神様の名前です。
日本の神様のように別名がたくさんあるわけではなく、同じ綴りに対する読みが複数存在するのです。
元々、ヘブライ語の文字表記では、母音を記載しなかったのだそうです。
神様の名前も子音のみで表記されます。
アルファベットで書くと「YHWH」または「JHVH」と表記され、聖四文字などと言われます。
子音だけの表記でも使用する人がいる限りは発音が分からなくなることはありませんが、モーセの十戒のなかに「神の名をみだりに唱えてはならない」と言うものがあります。
これは、神の名前を乱用することを戒めたもので、神様の名前を口にすること自体を禁止したものではないそうですが、ユダヤ教の信者はあまり神様の名前を言わなくなりました。
結果として、神の名の記述は残っていても発音は失われました。
母音を推測して音を当てているから、同じ表記から複数の読みが生まれます。
さて、ベヘモットは旧約聖書に登場する怪物です。つまり、元々子音だけで名前が記載されていたはずです。
ベヘモットとバハムートを比較すると、子音が一致することが分かるでしょう。
促音長音を無視してローマ字表記すると、こんな感じになります。
ベヘモット behemoto
バハムート bahamuto
バハムートはイスラムの伝承に出て来るのですが、おそらくはユダヤ教の伝承から名前を借りてきたのでしょう。
ただ、イスラムのバハムートは巨大な魚なのです。陸の怪物であるベヘモットとは完全に別物です。
ベヘモットと対比される海の魔物であるレヴィアタンと間違えたのでしょうか。
ベヘモットを魚扱いすることに比べたら、ドラゴン扱いの方がまだ違和感が無いかも知れません。
ただ、イスラムの人からすれば、「何で魚がドラゴンなの?」となるかもしれませんけれど。
・鵺
皆さんは、「ぬえ」と呼ばれるものを知っていますか?
頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎と言う怪物を思い浮かべる人も多いでしょう。
平家物語に登場し、世阿弥が作った能の演目にもなっています。
しかし、実はこの平安時代に現れた怪物は、「ぬえ」ではありません。名の無い怪物なのです。
「ぬえ」は漢字で「鵺」と書きます。
鵺は元々音だけの怪異でした。
夜中に森林から響いてくる不気味な鳴き声、それが鵺です。
その正体は、トラツグミだと言われています。
昔は夜中の森林は危険地帯です。不気味な鳴き声の正体を確かめるようなまねはなかなかできなかったのでしょう。
不気味で正体不明の鳥の鳴き声、それが鵺なのです。
この、音だけの怪異は結構いろいろと存在します。
例えば、「家鳴り」。地震とか大風とか家を軋ませる具体的な原因が見当たらないのに、家が軋むような音がすると、それを不思議がって怪異と捉えます。
「小豆洗い」。小豆を洗うような音が聞こえてくるというだけの怪異であり、その正体を想像して絵に描きキャラクター化したことで妖怪になりました。
「砂かけ婆」。これも砂をかける音が聞こえる怪異です。妖怪として老婆の姿で描かれることが多いですが、その正体は狸だとする話も多いそうです。地域によっては「砂撒き狸」と呼ばれることもあります。
「天狗倒し」。山中で木を切り倒すような音が聞こえるが、その場所に行ってみると何も無いという怪異です。
いずれにしても、正体不明の奇妙な音が怪異になっています。正体を描くとそれは妖怪になります。
「鵺」もまた、これらと同系統の正体不明の音の怪異なのです。
平安時代末期に現れた名の無い怪物も、正体不明です。
音の怪異の場合は、その姿が見えないから正体不明です。
一方、この名の無い怪物の場合は、該当する動物が存在しないという点で正体不明なのです。
頭が猿のようでも、狸のような胴を持つ猿はいません。
胴が狸のようでも、蛇のような尾を持つ狸はいません。
尾が蛇のようでも、虎のような手足を持つ蛇はいません。
手足が虎のようでも、猿のような頭を持つ虎はいません。
複数の動物の特徴を備えているために、どの動物にも当てはまらない。それ故に名も無き正体不明の怪物になります。
ところで、この怪物の描写は一つ抜けていると思うのです。
頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、そして鳴き声は鵺。
つまり、猿狸蛇虎の四種類ではなく、猿狸蛇虎鵺の五種類の動物の特徴を合成した怪物なのです。
実際、平家物語の中では鵺のような鳴き声の正体不明の怪物と言う扱いらしいです。
しかし、ここで一つ問題があります。
鵺は誰も姿を見たことの無い音だけの怪異です。
猿のような頭を持つ鵺は、いるかもしれません。
狸のような胴を持つ鵺は、いるかもしれません。
蛇のような尾を持つ鵺は、いるかもしれません。
虎のような手足を持つ鵺は、いるかもしれません。
他の姿のはっきりとした動物と異なり、正体の知れない鵺に関してはどのような姿をしていても否定できません。
逆に、鳴き声が一緒なら、こいつが鵺の正体なのではないか? と考えられてしまうのです。
こうして、名も無い怪物は姿を持たない怪異と混同し、その名を得ました。
鵺の正体がその怪物であるという証拠もないのですけれどね。
ところで、「尾が蛇」の怪物を描くと、何故か尾の先に蛇の頭を付けることが多いと感じます。
「頭は猿」は頭の形状が猿の頭とよく似ているという意味です。頭の位置に猿の全身がすっぽりと収まっているわけではありません。
ならば「尾は蛇」は尾の形状が蛇の尾にそっくりという意味のはずです。そこに蛇の頭を付けるのはどうかと思うのです。
もっと極端なのが、西洋のキマイラでしょう。
ライオンの頭と山羊の体に蛇(または竜)の尾を持つ怪物です。
尻尾に蛇の頭があるのはもちろん、ライオンの頭の他に山羊の頭まで突き出ていたりします。
さらには、ドラゴンの頭と翼まで付けているイラストも見かけます。頭が四つです。
何故にそこまで頭を付けたがる!
・ディズニーと著作権
2024年1月頃に、アメリカで初代ミッキーマウスの著作権が切れたというニュースを見ました。
今までずっと著作権で保護されていたということが驚きです。
ミッキーマウスの初出は1928年の「蒸気船ウィリー」だそうです。その著作権のアメリカにおける保護期間が2023年12月31日で終了しました。
ディズニーは著作権に厳しいというイメージがあります。
異世界転移/転生物の話で、こちらの世界の様々なものをパクって成功を収めることがよくあります。
けれども、「異世界なら著作権も関係ない!」と嘯く主人公が、ディズニー関連に対しては「止めておこう」となるのはある種定番です。
まあ、書籍化された時のイラストとか、コミカライズされた時にミッキーマウスを描くわけにはいかないという事情もあるでしょうけど。
ディズニーが特に著作権に厳しいというイメージが広まった理由の一つが、初代ミッキーマウスの著作権が2023年まで保護され続けたという点にあります。
アメリカの著作権法は、俗に「ミッキーマウス保護法」などと呼ばれることがあります。
初代ミッキーマウスの著作権が切れそうになる度に、著作権の保護期間が延長されてきたという経緯があるからです。
当然、ディズニーのロビー活動の結果でしょうが、それだけではないと思います。
アメリカは日本に先んじて知的財産権でビジネスを行ってきた国です。ディズニー以外にも保護期間を延ばして欲しい勢力は多々あったことでしょう。
例えば、複数のアメコミのヒーローが共演する作品なんかがありますが、あれは漫画家でなく出版社側に著作権があるから簡単にできるのだそうです。
日本のように漫画家が著作権を保持しているわけではないので、同じシリーズを作者を替えて長期間作り続けたり、同じ出版社の作品ならヒーローの共演も全ての著作権者の同意を取るという手間がかかりません。
ただし、この方式だと日本の漫画のように保護期間が作者の死後何年という形にはなりません。
作品公開からの年数で保護期間が切れるため、長めに設定しないと長期連載中のコミックの登場人物が他の作品に勝手に使用されることになります。
実際、保護期間の終了した初代ミッキーマウスを使用した作品の作成が既に発表されているとニュースを見た2024年1月の段階で言われていました。
もっとも、「初代」と言っているように、デザインを変えたミッキーマウスの著作権は切れていないので、正しく「蒸気船ウィリー」のミッキーマウスを描かないと著作権に引っかかる恐れがあります。
日本では特に、「ディズニーが著作権に厳しい」と印象付ける出来事がありました。
昔、日本の小学校で、小学生が学校のプールに大きくミッキーマウスの絵を描くという出来事がありました。
単なる落書きではなく、卒業記念として頑張って書いた力作で、当時話題になったそうです。
そして、その話題を聞きつけたディズニーの関係者がやって来て、最終的にミッキーマウスの絵は消されることになりました。
ディズニーの許可を取らずに勝手にミッキーマウスを使っていたのですね。
今の時代ならば、悪いのは学校関係者だということになると思います。
小学生に自分で著作権の問題を調べて許可を取れというのは酷でしょう。
そこは周囲の大人がしっかりとサポートしなければなりません。
しかし、昭和の頃の日本人は、著作権に対する意識が希薄でした。実体のないものにお金を支払うべきという意識がほとんど無かったのです。
戦後復興期の日本は豊かになるために必死になって欧米の真似をしてきたパチモン天国でした。
日本人が著作権を意識するようになったのは、経済大国と呼ばれるようになり、パチモン天国が中国に移り、自分が真似をされる側になってからでしょう。
そんな著作権の意識が薄かった昭和に起こった出来事は、「小学生が頑張って作った作品を、著作権を盾に容赦なく消させた」酷い企業として日本人の心に刻まれたのでした。
ディズニーとしても、別に子供に意地悪したくてやったのではないのでしょう。
別に小学校のプールにミッキーマウスの絵が描かれたくらいではディズニーの損害にはならないでしょう。事前に交渉していれば許可を得られたかもしれません。
まあ、調子に乗って子供の書いたミッキーマウスで村興しとか始めたら裁判起こしてでも止めたでしょうけど。
ただ、この時のディズニーの対応は、相手が小学生だったからではないかと思うのです。
ここで安易に認めてしまえば、「法律なんか無視してやったもの勝ち」と思ってしまうかもしれません。
つまり、子供の教育に悪いのです。
ちゃんと手続きを踏んで了解を得てからやれということを教えたかったのでしょう。
それが、今ではどうでしょう?
アメリカの企業であるGoogle傘下のYouTubeには、テレビ等からの動画やCDの音楽、それらを編集したり加工したりした画像が溢れています。
許可を得てからアップロードするのではなく、とりあえず公開してから問題があったら削除しているように見えます。
一応AIで違法アップロードのチェックをしていたり、JASRACと許諾契約を締結していてJASRAC管理下の楽曲ならば条件を満たせば配信できると言ったこともあるようです。
けれども、全ての動画を厳密にチェックすることは不可能で、割と緩い感じで運用しているように見えます。
一方、日本では地上波デジタル放送を機に、技術的にコピーを許さない方向に進みました。
それはもう、利用者に不自由させてでも絶対にコピーさせまいという勢いです。
コピーワンスとかダビング10とかは、メディアへの書き込みが途中で失敗してもコピーの回数を一回消費してしまいます。
著作権法上認められている私的複製や引用も実質的に不可能だったり大きく制限された状態です。
多少の違法なものが出回ってもコンテンツの利用を促進してビジネスにつなげるアメリカと、真面目にルールを守る人に不自由を強いてでも違法コピーを許さない日本と方向性が分かれました。
まあ、個人的には地デジの対応はやり過ぎで、テレビ離れを後押ししているのではないかと思っています。




