少子化の何が問題なのか?
リアクションありがとうございました。
現在の日本では、少子高齢化は大きな問題です。
これまで様々な少子化対策が行われてきましたが効果は薄く、日本の人口は減少に転じています。
しかし、ふと思うのです。
少子化は本当に悪いことなのでしょうか?
人類には少子化とは正反対の大きな問題が存在します。
それは、人口爆発です。
少し古くからの――昭和、平成、令和に書かれた小説や漫画、あるいは歌の歌詞等に登場する全人類を表す数を年代別に並べて比べてみてください。
四十億以下、五十億、六十億、七十億、八十億。
短い期間でどんどんと数値が大きくなっていることが分かるでしょう。
同じような期間に宇宙の年齢とか人の細胞の数とか大きく値の変わった数値もありますが、それらは不正確だった値が正確になっただけです。
しかし、全人類の数は確実に増加し続けた結果が現れているのです。
この人口爆発は様々な問題を引き起こします。
まずは、食糧問題。
人口が増えればそれだけ必要となる食糧も増えます。
化学肥料によって農業生産性は向上しましたが、ハーバー・ボッシュ法が開発されてから百年以上、世界の人口は四倍以上になっています。
人口が増え続ける限り、食糧問題に終わりはありません。
八十億を超える人間の食を支えるために、国や地域によっては森林を焼き払って畑を作ることも行われたそうです。
その結果、多くの生物を絶滅の危機にさらし、二酸化炭素を吸収する森林が減ることで地球温暖化を助長することにもなります。
それだけでなく、必要な食糧を安定して生産するために、少数の種類の作物に頼っているという話も聞きました。
気候変動とか植物の病気とか戦争とかで、突然世界規模の飢饉に陥る危険性もあるのです。
また、食糧だけでなく、人が増えればそれだけ様々な物資やエネルギーも必要になります。
経済的、政治的な理由で資源を独占しようとすることはよくありますが、多くの人が消費するからこそ資源を手に入れる意味があります。
地球温暖化も、その根本原因は増えすぎた人口にあります。直接間接を問わず恩恵を受ける人間の数が膨大だからこそ、多大な手間と暇とお金をかけて地下深くから化石燃料を採掘し続けてきたのです。
住居用の土地もまた人口の増加によって逼迫します。
集合住宅に住む人が大勢いるのは、全員が戸建ての家に住めるだけの土地が無いからです。
地震で液状化する埋め立て地、崖が崩れれば押し潰される崖下、大雨で水没する河川近くの低地、津波に押し流される海岸近辺。
ハザードマップに明記された危険地帯にそれでも住み続ける理由の一つが「他に土地が無いから」です。
人口爆発は深刻で致命的な様々な問題を生じます。
この人口爆発の問題に対し、中国では一時期「一人っ子政策」を行っていたことがありました。
日本でも、急激に人口が増加した「ベビーブーム(第一次ベビーブーム)」の前後には人口抑制政策を行っていたそうです。
旧優生保護法による断種、つまり強制的な不妊手術が行われたのもこの頃だったそうです。
私はてっきり、断種が行われたのは優生学が盛んだった戦前の話だとばかり思っていました。
実際には、優生保護法が制定された戦前には慎重な運用でほとんど強制的な「断種」は行われず、戦後になってから人口抑制目的で「断種」が行われていたのです。
急速な人口増加は、増えた人口を受け入れる余地が無ければ悲劇を生みます。
食糧不足、物資の不足、住宅の不足。公共施設やライフラインの整備も追い付かず、日々の生活に不自由する人が溢れます。
治安が悪化したり、衛生状態が悪化したりして多くの人が不幸になります。
対策が追い付かない勢いで人口が増えると社会の危機になりかねないので、強引でも人口の抑制を行ったのでしょう。
もしかすると、その時代に行われたなりふり構わない人口抑制策の残滓が、現在少子化対策を阻む一因になっているのではないか?
根拠は無いのですが、ふとそんなことを思ったりするのです。
人口爆発の原因は、一つは化学肥料の開発による農業生産性の向上でしょう。
人間食わなければ生きていけません。増えた人間に食わすだけの食糧が無ければ人口は増えません。増えても餓死するだけです。
もう一つの要因は、医療の進歩です。
医療技術の進歩により、怪我や病気も治ることが多くなりました。
大怪我や難病だけではありません。昔の人はちょっとした怪我やただの風邪が原因で命を落としました。
特に死に易いのは子供です。
力も弱く、体力も少ない子供は、ちょっとした事故でも、軽い病気でも簡単に死んでいきます。
昔の人の平均寿命が短かった理由は、子供の死亡率が高かったからだと聞いたことがあります。
長生きする人はそれなりに長寿ですが、幼い子供が死ぬので平均すると「人生五十年」とかになってしまうというのです。
多くの子供が成人する前に亡くなるのだから、子供が一人二人しかいないのでは何時血統が途絶えるか分かりません。血統を重視する社会では多めに子を儲けるのが当たり前になります。
生物的にも、子孫を残すことなく死んでしまう子供が多いならば、それ以上に子供を産まなければ種として滅びてしまいます。
社会的、生物的に多くの子供が死ぬことを前提にして子供を産んでいる状況はそのままで、子供の死亡率だけが一気に下がれば人口は激増します。
子孫を残すことなく死んでいた子供が成人して子孫を残せるようになるとすれば、老人の寿命が延びるよりもずっと人口増加の効果があります。
本来ならば、人口の増加は喜ぶべきことです。
人間の強みは数の力だと思うのです。
もちろんただ数が多ければよいということではなく、大勢いる人々が互いに協力し合うことが必要です。だから「愛」とか「絆」とかが重視されるのです。
それでも、人数が多ければ様々な才能が集まり、多くのアイデアも生まれます。
母数が大きければ一部の有志によるボランティア活動等もそれなりの規模になります。
それでもやはり、限度と言うものがあります。
環境によって、そこに暮らせる人数には上限があります。
限界を超えて人が集まれば色々と不足して生活が苦しくなり、やがては食糧・物資・土地を廻って人間同士で争うことになります。
物質的にはまだ余裕があったとしても、急激な人口増加に社会インフラの整備が間に合わずに種々の問題が発生することもあり得ます。
そして、地球環境全体として人が生きていける上限の人数も存在するでしょう。
どれほど地球の許容量が大きくても、人口が増え続ける限りは何時かはその上限に達します。
技術の進歩や創意工夫でその上限を引き上げてきたわけですが、地球の資源にも限りはあります。再利用を徹底しても総量は増えません。
どれだけ技術が進歩し、社会の仕組みが上手くいっても、理論的、技術的、コスト的な上限は常に存在します。
理論的な上限にまで達しなくても、対応を上回る速度で人口が増加すれば、その時点での社会的な許容量を超える危険は常に存在します。
うっかり上限を超えてしまえば、どこかで何かが不足して多くの人が困ることになります。
その状態が長く続けば、いずれ破局を迎えます。
問題を放置すれば多くの人が死にますし、足りないものを奪い合うようになれば社会秩序が失われます。
社会が正しく機能しなくなれば、多くの人の生活を支えていた仕組みも壊れて、最悪文明が滅びます。
自然を破壊しまくった後に文明が失われたら、人類は生きて行けるでしょうか?
文明崩壊や人類絶滅まで行かなくても、困った人が大勢現れて死者まで出るようでは大問題です。
社会的に問題が大きくなる前に手を打たなければなりません。
人口が急増すると対策が追い付かなくなる恐れがあるので、人口が増加する局面では人口抑制策を取る必要に迫られるのです。
しかし、人口増加を止める方法は二つしかありません。
死ぬ人数を増やすか、生まれる人数を減らすか、です。
このうち、「死ぬ人数を増やす」方法は政策としては使えません。
そもそも、食糧の増産にしても医療の進歩にしても人が死なないために頑張ってきた結果、人口爆発が起こっているのです。
増えすぎたからと言って助かる命を見殺しにする、あるいはもっと積極的に殺そうとする政策に賛同する人は少ないでしょう。
ただ、自然の生態系では増えすぎれば餌が不足したり天敵が増えたりして数を減らすことでバランスを保っていたりします。
人間は、自然のバランスで死んでいくことを拒否したのです。
そうなると、残る方法は「生まれる人数を減らす」ことだけです。
少子化は、必要なことだったのです。
ただし、「死ぬ人数を増やす」政策よりはましだとしても、「生まれる人数を減らす」方法も強引に行えば歪みを生じます。
中国で行われた一人っ子政策は単なるスローガンではなく、一人っ子家庭を優遇したり子供の多い家庭にはペナルティーを課したりしました。
一方、農村部などでは古くからの慣習が強く、跡取りとなる男子がどうしても欲しいと考える人が多かったそうです。
その結果何が起きたかと言えば、子供(特に女の子)が生まれても出生届を出さず、戸籍を持たない子供が数多く誕生しました。
中には国際養子縁組で他所の国の里親に引き取られたケースもあったそうです。
なかなかに酷い状況ですが、日本で行われたのは「断種」です。中国の事をとやかく言えないような非道を、日本でも行っていたのです。
そのことだけは、忘れてはいけないと思うのです。
もう一つ気を付けなければならないことは、自然の残酷な掟を拒否した以上、人口を一定に保つ仕組みは存在しなくなりました。
本能のままに子供を産み続けていれば人口爆発が起こるし、子供を産まない家庭が増えて行けば少子化人口減は進みます。
人口抑制策が上手くいって人口が減少し始めたなら、その政策を続けている限り人口は減り続けるはずです。
もう十分人口が減ったからといって、自動的に人口減が止まることはありません。
人口抑制策を廃止し、場合によっては人口減で生じた問題への対策も行う必要があります。
少子化対策も同様で、対策が上手くいって子供が増えたら、増えすぎて人口爆発にならないように政策を調整して行かなければなりません。
人口問題への対処は一度上手くいったからと言ってそれで終わりではありません。
医療技術の発達した文明が続く限り、不本意な死を避け続ける限り、人口の管理は自分たちで行うしかありません。
人口の管理は永遠の課題です。
そして、人道的な手段で人口の調整を行うことは困難を伴います。
まず、生きている人を殺すわけにはいかないから、人口を調整する手段は生まれる数をコントロールするしかありません。
出生数の調整では効果が現れるまでに時間がかかります。
もちろん、総人口で考えれば赤ん坊が一人生まれれば単純に+1されますが、生産年齢人口(十五歳から六十五歳)を増やしたければ十五年以上かかることになります。
長期的な視野で政策を行う必要があります。
場当たり的な対応では効果が薄いだけでなく、人数が多すぎて入試や就職で苦労する世代とか、人数が少なすぎて親世代の老後を支える社会負担が大きくなる世代とか様々形の歪みが生じる恐れがあります。
子供を産むこと、あるいは産まないことを強制することは人道に反するのでできません。人口を増やそうとか減らそうとか考えても即座に確実に行うことは無理なのです。
だから、「子沢山でも安心して育てられる制度の拡充」とか「子供がいなくても老後に不安の無い社会」とか言った周囲の環境を整えることで人々の行動を誘導するしかありません。
当然、効果が現れるまでに時間がかかります。少子化対策を行ったからいきなり新生児の数が増えるのではなく、じわじわと出生数が増えて行くのです。
問題が顕在化してからでは遅いのです。
将来を見越して、問題が深刻化する何十年も前から対策を始めて少しずつ効果を上げていくべきなのです。
早急な対策で、目に見える大きな成果を求めれば、どこかで歪みを生じ、混乱と悲劇を生むでしょう。
また、状況の変化に応じて政策を柔軟に変えることも、ちゃんと考えておかないと上手くいきません。
人口抑制目的で「断種」の処置を受けてしまった人は、その後少子化が重要な問題となってももう子供を儲けることができません。
そもそも、旧優生保護法は人口の調整を目的としたものではないので、目的外の用途に法律を利用したらおかしなことになるのは当然でしょう。
また、「断種」の他に、人口抑制のために人工妊娠中絶を認める条件の緩和(経済的な理由による妊娠中絶を認める)なども行われたそうです。
少子化が深刻になって来た時に再び条件を厳しくしようとしたら、「女性を子供を産む道具と見ている」といった批判を受けたそうです。
今後、少子化対策が上手くいった後に「子供が十分に増えたから子育て支援とか教育無償化を止める」などと言いだしたら大きな反発を生ずるでしょう
既存の関係の無い法律や制度を流用したり、「子供は大切だから支援は当然」みたいな論法で法や生徒を拡充して行ったら方向転換が難しくなります。
しっかりと目的を明示して、具体的な指標も導入して、状況に応じて柔軟に政策を切り替えられる仕組みを作るべきなのです。
国民の理解を得ないまま生活に影響する政策を強行すれば反発は必至です。
しかし、誰の目にも明らかなほど問題が顕在化してからでは手遅れ、とまでは言いませんが、他に悪影響も出る強引な手段が用いられることでしょう。
そして、強引な手段を使ったとしても人口を調整した成果が現れるまでには十年二十年とかかります。その間、人口爆発や少子化により発生した深刻な問題への対処も行わなければなりません。
深刻になって行く個別の問題に対処しながら、根本原因である人口問題に正しく対処できるでしょうか?
なかなか効果の表れない人口問題対策に、そこから派生して深刻化して行く諸問題となれば、「断種」のような非人道的な手段を安易に選択することもあるのでしょう。
非人道的な手段だけでなく、極端な手法はそれだけ弊害が多くなります。
例えば、少子化対策に「子育て家庭に毎月子供一人当たり十万円の支援金を支給する」と言う政策を行ったとします。
効果はありそうですが、財政負担がとんでもないことになります。成果が上がって子供が増えると、さらに支出が増加します。
もしも予算がどうにかなって、政策が長く続いた場合、支援金前提で子供を生んだり仕事を辞めて育児に専念する人も出て来るでしょう。
そうなると、少子化が解消して人口爆発の心配が出てきても、政策を止めることが難しくなってしまいます。いきなり制度を廃止すれば、支援金ありきで子供を儲けたり仕事を辞めたりした人が大勢路頭に迷うことになります。
強すぎる施策は弊害も大きいものです。
問題が顕在化するずっと前から対策を始めれば、悪影響も少ない効果の弱い対策を時間をかけて進めることができます。
人口の問題については、ある程度長期的な予測ができるのだから、十年二十年先の予測を今の問題と考えて対策すべきでしょう。
国としてあるていど人口の管理を行うということについて一度国民のコンセンサスを得て、後は客観的な指標を示して政策を切り替える体制を作るべきだと思うのです。
さて、少子化の話に戻ります。
そもそも、少子化の問題とは何でしょうか?
分かり易い問題が人口の減少でしょう。
生まれる人数より死ぬ人数の方が多ければ人口は減少します。
人口の減少がずっと続けば、最終的には0になって人類は消滅します。
人類絶滅まで行かなくても、人口が減り過ぎれば様々な問題が発生します。
国でも地方自治体でも税金によって運営されています。住民が減って税収が減少すればできることが制限されてしまいます。
つまり、公共サービスが低下して暮らしが大変になります。
大企業が大きな利益を上げられるのは、大きな市場で大きな商売をしているからです。巨額の投資や多くの従業員を雇っても、コストを上回る売り上げがあるから利益が出ます。
しかし、人口が減れば市場規模が縮小します。
薄利多売は数が売れなければ成立しません。量産効果は大量に作るから現れます。
人口が減少して市場が縮小すれば、今まで安価に手に入っていたものが非常に高価になったりします。
また、今の物作りは専門家の手が数多く入っています。原材料、部品、工具や製造装置。全てを自前で用意している企業は稀でしょう。
製品を直接製造販売している企業だけでなく、その企業に必要なものを提供する別の企業の活動が止まっても物作りは続けられなくなります。
特定の企業しか作っていない部品等で他に代替の利かない物ならば、その企業が製造を止めたら関連する製品もまとめて作れなくなります。
需要がなくなって製造を止める分には影響も限定的ですが、人口減少によって後継者な従業員、特に技術者や職人が確保できずに廃業になる場合には必要とする人がいるにもかかわらず製造できない事態に陥ります。
特に、特殊な技術や専門知識が失われると後から復活させることも困難になります。
人口減少の効果は、国や大きな組織の力を削ぎ、技術や知識を失わせ、文明も衰退させてやがて滅亡します。
ただ、現段階で人口減少による悪影響は現れてはいません。
なにしろ、地球規模で人口爆発の真っ最中です。八十億超えの人口は歴史上類を見ず、今なお増加中です。
日本や欧米、中国でも少子化が進んでいますが、インドやアフリカでは人口が増加が続いており、最終的には百億くらいまで増えるという予測もあります。
少子化が進んでいる日本に限っても、2024年時点で一億二千万二人以上の人口があります。戦前よりも人の数は多いのです。
少なくとも、総人口に関して足りないとは言えません。今よりもずっと人口の少ない時代はありました。
人口の減少が止まらなければいつかは社会を維持できなくなるまで人が減るから対策は必要ですが、今すぐに人口増加に転じなければならないと言うことはありません。
私は、現在少子化の影響とされている問題の多くが、本質的な部分で少子化とは別の問題なのではないかと疑っています。
例えば、過疎化と言う問題があります。
人員が減少して集落を維持することが困難になる減少は、少子化、人口減少の行き着く先です。
しかし、今起こっている過疎化は、少子化だけが原因ではありません。
もちろん、少子化の影響もあるでしょう。
しかし、人口の減っている集落がある一方で、人口の増加している都市もあるのです。
過疎化の進む集落でのみ少子化が起こっているということではありません。
生まれて来る子供が減っているからではなく、他の都市に流出したために人口がが減ったのです。
それは、少子化が問題となるずっと前から始まっていました。
子供にはたくさん勉強を頑張らせて、良い大学を卒業してよい会社に就職する。
多くの人がそうした人生を送る者を成功者と考える学歴社会では、多くの子供が成長と共に地元を離れ、有名大学や優良企業の存在する都市部へと移ってしまいます。
家を出て企業に就職するのが当然で、食にあぶれて実家に帰るのは人生の敗者であり負け犬。
そんな風潮が続けば、多くの企業が集まる都市部に人が流出していくのは自然な流れです。
人が多く集まれば、集まった人に対して商売を行う者もやって来て、さらに人が増えます。
そして、多くの商品やサービスが充実した便利で快適な都市が出来上がります。
そうなると、不便で何も無い田舎よりも、便利で様々な物で溢れている都会に住みたがる人は増えます。
特に若い世代が都市部に出て働き、そこで結婚するので、生まれてくる子供も都市部に多くなります。
結果として人の多い地域では人口が増え、少ない地域では過疎化が進むことになります。
少子化よりも、人の流出の方がよほど過疎化を推し進めているのです。
少子化の影響としてもう一つ、年齢別の人口分布、人口ピラミッドの形状が歪になることが挙げられます。
自然の状態ならば人口ピラミッドは年齢が上がるほど人数が少なくなる三角形(「富士山型」)になります。
出生数がだいたい一定していて、特定の年代に生まれた世代だけ死亡率が高いと言った偏りが無ければだいたいこの形になります。
医療技術が発達して人が死ににくくなると、老化で体が弱って来る年齢まで同じくらいの人数が並ぶ「つりがね型」になります。
これも、出生数が一定で寿命以外で死ぬ人が極端に少ないという条件が続く限り安定した形です。
現在の日本はそのどちらでもなく、「壺型」と呼ばれています。
第一次ベビーブームで生まれた「団塊の世代」の年齢がそろそろ老齢の域に入って高齢者が増えました。
その一方で少子化が進んで若い世代ほど人数が少ない状態です。
これは本来安定な状態ではありません。少子化が続く限り同じような形になりますが、次第に人口下が減少して萎んで行きます。
この壺型の人口ピラミッドは人口減少以外にも問題を生じます。
日本では15歳から64歳を生産年齢人口と呼び、労働力の中核となる世代と考えています。
今の時代、中卒でいきなり就職する人は少ないでしょうが、アルバイトを行う高校生ならば珍しくないでしょう。
生産年齢の外側は、まだ働くことのできない子供と、すでに引退した老人になります。
現役で働いている生産年齢の世代が働いていない世代の人を社会的に支えることになるのですが、壺型の人口ピラミッドでは老人の人口が多くなるため働いている人の負担が大きくなります。
有名なのが、年金問題でしょう。
日本の年金制度は、支払った保険料を運用して増やし、老後に還って来ると言うものではありません。
現役で働いている人が支払った年金保険金を、定年退職して年金を受給する者に分配する。そんな仕組みで運用されていました。
人口ピラミッドが富士山型の時代ならばそれでも問題ありませんでした。
年金受給者よりも現役世代の人数の方がずっと多いので、徴収した年金保険金を分配するだけで十分に豊かな老後を送ることができました。
それは、支払った保険金の総額を回収できずに亡くなる人が多数いるということですが、老後に対する安心は得られます。
人口ピラミッドがつりがね型になると、保険金を支払った労働者の大多数が年金を受け取る側に回ります。
単純に集めた保険金を年金として配ったとすれば、平均して支払った保険金の総額分くらいは年金として給付されるはずです。
保険金を支払ったほとんどの人が年金の給付を受けるのならば、支払った保険金の分が還って来るくらいでなければいずれ資金が枯渇して破綻します。
もちろん、物価の上昇に追随して給付される年金も増える(後の世代の支払う保険金が上がる)だろうし、全く運用を行っていないわけでもないので、ある程度長生きすれば支払った金額以上の年金を受け取ることができるでしょう。
ただ、年金の受給者が増えるほど、一人当たりに給付可能な年金の上限は下がります。
これが、壺型の人口ピラミッドになるとさらに状況が厳しくなります。
年金を受け取る老齢者の人数が増えて、年金保険金を支払う現役の働き手が減るのです。年金の仕組みそのものが破綻する恐れがあります。
年金生活者は年金以外の収入が無い場合も多いです。特に後期高齢者は再就職も困難なことが多く、年金が打ち切られたり十分な金額が受給されなかったりすると生活が成り立たなくなります。
一方、十分な年金を給付するために支払う年金保険金の額を増やせば、現役で働いている世代への負担が重くなります。
現役世代が生活苦で働けなくなったら元も子もありませんし、支払った分が還ってくる見込みのない年金に加入したいと思わない人も出て来るでしょう。
少子高齢化が進むことで、引退した老人一人当たりを支える若い働き手が減った分負担は重くなり、老人にも若者にも生きにくい社会になります。
状況を打開するために年金制度の改革が行われてきましたが、払う人が減って受け取る人が増えている現実はどうしようもありません。
昔は六十歳で定年退職して後は年金だけで悠々自適に過ごすことのできた人も多くいましたが、今では年金だけでは足らず、定年退職までに二千万円とか三千万円とかの貯蓄が必要と言う話もよく聞きます。
日本版401kなどと呼ばれる確定拠出年金は、毎月一定の掛金を支払い、それを運用して老後の年金として受け取る私的年金です。
支払った掛金を運用で増やすので少子化の影響を受け難いですが、運用に失敗すると受け取る年金の額が減ります。
リーマンショックの際、アメリカのサブプライムローンを組み込んだ金融商品を利用して年金を運用していたために受給する年金が減って困った人が海外では多くいたそうです。
当時の日本では年金にリスクの大きな運用を行うことはあまりなかったので影響は少なかったようですが、これからは年金にも運用リスクが伴うようになって行くでしょう。
少子化によって、老後のリスクが高まっているのです。
ただし、年金の在り方を人口ピラミッドが富士山型の頃の状態に戻すことが正しいとは思いません。
若い世代から集めた金を引退した老人に分配する仕組みは、ある意味ネズミ講と同じような面があります。
次々と新規参加者が現れ続けるから仕組みを維持することができ、金を払う人数よりも受け取る人数の方が少ないから支払った以上の金を受け取れるのです。
年金受給者が増えれば、つまり人を生かそうと努力をすればするほど破綻するシステムなのです。
また、高齢化と少子化は別の問題として分けて考える必要があります。
高齢化の問題を少子化対策で解消することはできません。
富士山型の人口ピラミッドは、あらゆる世代でまんべんなく死に易いからこの形になります。
年寄りが少数派だからこその富士山型です。寿命以外の死を排して行けば、年老いるまで人は生き、高齢化が進みます。
もしも子供を増やすことで富士山型の人口ピラミッドを実現しようとしたら、「生まれてくる子供の数がこのくらいまで増えればよい」では終わりません。
生まれた子供の大部分がそのまま老齢まで生きるのならば、毎年毎年前の年よりも多くの子供が生まれてこなければ富士山型を維持できません。
そんなことをすれば、人口爆発一直線です。
今の日本は少子化が行き過ぎているので少子化対策は必要です。
壺型の人口ピラミッドは解消すべきでしょう。
けれども、目指すのはつりがね型までで、富士山型まで狙うべきではありません。
富士山型は人が死に易くて長生きできないか、人口爆発真っ最中のどちらかです。
つりがね型の人口ピラミッドで人口がほぼ一定状態の時に上手く回る社会こそが目指すべき未来なのでしょう。
そして重要なことは、高齢化対策と少子化対策を混同しないことです。
年金問題は、本来高齢化の問題です。少子化対策が功を奏しても、それで多少状況が改善したとしても、高齢化の問題として考え、対処していかなければならないのです。
少子化の問題の本質は、恒常的に少子化が進行すればどんどん人口は減り、最終的には国も文明も崩壊して人類と言う種が滅亡することにあります。
その過程で多種多様な問題が生じますが、その問題の本質が少子化であるとは限りません。
少子化によって問題がより深刻化したり対応が困難になっていることもありますが、場当たり的な対応だけして少子化の解消で抜本対応を行う、と言った考えでは上手くいかないことも多いと思われます。
過疎化の問題は、今のところ少子化よりも人口流出の方が影響が大きいでしょう。
子供の数が増えても、「こんな何もない田舎では安心して子育てできない」と思われたら人口流出は止まらず過疎化は進みます。
年金問題は高齢化の問題です。多くの人が長生きすれば、年金受給者が増え、年金の総額も増加します。給付される年金の総額が、支払われた保険金の総額を超えれば年金制度は破綻します。
少子化は、年金保険金を支払う労働者の数が減ることで問題をさらに悪化させましたが、従来の年金システムは受給者が増え過ぎると破綻することに変わりありません。
最近は少子化によって人手不足が叫ばれるようになりましたが、実は就職氷河期とか超氷河期とか呼ばれていた頃も既に少子化は始まっていました。
求職者の数が多少減ったところでそれ以上に求人数が少なければ就職難になりますし、求職者の数が増えてもそれ以上に求人の数が増えれば人手不足になります。
現在人手不足と言われていても、だけもが簡単に就職できるとか、どれだけ給料を上げても人が来ないとか、そんな状況でもありません。
不足しているのは安い労働力とか、企業が必要とする能力を持った人材とかであって、需給のミスマッチが根本原因なのではないでしょうか?
労働人口が増えれば多種多様な人材も増えるでしょうが、それは同時に企業から必要とされず、就職難に陥る人も大勢発生するでしょう。
結局、少子化の問題とされる多くの問題は、少子化をどうにかしてもそれで終わりにはなりません。改善しても解決はせず、場合によっては新しい問題を生じます。
単に、人口が増え続けていた時代の制度ややり方を踏襲し、予測された少子高齢化に対応する社会を作る努力を十分にしてこなかかったことを指して「少子化問題」と言っているだけではないでしょうか?
少子化の対策は、人口爆発の対策とセットで人口を管理する問題として捉え、他の問題は予測される人口の推移を前提に考えるべきでしょう。
そもそもの話、少子化の根本原因は何なのでしょうか?
考えてみたのですが、幾つかの要因が存在して、総合的に少子化に向かう社会になっていると思います。
例えば、医療技術が発達して子供が死ににくくなったことも少子化の一因です。
昔は子供が死に易かったので、子供が一人やは二人では家系が途絶える恐れがあります。
血統を重んじる偉い家系ではなくても、先祖代々受け継いで来た何かがある人は多く、自分の代で途絶えさせるのは申し訳ないのでどうにかして跡取りを育てようとします。
しかし、生まれた子供のほとんどが成人するまで生きて行けるのならば、あまりに子沢山だと養育にも費用がかかるし、誰が家督を継ぐのかとか遺産相続とかでもめることにもなります。
子供が簡単に死ぬことを想定しなくて良いのだから、跡取りの必要な家でも何人も子供を産む必要は無く、一人か二人の子供を大切に育てればよいということになります。
個人の意思を尊重する社会も少子化を進めました。
昔の社会では、結婚して子供を産み育てることは義務でした。
政略結婚が当たり前の偉い人だけでなく、一般庶民でも親や家の意向で結婚することが当たり前に行われていました。
親だけではありません。年頃の若者が独り身でいると、周囲が縁談を持ち込んで結婚させようとします。
昔は、仕事ができても独身でいる間は半人前扱いで、妻子を養ってこそ一人前と言う風潮もあったそうです。
昭和の頃の漫画等で、「お見合いを妨害する」話が描かれることがあります。
今の時代ならば「たかがお見合いに何を必死になっている?」と思うかもしれませんが、見合い結婚が普通だった時代では「お見合いをして特に問題が無ければ結婚」と言う流れが当たり前だったので、誰かの結婚を阻止したければお見合いの段階で妨害する必要がありました。
お見合いをすれば結婚するというイメージは、昭和の後期頃まで残っていたのです。
とにかく結婚をして子を儲けなければならないという周囲の圧力が今とは比べ物にならないくらい強かったのです。
適齢期を過ぎた頃には結婚して子供もいるのが当たり前で、いつまで経っても結婚しない人は何か問題がある人物とみられていました。
ところが、個人の意思が尊重されるようになるとお見合いの強制力が低下します。
周囲がどれだけお膳立てしても、当人にその気が無ければ結婚には至りません。
個人の意思が尊重された結果、結婚しない自由も認められたのです。
その代償として、結婚したくても相手がいなくて結婚できない人が多数現れました。
生涯未婚率の上昇は、結婚しない人生を選んだ人だけでなく、結婚したくてもできない人も増加した結果でしょう。
昔ならば周囲が無理やり結婚させるので、どう見ても女性にモテないさえないおっさんでも普通に結婚して子供もいましたが、今では結婚したかったら頑張って自分で相手を探さなければなりません。
妥協して結婚する必要はありませんが、それは相手も同じことなので、良い相手に巡り合えずに婚期を逃す人も出てきます。
結婚できない人が増えれば、当然少子化は進みます。
日本では特に、結婚は個人の問題として、行政等であまり対策をしてこなかった経緯があります。
また、旧来の道徳観や貞操観から若い世代の男女交際や恋愛に現を抜かすことを悪いことのように扱っている気がします。
男女交際を校則で禁止している高校って今だに存在するのでしょうか?
少子化問題を考えるのならば、若いうちから健全な男女交際を教えるくらいの事をするべきだと思うのですが。
晩婚化も少子化を進める一因です。
三十代四十代と年齢が上がるにつれて妊娠出産が困難になります。妊娠しやすい年齢は二十歳くらいだそうです。
自然な妊娠が困難な年齢になって、それでも子供を欲しいと願う場合、不妊治療を行います。
この不妊治療にはお金がかかります。
一度の不妊治療で妊娠する確率は二割程度らしいので、何度も治療を行い、総額で三百万円以上支払った人もいるそうです。
今は保険が適用されるようになったのでだいぶましになったはずですが、それでも少なくない出費を覚悟しなければなりません。
また、金銭的負担だけでなく、女性側には身体的な負担もあります。
体外受精は、一度卵子を体内から取り出し、受精させてから子宮に戻すのです。辛く苦しい治療になるでしょう。
経済的身体的負担をかけながらも治療を行っても成功率は高いものではなく、年齢と共にさらに低下して行きます。
負担に耐えかねて子供を授かる前に諦める夫婦もいるでしょうし、子供が生まれたとしても二人目三人目を望んで再度不妊治療に挑む人は少ないでしょう。
子供を諦めたり、一人だけの家庭が増えれば少子化は止まりません。
つまり、晩婚化が進み、不妊治療に頼る人が増えるほど少子化も進みます。
江戸時代には二十歳くらいで年増と呼ばれたそうです。そのくらいの年齢で既に結婚して子供もいることが普通だったのです。
江戸時代に戻れとは言いませんが、多くの人が不妊治療に頼ることなく子供を授かることができる世の中にならなければ少子化は止まらないでしょう。
個人的に、少子化の大きな要因としては、親の負担が大きくなったからだと思うのです。
まず、経済的な負担が大きくなりました。
昔は子育てらそれほどお金はかかりませんでした。
大家族で暮らしていれば、子供一人一人に個室を与えるわけでもないだろうから、住むところに困ることは無いでしょう。
衣服なども昔は各家庭で繕っていました。古着やお下がりを直して着ることもできたでしょう。
食事の量は増えますが、大家族の中の子供分くらいならば、よほど貧困で食うに困る状態にならない限り問題ないでしょう。
そして、食事の量が増える食べ盛りの頃になると、子供も労働力になって行きます。
今の時代に下手に子供を働かせると児童労働として問題になりますが、昔の人の仕事はだいたいが家業なので、家の手伝いを行っているにすぎません。
実家が農家だった人ならば、子供の頃に農作業の手伝いをしたことくらいあるでしょう。
そうして手伝っているうちに労働力として使えるようになるので、ある程度子供がいた方が仕事がはかどって経済的にも有利になります。
ところが、今の世の中では昔のようにはいきません。
夫婦二人ならば問題なく暮らして行ける小さなアパートでは、子供が生まれると手狭になることがあります。
子供服やベビー用品等色々と売られていますが、何年も着続けることの無い子供服を買い与えなければなりません。
高度経済成長期を経て豊かになった分、子供に粗末な格好をさせることは外聞が悪くてできなくなりました。
大家族ならば子供一人分くらいの量は誤差と言える食事についても、核家族では無視できない食費の増加になります。
そして、何よりも教育費が大きな負担となって行きました。
昔は義務教育である中学を卒業したらすぐに働きだす人も多くいましたが、学歴社会になると最低でも高校は卒業すべきとなり、今では大学進学が当たり前になりました。
良い学校に入学するために塾に通ったり、評判の良い私立学校に入学させたり、勉強以外にも習い事に通ったり。
高校の無償化や大学の無償化など、親の経済的負担を減らす政策も検討されていますが、高学歴が当たり前になって学生でいる期間が長くなった分親が子の面倒を見る期間も延びました。学費以外の部分でも子供の生活を支える費用が増加しています。
それだけのお金をかけて育てた子供が働き始めても、親の仕事を手伝うことは稀です。就職した子供がどれほど高給取りになっても、養育費がかからなくなったこと以上に親の生活が楽になることはありません。
子供が就職して家を出れば、年老いた親の老後を養ってくれるとは限りません。自分の老後資金も確保する必要があります。
それでも、景気の良い時にはがむしゃらに働けば子育てに十分なお金を得ることができました。
しかし、不景気になると経済的に子供を育てられるか不安になる人が出てきます。
会社で出世して安心して子育てできる給料をもらえるようになるか、子育て資金が貯まるまで待っていたら、若い時に結婚しても結局不妊治療のお世話になりかねません。
今は金が無ければ子供を育てることもできない時代なのです。
金銭的な負担の他にも、労力的な負担、そして子供に対する責任が両親に大きくのしかかっています。
大家族ならば両親が不在でも、誰かしら子供の面倒を見る身内がいます。
地域のコミュニティがしっかりしていれば、互いに協力し合って地域ぐるみで子育てを行うこともできます。
しかし、実家を飛び出して核家族と化した家庭では、頼りになる身内は近くにいません。
地元を飛び出して都会に移り住んだのならば、地域のコミュニティからも離れています。
移り住んだ先で相互援助のコミュニティーができればよいのですが、歴史が浅かったり住人の入れ替わりが激しい新興住宅街などでは密な付き合いをすることも難しかったりします。
信頼のおけない相手に、子供を預けることなどできません。
結局、両親が頑張って子育てするほかありません。
それでも、専業主婦が一般的だった昭和の頃は母親が子育てに専念することでどうにか乗り切っていました。
しかし、不況になって共働きでないと生活が苦しくなったり、女性の社会進出が進んでキャリアを積みたいと考える女性が増えると育児の負担が問題となります。
日本では特に女性が働き続ける環境作りが遅れているため、問題が深刻になりました。
女性が正社員として働き続けることを阻害する要因は幾つもあります。
まず、昭和の頃には女子は結婚したら仕事を辞めて家庭に入る、いわゆる寿退職が一般的だったため、女性が結婚後も仕事を続けるための体制が会社側にありませんでした。
結婚後には女性側が姓を変えることがほとんどなので、仕事を続けるためには改姓の手続きが必要になります。
それは会社の人事システムに対する手続きだけでなく、仕事の仲間や顧客、他者の関係者などに挨拶して回って新しい氏名を覚えてもらうなどかなり大変な作業になる場合があります。
広く知られた氏名が変わることで仕事に支障が出たり、キャリアがリセットされかねない場合もあるなど、子育て以前に仕事のために結婚を躊躇するケースも出てきます。
そうした、仕事のために結婚できない問題の解決策として期待された夫婦別姓の法案も、あまり議論が進まないままに長いこと放置されてきました。
最近では旧姓の使用で対応しようとしているようですが、中小企業の事務システムなどでは旧姓に対応していなかったり、海外では旧姓が理解されずに偽名のように思われてしなうなど問題も多いそうです。
そうした問題を乗り越えて結婚後も仕事を続けたとして、妊娠出産の時点で次の壁にぶつかります。
福利厚生のしっかりした大企業ならば産休育休も取れるでしょうが、余裕のない中小企業等では出産を機に辞めざるを得ないこともあります。
育休の取れる職場でも、育休が明けたけど元の仕事に戻れないとかキャリアが途絶えると言ったこともあり得ます。
産休育休で長期間職場を離れたり「子供が熱を出したから」と言った理由で休みを取る既婚の女性に対して重要な仕事は任せられないとする風習は根強く存在します。
最近では改善されてきているでしょうが、男性の育休が認められる職場はまだ少ないのではないでしょうか。
そして、育休が終わっても幼い子供を一人家に残して仕事に出るわけにはいきません。
子供の面倒を見てくれる身内がいなければ、保育所に子供を預ける必要があります。
保育所に入所できなければ両親のどちらか――ほとんどが母親――が仕事を辞めて子育てに専念する必要があります。
子供が生まれたら仕事を辞めざるを得なくなる可能性が高くなれば、共稼ぎでどうにか生活している低所得者は怖くて子供を産むことができません。
待機児童問題は、少子化の改善と、人手不足解消のために女性の労働力を活用するという二つの課題にかかわる重大問題です。
もう一つ親の重荷になっているのが、子供に対する責任の大きさだと思うのです。
皆さんはこんな言葉を聞いたことはありませんか。
「子供が子供を産んではいけない。」
善悪の区別もつかない子供のような親に育てられた子供は不幸になりそうですし、非常識で傍迷惑な親に育てられた子供が非常識で傍迷惑な大人になったら自分の子供や孫が被害を被るかもしれません。
親の権利――親権は大きなものがあります。幼い子供に取って親は絶対者です。
他所の家の子育てに他人が口出しする権利はありません。
児童虐待やネグレクトが疑われる家庭を児童養護施設の人が訪問しても、親に拒否されると子供に会うこともできず、事実関係を確認して子供を保護することが難しいこともある、と聞いたことがあります。
権利が大きいということは、それだけ義務や責任も大きいということです。
子供に何かあれば親の責任。
子供の評判が悪ければ親の教育が悪いから。
子供が社会に迷惑をかけたら親が育て方を間違えたため。
子供を育てるということは、ただ可愛がるだけではなく、子供の人生に対する重い責任を背負うということです。
その重責を両親二人だけ、場合によっては母親一人だけで抱え込めば潰れてしまう人も出て来るでしょう。育児ノイローゼなんかが潰れた例です。
余談ですが、孫が可愛いのは、そう言った責任を負うことなくただ可愛がることができるからと言う面があると思います。
ただ甘やかして可愛がるだけでよいジジババと異なり、子供に責任を持つ親は子供を甘やかすだけではいけません。
子供の安全や健康を考えれば厳しく接する必要のある場面もありますし、将来のことを考えれば子供が嫌がっても勉強させなければならないこともあるでしょう。
しかし、いくら子供のために頑張っても、誤った知識に基いて行動すれば逆効果になることだってあります。
人間、時にとんでもなくあり得ない話を信じ込んでしまうことがあります。
デマ情報に踊らされたのだとしても、変な話を信じた親の責任です。
ある意味、親は子供に対して完璧な大人であることを求められます。
特に幼い子供にとっては親は絶対の存在です。親が間違っていたら何を信じてよいのか分かりません。まあ、成長するにつれただの人であることを理解しますが。
真面目に考えると、親になるということはとても大変で勇気のいることなのです。
そうした親の負担を軽減するために、行政サービスとして子育て支援とか親の悩み相談とか色々とやっていると思いますが、実際に子供が生まれて何か困ったことに直面するまでどんなサービスがあって誰に相談すればよいのか知らない人も多いのではないでしょうか。
もしも親になることの大変さと重責に気付いて、何かあった時に頼れる相手が近くにいなければ、子育てを躊躇する人も出て来るでしょう。
それでも子供を作ろうとするのは、親の責任を果たす覚悟のある者か、親の責任に思い至らなかった考えなし、あるいは親の責任とか気にしない無責任な者でしょう。
考えなしや無責任が問題を起こすと、社会人として未熟な若い者が子供を産むべきできないと言う風潮が生まれます。それが「子供が子供を産んではいけない。」です。
経済的な面も含めて子供を責任をもって育てられる自信と能力と覚悟が身に付く待っていたら、不妊治療のお世話になる高齢出産に近付くことになります。
親に求める責任と負担の重さが少子化を助長しているのです。
色々と理由を考えてみましたが、少子化の原因を排除して問題を解決することは非常に困難です。
核家族化は少子化の大きな要因の一つです。
大家族ならば経済的にも労力的にも子育ての負担は減ります。
子育ての経験者が身近にいることは何かあった時に安心です。一人で抱え込んでノイローゼになったり、虐待やネグレクトを行ってしまう危険をある程度は避けることができます。
けれども、今から「核家族を止めて大家族に戻ろう」と言われて実行できる人はどれだけいるでしょうか?
昔ながらの大家族から核家族に移って行ったのにはそれなりの理由があります。
個人的な理由は人それぞれでしょうけれど、全体的には会社勤めを行うようになったからでしょう。
企業が従業員として雇用するのは、家族ではなく個人です。
就職した職場が実家から通えなければ、家を出て独立するしかありません。
親兄弟が別々の企業に就職すれば、家族がバラバラになって行くのは必然です。
親と同じ企業に就職したとしても、大きな企業ならば日本各地や海外にまで支社や支店や工場などを持っていても不思議はありません。
家族経営の零細企業ならばともかく、同じ企業に就職したとしても勤務地が同じになるとは限りません。
実家から通えることを絶対条件にしたら就職先となる企業がかなり限られてしまいますし、企業側でも従業員の要望に全て応えることはできません。
結局、核家族が今の社会、今の働き方に合っているのです。
核家族でも対応しきれずに単身赴任になるケースもありますが。
また、会社勤めは地域のコミュニティも弱体化しました。
地域のコミュニティは隣近所が先祖代々からの付き合いがあるような親密な関係で、今後も永く良好な関係でいたいと思っているからこそ協力し合うし信頼もできます。
しかし、地元を離れて就職すると、地域のコミュニティから切り離されます。
盆と正月にしか帰ってこないようでは、心意気としては地域の仲間だとしても、日常的な助け合いには参加できません。
地元を飛び出す人が増えるほど、地域のコミュニティはやせ細っていきます。
逆に他所から流入した人がいても、すぐには親密な交流はできないでしょう。
互いに信頼を得るには時間がかかるし、その地域のやり方をいきなり押し付けられても困ることもあるでしょう。
また、仕事の都合で引っ越して来た者は、仕事の都合で再び引っ越して行くこともあり得ます。転入者の全てがその地域のコミュニティの一員として馴染もうとするわけではありません。
逆に、地元を離れた者は居を構えた地域でいきなりその地のコミュニティに受け入れられるとは限りません。
歴史の浅い新興住宅地などでは機能的なコミュニティができていないこともあります。
そうなると、地域の相互援助で子育てを行うことも難しくなります。
企業に就職するという仕事の形態が続く限りは、大家族や地域で子育てを行う社会に戻すことは無理でしょう。
それに、昔に戻すことが良い事とも限りません。
小さくて密な集団は協力体制が強い分人間関係の縛りも強力になります。合わない人はとことん合わないし、間違った方向に進むとカルト集団のようになることもあります。
村八分が制裁手段として強い力を持つのならば、たとえ違法でも人道的に問題があっても、そのコミュニティの方針ならば従わざるを得ない場合も出てきます。
そこまで親密な人間関係を構築せずにただ形だけ相互協力を行う制度を作っても、上手く運用できるかが問題です。
相互協力と言いつつ図々しい人が一方的に他人を利用するだけになったら意味ありませんし、素人に託児所の真似事をさせても問題が起こるでしょう。
自助や共助に頼るだけでなく、公助も確実に必要です。
昔のやり方に拘らずに新しい方法を模索する必要があります。
また、少子化対策で重要なことは、早目に結婚して若いうちに子供を産んでもらうことではないかと思うのです。
不妊治療があると言っても年齢が上がるほど妊娠し難くなることは変わりません。
負担の大きい不妊治療を行って子沢山の家庭はそうそうないでしょう。
一人の女性が生涯に産む子供の数の平均(合計特殊出生率)が二人未満だと少子化は止まらず人口が減り続けます。
子宝に恵まれなかったり一人っ子の家庭や生涯独身を貫いて子供を産まない女性もいることを考えれば、「兄弟がいて当たり前、三人以上も珍しくない」が一般的な社会にならなければ少子化は止まりません。
そのためには、なるべく若いうちに子供を産むことが重要になってきます。
平均寿命が延びたり晩婚化が進んだりしても、人の生理として二十代くらいで子供を産むようにできているのです。
自然に妊娠できる若い頃に第一子を出産すれば、二人目三人目も望めます。
子供を育てられる収入を確保してから子供を育てるのではなく、生まれた子供のために頑張って働く。
経験を積んで良識ある一人前の社会人になってから子育てを始めるのではなく、子供と共に親として成長していく。
それが許される社会でなければなりません。
たぶん、行政の支援だけでは足りません。多くの人の意識を変える必要があります。
今の、今までの日本では、若者に対して性的なものから避ける傾向がありました。
性に関する知識に対して、「放っておいても自然に憶えるもの」として子供から遠ざけようとする傾向は昔からありました。
しかし、必要な時に必要な知識を与える役目を担っていた家族や地域社会の機能が弱まると、漫画等で得た間違っていたり偏っていたり誇張された知識で行動して問題を起こす若者が現れます。
最近はまともな性教育が行われているのでしょうか?
あまりに刺激の強い性的な表現を未熟な未成年者から遠ざけるレイティングは正しいと思いますが、恋愛禁止の校則は行き過ぎでしょう。
恋愛にうつつを抜かしていないで学業に励めと言うことなのでしょうが、社会人になってから仕事そっちのけで職場で結婚相手を探すよりもよほどましだと思うのです。
見合い結婚が主流だった昔ならば別に男女交際とか経験しなくても周囲が相手を見繕って結婚させられていました。
けれども、恋愛結婚中心になった今では自分で相手を探さなければなりません。
若年層の男女交際を制限する風潮をそのままに、自由恋愛だから自分で相手を見つけろと突き放してしまったら、なかなか結婚できなくなる人も当然増えます。
生涯未婚率を下げるために中高年の婚活を後押ししても少子化の改善にはあまり効果はありません。
若い世代にこそ出会いの機会を増やして、男女交際の経験を積ませるべきでしょう。
学生時代に相手を見つけて、社会人になったら結婚するくらいでちょうど良いと思います。
高校で結婚後の生活の心得とか、子育てについて男子生徒も含めて教えるべきではないでしょうか。
家庭は人それぞれ、子供の成長も人それぞれと言うことで、絶対に上手くいく方法などはありませんが、最低限知っておくべきことを伝えることはできます。
困った時にどのような行政サービスがあって、何処に相談すればよいのかだけでも知っていれば防げる悲劇もあるでしょう。
若い夫婦が子供を持つことに消極的になるようでは少子化一直線です。
少子化問題を根本から解決して子供の数を増やしたいのならば、若い世代に対してアプローチすべきだと思うのです。
もちろん、若さに任せて無責任に子供を産めとは言いません。親として子供に対して責任を持たなければなりません。
ただ、抱えきれないほどの重責を両親二人だけ、場合によっては一人だけで抱え込んで自滅しては元も子もありませんし、子供が不幸になることを「親の責任」として見過ごすことも間違っているでしょう。
子育て世代の家庭に対して、親からの要請が無くても介入できるくらいの踏み込んだ制度があっても良いのかもしれません。
余談ですが、最近は同性婚に関する話題を聞くことがあります。
同性婚に関してこんな意見を持っていることもいるでしょう。
「同性同士で結婚したって子供はできないのだから意味ないだろう!」
確かに少子化対策の観点からすれば、最初から子供が見込めない家庭が増えても意味はありません。
ですが、この考え方は少々危険です。
子供ができない結婚を無意味だとすると、不妊症の人は結婚してはいけないことになってしまいます。
特に昔は男性不妊が知られていなかったため、子供の生まれない家庭では女性側のせいにされることが多くありました。
不妊症の女性に対しては、石女と言う差別用語があったくらいです。
不妊症かどうかは結婚して子供を作ろうとするまで分からないことも多いですが、事故や病気で生殖能力を失うこともあります。
そうした人達に、「どうせ子供は望めないのだから結婚するな」と言うのは酷な話でしょう。
さらにその考え方を推し進めていくと、「遺伝性の疾患のある者は、生まれてくる子供が可哀そうだから子供を作るな」と言った発想が出てきます。
もっと極端になると、「お前は劣った人間だから子孫を残すな」となり、優生学の発想に行きつきます。
そこまで極論にしなくても、子供を理由に同性婚を否定するなら、シニア婚活なども否定されることになります。
同性婚を拒否する心理の根源にあるのは、同性愛に対する嫌悪感があるのではないかと思います。
しかし、この先の同性婚は、同性愛カップルの結婚とは別の意味を持ってくるのではないかと思います。
言ってみれば、シニア婚と同じ扱いです。
シニア世代になってからの結婚は、子供を期待してのものではないでしょう。
若い頃のように、恋愛や性愛の対象としてみることもできないでしょう。
それでは、何のために結婚するか、結婚相手に何を求めているかと言えば、老後を共に過ごすパートナーとしての役割です。
独居老人には様々なリスクと不自由が付きまといます。
歳と共にできないことも増え、病気や怪我で動けなくなれば助けを求めることもできずに孤独死になる恐れもあります。
けれども、誰かと共に暮らしていれば助け合うことができます。
独りでは意識を失ったら何もできなくなりますが、二人いれば救急車を呼ぶこともできます。
親しい者が身近にいるだけで孤独が癒されたり痴呆の予防になる場合だってあります。
そうした互いを支えるパートナーとの関係としては、結婚して夫婦になることがとても便利なのです。
相方の代理で何かをする場合も、家族でなければ手続きが面倒になることはよくあります。
病気で入院する際の保証人として、単なる同居人が認められるとは限りません。
ただ、そうして互いを支え合うパートナーとして考えた場合、別に異性である必要は無いのです。
子供を望まず、恋愛関係も求めないのなら、生活を共にするパートナーが同性でも異性でも関係はありません。
別に同性愛者でなくても、十分に信頼できるのならば同性の相手を互いに支え合うパートナーに選びたい場合だってあるでしょう。
高齢化が進む現在、老後の生活を支え合うための同性婚、またはそれに類する家族の形態が求められるようになるかもしれません。
人口の増減に由来する問題に対して、非人道的な政策で対処しようとすることは民主的な社会では簡単に行えることではありません。
しかし、社会に余裕がなくなって来ると結果的に非人道的な状況になることはあり得ます。
例えば、年金の受給額が物価の上昇に追いつかないまま据え置かれたり。
医療保険制度を維持するために自己負担額が引き上げられたり。
生活保護の基準が厳格化されて役所の窓口で門前払いされたり。
そんな状況になると身寄りも無く貯金も少ない独居老人は大変です。
衣食住はギリギリとどうにかなっても、病気になっても病院にも行けず、困りごとを相談する相手もいない。
特に社会との繋がりを失ってしまえば、ある日孤独死して何ヶ月も経ってから遺体が発見されるなどと言うことになりかねません。
現代の姥捨て山は、都会の真ん中の安アパートの一室にあるのです。




