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駄文庫  作者: 水無月 黒
52/58

世界は言葉でできている

「いいね」ありがとうございました。

 物語の世界は言葉で構築されています。

 特に小説の場合は言葉でしか表現できないので、あれこれと言葉を組み合わせて世界を作ります。

 まあ、世の中には視覚的(ビジュアル)なイメージが先に先に出来上がって、それを表現する言葉を必死になって探すといった書き方をする作家もいるかもしれませんが、いずれにしても読者は言葉だけで構築された世界を読み解かなければなりません。

 小説だけでなく、実は漫画もかなり言葉で構築された世界です。

 台詞や説明文など直接言葉で書かれた部分だけではありません。

 漫画で描かれるのは写実的な絵ではなく、デフォルメされたキャラクターです。

 スターシステムではなくても、同じ漫画家の作品なら主人公、ヒロイン、悪役など同じ役柄のキャラクターが同じような絵柄になることはよくあります。

 美少女ゲームなどでは、複数いるヒロインを「髪型と服装でしか外見を区別できない」みたいなこともあるそうです。

 デフォルメされたキャラクターは、ある種の記号として作用します。つまり、言語のようなものです。

 場合によっては、表情や動作までパターン化され、その組み合わせで物語を記述します。


 言葉によって構築された世界では、やはり言葉が重要な役割を果たします。

 最近思ったのですが、魔法や異能、特殊能力としてのスキルといったものはほぼ全て言葉遊びです。

 言葉遊びというのはつまり、言葉によって規定されたルールが絶対的に正しい前提で話が進むことです。

 顕著なのは異能バトル系の物語でしょう。

 異能と称される不可思議な能力は、「○○できる」と規定されれば途中過程も物理法則も無視して必ず実現されます。

 逆に「××できない」と言えば絶対に不可能で、可能にするには何らかの抜け道を探したり、不可能なことを実現したように見せかける誤魔化しをしたりします。

 能力のルールだけでなく、「異能には異能でしか対抗できない」「異能は一人一種類のみ」といったルールが規定されていることもあります。

 さらに、言葉を拡大解釈してパワーアップするなどと言う展開もよくあります。

 結果として、異能バトルはルール無用の殺し合いであっても、互いに相手のルールの穴を突き、自分のルールを押し付け合うゲームになります。

 異能バトルの世界では理不尽に強い敵が登場したとしても、ルールそのものを無視することはまずありません。

 反則を行ってしまうと、その世界観そのものが台無しになって、読者は白けてしまうでしょう。


 そう言えば、カードゲームを題材にした有名漫画に対して、「反則ばかりでカードゲームの面白さが伝わらない」という批判を見たことがあります。

 格闘技やスポーツを題材にした物語でも、反則や場外乱闘(試合以外で不当に攻撃を仕掛ける)を行う卑怯な相手をルールに則って正々堂々と倒す、というパターンはありがちです。

 悪役が悪いことをするという物語のルールを守った結果、題材としている競技(ゲーム)のルールを平然と破る様が描かれることになります。

 基本的に反則は嫌われます。

 カードゲームが日本で普及する黎明期に描かれた作品だけに、反則ばかりのプレイは気になったのでしょう。

 カードゲームは反則がまかり通るというイメージが広まったら、ゲームのファンにとってはとても嫌なことだと思います。

 似たような(?)例として、熱血教師が型破りな指導を行う学園ドラマなどでも、教育関係者が見ると、

「あれ、本当にやると違法になるんだよね。」

となることもあるそうです。

 ドラマとしては良くできていても、違法行為が賞賛され、「お前もあんな教師に成れ!」などと言われるのは複雑な心境でしょう。


 魔法もまた言葉遊びです。

 多くの場合、魔法は呪文、つまり言葉によって発動します。

 魔法陣とか文字を書いて発動するパターンもありますが、それもやはり言葉による魔法です。

 イメージを用いて無詠唱で魔法を発動するパターンもありますが、イメージと言うものも言語化しないとかなり曖昧になりがちです。

 魔法では名前が重要で、真名を隠すといった風習が描かれることもありますが、これも言語において名前は相手を特定する重要なものだからです。

 名前が重要視されるという点で、魔法の仕組みは言語的であると言えます。

「ネームドモンスターが強い」みたいな話は魔法の仕組みというよりも、「その他大勢の雑魚ではなく、物語の重要な位置を占める特別な個体だから」というメタな理由からでしょうけれど。

 魔法そのものについては、最近はゲームの影響で近代兵器やSF兵器の代用品のようなイメージになっていることもありますが、「火属性は水属性で打ち消せる」のような言葉で示されたルールに基づいていることも珍しくありません。

 また、魔法の類似品としての呪いも言葉で縛られたルールで働くものが多いです。

 人の怨念の部分を強調するホラーな世界観では理不尽な呪いもありますが、物語の仕掛けとしての呪いは「○○すれば××になる」というルールそのものの場合が多いです。

 この場合の呪いは異能と同様に物理法則も途中経過も無視して条件を満たせば結果が現れます。そして、呪いのルールの言葉尻をとらえて解釈によって呪いを回避したり強制的に発動させたりすることもあります。

 魔法はある意味万能です。作品によっては死者を甦らせ、時を巻き戻し、世界の理を捻じ曲げてあらゆる不可能を可能とします。

 しかし、万能の魔法を無差別に使っていては物語が破綻します。

 問題が発生したら魔法でちょちょいと即解決、では話になりません。

 だから、魔法に制限をかけます。

 魔法を、「何でも願いの叶う不思議な現象」ではなく人の扱う技術として捉え、できることとできないことを明確に分けます。

 魔法を分類・体系化してできることを明確化する場合もあります。

 可能ではあるけれどもリスクやコストが大きかったり厳しい条件があっておいそれとは使えない場合もあります。

 そうしたルールを設けることで、安心して物語の中に魔法を登場させることができるのです。


 ゲーム由来の「スキル」もまた言葉で規定されたものです。

 そもそも、ゲームは明文化したルールに従って行われるものです。

 スポーツのゲームならばまだ体を使う非言語的な要素がありますが、知的ゲームはほぼ言葉遊びの世界です。

 特にRPGは、元となったTRPGの時代から言葉によって物語を進める遊びでした。

 プレイヤーは架空のキャラクターを演じます。

 プレイヤーとは異なる姿、異なる身体能力、異なる知識、異なる技術、そして異なる過去を持つキャラクターを演じるのです。

 架空のキャラクターである以上、何ができて何ができないかは設定されたステータスが全てです。

 このため、プレイヤーとキャラクターの間には少々認識のずれが生じます。

 キャラクターの身体能力はプレイヤーとは無関係で、その身体能力がどのようなものかを体感的に理解することはできません。

 自分の身体ならば、「余裕でできる」「ちょっと自信が無い」「絶対に無理!」等、だいたい見当が付くものですが、キャラクターの身体能力はステータスの値を見ながら想像するしかありません。

 同様に、ゲーム内の「スキル」はキャラクターの身に付けた技術です。

 自分で努力して習得した技術ならば、何をどこまでできるか、どのような状況で使えなくなるか、どのような応用ができるか等、全て自分で理解し把握しているはずです。

 けれども、プレイヤーにとって他人であるキャラクターの習得した技術である「スキル」に対してはそのような理解はありません。

 だから「このスキルは○○することができる」という設定に従うしかありません。

 詳細な手順も省かれるので、スキルを使えば結果が現れる魔法のような能力に見えてしまいます。

 例えば、鑑定という技術は本来ならば、自分の持つ専門的な知識と経験、それから真贋を見極める様々な技術(テクニック)を駆使して行うものです。

 しかし、ゲームの中では知識や経験を持っているのはキャラクター側で、プレイヤーはただその結果を受け取るだけです。

 結果として、鑑定というスキルでプレイヤーの知らない情報をどこからか引っ張り出しているように見えるのです。

 ゲームのシステム的には設定されている情報をプレイヤーに開示する手段の一つなので、あながち間違ってはいません。

 ただ、本来は何処かから情報が降って来るのではなく、プレイヤーの知らないキャラクタの持つ知識が使用されているはずなのです。

 それでも、ゲームをプレイしている分にはゲームシステムの制約として気にしないでしょうが、ゲームのような世界に行く物語になると不自然さが目立つことになります。

 異世界に行った主人公はキャラクターの立場ですが、そこでプレイヤーとしての体験をするのです。

 鑑定で言えば、キャラクターとしての知識も経験もないのに、プレイヤーとしての鑑定結果が降りて来る体験をすることになります。

 ゲームの感覚では違和感ないのでしょうが、現実の鑑定を考えると知らない対象を鑑定しようとする時点でどうかしているのです。

 他のスキルも同様で、キャラクターの持つ技術の結果だけを受け取る体験を再現する限り、本人が習い覚えた技術ではなく、何者かに与えられた魔法のような特殊能力が「スキル」になります。

 この、特殊能力としてのスキルは、言葉によって定義した結果を理屈や途中経過を飛ばして実現する言葉遊びになりがちです。


「異能」「魔法」「スキル」

 これらの超常の能力は言葉で構成されているが故に言葉を操る超自然的な存在の介在を窺わせることになります。

 魔法ならば魔法を司ったり祈りを聞き届けて奇跡を起こす神様がいたり、呪文を聞いて現象を引き起こす精霊がいたり。

 スキルの場合、神様に与えられるのは定番ですし、ステータスや鑑定結果の文章を書いている存在がどこかにいそうです。

 異能の場合は問答無用でそういう能力を持つと決めつけることが多い気がします。

 ただ、人の認識に依存する能力なので、深く考えて行くとどこかに人の言葉で規定されて超常の現象を起こす何かが必要になります。

 神様的な人格を持った存在の他に、ゲームを駆動するコンピュータのように世界の仕組みを言葉で規定するシステムが存在したり、物理的な世界の裏側に情報の世界が存在したりします。

 他には、「人間原理」を曲解・拡大解釈して人の認識が世界の理を生み出すという設定の場合もあります。この場合も言語的な認識が世界に反映されます。

 そうした超常の存在は、言葉による制約を受けます。

 非人格的なシステムや世界の仕組みに関しては言葉で規定されたルールに従って現象を起こすだけです。

 人格を持った神様の場合は「地上の出来事に直接干渉できない」等の神様の世界でのルールに縛られることがよくあります。

 全知全能の神が無制限に力を行使したら物語が破綻します。デウスエクスマキナの登場するシナリオは、物語としては駄作です。

 神様以外でも超常の能力を持つ超自然的な存在は何らかのルールに縛られることが多いです。

 悪魔は契約を遵守しますし、妖怪や伝統的なモンスターは行動パターンや撃退方法が決まっていたりします。

 吸血鬼(バンパイア)は人外の能力を持っていますが、一度も招かれたことの無い人の家に入れなかったりします。

 家の中と外、招いたか招いていないか、全て人間の都合に合わせたルールです。

 日本でも、名前を言い当てられると退散する鬼とか、怪異を退けたり呼び出したりする言動が存在する場合が多くあります。

 超常的な存在も、神話や伝説などを含めて、結局は人の想像力の中で生まれ、言葉によって語り伝えられてきた物語であるので、言葉によって規定された能力や制約を持つことになります。


 現実にあり得ない、想像で作り上げるしかない能力以外でも言葉で規定されている設定に従う物語は多々あります。

 SFなんかは科学的発見や理論、開発中の技術を元に、応用すればあんなこともできる、こんなこともできると妄想して世界を描きます。

 実在しない技術や現象を想像で描いているのだから、理屈優先の言葉遊びになりやすいことは確かです。

 ただ、理論や実際の現象を無視して言葉を優先しているように見えることも結構あります。

 例えば、宇宙を舞台としたSFでは定番の「ワープ航法」と呼ばれるものがあります。

 特殊相対性理論によると、物体を光速を超えて加速することはできません。しかし、それでは地球から他の恒星に行くだけで何年もかかり、スピーディーな話の展開が不可能になります。

 そこで登場するのが「ワープ航法」です。空間を歪曲させて、目的地までの近道を作ることで光速を超えて加速することなく、見かけ上は超光速の移動を可能としています。

 その後の空間転移系の能力や魔法の原点となるSF界の大発明です。

 科学の理論に従いながら他所の星へ行きたいという願望をかなえる優秀な理屈なのですが、このワープ航法は一つ重要な問題を無視しています。

「空間を歪める速度も光速を超えられないのではないか?」

 ワープ航法について、紙にABの二点を描いて「A点からB点に移動するにはABを結ぶ直線が最短距離だけど、紙をぐっと曲げて二点を重ねれば距離が無くなって一瞬で移動できる」といった説明がされることがあります。

 しかし、この説明には紙を曲げるために必要な時間が考慮されていません。

 宇宙規模で空間を曲げるのに、そのための時間を考慮しなくて良いという根拠が何処にもありません。

 ここで、もう一つ別の物理法則を考えてみます。

 一般相対性理論によると、重力は空間の歪みであり、その空間の歪みが伝搬する現象を重力波と呼びます。

 重力波は光速で伝搬すると考えられています。つまり、空間の歪みが伝搬する速度も光速です。

 重力とは別の曲げ方なのかもしれませんが、空間を歪める速度が光速を超えないのならば100光年離れた場所まで行くために百年以上かけて空間を歪める必要があります。

 でもそれだと話にならないので、そこはどうにかなるという前提で「ワープ航法で光速を超えて他の星系まで短時間で行く」という扱いになっています。

 今では原理とか考えずに、ワープ航法=超光速と思っている人も多いのではないでしょうか。

 こうして、科学的考証をすっ飛ばして、言葉のイメージだけで作られた現実離れした物語が生まれて来ることになります。

 ワープ航法だけの話ではありません。

 例えば、ブラックホール。

 強力な重力で何でも吸い込むというイメージが強すぎて、「ブラックホールが発生すると周囲の物をなんでもかんでも吸い込む」という表現になりがちです。

 ついでに、イメージが日常的なものに引きずられて強力な掃除機で吸い込むような感じになっていることも多いです。

 重力で引っ張られるのだから、吸い込むというよりは落下だし、力を感じるとすれば重力を振り切るための加速によるものになるはずなのです。自由落下中は無重力です。

 ブラックホールになることで強い重力が発生するというイメージも少々誤解があります。

 太陽を半径3kmにまで圧縮すればブラックホールになりますが、元の太陽よりも強い重力が働くのは元の太陽の半径(696,340km)の内側に入った場合だけです。

 ブラックホールの重力が強いのは、元となった質量が占めていた空間の内側に入った場合だけで、その外側ではブラックホール化する前と同じ重力しか働きません。

「ブラックホールは強力な重力で何でも吸い込む」という言葉が先行して現実とは違うイメージが出来上がっているのです。

 例えばダイアモンド。

 モース硬度10の世界一硬い物質として有名です。

 このため、武器や防具に使えばさぞかし強いだろうという発想があり、様々な作品に登場します。

 SFだけでなく、異能バトルやファンタジー世界の魔法などでも世界一硬い物質としてのダイヤモンドを利用する話はたくさんあります。

 最強のダイヤモンドアーマー。

 全てを貫くダイヤモンドの弾丸。

 何でも切り裂くダイヤモンドの刃。

 あらゆる物を砕くダイヤモンドの鈍器。

 でも、実際のダイヤモンドは硬い分脆いのです。

 宝飾用のダイヤモンドに関しても、複数のダイヤモンド製品を袋に入れてジャラジャラとしてはいけない、と注意されるそうです。

 硬いダイヤモンドでもダイヤモンド同士でぶつかり合えば傷がつくし、小さな傷を放置しておくと大きくひび割れることもあるそうです。

 宝石は丁寧に扱いましょう。

 モース硬度と言うのは、鉱石などを擦り合わせてどちらが傷つくかを比較して決められたものです。

 モース硬度が最高であることは他の物質で傷がつかないだけで、力を加えても壊れないことを保証するものではありません。

 実際、ダイヤモンドはゆっくりと圧力をかけて行くような力には強いですが、瞬間的な衝撃にはそこまで強くないそうです。

 そうした本物のダイヤモンドの性質を無視して、「世界一硬い物質」という言葉から連想される性質を勝手にダイヤモンドに当てはめているのです。

 つまり、言葉遊びで作られた架空の最強物質ダイヤモンドです。


 SFやファンタジー以外にも、言葉遊び的な妙な理屈を用いる物語はたくさんあります。

 戦闘がメインの作品は異能バトルではなくても言葉遊び的な必殺技が飛び出すことがよくあります。

「重い方が早く落ちる」「両手を使えば二倍のパワー」等と平然と言い切る『ゆで理論』は別格としても、物理法則を都合よく曲解した無茶な理屈や、理屈そのものは間違っていないけれどもそんなことができたら人間じゃないレベルで実現不可能な技とか色々とあります。

 中でも有名なのが、「真空斬り」の類でしょう。

 真空の刃を飛ばして相手を斬る。

 かまいたちの原理のように言われることもありますが、これはあり得ない現象です。

 真空とは空気が存在しない状態の事です。

 言ってみればれば、空気に開いた穴であり、そんなものを刃の形にしたところでなにも切れません。

 ドーナッツの穴を刃状にしたところで、何かを切れると思いますか?

 刃型の真空を作れたとしても、そこには何もないので何も切ることはできません。

 刃の形の真空を飛ばすなどと言うことも不可能です。実体のない真空の刃は、周囲の空気入って来てすぐに消滅します。

 実体のない「真空の刃」を物体のように扱うことで、飛ばしたり切ったりできるように思わせる。これもまた言葉遊びです。

 また、「酔拳」を本当に酒を飲んで酔っ払った状態で戦う拳法だと思っている人はいませんか?

 酔拳は、まるで酔っ払いのように動きの読めないトリッキーな動作で敵を翻弄する技術を使用する武術です。

 本当に酔っぱらっているのでも、酒を飲みながら戦うわけでもありません。

「酔えば酔うほど強くなる」というのは映画を面白おかしく盛り上げるための演出に過ぎません。

 ただ、その映画「酔拳」の影響が強すぎて、「酔拳=酒を飲んで酔っ払いながら戦う」イメージが定着してしまいました。

 結果として、その後の創作物では「酔拳」が出て来るとだいたい酒を飲んで酔っぱらっています。

 実物の酔拳よりも「酔拳」という言葉に定着したイメージが優先されているのです。

 他にも、アニメでも特撮でも、メカが合体すればパワーアップするのは常識になっています。

 しかし、工学的に考えると変形・合体は様々なデメリットがあります。

 変形、合体のための機構を追加で搭載する必要がある。それらは本来求めていた機能・性能とは無縁の余計なものである。

 可動部が増えると摩耗や故障しやすくなり、メンテナンスが大変になる。

 変形する箇所や合体した接合部はどうしても弱くなる。装甲なども薄くなりがち。

 合体することで使用されなくなる機能やパーツが必ず出て来る。それらはデッドウエイトになる。

 合体して大きく重くなったことで機動力は落ちる。数の優位は減る。

 合体してエネルギーの総量は増えたとしてもそれ以上に鈍重になって手数は減る。

 兵器としての利点は、威力の高い武器を使用できることくらいで、つまり大艦巨砲主義なのです。

 技術的にはツッコミどころの多い合体メカですが、それでも合体するのには演出上の都合があります。

 敵の強さを見せつけた後で、こちらもパワーアップしてという展開は定番です。

 そこでパワーアップする手段としてよく用いられるのがメカの合体です。

 合体してパワーアップと言うのは既に共通認識になっていて、理屈をすっ飛ばして符号や記号になっているのです。

 ピンチ、合体、逆転、という流れはもはや文法です。

 戦闘がメインの物語以外でも、このような記号と化した設定は色々と存在します。

 例えば、ステレオタイプなキャラクターと言うのはある種の記号です。

 インテリ、あるいは優等生キャラがメガネをかけているというお約束は昔からあります。

 科学者と言えば、科学で解明できないことを認めない石頭か、不思議な理論で奇妙な道具を作り出すマッドサイエンティスト。

 昭和の頃の不良、ツッパリ、ヤンキーなどと呼ばれる者を描いた漫画は数多くありますが、学校や社会の規範から外れた人間が、作品を超えて似たような恰好や言動をする型にはまった描写が行われています。

 こうしたキャラクターは、実際の人物をモデルにするというよりも、その属性に合わせて作られていることが多いのではないかと思います。

 インテリキャラだから、メガネをかける。

 科学者だから、魔法を認めない。

 不良だから、頭の悪い言動をする。

 主要人物やキーパーソンならばもう少し深堀することも多いでしょうが、チョイ役、特に速攻で倒される悪役に細かな設定は行わないでしょう。

 結局、所属や立場や属性がその人物の容姿や言動を決定します。

 まずラベルを張ってから、そのラベルに合わせて中身を入れるのです。

 これもまた、言葉遊びです。


 さて、ここまでフィクション作品に関して述べてきましたが、現実離れした言葉遊びの物語が何故リアリティを持って受け入れられているのでしょうか?

 人は言葉によって世界を認識しているから。私はそう解釈しています。

 人類が言葉を得、言葉で思考するようになってから、人は言葉によって世界を認識し、理解しています。

 言葉で認識するようになって、人の世界は広がりました。

 言葉を得る前は、自分が直接体験した範囲内だけが世界の全てでした。

 それが、言葉で認識するようになってからは、他人から聞いた、自分では直接見聞きしていない遠い場所でも世界として認識できるようになりました。

 国内から一歩も外に出たことの無い人でも、世界には様々な国があって、様々な文化や風習、考え方を持った人がいて、様々な光景が広がっていることを知っています。

 さらには、誰も直接見たことの無い海の底、地の底、宇宙の果て、ミクロの世界であっても、言葉で語られれば世界として認識できます。

 ただし、言葉は不完全です。

 正確に、完全に世界を表すことはできません。

「百聞は一見に如かず」と言います。

 ここで言う「聞」は伝え聞いた伝聞であり、「見」は直接見聞きした事柄です。

 つまり、百の言葉を費やしても、一度の直接体験には及ばないということです。

 だから、どれほど有名で、観光案内や体験記が出回っていようと、観光地には直接行って体験することが重要だと考えられるのです。

 けれども、ツアーガイドを読んだだけで旅行をした気分に浸る、そんな経験をしたことのある人も多いのではないでしょうか。

 自分で体験したわけでもないのに伝聞、つまり言葉だけで体験した気になる。

 そんな能力を人間は持っています。

 言葉で世界を認識しているのだから、言葉によって実際に体験した後と同じような認識を持つことも可能だからです。

 これは、他人の体験に対して自分の事として共感することのできる非常に重要な能力です。

 ただし、気を付けなければならないのは、実体験と全く同じとはならないことです。

 言葉にすれば同じになるけれど、内面的には微妙な違うということは十分にあり得ます。

 実体験をした者が、その全てを語り尽すことも不可能でしょう。

 同じ体験をしても、受ける印象は人によって変わることも珍しくありません。

 また、直接体験した者から話を聞くのと、間に第三者を挟んだ又聞きとでは印象は違います。

 間に入った人はただ右から左へとただ言葉を垂れ流しているだけではありません。

 そこには「言葉を伝える人」自身の思想が必ず入ってきます。

 人から聞いた話を自分なりに理解し解釈し、自分の言葉として話す。

 その過程で、聞いたそのままを話しているつもりでも言葉が変化します。

 言い間違いだと思えば修正し、分かり難い部分には補足や解説を入れ、冗長だと思えば要約する。

 重要だと思った部分を強調し、大した意味はないと判断した部分を省く。改変する意図はなくても元の話とは違った印象になります。

 こうした人伝を繰り返せば元の話からどんどんずれていく現象は「伝言ゲーム」とか「話に尾ひれが付く」など言ってよく知られています。

 たとえ一字一句間違えることなく正確に言葉を伝えたとしても、その言葉に籠められた感情までは伝わらないことも多いでしょう。

 だから、戦争とか自然災害とか、特殊な体験をした人の生の言葉を聞くことはとても重要です。

 直接生の声を聞けない過去の歴史では、当時の人の記録した一次資料が重要になります。

 ただ、いくら体験者の生の声を聞いても、当事者の書いた文章を読んでも、実際に体験したのと同じことにはなりません。

 百聞は一見に如かず、です。

 人が本当の意味で知っていると言えるのは、実際に自分で体験したすごく狭い範囲だけです。

 人の認識する世界の大部分は、全て言葉で綴られた物語です。

 小説が架空の物語(フィクション)ならば、世界は現実と銘打った物語(ノンフィクション)です。

 ジャンルが違うだけで、物語であることには変わりありません。だから架空の物語でもリアリティを感じることができるのです。

 物語でないのは、その人が自分で体験したことだけです。個人にとっての現実(リアル)は、世界の広さに比べてとても小さいものです。

物語(フィクション)現実(リアル)の区別が付いていない人」と言うと危ない人のように聞こえますが、「自分はちゃんと区別できている!」と言い切って良いのでしょうか?

 私達が現実(リアル)と思っている事柄の大部分は、現実(リアル)とラベルを付けただけの物語です。

 中には、現実(リアル)とラベルを付けただけの虚構(フィクション)が語られているかも知れません。

 本当に区別がつくのでしょうか?

 例えば、市販薬や健康食品、あるいはサプリメントなどの広告で、「(健康に良いとされる成分)を従来の二倍配合」とか「承認基準の最大量を配合」などと謳うものをよく見かけます。

 こうした広告を見て、「成分の量が多ければそれだけ効果が高いだろう」と思ったことはありませんか?

 これって、発想としては「ポーションを二個飲めば効果は二倍」「値段が高いポーションほど効果も高い」というゲームの考え方と同じなのです。

 本来、どれ程優れた薬でも、どれほど重要な栄養素でも、過剰に摂取すれば毒になります。

 極端な例では、大量の水を飲むことで「水中毒」という状態になります。

 普通はそこまで大量の水を飲むことはできないのですが、海外で水の多飲み大会で優勝した人が水中毒で死んだという例もあるそうです。

「体に良い成分なのだから多ければ多いほど良い」という考え方は、現実(リアル)虚構(フィクション)の区別が付いていないのです。

 別の例としては、たまに再審を行って無罪が確定する冤罪事件があります。

 最近では袴田事件が話題になりました。

 厳しい取り調べで強制された自白や捏造された可能性のある証拠など、怪しい話が色々と報道されました。

 無実の罪で四十五年間も死刑囚として収監されていた袴田さんを可哀そうだと同情したり、冤罪を生み出した警察や検察、あるいは裁判所に対して不信や憤りを感じる人も多いでしょう。

 しかし、袴田さんが逮捕された当時の反応はどうだったのでしょう?

 四人もの人間を殺して火を付けた凶悪犯が逮捕されたと聞いてほっとしたり、裁判が始まる前から「そんな悪人はさっさと死刑にしろ!」などと思った人もいるのではないでしょうか。

 つまり、むかしは凶悪な殺人犯が逮捕されたという物語が広まり、今は冤罪で死刑囚にされた可哀そうな男という物語が上書きしているのです。

 片方の物語が現実(リアル)ならば、もう片方の物語は虚構(フィクション)です。

 どちらが正しいとしても、大勢の人が虚構(フィクション)現実(リアル)だと思っていたことだけは間違いありません。

 これを、「昔の人が愚かだっただけ」で済ましてはいけません。

 冤罪事件は袴田事件で終わったわけではないのです。

 自白頼りの警察の体質も、捜査機関が集めた証拠の中から被告に有利なものを隠す、いわば公的な証拠隠滅ができてしまう制度上の問題も、今でも変わらず存在するそうです。

 冤罪を完全に無くすことは難しいでしょう。

 松本サリン事件では被害者がサリンを撒いた犯人であるという思い込みによる報道が行われました。

 地下鉄サリン事件が起こらなければ、今でも「毒物を撒いた犯人が自分で毒を吸い込んだ事件」という物語を信じたままの人がそれなりの人数いたでしょう。

 近年は凶悪な事件も度々起こり、その容疑者が逮捕されたというニュースも報道されます。

 そんなニュースを見て、「犯人が捕まって事件が終わった」と思う人も多いでしょう。

 けれども、本当は逮捕した後にも取り調べを行い証拠を固めて起訴し、裁判を行って本当に犯人であるかを判断し、犯人であるならどの程度の量刑が妥当かを決めます。

 実は誤認逮捕で釈放されることもあれば、裁判で無罪になることもあります。何年も経ってから再審が行われて無実が証明されることもあるでしょう。

 逮捕された時点ではまだ容疑者であり犯人と確定していないことは知識としては知っているはずです。

 それでも逮捕されたと聞いただけで犯人だと決めつけてしまうのは、事件を物語としてみているからです。

 容疑者や被害者と面識もなく、直接事件に関わっていない、つまり本当に現実(リアル)の体験をしていない人にとっては、伝え聞いた物語に過ぎません。

 自分に直接かかわってこないのならば、作り話(フィクション)実話(ノンフィクション)も大差ありません。

 同じ物語ならば、人は面白い方を選ぶでしょう。

 複雑で結末の良く分からない物語よりも、単純明快に何が起こっていて誰が悪いのか分かり易い話を。

 この場合の分かり易さとは、言葉できっぱりと言い切れることです。

 悪いやつが悪いことをして捕まった。そう言った分かり易い結末に安心するのです。

 物語において、設定は前提です。ニュースでこいつが犯人だと言うのなら(実際には容疑者か被疑者と言っているはずですが)、それを前提として思い込んでしまいます。

 戦時中に大本営の発表を鵜呑みにした昔の人を笑うことはできません。簡単にデマを信じてしまう人は大勢います。

 人は言葉で語られた数々の物語の中を生きているのです。


 なお、公式発表とか一般に信じられていることに対して、まともな根拠も無しに間違いだと主張し陰謀論などを振り回す人は、世界の隠された真実を知ったとかではなく、単に別の物語で生きているだけなのです。

 そうした不思議な主張をする人に対して、常識だとか誰かの受け売りだとか、こちらもまともな根拠無しに否定しようとしても無駄です。

 前提となる物語が異なるので話がかみ合いません。

 どちらが正しいかではなく、如何にして自分の物語に引き込むかが争点になるのです。


 ところで、そもそも言葉とは何なのでしょう?

 基本的には、言葉は他者とのコミュニケーションツールです。

 人間に限らず、仲間とコミュニケーションを取り合う動物はいます。

 外敵の接近を仲間に警告したり、助けを求めたり、餌場や水場の場所を教え合ったり、集団で狩りをする動物ならその指示を出したり。

 協力し合うだけでなく、縄張りやメスを奪い合う争いで相手を威嚇する場合もあるでしょう。

 どこからが言葉になるのかは議論の余地がありますが、仲間に対して自分の体験した内容、自身の感情や意志を伝えて相手の行動の変化を促す。

 それが本来の言語の役割なのだと思います。

 その始まりは、周囲の状況や、その状況に対する感情の表れを、周囲の同族が勝手に読み取ったことにあるのではないかと思うのです。

 相手が同族ならば、どういった状況でどのようなリアクションを取るかは容易に見当が付きます。

 危険を察知して逃げ出そうとする同族を見て、自分も逃げ出すことで難を逃れる。

 好物の餌を見つけて喜び勇んで向かう同族を見て、ついて行くことでそのおこぼれに与る。

 同族の動向を知ることで生存率が上がると、同じような行動をとる個体が増え、互いに互いの動向を見守る動物の集団が出来上がります。

 そこからもう一歩進むと、互いに助け合う仲間となり、他の個体の行動を見て判断するだけでなく自分から積極的に仲間に情報を伝えるようになります。

 相手の発した声や行動から勝手に推測するのではなく、自ら仲間に対して発信するのです。

 相手に通じなければ意味がない、言葉はここから始まったと言えるでしょう。

 言葉は、利他的な行為がその根源にあるのです。

 仲間に情報を伝える行為は、仲間の生存に有利になるために行うことです。

 助けを求める行為は利己的に見えますが、危機に陥った仲間を助ける利他的な行為の存在が前提です。

 仲間同士の争いで威嚇を行うことは利己的に思えますが、自分の強さをアピールして相手を追い払うことで不要な戦いを避け、種全体としての生存率を上げることになります。

 人間は実は嘘を見抜く能力は低いのだそうです。

 どれほど頭の良い人でも、あらゆる嘘を見抜くなどと言うことはできず、騙される時は騙されます。

 本来は利他的に使用されていた言葉が嘘を吐いて同族を欺く使い方をするようになったのは、生物進化の歴史から見れば最近の事で、種として嘘に対応する能力ができていないのだと思います。


 人間の扱う言葉が、他の動物の言葉と大きく異なる点があるとすれば、抽象性の度合いではないかと思います。

 抽象とは、個別の物や事象のことではなく、複数の物事を共通する性質や特徴で束ねて考えることです。

 抽象的な表現が無ければ相手の知らない物事を伝えることはできませんが、抽象表現を使用すれば他の物事と共通する部分を並べ立てることである程度は伝えることができます。

 初期の言語のようなものは抽象的と言うよりも漠然と「危険が近付いている」「こちらに良い事がある」のような曖昧な表現から始まって、その「危険」や「良い事」の内容やそれに対してどうすれば良いかが具体的に伝えられるようになり、その後その具体的な対象から共通項を集めた抽象的な表現が誕生した。

 私はそんな風に考えました。

 抽象的な概念が増えるということは、物事の共通項が様々な角度から切り出されたということです。

 そうした共通部分が増えれば、抽象的な概念だけを組み合わせて世界を再構築することができます。

 つまり、言葉で作られた世界です。

 概念を継ぎ接ぎして作った世界は現実の世界とは異なります。

 抽象的な概念は現実に存在する何らかの物事の一部分を表現するものです。

 個々の部分は実在する何かであっても、組み合わせ方によっては現実にあり得ない何かが生まれてしまいます。

 神話や昔話に出て来る怪物(モンスター)や空想の動物等には、人や動物の体の一部を他の動物のパーツで置き換えたり追加したりするパターンがよくあります。

 馬に角を一本付ければ一角獣(ユニコーン)に、翼を付ければ天馬(ペガサス)になります。人間の下半身を尾鰭に置き換えれば人魚(マーメイド)になります。

 牛や羊などの角、鳥の持つ翼、魚の尾鰭。

 それらは複数の動物の持つ特徴的な部位をまとめて名付けた抽象的な概念です。

 本来その部位を持つ動物から独立して抽象的な概念となったことで、少なくとも言葉の上ではどんな生物にも自在に付けられるようになりました。

 他の動物のパーツを付けるだけでなく、元からあるパーツを増減することもできます。頭の数を増やしたケルベロスとかヒュドラとか、目の数を一つに減らしたサイクロプスなど。

 あるいは、直接目に見えるパーツだけでなく、「大きさ」のような形の無い抽象概念を変えることも考えられます。

 人間を大きくすれば巨人(ジャイアント)になり、小さくすれば小人(ドワーフ)になります。

 抽象的な概念を多用すれば、現実にはあり得ない物事でも容易に表現することができます。

 しかし、現実にはあり得ない荒唐無稽な話だからと言って、何の意味もない役に立たないものと言うことにはなりません。

 抽象尾を推し進めて実体を伴わない概念だけを組み合わせた現実離れした世界のその先に、論理的な思考と呼ばれるものがあります。


 昔読んだ漫画の中に、宇宙人が地球人に関してこんな台詞を言うシーンがありました。


「どうして論理的に考えられないのか理解できない。」


 私はこの疑問に対する答えを一つ持っています。

 単純な話、人の脳には論理的に考える機能が無いからです。

 人に限らず、動物が進化の過程で脳を発達させてきた理由を考えれば、論理的思考が後発の能力であることは明白です。

 論理的思考は、初めから脳の持っている機能ではなく、後天的に学習して身に付ける能力です。

 実は、脳には数値計算の機能もありません。

 一桁の足算くらいならパッと答えが出る人も多いでしょうが、それは脳の機能で数値計算しているのではなく、計算結果を憶えているだけです。

 二桁以上の足算は憶えきれないので一桁の足算の結果を利用して計算する手順を覚えます。そのため、桁数が増えるといきなり計算速度が落ちます。

 小学校では掛算九九を覚えさせられますが、掛算は自然に憶えられる機会が少ないので強制的な覚えさせているのです。

 インド辺りでは二桁の掛算や割算の九九なんかもあると聞いたことがあります。

 論理的思考も、勉強して練習して身に付けるものです。緊張したり慌てたりすると簡単な計算も間違えてしまうことがあるように、とっさに論理的に考えられないと言うのは当たり前のことです。

 動物の脳の働きの中で重要な働きをしている機能は、パターン認識だと思います。

 人の感覚――五感の中で最も情報量の多いのは視覚です。

 視覚はとても便利な感覚です。離れた場所の様子を詳細に把握することができます。

 その反面、視覚情報は扱い難いものでもあります。情報量が多すぎるのです。

 視覚と同じく遠方の情報を得る聴覚や嗅覚は、耳や鼻に入って来る音や臭いを時間変化で把握する、言ってみれば一次元の情報です。

 それに対して、視覚は二次元に広がる画像情報の時間変化、つまり三次元情報を扱うのです。

 扱う情報量は桁違いでしょう。

 動物が脳を発達させた要因の一つが、視覚を手に入れたことにあるのではないかと思います。

 視覚情報は量は膨大ですが、それだけでは意味がありません。

 目に映る光景の中から、そこに何が存在するのかを把握しなければ次の行動を決める判断材料にはなりません。

 画像情報の中から見知った物体と類似した形状を見つけ出す処理を、画像認識あるいはパターン認識と呼びます。

 これ、工学的にはかなり難しい処理です。

 コンピューターにカメラを接続しても、そこに映っているものが何なのかを自動で識別することは容易ではありません。

 AIを使用した画像認識が実用化されたのは最近の事です。

 そのAIと呼ばれるものも、元はニューロとかニューラルネットワークとか呼ばれた人の神経細胞の働きを模した仕組みの応用で、大量のデータで機械学習を行うことで画像認識を可能としています。

 実はシステムを作った人にも、何処をどう見て対象を判断しているのか分かりません。

 私達も、目で見た光景の中からどうやってものを判別しているのか――人を見て何故それを人だと思ったのか、犬を見て何故それを犬だと思ったのか等――上手く説明できないことも多いでしょう。

 ただ見れば分かるとしか言いようがない。

 それは脳の機能として勝手に行われていることだから説明のしようが無いのです。

 脳が処理している情報は視覚だけではありません。他の感覚に対しても行っているのはパターン認識だと思うのです。

 原始的な感覚である嗅覚、味覚、触覚などでは単に刺激に反応するだけの場合もありますが、聴覚が拾う音声情報はパターン認識で何が発する音かを判別しています。

 そして、記憶も似たような仕組みだと思います。

 人の記憶は体験した出来事を時系列に沿ってそのまま保管している記録ではありません。

 ある出来事に対して場所やその場にいた人やあった物、その場で起きた物事など、関連した記憶の断片が繋がってエピソードとして思い起こされるのです。

 動物が物事を記憶する能力を手に入れた理由は、自身の体験を思い起こすためではありません。

 過去に体験した出来事の中から現状に近いものを探し、その時に成功した行動を行い、失敗した行動を避ける。

 今の行動の判断材料として過去の体験を利用するために記憶があります。

 この「現状に近い過去の体験を探す」処理もまたパターン認識です。

 個々の感覚から得られた情報単体のパターン認識ではなく、認識された結果も利用して総合的な状況をパターンとするのです。

 それは、蓄積された過去の経験に基いて推測する未来予測です。

 このパターン認識による未来予測を人は日常的に利用しています。

 例えば球技などでボールの落ちる位置に先回りして待ち受ける場合。

 あるいは道路を渡ろうとした時に遠くから走って来る車を見てこのまま渡って大丈夫かと考える場合。

 別に速度とか角度とか計算しているわけではありません。

 経験的に、このくらいの勢いでこんな角度で飛んでくればこの辺りに落ちる、このくらいのスピードで走ってくればこのくらいの時間でここまでやって来る。学習したパターンから推測します。

 学習した結果としての予測なので、学習が足りなければ(練習不足など)予測は不正確になりますし、学習したパターンにない状況 (車が急加速するとか)でも予測が外れて大慌てになります。

 この未来予測は、人間にとっては特に重要です。

 神経を伝わる情報の速度はあまり速くありません。電子回路の中の電気信号のように光の速さで駆け巡るとはいきません。

 神経による情報伝達では電気信号も使用されていますが、神経細胞間での情報のやり取りにはカルシウムイオン、つまり物質の受け渡しが行われています。

 神経細胞を幾重にも通って複雑な情報処理を行うにはそれなりに時間がかかります。

 複雑な情報処理の集大成となる思考は、神経の処理の中では特に時間がかかります。

 思考の速度は遅いのです。

 スポーツや武術など瞬間の判断が勝負を決める場面では、「見」て「考え」て「行動」するでは間に合いません。

 考えてから動いていては遅いのです。

 そして、極力考える時間を省いて素早く動いたとしても、純粋な反応速度で人間は動物に敵いません。

 大脳を発達させた人間は、脳の情報処理が複雑になった分、「見」てから「行動」するまでにかかる時間は長くなります。

 同じ神経細胞を利用しているのならば、単純な方が速いのです。

 だから、「見」る前に「行動」する必要があります。

 そのために必要なことが、未来予測です。

 現状からこの後何が起こるかを予測して、実際に事が起こる前に対処する行動を起こす。

 反応速度で勝る動物に対抗するためには、複雑な情報処理による未来予測で勝るしかありません。

 また、反応速度を埋めるだけでなく、望んだタイミングで事が起こるように仕向ける戦術的な行動や、その場限りではなく長期的に有利になるための行動などと言ったものも未来予測によって成立します。

 特に、何年も先を見据えて行動することができるのは、地球上ではおそらく人類だけでしょう。

 長期的な未来予測とそれを利用した計画によって人類は文明を築き、今の繁栄を得ました。


 パターン認識は、似通ったものを同じ範疇にまとめる処理です。

 それは、言語における抽象化と同じものです。

 例えばここにリンゴがあるとします。

 今、どんなリンゴを想像しましたか?

 一口にリンゴと言っても、実物は様々な個性があります。

 大きさも、大きかったり小さかったり。

 色も赤かったり青かったり。全体が単色で染まっているわけでなく、模様ができていたりします。

 形もすこし細長かったりふっくらと丸かったり。微妙な凹凸も含めれば千差万別です。

 外見だけでも詳細に見れば二つと同じものはありませんが、多少見た目に差があったところで食用の果実であることや食べ方など扱いに違いはありません。

 だからあまり影響のない差異は無視して、大雑把に同じものとしてみるのがパターン認識です。

 そして、パターン認識で同じ範疇にまとめられる対象をまとめて「リンゴ」と名付ければ、抽象的な概念である「リンゴ」の出来上がりです。

 同様にして、脳がパターン認識でだいたい同じものとしてまとめた物事に対して名前が付けられて言葉となります。

 つまり、言葉は脳の機能によって生まれてきたのです。

 たぶん、普通名詞レベルの抽象化は言語を持つ人間以外の動物でも行われているでしょう。固有名詞だけでは言語としてやっていけません。

 ただ、人間の扱う言語は抽象化された概念をさらに抽象化します。

 人や動物の身体をパーツに分解してそれぞれに名前を付ける行為なんかもそうです。

 犬とか猫とか動物の種類に名前を付けただけで抽象化が行われていますが、その抽象的な概念となったと動物や人の身体の一部をさらに抽象化するのです。

 例えば「足」という部位は個体差だけでなく種族によってもかなり違いがあります。

 二足歩行に特化した人の足、肉球を持つ犬猫の足、蹄の付いた馬や牛の足、鉤爪の付いた鳥の足。

 個体差だけでなく種族差も無視して、似たような形状、構造、役割などの共通点でまとめて「足」という抽象概念にしてしまっているのです。

 余談ですが、動物の脚を「逆関節」と称することがあります。

 これ、実は人間の足首に相当する関節をひざの関節と勘違いしたために逆に曲がっている思えるのです。

 足の裏をべったりと地面につける人間とは異なり、犬や猫はつま先立ち状態で歩いているのです。

 細かな違いを無視して似たようなものを同一視する処理で、違う役割のものをひとまとめにしてしまった例です。

 さて、抽象化した概念をさらに抽象化する、と言うことを繰り返して行くと実際の物事からどんどん離れて行きます。

 例えば、食糧となる動物を獲る行為を『狩り』と呼びますが、一口に狩りと言ってもその手法は様々です。

 獲物が通りかかるのをひたすら待つ、こっそりと近付いて瞬発力で捕まえる、ひたすら追い回して持久力で捕まえる、逃げられない場所まで追い込んで捕まえる等々。

 それぞれ見ただけでは同じ行為とは思えないはずですが、「動物を捕らえる」という目的の共通性で一括りにまとめて『狩り』と呼んでいるのです。

 さらに抽象化が進んだものに、数の概念があります。

 リンゴが一個二個三個、人が一人二人三人、鐘を打つ回数が一回二回三回……

 何かの個数や回数を数える数の概念は、対象を選ばずあらゆる物事に対応するが故に具体的な実体を持ちません。

 抽象化とは共通要素の抽出であり、実体が無くなるまで抽象化した概念は他の多くの物事や抽象的な概念に共通する基本的な概念と見なすことができるようになります。

 そうした、多くの物事に共通する基本的な概念が増えて来ると、逆にそれぞれの物事をその基本的な抽象概念の組み合わせで捉えることができるようになります。

 物事を抽象概念の組み合わせで考えると、その物事の理解が容易になります。

 基本的な抽象概念と言うものは、様々な物事の共通部分、つまりそれぞれの相違を削ぎ落として行ったとてもシンプルなものになります。

 複雑な物事でも単純な抽象概念の組み合わせにしてしまえば、個別の単純な概念を順に把握して行くことで全体を理解することができます。

 まるで違うように思える物事でも、基本的な抽象概念の組み合わせとして考えれば共通点や何がどう違うかといった点も見えてきます。

 このように物事を抽象概念の組み合わせで考えることは自身の理解を助けるだけでなく、その理解した内容を他者と共有するためにも利用できます。

 複雑な物事は、どこに着目してどのような角度で見るかによって随分と印象が変わることが多くあります。

 同じ物を見て同じ出来事を体験しても、そのことについて話し合うと食い違うことがあります。

 しかし、物事の一部分にのみ適用される単純な概念に限れば正しいことであると合意を得ることも容易でしょう。

 そうした、共通して正しいと認識できる事柄を積み重ねて行けば、全体としても共通の理解を得られるはずです。

 誰もが正しいことと認識できる、つまり客観的な事実を、誰でも正しいと理解できる方法で組み合わせ、誰でも納得できる結論を導く。

 その手法を論理と呼びます。

 論理で重要になってくるのが、実体が無くなるまで抽象化された単純な概念です。

 単純な概念であるから誰にでも理解できる客観的な事実になります。

 抽象化が進んでいるため、様々な物事に共通する概念です。

 逆に言うと、様々な物事に適用できる概念だから、様々な物事を考えていると頻繁に顔を出す概念となります。

 多くの物事に同じ概念が適用できるだけでなく、その概念の組み合わせについても、多くの物事に同じ組み合わせが現れます。

 つまり、抽象概念の組み合わせのパターンが発生します。

 雑多な情報の中から似たようなパターンを見出す、パターン認識は脳の得意分野です。

 物事を論理で考えることに慣れた人間ならば、複雑な物事でもどのような概念をどのように組み合わせれば説明できるかパッと思い付くようになります。

 まあ、パッと思い付いた後にはその思い付きで間違いがないか、見落としがないかなどをじっくりと検証する必要があるのですが。

 これが論理的思考の正体です。


 さて、実態を失うまで抽象化された単純な概念は多くの物事に対して適用されます。

 それは様々な物事の共通項を煮詰めて行った結果の概念なので、ある意味当たり前なのですが、これまで知られていなかったり新しく生まれた物事、つまりその概念が生まれる共通化に寄与していない物事に対しても適用できることが多くあります。

 そして、理論によって未知の物事であってもある程度は説明したり、予測したりすることもできます。

 だから、この実体が無くなるまで抽象化した純粋で単純な概念こそが物事の本質であり、世界の真実であると考える人が現れます。

 具体的な実体が無く、それでいて本質的な概念を形而上と呼んだりします。

 複雑怪奇で矛盾に満ちた現実の世界の奥底には単純明快で完全無欠な、言ってみれば真の世界が存在する。

 そんな思想は古くからありました。

 直接目に見える、五感で感じられる具体的な世界の背後にある単純明快で抽象的な真理を見出そうとする試みも古くから行われてきました。

 世界の真理に思索で至ろうとしたのが哲学で、自然の在り方を調べることで迫ろうとするのが自然科学です。

 武器となるのはどちらも論理です。論理によって「正しいこと」を積み上げて少しずつでも真理に近付こうとしているのです。

 まあ、哲学は途中で世界の真理は諦めて、人は如何に生きるべきかみたいなテーマに注力したようですが。

 一方で、自然科学は諦めていません。

 自然科学の方向性は複雑な自然現象を単純な原理原則で説明することです。

 物理学者の究極の目的の一つが、あらゆる物理現象を説明できる万物の理論を見つけ出すことです。

 万物とは言わなくても、なるべく簡単な説明で多くの事柄を説明できる理論ほど優秀な理論として扱われます。

 ニュートン力学はたった三つの法則で日常的に目にするほとんどすべての物体の運動(天体の運行も含む)を説明してしまいました。

 マクスウェルの電磁方程式は四本の方程式で電気と磁気に関するあらゆる現象を説明します。

 一般相対性理論から導き出されたアインシュタイン方程式は、当初はアインシュタイン自身が否定していた宇宙の膨張も表現されています。

 いずれも簡単な数式(解くのは大変だけど)で多くの事をきっちりと説明することが可能になります。

 そして行き着く先は、簡単で美しい数式でありとあらゆる事柄を説明する、そんな理論を見つけ出すことです。

 そんな理論が本当に存在するという保証はありませんが、必ず見つかるという信念を持って科学者は研究を進めています。

 万物の理論が見つかるかは分かりませんが、これからも新しい理論が構築されるでしょう。

 そこで利用されるのが論理です。

 論理は強力です。

 正しいことを正しく組み合わせれば正しい結論を導き出すことができます。

 問題点は、一ヵ所でも正しくないことや正しくない組み合わせが混ざれば正しくない結論が導かれてしまうことでしょう。

 けれども、間違った結論であると気が付けば、どこでどう間違えたのか検証して確かめることができます。

 多くの人が時間をかけて検証すれば、最終的には誰もが多々しいと認める結論を出すことができるでしょう。

 そして客観的に正しいこと――観測や実験で得られる科学的事実が増えて行けば論理によって導き出せる正しい答えも増えて行きます。

 それを続けて行けばいずれは「世界の真理」に到達することができる、のでしょうか?


 私は無理ではないかと思っています。


 真理に到達する前に立ちふさがる壁は色々あるでしょうが、技術的な壁を乗り越えたとしてもそれだけでは届かないと思うのです。

 おそらく、論理には限界があります。

 論理は英語でロジック(logic)と言いますが、語源はギリシャ語のロゴス(logos)の形容詞形だそうです。

 ロゴスの意味はいくつかありますが、「言葉」を表す単語です。

 論理(ロジック)は言葉で表せる物事しか対象としません。

 そして、言葉は不完全です。

 世界の全てを言い表すことのできない不完全な言葉を操って、森羅万象に通じる世界の真理に至ることが可能だと思いますか?

 ちなみに、数式も言葉の一種です。

 科学技術の分野では様々な数式や数学の理論が多用されているので、数学を自然科学の一分野のように感じている人もいるかもしれません。

 けれども、数学は言語学側の学問です。数式の文法や、数式による表現方法、あるいは現実の何かを数式でどう表すかと言ったことを研究する学問です。

 ガリレオ・ガリレイは「宇宙は数学と言う言葉で書かれている」と言いました。

 ただ、個人的にはこれは逆なのではないかと思っています。数学を発展させた要因の一つに天文学があります。

 天動説が当たり前だった時代から、人は天体の観測を行い、天体の運行を計算してきました。

 太陽や月や惑星の運行を計算し、日食や月食の予測するには金勘定とは別の計算手法が必要となります。

 ニュートンは万有引力の法則と運動方程式から惑星の運動を計算するために、微分・積分と言う数学的手法を作り出しました。

 高校の数学で微分積分に苦しんでいる学生の皆さん、あれ実は一人の人間が物理の理論を考えるする片手間で作ったものなのです。

 論理とも相性が良く、科学技術と合わせて様々な物事を説明し予測するために利用できる数学ですが、やはり人の作り出した言葉です。

 数学もまた完全ではありません。

 数学の未解決問題は幾つもありますし、ゲーデルの不完全性定理などと言うものもあります。

 数学的に完全であることと、世界の真理や宇宙の全てを表現できるかはまた別の問題な気もしますが。

 いずれにしても、不完全な言語を用いて論理的に世界の真理に到達できるとは思えません。

 まずは完全な言語を作り出し、完全な言語によって展開される論理を駆使しなければなりません。

 その完全な言語の最有力候補が数学です。

 ただ、世界の全てを正確に表現できる完全な言語であることを論理的に証明することは可能でしょうか?

 もう一つ問題になると思われることは、論理とは人を納得させる技術であり、人を納得させることしかできないことです。

 多数決は絶対の正しさを保証しません。多くの人が納得したからと言って正しいとは限らないのです。

 論理の正しさを担保するのは、誰もが正しいと理解できる客観的な事実です。

 それは世界の真理でも宇宙の絶対の法則でもなく、人間のに認識に基きます。

 例えば、天動説はとても自然な発想で出てきた考えです。

 だって、空を見上げれば太陽も月も星も空の上を動いて行っているのですから。

 天体は空の上を東から西へと移動している。それが観測された誰が見ても正しい客観的な事実です。

 プトレマイオスのアルマゲストは天動説の天体モデルに基いて太陽、月、惑星の運行をかなり正確に表していて、日食や月食の予測もできたそうです。

 客観的事実に基いて論理的に天動説を説明しているのです。

 現代人が過去に行って中途半端な知識で地動説を主張しても相手にされないでしょう。

 宗教的な理由とか、偉い人の言葉を妄信しているからとかでなく、論理的に地動説が正しいと証明するだけの客観的根拠を示すことが困難だからです。

 アルマゲストは思い付きや宗教的信念で天動説を唱えたわけではなく、過去の多くの観測データを基にそれらを説明する理論として天動説のモデルを構築しているのです。

 地動説の概念だけ主張しても意味は無く、天動説でも説明できる範囲の内容を地動説で説明しても、日食や月食の予測ができるアルマゲストを支持するでしょう。

 地球が動いていることを示す直接的な証拠は年周視差や光行差ですが、光行差が初めて観測されたのが1728年、年周視差は1838年です。

 それ以前は「地球が動いているならば地球の位置によって星がずれて見えるはず。星のずれが観測されない以上地球は動いていない。」と論理的に天動説の正しさが証明されてしまいます。

 コペルニクスが地動説を唱えた理由は、「地球が動いているはずだ」という信念があったからではなく、プトレマイオスの時代以降にも続けられてきた天体観測のデータを当てはめていくとアルマゲストのモデルでは説明しきれなくなったからです。

 天体の運行をより正確に表せるとして地動説が有力になった後も、年周視差が観測されるまでは欠陥のある仮説でした。

 年周視差は地球から遠い天体ほど小さくなり、3.26光年離れた天体で1秒(1°の1/3600の角度)のずれが生じます。

 つまり、角度にして1秒未満のわずかなずれを検出しない限りは論理的に地動説を正しいと証明することはできず、ただ天体の動きを計算しやすくするためのテクニックに過ぎないのです。

 論理の限界はここにあります。

 天動説が主流だった時代には、論理的に天動説が正しい。

 地動説が当たり前になった現在では、論理的に地動説が正しい。

 別に宇宙の構造が変わったわけでも、論理の手法が変わったわけでもありません。

 変わったのは人間の認識です。

 1秒未満の角度のずれなどと言うものを肉眼で判別することは不可能でしょう。だから地球が動いていないと考えることが当然だったのです。

 ところが、技術が進歩して微細な星のずれも観測できるようになると、地球が動いている事実が当たり前のこととして受け入れられるようになりました。

 論理の根幹をなす、誰もが正しいと理解できる簡単な事柄、客観的な事実と言うものは、人間の認識で変わるのです。

 基本的で単純で絶対に間違いの無い正しいことと思うような事柄でも、別に自然の摂理でも宇宙不変の法則でもなく、ただ経験的によくある出来事から類推して当たり前だと思っているだけだったりします。

 客観的な事実とは、同じ感覚器官を備えて同じ基本構造の脳で処理する同じ人間だから同じように認識する内容を指します。

 人として世界を認識する基本構造が同じだから、誰もが同じように錯覚する客観的な誤認識だってあるわけです。

 それまで絶対的に正しいと思われていたことが覆ったことは多々あります。

 不動の大地が実は動いていると知れた地動説もそうです。

 特殊相対性理論では、それまで完全に別々の概念だと思われていた時間と空間が不可分の関係になりました。

 一般相対性理論では、永遠不変と思われていた宇宙に始まりと終わりがあることを示しました。

 特に極端なのが、量子力学とか素粒子物理学でしょう。

 光は波であると同時に粒子である。

 エネルギーは不連続な値しか取れない。

 原子の中の電子は存在確率の波が広がった雲のような状態で存在している。

 位置と運動量を同時に正確に特定することはできない。

 誰でも正しいと分かる簡単なことを積み上げていくのが論理ですが、その「誰にでも正しいと分かること」が思いっきり覆るのが量子力学の世界です。

 従来ならば、粒子だと分かれば波ではないし、波だと言うのならば粒子ではないと展開していくのが論理です。

 波であると同時に粒子でもあるなどと言う論理的に矛盾しているようにしか見えない考えを量子力学は前提としています。

 その結果、「一個の光子が二つのスリットを同時に通り抜ける」という奇妙なことが実際に起きていると主張します。

 まるで論理が破綻しているかのように見えますが、これは多くの人が実験や観測を行った結果を理論として組み立てて論理的に出した結論です。

 否定されたのは論理ではなく、「粒子と波は全く別のもの」という従来だれも疑うことの無かった客観的事実の方です。

 論理の正しさを担保する「誰でも正しいと理解できる客観的な事実」とは、人が日常的に体験し認識した範囲内で経験的にいつでも正しかったと言うだけの事柄です。

 技術の進歩と知識の蓄積によって日常的に体験できる範囲を超えた領域の出来事も知ることができるようになりました。

 これは、人間の認識が拡張されたということです。

 人の認識できる範囲が広がったことで、それまでの理屈が通用しない状況に遭遇し、そこで新しい理論や世界観を獲得しました。

 肉眼では見えないもの、判別できない差異を誰にでも明確に認識できる方法を作り出すことで科学は進展してきました。

 この認識の拡張無くして科学の進歩はありません。どれ程優れた理論でも実際の自然現象を表現しているという証拠が無ければただの仮説に過ぎません。

 物理学の基本的な四種類の力の内、重力を除いた三種類の力を統合した標準モデルと呼ばれる理論は、ヒッグス粒子の発見で完成しました。

 理論としては完成していても、証拠が見つかるまでは数ある仮説の中の有力候補の一つでしかありません。

 ヒッグス粒子を発見したCERNのLHCでブラックホールができるかもしれないと話題になりましたが、これは未完成の重力を統合する理論で予測される数値の中の最大値ならばLHCの出力でギリギリブラックホールが生成されると言うものでした。

 未完成で予測にも幅のある理論ではあまり意味はありませんが、予測の範囲内の結果が出れば理論の正しさを補強する材料になりますし、予測の範囲外の場合は理論が否定されるか、少なくとも修正を余儀なくされます。

 物証は重要です。自然科学では理論よりも実験結果や観測結果の事実が優先されます。

 どれほど美しい理論でも、現実の世界を表現していないのではただの空論です。

 しかし、技術の進歩による認識の拡張をさんざん行ってきた現在、さらなる認識の拡張によって新しい事実を見つけ出すことが難しくなってきていると思います。

 LHCなんかはスイスからフランスにまではみ出した巨大なリング状の粒子加速器です。「実験室でビックバン直後の状態を再現する」みたいな言い方をすることもありますが、実験室と呼ぶには大きすぎる施設です。

 施設の建築にも運用にも莫大な費用が掛かっています。

 他にも、天文学の分野では宇宙望遠鏡などと言うものもあります。

 望遠鏡は口径が大きいほど高性能なのですが、大きくて重い精密機器を衛星軌道に打ち上げるのは技術的にもコスト的にも大変です。

 ついでに、基本的に一度打ち上げたら修理はできないので故障したらそこまでの使い捨てです。

 最新の研究には莫大な費用な大規模な設備が必要となることも珍しくありません。

 技術的な問題ばかりでなく、費用の問題で研究が進まなくなる事態もあり得ます。

 技術や費用の問題ならば、技術の進歩で解決する可能性もあります。

 しかし、技術が進歩したとしても理論的に認識することができない領域にぶつかればそれ以上進知ることができなくなります。

 例えば、高速を超える情報伝達はできないので光円錐の外側や宇宙の膨張速度が光速を超えた外側のことは絶対に観測できません。

 量子力学の観測問題に関して「多世界解釈」という考えがありますが、「理論」ではなく「解釈」と呼んでいるのは確かめる方法が無いからだそうです。

 互いに干渉しない、つまり観測できない世界を想定しているのだから確認のしようがありません。

 そうした、理論的に認識不能な領域が増えて行き、残る未知は認識不可能な領域にしかないとなった時に真理の探究は終わります。

 論理によって正しさを証明できるのは、人の認識の及ぶ範囲内だけなのです。

 また、認識が拡張されて新しい理論を構築するような発見がある時には、既存の「誰でも正しいと理解できる概念」が否定される時でもあります。

 結果として、知れば知るほど世界の真の姿は私達が日常的に認識している世界とはかけ離れて行きます。

 地動説ならば多くの人が理解し受け入れているでしょう。

 特殊相対性理論はそれなりに広く受け入れられているはずですが、それでもたまに「相対性理論は間違っている」と主張する人がいます。

 量子力学になると、理解している人の方が少数派かも知れません。

 詳細な計算や研究中の最先端の理論に関してはともかく、概略程度なら頑張って勉強すればだれでも理解できるはずなのですが、素人にも分かり易い解説として下手に比喩などを多用して説明すると変な誤解を広めることになりそうです。

 今のところ真面目に勉強すれば理解できるようになるし、研究の最先端は選ばれた天才にしかできなくても完成した理論は分かり易く整理されるものです。

 しかし、日常からかけ離れた概念が増えて来ると、それを理解するだけで一苦労になります。

 もしも、選ばれた一部の人間とか、特別な訓練を受けた特殊な人間だけが理解できるような概念を含む理論だらけになったらどうなるでしょう?

 論理の正しさは、「誰にとっても正しいと分かること」を組み合わせているから誰にでもその正しさを理解することができます。

 一部の人間にしか理解できない概念を含んだ理論では信憑性がありません。

 その一部の人が揃って同じ間違いをしていたら正すことができないし、全員が口裏を合わせて正しいと主張すればそのことを否定できる人はいなくなります。

 もっと極端に、たった一人の天才にしか分からない理論だったら?

 それがどれほど正しいとしても、他に理解できる人がいないのならば狂人の妄言と変わりありません。

 論理はあくまで人を納得させる手法です。人を納得させることができない論理に意味はありません。

 認識の限界と理解の限界。

 それが真理を求める人間に立ちはだかる最後の壁であり、人間の限界なのだと思います。


 そもそも、「世界の真理」と呼べるようなものは存在するのでしょうか?

 存在したとして、単純明快な理論、つまり言葉で表せるようなものなのでしょうか?

 科学者は「万物の理論」が存在すると信じて研究をしていますが、そのようなものが絶対に存在するという根拠はありません。

 研究を続けて行けば万物の理論に近付くだろうというのは信念というか信仰みたいなところがあります。

 科学者に限らず、複雑な世の中にも単純明快な答えがどこかにあるはず、みたいな思いは多くの人が持っているのではないかと思います。

 おそらくそれは、脳の欲求なのだろうと私は考えます。

 脳の役目は、状況を判断して最適な行動を決めることです。

 そのためには、なるべく多くの情報を集めて可能な限り正確な状況を把握し、最善の行動を選択することが望まれます。

 しかし、扱う情報量が増えれば処理する脳の負担が増し、判断が遅くなります。より正しい判断をするか、素早く判断するかはトレードオフの関係にあります。

 人間は反応速度を犠牲にして正確な判断、より長い先を予測した判断を行うようになりました。

 その結果、脳の負担は増えました。体内でも、酸素と糖分の消費が最も多い器官の一つが脳です。

 それだけ脳に負担をかけても、長期予測はよく外れます。

 それも、完全に想定外の要因、事前に予測不可能な事柄ばかりでなく、後から考えてみれば十分に予測できたはずと思えることを見落として失敗した経験のある人も多いでしょう。

 人間の未来予測の精度には、まだまだ改善の余地があります。

 けれども、既に負担の大きな処理を行っている脳に今以上の情報量を処理させるのも酷です。

 そこで求められることが、より少ない情報量で正確な予測を行うことです。

 雑多な情報から状況判断にあまり関係の無い部分をノイズとして排除し、物事の『本質的』な部分だけを抽出する。

 そして、その『本質的』な部分の性質を見極め、その本質的な性質からこの先どうなって行くのかを予測する。

 脳の得意な処理はパターン認識なので、『本質的』と思われる部分をパターンとして抽出し、その『本質的』な部分の性質や動向もパターンとして理解し、予測します。

 不要な情報を落として抽出したパターンだけにすれば後の処理が軽くなりますし、その『本質的』なものが多くの物事で共通しているのならば学習するパターンが少なくて済みます。

 つまり、抽象的な概念に置き換えれば単純になるし、同じ考え方で様々な物事に対応できるのならば、たくさん覚えなくて良いので楽です。

 そうした、脳が楽をして正確な予測を行おうとする方向性の先に、あらゆる物事を単純な一つの原理原則で説明しようという考えが生まれます。

 万物の理論とか世界の真理とか、難しいことを考えているように見えますが、何のことは無い「色々なことをバラバラに考えるのは面倒臭い、一つにまとめてしまいたい」という思いが根底にあるのです。

 だから、「万物の理論がある」と言う信念は、あって欲しいという願望なのです。

 世界は人の都合に付き合ってはくれないでしょう。

 本当に世界の全てを説明できる単純明快な理論が存在するかどうかはわかりません。

 存在したとして、人の認識や理解の内に納まるとは限りません。

 あるいは人の言葉で表現できるとも限りません。まあ、認識と理解が及べばそれを表現するための言葉(数学)を新たに作るのでしょうけれど。

 それに、抽象的な概念を作る際に本質ではないノイズとして切り捨てられたものが再評価されるかもしれません。

 カオス理論とか複雑系などと言うものもあります。無視したノイズや誤差が積み重なって予想できない挙動をすることもあります。

 脳の神経ネットワークなどは個々の神経細胞の動きを詳細に調べてもそれだけでは何が起こっているのか理解できず、ネットワーク全体を見てこの辺りで視覚情報を処理しているとか記憶を司っているとか大雑把に分かるだけです。

 世界の真実に到達しても、そこからどうやって世界が構成されているのかさっぱり理解できないなどと言う結果になるかもしれません。

 宇宙の全てを表すことのできる方程式ができたとしても、そこから個別の解を導き出するはすごく大変ということはありそうです。


 さて、話は変わります。

 明治大正の頃の未来予測の中に、将来は動物の言葉が解明されて学校でイヌ語とかネコ語とかを教えるようになるだろう、と言うものがあったそうです。

 時代はニ十一世紀に入り、昭和も平成も終わって令和になった今、イヌ語やネコ語を教えてくれる学校はありますか?

 動物の言語を研究する研究者はいても、動物と意思の疎通ができるほど完全には解明されていないでしょう。

 言葉は、同じ認識を共有しなければ通じません。

 言葉に該当する物事――具体的なものでも抽象的な概念でも――が思い浮かばなければ通じたことにはなりません。

 そして、認識には感覚器と脳の構造が関係しています。

 感覚器が異なれば、同じ場所にいて同じ出来事を体験したとしても、同じようには認識できません。

 この感覚器の違いは大きな影響があります。

 例えば、『三原色』と言う概念があります。

 色の三原色は『赤青黄』。光の三原色ならば『R(赤)G(緑)B(青)』。

 三色を混ぜ合わせればあらゆる色を作り出すことができる。

 それは普遍的な自然の法則――みたいに思っている人いませんか?

 実は、色の概念は人の目の構造に依存しています。

 人の目の網膜には色を感じるセンサーとなる細胞が三種類あります。

 赤い光に反応する細胞と緑色の光に反応する細胞と青い光に反応する細胞です。(反応する波長のピークがその辺りにあるだけで他の色にも多少は反応します)

 三種類の細胞が同じように反応すれば、それは同じ色として感じます。脳内で補正が行われるので認識される色はまたちょっと変わりますが。

 三種類のセンサーで色を識別しているから三種類の色の成分であらゆる色を表現できるのです。

 ある意味、色の物理的な実体は存在しません。

 ペーパークロマトグラフィーの実験を見たことのある人ならば、同じ色に見えるインクでもまるで違う色の成分でできている場合のあることを知っているでしょう。

 もしも色を識別するセンサーが三種類でなければ、三原色にはなりません。

 実際に、人間の中にも色を識別する細胞が二種類だけとか四種類持っている人とかもいるそうです。そうした人は、三原色では表現できない世界を見ていることになります。

 二色のセンサーで見ている人は、赤と緑など特定の色の区別がつかない状態になるので色盲、色弱と呼ばれますが、それは三色でものを見ている人と違うというだけで、実は異常でも病気でもないのです。

 人間の場合、三色で見ている人が大多数なので少数派は異常扱いを受けてきましたが、本当は病気でも障碍でもなく個性です。大多数の知り得ない世界を直接見ることのできる希少な存在なのです。

 これが、四色で見る人となるともう想像も付きません。四原色の世界を直接見ることのできない人が理解することは難しいでしょう。

 ただ、三原色で作られた印刷物やテレビの画像などが実物とは違って見えたり、色の見え方の違いから色弱扱いされたりしたかもしれません。

 人間のように三色で色を認識するのは動物の中では少数派かも知れません。

 犬や猫の目はあまり色を識別できないそうです。実は牛も同様で、闘牛で赤い布をひらひらさせるのは牛よりもむしろ観客を興奮させるためのものだそうです。

 その代り、嗅覚や聴覚は人間よりもはるかに優れています。犬が人には聞こえない超音波を聞くことができるという話は有名です。

 同じ場所で同じ出来事を体験しても、犬や猫の見る世界は人とは異なるのです。

 人とは違う感覚で世界を見て、脳の構造だって人間とは微妙に違うのです。

 完全に同じ認識を持てるはずがありません。

 もちろん、多少認識の仕方が異なっても特定の単語が具体的に何を指すのかある程度ならばわかるでしょう。だから動物の言語も研究が進んでいます。

 けれども、そうした言葉から何を思いどう考えるか。言葉を聞いてどう思うか、何を考えて言葉を発するかと言ったことは人と異なる可能性があります。

 どの程度言葉によって思考しているのか、あるいはどの程度言語外のコミュニケーションに依存しているかと言った点も人とは異なるでしょう。

 だから、動物の言語の辞書が完成してもそれだけでは動物の言葉を理解することはできません。

 その動物の生理や生態などを考慮しなければ真の意味で理解することはできないはずです。

 人の言葉に翻訳したとしても、大量の注釈を入れて解説するか、分からない部分は省いて簡易的な文になるのではないかと思います。

 それでも動物は同じ神経細胞からなる脳を持っています。種として近い生物ほど体の構造、感覚器官、脳の構造等共通項は多くなります。

 共通部分が多いほど理解は容易になり、異なる部分が増えるほど理解し難くなると考えられます。

 例えば、植物に意識があったとしても、それを人間が理解することは非常に困難だと思います。

 目も耳も無く、神経も能も無い植物が、世界をどのように認識し、何を感じて何を思うのか。

 植物のコミュニケーションに関する研究などもありますが、状況的にこんなことを言っているのだろうと推測するのがせいぜいで、本当の意味で植物の考えを理解することはできないでしょう。

 これが、地球外生命となるとどれだけ共通項があるのか、どこまで異なっているか見当も付きません。

 現在行われている地球外生命の探索は、あくまで地球型生命を想定しています。他の生命を知らないので。

 地球上の生命とは全く異なる生命らしきものが見つかったとして、それは本当に生命と言えるのか?

 知的な活動をしているように見えても、それは本当に知性なのか?

 地球外生命体が見つかった場合、そうした「生命とは何か?」「知性とは何か?」が問われることになります。

「宇宙人がやって来たら、相対性理論は過去のものとなって、超光速で自由に宇宙旅行ができるようになる。」

 と言った夢を語る人がいますが、私はそのことに懐疑的です。

 人類の知る物理法則と全く異なる理論体系を持つ異星人と交流した場合、何が起こるかと言えば、次の三パターンが考えられ増す。


 1)一方が正しく、他方が間違っていることが判明する。

 2)両者が等価である、または一方が他方を内包することが判明する。

 3)全く理解できない。


 人間同士ならば頑張れば最終的には1)か2)に落ち着くと思います。

 しかし、異星人の場合には最後まで3)と言うこともあり得るのです。

 世界に対する認識の仕方が異なれば、自明――説明するまでも無く正しいと判る事柄の範囲が異なる可能性があります。

 自明なことが何故正しいかなんて、なかなか説明できるものではありません。

 同じものを見て別の認識をする相手と話が噛み合うとは思えません。

 世の中にはたとえどれほど人間と異なる異星人であっても、時間的空間的制約は同じだから意志の疎通は可能なはず、と言う人もいます。

 指折り数えるための指を持たない生命でも、例えば棒に紐を巻き付けた回数などで数を数えられるから私達と同じ数の概念が生まれるはずだという人もいます。

 けれども、時間や空間の概念が私達とは全く異なる異星人が存在するかも知れません。

 数字の「1」の概念が0.5~1.5の幅を持っていて、1+1が1~3の範囲になる数学体系を持つ知的生命体が存在するかも知れません。

 絶対にありえないと言い切るだけの根拠はありません。私達は地球外生命体についても人類以外の知性についても何も知らないのですから。

 それに、理論的には理解可能であっても相互理解を得るまでには途轍もない時間と労力が必要になる可能性もあります。

 意志の疎通が可能になるまでに出会ってから何百年もかかったり、短い文章を翻訳するためにコンピューターで一昼夜かけて解析する必要がある、なんてことになるかもしれません。

 そして、どうにか言葉が通じたとしても認識の差を埋められなければ、互いに相手のことを「自明なことも理解できないバカ」または「間違ったことを正しいと言い張る嘘つき」と思う結果になりかねないのです。


 一方、人間同士の場合ならば感覚器や脳の構造もほぼ一緒で生理的な面も共通しているので話が通じます。

 現在地球上に生存している人間は単一の種族であり、人種だの民族だの違いがあっても遺伝的にはさほど大きな差はありません。

 基本的に生物として同じだから、遠い異国の言葉でもちゃんと翻訳することができます。

 ただ、最終的に翻訳は可能でも、異なる言語を理解することは難しいものがあります。

 人間の世界に関する認識は、日常的に接する環境に依存します。

 そして、言語はその世界の認識を基に作られます。

 その土地の地形や気候、そこに暮らす人々の文化風習歴史等を色濃く反映して言葉は作られています。

 日本では雨の降り方を表す言葉がたくさんあります。

 北極圏に住むイヌイットには氷の状態を表す語彙が豊富だと聞いたことがあります。

 身近なことに対しては、表現が豊富になるものです。

 また、既に定着した外来語である「プライベート(private)」と言う言葉は、本来は鍵のかかる部屋が無ければ成立しない概念なのだそうです。

 障子や襖で区切られた日本の家ではプライベートもプライバシーも存在しなかったわけです。

 根本的には同じ人間であり理解することは可能でも、環境や生活が違えば考え方も変わります。

 だから、翻訳は簡単ではありません。

 単語を置き換え、文法に合わせて語順を入れ替えただけの直訳や機械翻訳では不自然な感じの文章になることもよくあります。

 文学作品などでは、訳し方次第でかなり印象が変わります。訳者は第二の作者となります。

 同じ言語から派生した方言的な言語ならばまだしも、直接の交流の無いような離れた場所で独自に発展した言語間の翻訳は特に大変です。

 語彙が違う、文法が違う、一つの言葉の表現する範囲が違う。

 一つの単語でも、状況によって対応する訳語が幾つも存在することも珍しくありません。

 誤訳や間違ってはいないけれどもちょっぴりニュアンスが違う訳が行われることもあります。

 外来語の中には、本来の意味からは随分と違ったイメージで定着することもあります。

 英語でチート(cheat)は「いかさま」の事ですが、異世界転移/転生系の作品を中心に「凄い能力」扱いされている気がします。

 コンピューターゲームでデータの改ざん等の不正行為をチートと呼んだことが始まりだと思うのですが、「リアルチート」とか言い出したあたりですでに元の意味を忘れています。

「カード」「かるた」「カルテ」は同じ意味の言葉ですが、最初に入って来たポルトガル語の「かるた(carta)」はかるた遊びの札を指す言葉に、ドイツ語の「カルテ(karte)」は近代医学をドイツより学んだ経緯から診療録を指す言葉に、英語の「カード(card)」はトランプやカードゲームの札やクレジットカードなど札状の物一般を指す言葉になりました。

 意味合いは大きく変わってはいませんが、特に「かるた」と「カルテ」は指し示す対象が特化した形で定着しています。

 英語で「ファイヤーマン(fireman)」は消防士の事ですが、そのことを知らないと火を操る怪人か正義のヒーローか何かを想像する人もいるのではないでしょうか。

 実際、「ファイヤーマン」で検索してみると、そんな名前の特撮番組が放送されたことがあるようです。消防士の話ではなく、ウルトラマン系の変身巨大ヒーローです。

 他には、「アダルトチルドレン(adult children)」を「子供みたいな大人」のことだと思っている人いませんか?

 元々はアルコール依存症などで親が機能不全な家庭で育った子供、そのような幼少期を過ごしたため成長してからもその影響が残っているような人のことを指します。

 つまり、「大人のような受け答えをする子供」みたいなニュアンスだったのが、単語の意味だけ拾って逆の意味に取ったということです。

 医療関係ではなく、一般的な英語でadult childrenと言うと、単に成人した子供の事を指すようです。

 こうした言葉に対する誤解は他国の言語だけでなく、同一の言語でも発生します。

 専門用語などは専門外の人には分からなくて当然です。

 方言にまではなっていなくても、特定の地域でのみ通じる言い回しなどもあります。

 流行語なんかは、世代によって通じなかったりします。

 なまじ同じ言語なので言葉は通じますが、意味は通じません。文脈からある程度言いたいことは伝わる場合もありますが、通じないときはさっぱり分からないし全く違う意味に取られる場合もあります。

 例えば、車を運転していて人身事故を起こすと「業務上過失傷害」や「業務上過失致死」の罪に問われますが、この名称に疑問を持ったことはありませんか?

 一般的な用語では、「業務」とは仕事に関連する事柄を指します。

 しかし、車を運転する理由は仕事だけではありません。レジャーとしてのドライブや、家族の送り迎えをしていて事故を起こすことだってあります。

 さすがに、「仕事じゃないから『業務上過失』の罪にはならない」などと言う人はいないでしょうが、ニュースなどを聞いていてふと気になったことのある人もいるのではないでしょうか。

 法律で言う「業務」は社会生活において反復・継続して行う活動の事を指します。仕事と関係なくても車の運転をすることは法律上の『業務』に該当します。

 専門用語は日常的な言葉とは違う特別な意味が設定されていますが、知らないと分からないものです。

 近年の日本では、英語などの外国語を、対応する日本語や訳語が存在してもそのままカタカナ表記で使用する、いわゆる横文字が多用されれています。

 これは、あえて日常的に使用されない耳慣れない言葉を使用することで、特別な意味を持つ専門用語として区別しているのです。

 ただし、乱用して意味も分からないままに横文字を使いだすと混乱するだけですけれど。

 昔、ネット上で「私の考えるフェイルセーフとは故障しても機能が失われないことです」みたいな発言をして突っ込まれまくった人がいました。

 フェイルセーフとは「安全側に故障する」、つまり故障して機能が停止した際に安全な状態になるように物を作るという設計概念です。

 ちゃんとした定義のある専門用語を自分勝手な定義で使っていたら、噛み合う話も噛み合わなくなります。

 装置の一部が故障しても他の正常な部分が補ったり予備の装置が稼働したりして機能が失われない仕組みは、多重化とか冗長化とか呼んで別の概念です。

 中途半端な知識で混同してしまったのでしょうが、同じような混同をしている人は多くいるかもしれません。

 以前読んだライトノベルで、『多重安全装置(フェイルセーフ)』とルビを振った表現を見ました。フェイルセーフに多重化の要素を見ています。

 凄い魔法とかとんでもない必殺技とか不思議な異能とかの名称には、中二病的なかっこよさを求めると字面の良さそうな漢字で意味を表し、その意味を無視して響きの良い横文字を当てることはよくあります。この手のルビはあまり当てになりません。

 似たようなパターンとして、「ファイヤーウォール(firewall)」なんて言葉も誤解されていそうです。

 ファイヤーウォールは防火壁の事です。火でできた壁を作り出す魔法を思い浮かべるかもしれませんが、本当は火災の延焼を食い止める不燃性の壁の事です。

 そこから転じて、不正アクセスやコンピューターウイルスの活動を一定範囲で食い止めるために不要な通信を遮断するネットワーク上の仕組みを「ファイヤーウォール」と呼びます。

 これも、『炎の壁(ファイヤーウォール)』のようにルビを振って、コンピューターウイルスを焼き尽くす炎の壁と表現した作品を見たことがあります。

 専門用語は、専門外の人には誤ったイメージを持たれることも多いのです。


 ここで少々個人的な体験を披露いたします。

 あれは学生時代、国語の授業での事でした。

 教科書に載っていた文章の中に「スペクトル」という言葉が出てきました。

 太陽の光は白色に見えますが、プリズムを通して分解すると様々な色の成分に分けることができ、それを詳細に調べると太陽について色々と知ることができます。

 あくまで国語の教科書なので科学的に詳細な内容ではありませんが、だいたいそんな感じの内容の文章だったはずです。

 その教科書の文章に関連して授業が行われたのですが、生徒が「太陽の光のスペクトル」と表現すると、先生は「それは駄目だ」と言うのです。

 何が駄目なのか?

 教科書には脚注にこんなことが書いてありました。


・スペクトル

 光の帯のこと


 先生はこれを言葉の定義と受け取ったのだと思います。

「スペクトル」=「光の帯」だから「太陽の光のスペクトル」=「太陽の光の光の帯」となって、「光」が重複しておかしいから「太陽のスペクトル」と言え、と言うのです。

 国語の授業なのに数学のような論理的な展開です。

 ただ、いくら論理的でも最初の前提が間違っていれば正しくはありません。

 スペクトルとは、複雑な組成を持つものを成分に分解して、成分を示す量の大小の順に並べたものです。

 光(可視光)の場合はプリズムを通すことで自動的に波長の順に分かれてその波長の光の強度が示されます。

 別に光に限ったものではありません。

 私が学生だった頃は、スペクトルの詳しい定義までは知りませんでしたが、可視光以外の電磁波でも音波でも電気信号でも周波数毎の強度を示したグラフを作ればスペクトルと呼ばれることを知っていました。

 脚注は言葉の定義ではなく、解説です。

 一般的には知らなくても当然の専門用語である「スペクトル」と言う言葉を正確に説明するには、脚部の余白では足りません。

 だから、プリズムを通すことでできる波長で色が分かれた帯状の光を「スペクトル」の一例として挙げているのです。

 もしくは、本文の中で「光の帯」と表現している部分を指して、「ここではこの部分のことをスペクトルと呼んでいるんだよ」と言っているのです。

 一例を持って全てを決めつけることも、「本文のこの部分のこと」を示す解説を言葉の定義とすることも間違っています。

 国語の教師なのだから、専門外の用語を詳しく知らなくても不思議はありません。

 ですが、国語の教師なのだから、横文字のまま使われている外来語や専門用語が簡潔で日常的な言葉にそのまま置き換えられないことくらいは理解すべきではないでしょうか。

 下手をすると、思い込みによる誤解が量産されることになります。

 今振り返ってみると、そんな風に思うのです。

 ついでなので、授業に関する思い出をもう一つ。

 それは英語の授業での事でした。

 教科書に載っていた英文はSF小説の一部で、その中に「force field」と言う言葉が使われていました。

 生徒がこの「force field」を「力場」と訳すと、英語の先生は「間違ってはいないんだけど……」と難色を示しました。

 そして、脚注を見ろと言うのです。

 教科書の脚注にはこんなことが書かれていました。


 force field > magnetic field


 この脚注を指して、「あなたたちは理系の学生なのだから、ここは『磁場』と訳しなさい。」と言うのです。

 すみません、理系の学生なのでそんないいかげんな訳し方はしたくありません。

 当時の私の率直な感想でした。

 物理学に詳しい人ならば、注釈の「>」の意味は、「force fieldはmagnetic fildよりも大きな概念」あるいは「magnetic fieldはforce fieldに含まれる」と言う意味だと理解できるでしょう。

 決して矢印の代わりとして使用して「force fieldをmagnetic fieldに置き換えて考えろ」と言う意味ではありません。

 文学的な表現としては、目に見えない不思議な力(物理的な力以外も含む)を「磁力」とか「磁場」とか表現することもあります。

 けれども、物理学において「磁力」「磁場」は既にその性質が解明されたよく分かっている力です。

 単に「力場」と表現した場合は、「磁場」を含むあらゆる力の場を意味します。新発見の力でも、正体不明の未知の力でも力の場である限り「力場」に含まれるのです。

 全てを含むがゆえにそれだけでは何の力か分からない「力場」に対して、「磁場」と言ってしまうと「磁場」以外の何物でもなくなります。N極とS極があって、鉄を引き付けるあの磁場です。

 元の英文で「force field」を使っていたのは、何かよく分からない力が働いていることを表現するためでした。英文の段階で「magnetic field」が適切ならば、脚注ではなく本文でそう書いています。

 理系の生徒としては、汎用的な「力場」を何の根拠もなく「力場」一つでしかない「磁場」だと決めつけたことに納得がいきません。

 SF好きの人間としては、「force field」というあいまいな言葉で不思議な力であることを表現していたのに、「磁場」という具体的な言葉に置き換えたことでそれを台無しにしたことが許せません。

 理系の生徒でもSFファンでもない英語の先生にとっては、「力場」よりも「磁場」の方がよほど訳の分からない不思議なものに思えたのかもしれません。字面的にも「力」より「磁」の方が複雑で、日常的に馴染みがありませんし。

 こんな所にも、言葉に対する認識に違いが現れています。

 私は授業を中断して先生にツッコミを入れるほど積極的な生徒でもなく、また考えをまとめるのに時間がかかる質なのでその時は何も言いませんでしたが、後から考えるときっちりと突っ込んでおけばよかった思います。

 現在学生の皆さん、先生と言えども人間です。特に専門外のことについては素人なので、間違える時には間違えます。

 先生が間違っていると思ったら、遠慮なく突っ込んでみましょう。

 たとえそれが自分の勘違いだったとしても、得るものはあります。


 言葉に纏わる問題は、世界を正しく表すことのできない不完全性、正しく伝わらない危険性の他に、言葉自体が変化していくことが挙げられます。

 言葉は変化するから古文を読み解くことが困難になりますし、異なる世代間で通じなくなる言葉も出てきます。

 もちろん、言葉の変化は必要です。

 社会の変化に応じて、新しくできた物、新たに生じた事、それまでになかった概念が作られた時には新しい言葉が必要です。

 逆に、使われることの無くなった物や事や概念に対しては、該当する言葉も使用されなくなって忘れ去られて行きます。

 けれども、そんな必要性とは関係なく言葉は変化します。

 例えば、日本語には「トイレ」を表す言葉がたくさんあります。

 便所、(かわや)、はばかり、雪隠(せっちん)、御手洗い、化粧室、トイレ。

 それぞれに意味や由来がありますが、それらは本質的に同じものを指す言葉であり、「洋式の場合にトイレ」等の使い分けをしているわけでもありません。

 同じ意味の言葉がたくさんあるのは、言葉の言い換えを行ったからだと思います。

 トイレを示す言葉はものがものだけに、どうしても汚いイメージのついて回ります。

 だから、特に上品な場では直接的な表現を避け、別の言葉に言い換えます。

 ただ、どの言葉に言い換えるかは地域とかコミュニティーによって変わりますし、言い換えた言葉だって使い続ければ汚いイメージがくっついてしまいます。

 言葉に汚いイメージが付く度に別の言い換えを探していれば、同じ意味の言葉がどんどん増えて行きます。

 同じ意味の日本画がたくさんあるにもかかわらず外来語由来の「トイレ」が定着した理由は、それが日本人にとって手垢のついていない新しい言葉だったからでしょう。

 こうして言葉は変化していきます。

 似たようなパターンとして「パパ活」があります。これ、少し前には「援助交際(援交)」と呼ばれていたものです。

 さらに遡るとバブル華やかなりし頃の「アッシーくん」「メッシーくん」「ミツグくん」に行き着くのではないかと思います。

 景気の良かった時代の「アッシーくん」等は女性の側が優位で男性がいいように利用されていますが、不景気になるとお金をもらうことが重要になって来て「援助交際」ではお金を出す男性側が優位になって行きます。

 やがて「援助交際」は個人で行う売春と大差なくなり、言葉そのものにいかがわしいイメージが定着して行きました。

 そこで、性交渉を伴わず、デートするだけの関係に対して「パパ活」と言う名称が誕生したようです。

 ただし、最近では性交渉を伴う関係に対しても「パパ活」と呼ばれているらしいので、「援助交際」と「パパ活」にさしたる違いはありません。

 そのうちにまた、いかがわしい響きを感じるようになった「パパ活」に代る新しい名称が出て来るでしょう。

 同じ意味の言葉が新しくできるだけでなく、同じ言葉に対して違った意味やイメージが乗っかることもあります。

 昔、NHKで「連想ゲーム」と言う番組が放送されていました。(1969~1991年放送)

 その番組の中に「ワンワンコーナー」と言って、「ワンワン、ニャンニャンといった繰り返される言葉」を当てるクイズがありました。

 この番組に対して、ある時抗議の声が寄せられたのだそうです。


「ニャンニャンなんていかがわしいことを言うな!」


 番組の司会者が後に「昔から使っていた言葉なのに」とぼやいているのを何かのテレビ番組で見た記憶があります。

 元々「ニャンニャン」はネコの鳴き声を表す擬音語で、それ以外の意味はありませんでした。

 いかがわしいと称されるような色っぽい意味が付いたのは後になってからです。

 長い期間放送された番組ではありましたが、それでも一つの番組が始まってから終わるまでの間に言葉の意味が変わってしまったのです。

 古い映画やテレビ番組などが放送される時に、今では不適切な表現が使用されているとテロップが入ることがありますが、それは言葉の意味は変わらず不適切の基準が変わっただけです。

 ごく普通に使われていた何の問題もない言葉に、いかがわしいと言われるほどの別の意味が後付けされるのは割と珍しいケースかも知れません。

 言葉の意味は変わらなくても、そこに付随するイメージがお大きく変わることもあります。

 以前、「おたく」と言う言葉を作った、と言う人の文章を読んだことがあります。

 そこで書かれていた「おたく」の定義は次のようなものでした。


「小太り色白眼鏡をかけていて、一般的な話題には無関心だが特定の話題に対しては目をギラギラさせて語りだす。」


 外見から入る、とても差別的な用語として「おたく」と言う言葉は作られました。

 作られた当時は一部の人しか知らない用語で、普通の人は「おたく」と言っても二人称としての「御宅」の方を思い浮かべたでしょう。

 この言葉が一般に広まったのは、連続幼女誘拐殺人事件がきっかけでした。

 事件の被疑者が逮捕された後、その被疑者の部屋の様子がニュースで報道されました。

 そこにあったのは、アニメや特撮を録画した大量のビデオテープ、漫画やアニメ雑誌の数々でした。

 逮捕されたとはいえ一般人の個人の室内の映像が報道された理由は、「息子が犯人のはずはない」と信じていた父親が許可を出したからだそうです。

 この事件の恐ろしさは、当人のことをよく知る身近な人が「そんな恐ろしいことをするはずがない」と思うような人間であっても、凶悪な犯罪に手を染める可能性があるという点ではないかと思います。

 それは、一見善良に見える人、どこにでもいる普通の人が突然凶悪犯になって襲い掛かって来るかも知れないという恐怖です。

 凶悪犯ならば凶悪犯らしく、犯行に及ぶ前から悪人らしく振舞って欲しいのです。そうでないと逃げられないから。

 この事件では、逮捕された被疑者には一般人とは異なる趣味を持っていました。

 そして、都合よく似たような趣味を持つ者に対して異常な人間扱いする差別的な用語も存在していました。

 結果として、「おたく」=「ロリコン」=「犯罪者」と言う認識で一般に「おたく」と言う用語が広まったのです。

 その後しばらくは「おたく」冬の時代になります。世間一般から犯罪者のように見られるのですから。

 状況が大きく変わったのは、日本の漫画、アニメ、ゲーム等が世界的に注目されるようになったからです。

 クールジャパン等の活動もあり、「おたく」と呼ばれる文化が再評価されました。

 日本人は、海外の評価に弱いのです。

 ただ、サブカルチャーの評価が上がるよりも前から「おたく」と言う言葉に対するイメージは少しずつ変化していたのだと思います。

 ショッキングな言葉であっても、使われ続けているうちに最初のインパクトは薄まって行くものです。

 昔流行った言葉に「逆ギレ」と言うものがありました。

 何か問題を起こした結果、()()がキレて責め立てるような状況で、()()がブチキレて怒り出す。そんな理不尽なキレ方を指して「逆ギレ」と呼びました。

 しかし流行に乗って使われ続けた結果、「どうしてお前がキレる!?」と言う理不尽さが薄れたようで、普通にキレているだけにしか見えない状況に対しても「逆ギレ」と表現したものを見るようになりました。

 似たような例に、「裏ワザ」などと言う言葉もあります。

 コンピューターゲームの製作者がデバッグ目的や単なる遊び心で入れた隠しコマンド、あるいは不具合(バグ)によって生じる奇妙な動作を見つけ出して「裏ワザ」と呼びました。

 しかし、裏ワザブームも最盛期になると、些細なことまで何でも裏ワザ扱いするようになります。

 ゲームを進める上でのちょっとしたテクニックや「それ、マニュアルに載っている」と言った内容までがゲーム雑誌の「裏ワザコーナー」に掲載されました。

 ゲームの「裏ワザ」に対するイメージが「ちょっと便利なテクニック」程度の軽いものになり、やがてゲーム以外の事柄に対しても「裏ワザ」と呼ぶようになって行きました。

 同様に、最初は凶悪な犯罪とセットで広まった「おたく」と言う言葉も、次第にイメージが薄れて行きました。

 そもそも、「おたく」による凶悪犯罪なんて滅多に起こるものではありません。

 勝手に名前を付けて十把一絡げにしているだけで「おたく」と呼ばれる組織・団体は存在しません。思想信条的に統一された集団でもありません。

 せいぜいが趣味に没頭するという共通項がある程度ですが、それと犯罪を犯すかと言う点については因果関係はありません。

 事件の件数から言えば、少数の「おたく」よりも、それ以外の人の起こす犯罪の方が圧倒的に多いのです。

 だから、事件が風化するとともに、「おたく」に対する犯罪者のイメージは薄らいでいきました。

 ついでに、漫画やアニメ等の特定のジャンルだけと言うイメージも薄れ、様々な趣味に対して「おたく」という表現を使うようにもなりました。

 中にはスポーツマンな「おたく」とか、社交性のある「おたく」とか、最初の頃の「おたく」のイメージからかけ離れた人も現れます。

 これは、言葉の意味が変わったのではなく、付随するイメージが変わったのだと思います。言葉の定義を把握して「おたく」と言っていた人はほとんどいないと思いますし。

「おたく」と言う言葉のイメージが変化した背景には、サブカルチャーが注目されるようになった以外にも、社会の変化が影響しているという話を聞いたことがあります。

 昭和の後期、バブルが弾ける前の景気の良かった時代には「おたく」は社会のお荷物だったと言います。

 当時の日本では、国民全体が同じような消費の傾向にありました。

 三種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)とか3C(カラーテレビ、クーラー、自家用車)とか、その時々で同じようなものを皆欲しがりました。

 流行歌ならば日本全国地域も世代も関係なく同じ歌を聞き、流行語ならばやはり地域も世代も超えて同じ言葉が流行ります。

 そんな時代では、一つヒット商品が出れば国内で売れまくって大儲けです。大量生産大量消費で景気は右肩上がりでした。

 良い消費者は流行りに合わせて物を買い、レジャーを楽しみ、どんどん消費することで経済を回す人の事です。

 しかし、「おたく」は流行に迎合しません。仕掛け人がどれだけ盛り上げてブームを作っても、自分の趣味以外は興味を示しません。

 マーケティングの対象外で、消費活動がほとんど経済を回す役に立っていないのが「おたく」だったのです。

 ところが、バブルが弾けて景気が後退すると状況が一転しました。

 不景気な世の中では、仕掛け人がどれだけ煽って流行らせようとしても、なかなか消費は増えません。

 収入が目減りして増える見込みのない状況で、流行っているから程度の理由で無駄遣いをする余裕はありません。

 不景気だから消費を抑える、売り上げが伸びないから景気が回復しない。

 このデフレスパイラルの中、不況にも関わらず力強く消費を続ける人達がいました。

 それが、「おたく」です。

 流行に左右されずに自分の趣味を続けていた「おたく」は、不況においても自分の趣味を貫きました。それこそ、食費を削る勢いで。

 まあ、好景気の時と同じとはいかなかったでしょうが、それでもコンテンツを買い支える勢力にはなりました。

 この事実が、社会的な「おたく」の評価を変えました。

 従来マーケティングの対象外だった「おたく」の動向が、売り上げを左右する重要なファクターとして無視できなくなったのです。

 経済を支える重要な消費者になったのならば、いつまでも「おたく」を差別と偏見で犯罪者予備軍扱いするわけにはいきません。

 むしろ、「おたく」的な消費行動を推奨し、広めなければなりません。

 そうした社会的な要求から、「おたく」と言う言葉に対するイメージが変わって行ったのです。

 マイナスのイメージからプラスのイメージへの大転換です。


 言葉は変化します。

 絶対に正しい言葉なんてものは存在しないのだから、変化した言葉を否定することはできないし、否定すべきではないのかもしれません。

 ただ、今使われている言葉、過去に使われていた言葉には由来があり、使われてきた経緯もあります。

 面白半分で変な意味を付け加えたり改変したりするのはどうかと思うのです。

「おたく」の犯罪者扱いのイメージが薄れたのは良い事ですが、多くの人と違う行動、異なる価値観を持つ者に対して差別的なレッテルを張り、偏見を持って接してきた事実を忘れるべきではないでしょう。

 私は、素人なりに小説を書くようになってから、言葉の意味を調べることが増えました。

 分かっているつもりの言葉でも、詳細な意味や使っていい範囲が曖昧だったり、語源までは知らないこともよくあります。

「最近ではこういう意味で使う人が多い」と言うのを否定しても仕方がありませが、アマチュアであっても小説を書くのならば、言葉の本来の意味を知っておくべきだと思うのです。



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