民主主義の欠点を考える
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今の日本人の多くは、戦後の民主主義の社会を生き、民主主義が当たり前だと思っているかも知れません。
海外のニュースなどで、民主化を求める市民を弾圧する政府などという話を聞くと、何と悪い国だと思ったりします。
けれども、ちょっと思うのです。
人間の行うことに絶対も完全もありません。
それに、たとえ完全無欠な社会制度を構築できたとしても、それを完璧に運用できるとは限りません。
民主主義が如何に優れているかを力説したところで、欠点や問題点が無い事にはなりません。
今後も民主主義の社会で生きて行きたいのならば、なおさら民主主義の問題点を認識し、どうすれば良いかを考える必要があるのではないでしょうか。
一番分かり易い民主主義の欠点としては、意思決定に時間がかかることでしょう。
意思決定は、そこに関わる人が多いほど時間と手間がかかります。
直接民主制ならば全国民(有権者)を、議会制民主主義ならば議会に参加する代議士を納得させる必要があります。
民主主義の理想は全会一致です。全ての国民や議会に参加する代議士全員が受け入れられる案に成るまで議論を続ける。
それが可能ならばさぞや素晴らしい法案や施策案が誕生するのでしょうが、そんな究極至高の案作り出すためには長い時間をかけて議論を尽くす必要があります。
そもそも全ての人を納得させる都合の良い案が存在するとは限りませんし、かけられる時間にも限度はあるのでどこかで妥協します。
ただ、妥協するにもある程度の賛同は必要で、また議論を尽くすことが民主主義の大前提になるため、十分な議論を行う時間が必要となります。
異なる意見を問答無用で排除する行為は民主主義に反するものですが、多種多様な意見の全てに真摯に対応していたら時間がいくらあっても足りません。
民主主義の理想に近付けるほど結論に時間がかかる。これは民主主義の大きな欠点です。
速ければそれでよいということではありませんが、政治や行政の世界では時間をかけて最善策を行うよりも、次善でよいから即座に実行することが求められることも多々あります。
例えば、戦争などがそうです。
民主的にみんなの意見を聞きながら、では軍はまともに機能しません。
どれほど民主的な国でも、軍は上意下達で動きます。
共和制時代の古代ローマでは、平時は選挙で選ばれた二人の執政官が政治を取り仕切りましたが、戦争が起こると独裁官が一人選ばれ大きな権限を与えられました。
戦争に負ければ国の存亡の危機なので、「みんなで話し合って決める」などと悠長なことを言わずに、信頼できる一人に全て任せてしまおうということです。
戦時下では最高権力者が二人でも多すぎるのです。
なお、この「独裁官」が後の独裁者の語源だそうです。
戦争とか、軍隊とか言った特別な状況でなくても、民主主義の原則に則って全員が納得する形で解決しようとするととても苦労します。
例えば、諫早湾干拓事業では農業関係者と漁業関係者とで利害が対立し、水門を開けるか開けないかで何年も裁判をやっていました。
利害が対立する両者を納得させることは非常に困難です。
何年もかけて裁判で決着がついても、負けた側は納得していないでしょう。
事前に関係者全員、国民全員の合意を得るまで待っていては、いつまで経っても必要な政策を行うことができません。
しかし、少数意見を切り捨ててしまえば、民主主義の原理原則に反することになります。
民主主義による政治は、常にこの矛盾を抱えることになるのです。
もう一つの問題は、民意を汲み取ることの難しさがあります。
そもそも、民意とは何でしょう?
国民全体の総意などと言うものは存在しません。
一人一人違った意見を持つ個人が集まって国ができています。
バラバラな各個人の意見が一つにまとまるとすれば、よほど大雑把な方向性か、あるいは生きるか死ぬかといった非常事態に陥った場合くらいでしょうか。
それでも一つにまとまるとは限りませんが。
民意を測る方法の一つに選挙がありますが、選挙に勝ったからと言って何をやっても民意に則していることになるわけではありません。
対立する候補の主張するテーマが異なっていて、政策の争点が分からなくなる選挙もあります。
良いことを言っているのだけれども、本当に実現できるのか怪しい泡沫候補に投票するのは躊躇することもあるでしょう。
同じ主張をする候補が複数立ったため、得票数の合計は過半数を超えていても全員落選といった場合もあります。
選挙を実施しているから、それだけで民主主義が成立しているとは思わない方が良いです。
選挙以外にも民意を主張する機会は必要ですし、国も積極的に民意を拾い上げる必要があります。
しかし、そうして主張された意見が、民意と呼べるほど多くの人の意見であるかは簡単には分かりません。
自分の考えがどれほど一般的かちゃんと理解している人、いますか?
人間どうしても、「自分がこう考えているのだから、他の人も同じように考えるはず」と思い込みがちです。
特に注意しなければならないのが、「みんながそう言っている」です。
ここで言う「みんな」とは具体的に誰の事でしょう?
おそらく、そういうことを言う人は実際に周囲の「みんな」が口をそろえて同じようなことを言うのを聞いているのでしょう。
ですが、その「みんな」とは何人くらいなのでしょう?
一人の人間の交友範囲は案外狭かったりします。
仕事関係、趣味関係、親戚付合い、近所付合い。
仕事中に関係の無い話をするわけにもいきませんし、趣味の集まりで政治の話をするのも無粋です。
つまり、同じことを言わない人がいても、理由を付けることができるので気になりません。
また、人は関心のあることは印象に残りますが、興味の無いことは記憶に残りません。
結果として、自分と同じような考えの意見を言う人を複数人見かければ、それだけで「みんなそう言っている」という印象になります。
さらに、人は利害関係や思想信条が一致する集団を作ることが多いです。
仕事関係ならば、企業の利益や業界としての利益はある程度一致しているでしょう。
地域のコミュニティならば、その土地固有の利害関係や文化風習に基く考え方を共有しているはずです。
そうした集団の中でなら、「みんながそう言っている」という状態も発生しやすくなります。
ただし、あくまでその集団の中だけです。その集団の外でどこまで通用するかは分かりません。
極端な例を言うと、数名の仲良しグループ――に見せかけて、一人のリーダーとリーダーに追従するだけの取り巻きの集団がいたとします。
このグループ内では「みんながそう言っている」が頻繁に登場します。
リーダーが言ったことを他のメンバーが肯定するのだから当然です。
リーダーが多少変なことを言っても、その集団の中では「みんながそう言っている」ことになります。
これがもう少し規模が大きくなって、リーダーが教祖、取り巻きが信者と呼ばれるようになると、カルト教団になります。
こうなると、かなり現実離れした内容でも教団内では「みんながそう言っている」状態になります。
そこまで極端でなくても、所属する集団、身近なコミュニティーでよく耳にする主張が一般的な意見だと思いがちです。
しかし、一つの集団内で多数派の意見が、その集団以外でも主流となっているとは限りません。
感覚的に「みんなそう言っている」からこれこそ誰もが同じように思っている民意に違いない、などと考えていると、全国的には意外と少数意見だったりすることもあります。
もちろん少数意見でも民意の一つではありますが、他の意見を持つ多くの人を無視して自分たちの意見だけ採用しろとゴリ押しすることはできません。
だから、自分たちの意見を通したいのならば、「絶対多数なんだから意見が通って当然」みたいな態度で臨むのではなく、他にどんな意見を持つ人がどれだけいるのかを把握して、意見のすり合わせをしたり妥協点を探したりするべきなのです。
国の方も、「どうせ一部の人間が騒いでいるだけ」と取り合わないのではなく、どのような意見がどれくらいの範囲で主張されているかはなるべく把握すべきです。
政治家に対して、「庶民感覚が分かっていない」と批判を受けることがよくありますが、国政を担う政治家の交友範囲は職務上大きな団体組織のトップなど庶民とは言えない人に偏る傾向があるからです。
民主主義を正しく実践するためには、個人の思い込みではなく、客観的に正しく民意を把握する必要があります。
しかし、それは容易なことではありません。
全ての人が確固たる政治的意見を持ち、それを熱心に主張しているわけではありません。
サイレントマジョリティーという言葉があります。
声をあげない、つまり積極的な意思表示はしないけれども、多くの人が同じように考えている意見、物言わぬ多数派を指します。
今の時代ならば誰でもインターネットで情報発信を行える環境が整っていますが、昔はマスメディアで意見を主張できる人は限られていました。
新聞雑誌、あるいはテレビラジオでその主張が取り上げられるのは、有識者とか著名人とか言った特別な人間です。
読者投稿とか街頭インタビューとかで一般人の主張が取り上げられることもありますが、数は少なく、編集による取捨選択も行われています。
だから、世間をにぎわす派手な意見に迎合して当選確実と思われていた政治家が選挙で落選したり、最新トレンドから外れたと思われていた商品がヒットしたりします。
大きく主張されることがないので、見極めることは難しいのです。
「我こそはサイレントマジョリティーの代弁者なり」と大声で主張する人の意見が本当にサイレントマジョリティーの意見なのかと言うと、怪しく感じるでしょう。
インターネットが普及して誰でも発進できるようになった今ならサイレントマジョリティーは存在しないかと言うと、そうでもありません。
可能であることと、実際に発信することには大きな隔たりがあります。
ブラック企業で寝る間も惜しんで働く社畜に情報発信する暇があるとは思えません。
老齢で、今更デジタル機器の扱いを覚えられないという人もいるでしょう。
情報を発信することが可能な人でも、情報発信にはリスクを伴います。
政治的な主張でなくても反対意見は出るものですし、厳しい批判を受けることもあります。
人によっては感情的に非難してきたり、関係ないところで中傷誹謗してきたり、もっと悪質で過激な行動に出る場合もあります。
国によっては、反社会的な思想の持ち主としてマークされたり、逮捕監禁されることもあり得ます。
自分が被害者になるだけでなく、考えて発言しないと他人を傷つけたり被害を与えたりする加害者になる可能性もあります。
そんなリスクも覚悟のうえ、あるいはそこまで大事にならないだろうと軽く考えて自分の意見を主張したとしても、ネット上の雑多な情報に埋もれることがほとんどでしょう。
当たり前のことを当たり前に主張しても目立ちません。
人目に付き、話題になるための技術と言うものも存在します。
あるいは、組織的に活動すれば、あたかも多数派のように見せかけることもできるでしょう。
要は、社会や技術がどう変わろうと、声の大きい人と言うものは存在するのです。
民意を正しく把握するには、身近な人や声の大きい人に惑わされずに、広く国民一般の意見を確認しなければなりません。
これもまた難しい事です。
全国民の意識調査を行うことは現実的でないので、サンプル調査を行うことになります。
この時、サンプルに偏りがあれば、偏った意見が抽出されてしまいます。
機械的にランダムに生成した電話番号に電話して質問する世論調査の手法もありますが、最近では家に固定電話を持たず携帯電話のみの人もいるので、固定電話のみに電話をかけると偏りが出てしまいます。
また、電話アンケートに見せかけた悪徳商法とか個人情報の収集とか怪しい電話も増えているので、用心深い人の意見も集めることは難しいかも知れません。
それに、アンケートは質問の仕方次第では答えを誘導することができてしまいます。
統計処理も、見せ方とか解釈の仕方によっては間違った印象を与えることもあります。
ネットワークが普及した今の世の中ならばネットを通じてもっと直接的に民意を集めるシステムも作れそうですが、不正防止や個人情報保護なども含めて、実現するにはまだまだ時間がかかりそうです。
それから、大きな問題が、民意に従いさえすればそれで全てが上手くいくというものではないことです。
民意を形成する数多くの一般人は、そのほとんどが政治の専門家ではありません。
政治的な個々の案件に正しい判断を下せるとは思いません。
例えば、北朝鮮という国は拉致問題、核兵器開発、弾道ミサイル発射など色とやっていて、日本人としてはあまり良い印象を持っていない人も多いでしょう。
だから、こんなことを言う人も出てきます。
「あんな国とは国交断絶すべきだ。」
これも一つの民意です。
しかし、こうした民意に従って、実際に国交断絶したらどうなるでしょう?
それで、拉致被害者が帰ってきたり、核兵器を放棄したり、弾道ミサイルの発射実験を止めたりするとは思えません。
むしろ、交渉のチャンネルが一つ減ってこちらの主張を伝える手段が遠回しになるだけかもしれません。
まあ、そもそも日本と北朝鮮は国交を樹立していないので意味の無い話ではありますが。
ただ、素人の感情的な意見を民意だからと言ってそのまま政策として実施しても、望んだ結果が得られない可能性が高いのです。
だからこそ専門家である政治家が代議士となって政治の実務を行います。
主権者である国民全体の民意を受け、それを専門家である代議士が具体的な政策に落とし込んで実現する。
それが民主主義の在り方です。
選挙で問われるのは、候補者の主張が民意に合致しているかだけでなく、候補者が主張した政策を実施できる能力があるか、そしてこれまで実施してきた政策が民意に沿ったものであるかの審判が行われます。
しかし、民意に沿った政治を行ったからと言って、それだけで素晴らしい社会になるという保証はありません。
民意が絶対に正しいとは限りません。
例えば、将来確実に多くの人が困ったことになる問題に問題に対処しようとした時、「そんな未来の事よりも、今をもっと便利で豊かにするべきだ」という意見が必ず出ます。
将来の事よりも今を豊かに、という民意が優勢の間は民意に従う限り将来への対策を大っぴらにはできません。
そして、問題が表面化して困った人が多数出て来ると意識が変わります。
そこまで深刻になってから、
「どうしてこうなる前にちゃんと対策してこなかったんだ!」
となります。
地球温暖化対策なんかが現在進行形でそんな感じです。
温室効果ガスによる地球規模の気温上昇は前世紀末から指摘されていたのに、経済成長を優先したため対策が遅れました。
トランプ大統領は地球温暖化を否定してパリ協定から離脱しましたが、これもアメリカの民意の表れの一つです。
アメリカの総意ではなくても、無視できない数の人が「地球温暖化対策よりも経済成長を優先」と考えているのです。
他にも、公害問題なども同じような理由で対応が遅れてきたのではないでしょうか。
公害病で苦しむ一部の人を救済するより、多くの人が豊かになることを優先すべき。
直接口には出さなくても、そんな考えが蔓延していたのではないでしょうか。
民意を形成する各個人の意見は、会ったこともない誰かよりも自分や自分の身近な人の利益に偏りがちです。
多くの人が自分事として考えられるようになるには、多くの人が自分や自分の周囲の人に影響が出るようになった後で、つまり取り返しのつかない被害が数多く出た後になりやすいのです。
民意が形成されるためにはだれの目にも問題が明白になる必要があります。
民主主義の意思決定の遅さと合わせて、将来を見据えた政策の実行が難しいことは、予想される問題に対して致命的な遅れを生む恐れがあります。
また、民意はある程度操作できることが歴史的に判明しています。
第二次世界大戦の頃のドイツでは、マスメディアを政府が支配し、大々的にプロパガンダが行われていました。
第二次世界大戦の発端になったドイツのポーランド侵攻の際には、ドイツ国内では「ポーランドのドイツ人を保護するため」「侵略されているのはドイツの方」という話が信じられていたそうです。
ユダヤ人の迫害はナチスだけが行ったことではなく、「ユダヤ人さえいなければドイツはもっと豊かになる」と信じた多くのドイツ国民が加担しているのです。
プロパガンダはドイツに限ったことではなく、日本でもアメリカでも他の国々でも行われていました。
戦中だけでなく戦後になっても、あからさまな大嘘は無いにしても、大なり小なり民意の誘導は行われています。
(あからさまな大嘘をガンガン発信している国もありますが、そういう国は民主的でないと言われます。)
政治に対して素人である一般大衆に対して、現状何が問題でどのような政策が必要なのか等を誰かが説明しなければ判断のしようもありません。
しかし、そうして政治や政策を解説する人が、完全に中立で間違ったことを言わないとは限りません。
それに、間違った意見ではなくても何を主眼にどういった角度から論じるかで何を優先にどういった政策を行うべきかが違って見えます。
プロパガンダのつもりがあろうとなかろうと、政治や政策について分かり易く解説する行為は解説者の思想に視聴者を導く効果があります。
民主主義である以上、政治の状況やこれまで行ってきた政策、これから行おうと検討している政策などを一般大衆に周知する必要があります。
それも、政治の素人である多くの人々にも理解できるように噛み砕いて説明しなければなりません。
ですが、それは解説する人の思想が入った説明になります。
政策を推進する政府の立場で説明すれば、現行の政策が最善で、それ以上の選択肢はないかのように説明されるでしょう。
野党や現行政権に不満のある人ならば、その政策のリスクや問題点を指摘し、より良い政策を提案するかも知れません。
偏った説明だけ聞いて他の方法を知らないのでは民主主義になりませんから、様々な意見を主張できるように表現の自由が認められています。
しかし、数多くの意見が出て来れば、中には誤った前提に基く主張や一部の問題だけに特化したバランスの悪い主張、多くの人の利益のために少数に犠牲を強いる主張なども含まれます。
政治の素人である一般大衆にそれらの主張の誤りや問題点を見抜けるでしょうか?
素人でも分かるあからさまな大嘘やよほど利害が一致していないと共感も納得もできない一方的で感情的な意見も存在します。
しかし、そうした分かり易い変な主張の他にも、一見まともそうでも間違った主張や、心情的には認めたくないけれども正しい主張なども存在します。
もちろん、変な主張に対して間違いや問題点を指摘する意見も出ますが、同時に真っ当な主張に対しても正当な批判から変ないちゃもんまで否定的な意見は出て来るものです。
丁寧に調べれば判明する事実関係でもいちいち調べることをしないのが素人の一般大衆です。
様々な意見が乱立すると何が正しいのかなんて分からなくなります。
それで、結局どうするかと言えば、一番もっともらしいと感じた主張を信じる、あるいは「みんながそう言っている」に迎合する、です。
世の中には、もっともらしく聞こえる技術と言うものがあります。全く根拠のない事でも「こういう事実がある」と自信をもって主張すれば、自分で調べることをしない人簡単に信じてしまうことも珍しくあります世。
また、「みんながそう言っている」の不確かさは先に述べた通りですし、自分でまともに考えることもしない人が何人信じていようと正しい事にはなりません。
結局、「声の大きい人」が民意を誘導することも十分にあり得るのです。
過去において失敗とされた政策の中には、実施された当時は民衆の絶大な支持を得て始まったものも多くあるでしょう。
それを「民意に従ったのだから政府は正しい行いをした」と言ってしまってよいものでしょうか?
過去の失敗から学ぶことができるのは、素人の一般大衆ではなく、歴史や事例を細かく調べる専門家だけです。
他にも、民主主義の国になったことで戦争が激化したという話もあります。
封建制度が主流の時代では、戦争を行うのは王や領主となる貴族でした。戦国時代の日本の場合は戦国大名が当たります。
この場合、戦力になるのは王や領主が自前で抱えている兵士や金で雇った傭兵が中心になります。
農民は数は多いけれども戦闘に関しては素人で、最低限の訓練を行わなければ役に立たず、ちょっとくらい訓練しても職業軍人には敵いません。
つまり、農民に兵役を課してもさして強くないし、それでも訓練は必要だし、士気が低いから劣勢になればすぐに逃げるしと、ろくなことはありません。
数で押すことを考えて大量に徴兵すると、働き手を失った農村は収穫が減って税収が減ったり食糧不足になったりします。
さらに、兵役を終えて帰った者が軍隊の経験を活かして武装集団を組織し、盗賊団になったり反乱を起こしたりするようなリスクもあります。
政治に直接かかわらない一般の平民にとって、誰が国王になろうが領主になろうがあまり関係はありません。
ただ、普段の生活が維持されるのならそれで問題はなく、税が安くなるなど生活が楽になればなお良いです。
国王や領主に対して忠誠を期待できるはずもありません。
だから、まともな戦力として考えてよいのは、直接給料を出していて一蓮托生な騎士や兵士と払った金の分は仕事をしてくれる傭兵だけなのです。
そのため、王や領主の出せる金の範囲でしか戦争を行うことができません。
ところが、民主主義の国民国家になると事情が変わってきます。
国民一人一人が主権を持ち、国政に参加する国民国家では、全ての国民にとって戦争は他人事ではなくなります。
他国に攻め滅ぼされて国が無くなれば、自分も主権を失います。
その国の国民であるという意識が強いため、戦争になれば自主的に協力する者が増えます。
直接戦闘に参加しなくても、資金や物資、労力の提供で協力することもあります。
また、銃火器が戦闘の主力となったことで、素人に最低限の訓練を行っただけでもそれなりに戦力になるようになりました。
結果として、戦争のプロだけが主力となる封建制度の国よりも、国民全体が協力する国民国家の方が強くなったのです。
市民革命で王政を打倒したフランスは、その後周囲の王政の国に狙われることになりますが、なんだかんだで国を守り切ります。
明治時代の日本では天皇を中心とした国作りを行いましたが、平安時代の社会を再現しようとしたのではありません。
憲法を公布し議会を開き、士農工商の身分制度を廃止し、全ての国民に日本人であるという意識を持たせようとしました。
天皇主権でありながら国民国家を実現しようとしたのが明治の富国強兵策です。
国民一人一人が国家への帰属意識を持ち、進んで戦争協力を行う国民国家は強いのです。
しかし、国民全体が戦争協力をする分、戦争を行う負担は国民全体にのしかかってきます。
国民国家になる以前は、自分の住む地域の近辺が戦場にならない限り多くの人にとって戦争は他人事でした。
戦費を稼ぐために重税を課して反乱でも起こされたら戦争どころではなくなるので、負担を強いるにも限度があります。
戦国時代の日本で活躍した戦国大名の中には、支配した領地を発展させて豊かにした話をよく聞きます。
領地が貧しいと、戦争をする資金も得られないのです。
一方、国民国家同士が戦う形になった第二次世界大戦では、国力で勝るアメリカと戦うために日本は限界以上に頑張りました。
結果、多くの国民に不自由な生活を強い、民間人を標的にした空襲や原爆の投下で幾つもの都市が焼き払われ、戦後も続く食糧不足などに悩まされることになったのです。
独裁政権が勝手に始めた戦争という認識では国民はここまで戦争協力はしません。
増税や物資の徴集で生活苦になれば何とか誤魔化そうとするし、それでもだめなら逃げだしたり反乱を起こしたりします。
自分たちの戦争であり、負けて国が滅びれば自分たちも終わりだという認識があるから厳しい状況にも耐えて国に協力するのです。
世界大戦のような大きな戦争が行われるようになった背景には、技術の進歩によって大量の兵士を遠くの国まで運べるようになったこともありますが、国の資源の多くを戦争につぎ込むことが可能となったからです。
多くの民意が集結することによって、大規模な戦争が起こったのです。
もう一つ、民主主義が不完全な状態であるために起こる問題もあります。
民主主義の理想は、国の主権者である民衆全ての人の意思を尊重することにあります。
だから、少数意見であっても蔑ろにはせず、全ての人が納得する政策を行うべきなのですが、現実的にそれは不可能です。
全ての人を納得させる最高の提案を無限の時間をかけて探すよりも、対処が間に合うように次善の政策を決めて実施しなければならない。
そのために、多数決を取って議論を打ち切ります。
それは民主主義の妥協であり、理想に届かない不完全な民主主義です。
理想に届かなくても、理想に近付いたより良い状態になっているはずだと思うかもしれません。
しかし、理想に近付いた分だけ良い社会になるとは限りません。
全ての人を納得させるという民主主義の理想に届かず、多数決で物事が決まる社会では、どうしても多数派の方が意見が通りやすく、暮らしやすくなります。
逆に言えば、少数派の意見は切り捨てられ、とても住みにくい社会になる恐れが常にあります。
単に少数派のわがままが通らない、で済む問題ではありません。
国民主権で他の人と同じだけの権利を有しているのに、少数派に属しているというだけでその恩恵にあずかることができないのです。
さっさと多数派に鞍替えすればよい、という話でもありません。
国によっては少数民族が迫害を受けるケースもあります。生まれの違いは自分ではどうにもなりません。
特定の宗教の信者が大半を占め国や地域では、それ以外の宗教の信者が肩身の狭い思いをすることもあります。
日本でもかつてアイヌ民族が文化や言葉を強制的に捨てさせられたことがありました。
沖縄は「基地の町」として日本に復帰後も大きな負担を強いられています。
LGBTQなども最近は知られるようになりましたが、性的マイノリティは昔から差別と偏見に苦しんできました。
時代によっては、身体障碍者は社会のお荷物として邪魔者扱いされたこともあります。
「多数決こそが民主主義の本質であり、多数決で決まった以上少数派は黙って決定に従うべき」といった考えの人はいますか?
この考えは、少数派として金持ちや権力者を想定すると説得力があります。
一部の者の利益のために、その他大勢の意に沿わない政策を勧めてはいけない、ということになります。
しかし、少数派と言うのが社会的弱者だった場合ならどうでしょう。
大勢の人の利益のために、少数の困っている人を見捨てることになるのです。
社会的弱者は社会的な支援が無ければまともに生活して行けない状態の人も多くいます。
大勢の人の利益という大義名分の下に、少数の弱者を見殺しにする、あるいは犠牲にする行為と言ってよいでしょう。
多数決と言うものは、少数意見に対してはどこまでも冷酷になれるシステムです。
過半数の票を得たらそれでよいではなく、多数派ならばこそ少数意見も可能な限り考慮しないと悲劇が生まれます。
少数派が自分たちの意見を受け入れてもらうためには、なぜそれが必要なのか、自分たちは何をどう困っているのかを丁寧に訴えて、多数派側の人間の理解と賛同を得ることが正当な手段となります。
しかし、それはかなり茨の道になりかねません。
まず、生活に余裕の無い社会的弱者の場合、自ら行動して社会を変える活動をすること自体が困難な場合があります。
次に、多数派の人間が少数派の主張にまともに耳を傾けるか? という問題があります。
人は、自分の考えと対立する意見にたいして、受け入れるよりも反発しやすいものです。
相手が正しければ自分が間違っていることになってしまう。それは異端を排除する心理です。
特に多数派側が感情的になっている場合は、反対意見を主張するだけでも危険があります。
アメリカで、9.11のテロ事件後に報復を行う意見が主流になりましたが、この時に平和を訴える人に対して「Go home!(国に帰れ)」コールが浴びせられる映像を見たことがあります。
私は個人的に、戦時中の日本で戦争反対を訴える人を「非国民」扱いする光景と重なりました。
また、ガザ地区に容赦なく攻撃を加えるイスラエルでは、平和を訴えるとハマスの仲間扱いされて様々な嫌がらせを受けるそうです。
多数派で人数が多いということは、過激な行動に出る人が現れる可能性も高いのです。
さらに国民全体がヒートアップして反対意見を擁護することも許さない空気になると、さらに積極的に反対意見を排除するようになります。
例えば、少数派を投獄したり、国外に追放したり。民主主義の国であってもそういった民意が集まれば起こり得ます。
仮定の話ではありません。
アメリカでは過去に「赤狩り」とか「マッカーシズム」とか言って、共産主義の人間を徹底的に排除した過去があります。
自由の国アメリカで、思想信条の自由、つまり心の自由は認められなかったのです。
日本では左翼の代名詞は共産党ですが、共産主義者を排除して共産党を非合法化したアメリカでは左翼と言えばリベラルになります。
さて、少数派が正当な主張を行っても相手にされず、生活もままならないほどに追いつめられると、時に先鋭化することがあります。
正当な手段で正しい主張を行っても無視されるのなら、暴力や非合法な行動に訴えてでも無視できない主張を行うということです。
少数民族の武装ゲリラとか、カルト宗教のテロとか。
安倍元首相が銃撃された事件も、世間に忘れ去られた宗教二世の苦しみが発端でした。
こうした暴力的な意思表示は、しかし、あまり上手くいくことはありません。
暴力に訴える時点で感情的になり、社会にアピールするよりも自分の怒りや復讐心を優先する人も多いでしょう。
その様子を見る多数派側も、平和的に行われるデモなどならば理解を示せる人でも、犯罪行為に賛同することは難しいでしょう。
ですが、暴力に暴力で対抗していては憎しみが増大する一方です。
差別や迫害が強まれば、最初は一部の過激な者が行っていただけだったのが、次第に同じ立場の者が集まってより強固に抵抗するようになるといったこともあり得ます。
そうなると締付が強まるほどに過激な活動も増え、凶悪なテロを繰り返す悪の集団と理不尽な差別と迫害を繰り返す多数派の対決が固定化します。
たぶん、民主主義以前は少数派のグループが社会制度的に多少不利な扱いでも行政に対する不満程度で、住民同士の衝突まで行かないケースも多かったのではないかと思うのです。
直接利害が衝突しなければ、近くに民族、宗教、その他立場や考え方の違う人がいたとしてもいちいち敵対する必要はありません。
少数派は対応が後回しになりやすい可哀そうな集団と思われていただけかもしれません。
しかし、民主主義の国民国家になると、少数派も国政に影響を与える国民の一人になります。
少数派とは、多数派の意見に異を唱える邪魔者であり、政権を不安定化させる不穏分子であり、多数派から国を奪う可能性を秘めた潜在的な敵でもあるのです。
直接利害の対立が無くても、少数派というだけで敵対する理由になってしまうのです。
多様性が重要とよく言われますが、多様性――自分とは異なる他人の意見や価値観、生活等を認める寛容性が無ければ、民主主義は常に内部に敵を作ることになります。
ところで、なぜ多くの国が民主主義を採用しているのでしょう?
今の日本は、天皇は象徴として残したまま、国民主権の民主主義になっています。
他にも、国王は存在するけれども、政治は国民から選ばれた議会が中心となって行う民主主義の国は存在します。
また、米ソ冷戦時代には自由と民主主義を主張するアメリカに対するソビエト連邦という構図があり、社会主義や共産主義は民主主義ではないように思っている人もいるかもしれません。
しかし、社会主義や共産主義が民主主義でないということはありません。
ソビエト連邦の「ソビエト」は議会の事だそうで、物事を議会で決める、議会制民主主義の国だったのです。本来は。
ソ連崩壊は民主主義に負けたのではなく、貧乏に負けた結果です。
中国だって「中華人民共和国」、北朝鮮も「朝鮮民主主義人民共和国」と、民主主義や共和制を名乗る国です。
社会主義国は強権的なイメージがありますが、国が経済を統制するため政府の力が強くなる傾向にあるためでしょう。
第二次世界大戦後に植民地から独立した国が多数現れましたが、独立直後の国は政治的基盤が弱く、国を安定させるために政府の力が強い社会主義を選んだ国もあるのではないかと個人的には考えています。
まあともかく、今の世界の国々の多くは民主主義です。
実質的に独裁者が存在したり、民意が蔑ろにされていたりすることはありますが、形式的には民主主義の国民国家です。
形式だけでも民主主義にするのは、国民国家でなければ戦争に勝てなくなったからではないでしょうか。
王様や貴族だけが国政を担い外交を行う体制では総力戦はできません。
戦争に限らず、国力を動員して大きなことをするには国民の協力が必要です。
だから強権的な独裁政権でも大昔のように「民衆は政治に関心を持たず、ただ税を修めていればよい」とはなりません。
情報統制を行ってでも政権に対する支持を得る必要があるのです。
民主主義の本来のメリットは、「最悪を避けられる」ことだと思うのです。
民衆のほとんどは政治の素人です。主権を渡されて「より良い政治を行え」と言われても困ってしまいます。
しかし、間違いや失敗、問題点を探し出すことならば素人でも可能です。
素晴らしい案を出すことはできなくても、他人の粗探しならば得意という人は多いでしょう。
とち狂った為政者が誰の目から見ても問題だらけの間違った政策を推し進めようとしたときに民主主義ならば合法的に止められます。
偉業を成し遂げた晩年おかしな政策を進めて評価を落とすことは歴史的によくあります。
民主主義ならば言動のおかしくなった政治家を無理なく辞めさせることができます。
「こいつが権力を握ったら絶対に国が滅茶苦茶になる」という人物を世襲だからと言って権力の座に就けることを避けることもできます。
その一方で、民主主義は最善を保証しません。
多くの人が間違っている、問題がある、失敗したと明白に理解できる政策を止めさせることは可能ですが、素人目には判り難い事柄に対しては民主主義で正解を引き当てることは困難です。
多くの人にとっては利益があるけれども、一部の人にとっては絶望的な不利益をもたらす政策を、民主主義で止めることができるでしょうか?
これを「民主主義なのだから大勢に利益を求めるのが当然」とか言って容認すると、不利益を受ける一部の者になった時に絶望します。
絶望して社会に憤ったあげくにテロに走るものが多発すれば政情不安の危険や社会になります。その一部の者の不満を封殺すれば、一度不利益を被る一部の者になったら救われることの無い恐ろしい社会になります。
また、今は何もかも順調で皆が豊かで幸せに見えるけれども、同じことを続けていれば十年後二十年後に破綻して以前よりも苦しくなることが分かっている政策を止められるでしょうか?
逆に、何がどう問題になってどこに影響するのか分かり難い課題への対策とか、確実に効果は上がっていのだけれども実感し難い政策を支持し続けることはできるでしょうか?
素人にとって、広い視野や長期的な視点で判断することは困難です。
遠くの見知らぬ誰かを助けるよりも、身近な暮らしの充実を。
遠い将来の危機よりも、今を便利で快適に。
一般の人の優先順位はそんな感じになりやすいでしょう。
もちろん、政治について解説して、重要性を説明してくれる人もいます。
しかし、同時に逆のことを言う人も必ずいます。
多くの場合は、どちらかが一方的に正しく、もう一方が完全に間違っているということはありません。
どちらも何かしらの真実を含み、別の何かを見落としていたり軽く見たりしています。
世の中をさまざな角度から見た雑多な意見が混在する中、それらを取捨選択統合して最も正しい意見を見出すなんてこと、素人にできるはずはありません。
見聞きした中で一番説得力のあった意見、自分の気に入った意見を自分の意見として採用するだけです。
素人の支持を数多く得たとしても、正しいことにはなりません。
素人でも、一つの問題を特定の視点から見た意見ならば丁寧に解説されれば理解できるし評価もできると思います。
しかし、複雑に絡み合った複数の問題を様々な視点から見て最適な落としどころを見つけるといったことは手に余ります。
そこは専門家の領分であり、政治家に必要なのはそのバランス感覚だと思うのです。
今の暮らしを豊かで便利にするために資源も富も使い果たして、子供や孫の世代に負債ばかりを押し付けるような政策をやっては駄目でしょう。
しかし、遠い将来に王道楽土を築くために、今を生きる人が苦しみ続けばたばたと死んでいく社会と言うのもまた間違っています。
一方的な見解に偏り過ぎた政策では、どこかに大きな歪ができるのです。
最善の政策とは、個別の問題に着目すれば最善とは言えなくても、トータルで考えればメリットを最大限、デメリットを最小限に抑え、さらに不測の事態に備えた余裕や柔軟性を備えたものでしょう。
トータルで優れているというのは、同じような立場で苦労した経験が無いとなかなか理解できません。
この部分は改良できるけれどそれをやると別の部分で問題が出る。その問題を解消しようとして変更を加えるとさらに別の部分に問題が発生する。
そうした試行錯誤を繰り返した結果、簡単には改良案を出せないことを知ってその優秀さを理解します。
素人には理解できないでしょう。
一方、批判することは簡単です。
トータルではよくできていても、部分的に見ればもっと良い方法がすぐに見つかります。
余裕があるということは(上手くいっている間は)無駄があるということになります。
柔軟性は曖昧で悪用できるという意味にもなります。
なぜそのそのようにしたのか、そうしないとどんな問題が発生するかということに目を瞑れば、素人でも簡単に問題点や改善点が見つかる出来の悪い政策に見えてしまいます。
私は個人的に、安易に「○○なんて簡単」と言い切る人は「難しいことを考えていないだけではないか」と勘繰ってしまいます。
しかし、一般大衆向けには小難しい話を並べ立てた丁寧な説明よりも、単純明快に「こうすれば全て解決」と結論だけをズバッと言い切ってしまう方が受けが良いのです。
最終的には専門家が調整するだろうから素人考えそのままの政策が実施されることはあまりないでしょうが、バランスよく考えられた最善策よりも素人受けのする極端な策に引っ張られる可能性は高いのです。
つまり、民主主義の社会では、最悪を避けることが容易な代わりに、最善を行うことが難しい。
これが今の民主主義の欠点であり限界なのだと思います。
専制君主制と言うのは一種の理想的な政治形態だと聞いたことがあります。
実は「君主」とは単に世襲で地位を与えられた王様の事ではなく、国を治める能力を持った者を指す言葉なのだそうです。
つまり、正しく国を統治する能力を持った者が、誰にも邪魔されることなく全力で国を治める仕事に打ち込めるのです。
最善の政策をスピード感をもって行うのだから、それは素晴らしい社会になるでしょう。
意思決定の速さと揺らぐことの無い一つの意志を持って行われるという点は、民主主義では太刀打ちできません。
私利私欲に走る者、国よりも自分の所属する集団の利益を優先する者、間違った政治理念や方法論を信じ込んでいる者、短慮で目先の利益に固執する者、ただ人の意見に反対し批判するだけの者。
そうした有象無象の妨害を排して必要な政策を着実に推進する。
成果が出るまで二十年二十年とかかる政策を「成果が無いから止めろ」という声を気にせず腰を据えて行うことも可能です。
最善の政策を実施するにあたって、専制君主制は非常に有利なのです。
もちろん良い事ばかりではありません。
最善の政策を容易に進められるということは、最悪の政策だって容易に進めることができるのです。
特に、「君主」と呼べない人が専制を行えば政治が迷走する恐れもありますし、能力はあっても善政を敷くつもりが無く好き勝手を始めたら最悪に一直線もあり得ます。
民主主義が最悪は避けやすい代わりに最善にも届き難い制度なら、専制君主制は上に立つ者によっては最善にも最悪にも容易に行き着く制度と言えるでしょう。
最悪の政治は、多くの国民が苦しみ死ぬため被害が大きくなります。
だから最善の政治を逃してでも最悪になり難い民主主義を選ぶのでしょう。
私は個人的に、民主主義は為政者にとって優しい制度だと思っています。
国の全権を掌握すれば、それは大きな権力を振るうことができます。
しかし、権力が大きいということは、それに伴う責任も大きくなります。
王国が滅びる時には国王は殺されることも珍しくありません。
祭政一致の古代国家では、自然災害などに対しても、「神を正しく祀らなかった」として王様が責任を負う場合もあったそうです。
古代ローマ帝国では、戦争の続いた時期に皇帝が殺されて新しい皇帝が擁立されることが短い期間に何度も起こったことがあります。
敵に殺されたのではありません。
皇帝は軍の最高指揮官でもあるため、「この皇帝では戦争に勝てない」と判断されると、新しい皇帝を立てるために味方によって殺されてしまうのです。
皇帝の任期は終身なので、殺さないことには新しい皇帝を立てられなかったからです。
国の主権を一人で担うということは、有事の際には命懸けなのです。
民主主義は国民主権として主権者を国民全体に分散しました。それに伴い、主権者の責任も全国民に分散されました。
王様がおかしくなって国を無茶苦茶にするような政策を始めたら、クーデターを起こして排除するしかなくなります。
一方、総理大臣でも大統領でも選挙で合法的に辞めさせる手段はあります。
最高権力者であっても法に従い、職務の範囲内でしか権力を振るえませんが、法に従う限りはその行為を罪に問われることはありません。
政策で失敗しても、辞めさせられるだけで、それ以上の罪を問われることは無いのです。
政策に失敗したら殺されてしまう古代の王様に比べてとても優しいでしょう。
その代り、責任は主権者である国民全体にのしかかってきます。
国の過ちや失策の責任は主権者である国民にあり、全ての国民がその責任を負わなければならないのです。
選挙で選んだ政治家や政党が問題を起こしたならば、問題を起こすような人物を当選させてしまった責任があります。
政治に無関心で選挙にも行かなかったのならば、政治を良くする行動を起こさなかったことに対して責任があります。
別のもっと良い人物に投票したけれども落選したのならば、その人物が当選するように十分な努力をしなかったことに責任があります。
国政を任せるに足る候補者がいなかったのならば、自分の納得できる候補者を擁立したり、自分自身が立候補しなかったことに対して責任があります。
民主主義は選挙に行って投票すればそれだけで主権者としての義務を果たしたことにはなりません。
全ての国民に政治に参加する権利を認めているのです。何もしなかったことにだって責任は付いて回ります。
絶対の権力を持つ王様は、無能であることすら罪になります。
国民の生命財産がかかっている以上、結果が全てであり、「努力した」「仕方がなかった」は通用しません。
国の主権者の責任は、ある意味理不尽に重いのです。
その重い責任を、主権在民の民主主義では全国民が背負うのです。
たとえ一億分の一以下だとしても、その責任から逃れる術はありません。
国が何か問題を起こした場合、政府の偉い人が悪い、と無責任に非難することはできません。国民である以上、誰でもわずかばかりの責任を負っているのです。
政府の責任を追及する行為は、無責任な批判ではなく、国政を正すための主権者の責務として行わなければなりません。
何もしなければ、家臣の不正を見逃す怠惰な王様になります。一億分の一だとしても。
民主主義とは、実は民衆にとても厳しい制度なのです。
・2025年1月2日 追記
私は個人的に、王様の役割は三種類あると思ってます。
一つ目は、建国の英雄としての王様です。
国を興すためには多くの人々の協力が不可欠です。
そのためには、圧倒的なカリスマや強い指導力で人々をまとめあげる指導者になる必要があります。
ただ腕っぷしが強いだけでは駄目で、人々の共感する理想を語り、明確なビジョンを示して人を動かし従える、それが建国の英雄としての王です。
建国の時だけでなく、突然の国難から国を救ったり、時代に合わなくなった法や制度、あるいは腐敗した組織を刷新して国を立て直す中興の祖なんかもこの部類に入ります。
強い権力を振るって大きな変革をもたらすことが特徴です。
二つ目は、何もしない王様です。
国に大きな問題が無く十分に繁栄している場合、些細な問題に国王が出て来るべきではありません。
国王自ら乗り出してくるということは、国の総力を挙げて取り組むことを意味し、小さな問題にそんな大げさな対応をされても困るでしょう。
細々とした問題は、いきなり組織のトップが出て来るのではなく、まずは現場の担当者が対応して、担当の権限では対処しきれない場合に上の人が出て来るものです。
そうした手順を無視して上の人間が強権を振るいつつ介入しても現場が混乱するだけなどと言うこともよくあります。
組織のルールに則って行動する以上、王様の出番は最後になります。
もちろん、国の重鎮を集めた会議とか、他国とのトップ会談とか、王様の仕事はたくさんあるのでしょう。
けれど、大きな問題が起こっていない状況では、一般庶民にとってはそこで何が行われているのか分からないし興味もありません。
そういう意味で、何もしない王様なのです。
三つ目は、亡国の王様です。
国が滅びる時に、国が滅びたということを内外に示す役割は最高権力者が担うことになります。
他国に攻め滅ぼされた時、あるいは内乱で政権が転覆した時、国が終わった象徴として王が殺されることがよくあります。
場合によっては、王家の血筋を全て絶たれます。
滅びた王国の王家の血筋は、反政府勢力が旗印として担ぎ上げるのに最適です。排除すると決めたら徹底的に排除されます。
逆に、攻め滅ぼした国の王族をあえて生かすことで反発を抑えて統治しやすくすることもあります。
その場合でも、最後の王は政権を委譲したり、相手国に臣従を誓ったりして国の終わりを宣言しなければなりません。
中国では禅譲といって、前朝廷からその地位を譲られたという形式で新しい朝廷の正統性を示そうとする場合があります。ほとんどが実質簒奪ではありますが。
日本では、明治維新に際して徳川慶喜は大政奉還を行って江戸幕府を終わらせました。政治の実権を放棄する代わりに徳川家は生き延びました。
ただ、王家が存続するパターンは例外で、多くの場合で亡国の王様は国と運命を共にするものと思われます。
さて、三種類の王様を考えましたが、この中で民主主義と最も相性が良いのは、二つ目の「何もしない王様」です。
選挙によって政治の責任者を決めてしまえば後は専門の担当者が実務を行います。
国の運営が大過なく行われている間は、それで十部分に機能します。
ただし、「何もしない王様」であっても、裏方の政務は行っているのと同様、主権者である民衆も選挙が終わったら後は無関心ではいけません。
主権者の代理として政治を任せた者がちゃんと仕事をしているか、主権者の意を蔑ろにして国に損害を与えていないか、しっかりとチェックする必要があります。
部下に任せきりで政を顧みない王様は、王様失格でしょう?
一方、民主主義と相性が悪いのが、一つ目の「建国の英雄としての王様」です。
国を興すには多くの人の協力が必要です。一つの目標に向かって心を一つにして一致団結する必要があります。
これって意外と難しいのです。目的は同じでもそこに至るまでの方法論で意見が分かれることもよくあります。
民主主義の問題点の一つは時間がかかることです。
様々な考えを持つ多くの人が一致団結して行動できるまでに、どれほどの議論を重ねる必要があるでしょうか?
あまり時間をかけすぎると、国が出来上がる前に瓦解する恐れがあります。
国難を救ったり、傾いた国を立て直す場合でも同様で、全員が納得できる最善の案が出るまで事態は待ってくれません。
そこで英雄が求められます。
求める方向が一致しているなら、多少の意見の相違は横に置いて、全員で優秀な指導者に従うことにすれば簡単に一致団結することができます。
民主的な議論の果てに得られる最善の案ではなくても、人々の力を結集して行動に移すことで確実に実現に近付きます。
しかしそれは、自分で考えることを放棄して特定の個人、あるいはその思想を妄信する個人崇拝に繋がる危険な行為でもあります。
ドイツのヒトラーも、イタリアのムッソリーニも、最初から独裁者だったわけではありません。
国難に際して意見が分かれて何も決められない民主主義に失望し、英雄を求めた大衆によって台頭したのです。
強い指導者が必要となる場面はあるのでしょうが、何らかの歯止めは必要です。
英雄が独裁者となり、歯止めを失って暴走を始めたら、止めるには殺すしかなくなります。
それは、誰にとっても不幸なことです。
英雄と独裁者は紙一重であり、英雄を求める声は民主主義を民主的に放棄する危険をはらんでいるのです。
三番目の「亡国の王様」については……体制に関わりなく滅ぶときは滅ぶし、その時の政治的な責任者が責任を取ることになります。
ただ、民主主義ならば主権者である民衆も何らかの形で責任を取らなければならないと思うのです。
第二次世界大戦の敗戦国の戦後はどの国も大変だったようです。多くの国民に、下手をすると戦時中以上の苦難が訪れました。
敗戦だけでこれです。国が滅びる時にはそれ以上の困難が待っているでしょう。
第二次世界大戦の時点では日本はまだ国民主権ではなく、あれは軍部が暴走したせいだと言うこともできました。
しかし、国民主権の民主主義国家となった今はそんな言い訳もできず、国が滅ぶような事態になれば全ての国民でその責任を負うことになります。他人のせいにはできません。
亡国の王様にだけはなりたくないものです。




