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駄文庫  作者: 水無月 黒
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武術とスポーツの境界

 世の中には、武術に由来するスポーツがあります。スポーツの要素を取り入れた武術もあります。武術とスポーツ、その境目はどこにあるのでしょうか?

 ふと気になって考えてみたのですが、この問いの答えは意外と簡単です。

 いえ、個別の事例を持ち出してこれはどっちだ? と判定するのは難しい場合もあると思います。しかし、基本的な考え方は難しいものではないのです。その本質を考えてみればよいだけです。


 まず、スポーツの本質とは何でしょうか?

 簡単に言えば、「体を動かして楽しむこと」であると思います。

 日本では「体を動かす」運動の部分の比重が高いような気がしますが、本来は「楽しむこと」の方が主体かもしれません。そうでないと、e-Sportsなどというものは出てこないでしょう。


 次に、武術の本質とは何でしょうか?

 ぶっちゃけて言えば、人を殺す技術です。

 「武」と言う漢字を、「矛を止める」と解釈する人もいますが、これは平和な時代に物騒なイメージを和らげようとしたのだと思います。本来、「矛」で「止」めるのは相手の息の根でしょう。

 まあ、護身術のようなものも武術の内に入ると思うので、もう少し広い意味で取ると、武術とは「人と人とが殺し合うような状況で何らかの目的を果たすための技術」であると言えるでしょう。


 さて、それぞれの本質をしっかりと押さえれば、様々な場面でその違いを明確にすることができます。

 まず、スポーツの目的が楽しむことである以上、スポーツには楽しむための仕掛けが各所に施されています。

 例えば、スポーツにおける試合はゲームです。ただ身体を動かすだけでも楽しめますが、そこに勝ち負けを持ち込むことで、さらに楽しみを増すことができます。

 ゲームで重要なことは、やってみるまで勝つか負けるか分からないことにあります。必ず負ける勝負がつまらないものだということは想像に難くないでしょうが、必ず勝つ勝負というものもただの作業になってしまいます。ゲームを楽しむためには、頑張れば勝利に近付くけれど、負ける時は負けるという不確実性が必要なのです。

 男女別、プロ・アマ別、ジュニア、シニアと言った年齢別、体重別。スポーツでは様々な分類で選手をグループ分けします。これらは、だいたい同じくらいの強さの者が対戦し、やってみるまで勝敗が分からない状況を作るように考えられたものなのです。

 一方、武術はただの技術であり、それを習う目的も人それぞれです。重要なことは、命のかかった危険な技術を正しく習得することになります。

 実は、武術における試合は、修行の一環でしかありません。試合の勝ち負けは、まあより強くなろうとするモチベーションの向上に役立つ程度で、それよりも試合の経験が修行に役に立つかどうかの方が重要なのです。

 例えば、オリンピックの種目にもなったJUDOはスポーツなので体重別で試合をします。しかし、武術よりの講道館の柔道は体重に関係なく行われる無差別級のみだそうです。

 格闘技系のスポーツはだいたい体が大きくて力が強い方が有利なので体重別で試合をします。一方、武術ならば自分よりも大きい相手や小さい相手など様々な相手と対することは有益な経験になります。これを勝負にこだわって避けるのはもったいないことです。

 スポーツにおいて試合は本番ですが、武術にとって試合は練習なのです。


 また、こうした違いは、試合のルールや審判の立場にも現れます。

 スポーツの、つまりゲームのルールは競技を規定するものです。

 フットボールの反則(ボールを手で持つ)からラグビーが生まれたというのは有名な話です。ルールが変われば別の競技になってしまうのです。

 スポーツにおいて、反則というものはその競技を否定する問題行為です。だから非常に忌避されます。

 「ボールを手で持ちたかったら、フットボールなんてやってないで、ラグビーをやれ!」と言う話になるわけです。

 このように、競技はある意味ルールが全てなので、審判はルールの番人です。ルールを熟知し、ルールに従って判断するのが審判の役割になります。スポーツにおいて審判が絶対と言うのはルールが絶対と言うのとほぼ同義です。

 一方、武術の試合におけるルールは安全対策です。スポーツでも安全対策をルールに組み込むことはよくありますが、武術の場合はより深刻です。

 なにしろ、人を殺す技をかけあうのです。厳重な安全対策を施さなければなりません。

 例えば金的や眼球と言った急所を攻撃する行為は大概の武術や格闘技の試合では禁止されています。

 急所に対する攻撃は効果は高いのですが後を引く大怪我をし易い危険な行為です。また、技術的には狙った場所を正確に攻撃するというだけなので、急所以外の場所を狙うことで代用できます。

 つまり、武術の試合で反則行為を行うのは、無駄に危険な真似をするアホです。

 そして、武術の試合における審判は、指導者です。試合そのものが鍛錬の一環なので、そこで正しく安全に技術を磨くための指導を行う者が審判の立ち位置で試合を制御するのです。

 柔道の試合では、審判は「注意」「指導」などと言いますが、これはスポーツのようにポイントやペナルティーを宣言する言葉ではなく、そのまま言葉通り柔道を学ぶものに注意や指導を与えているのです。


 ここまでを簡単にまとめると、試合の扱いを見ることで武術かスポーツかを見分けることができます。

 試合に勝つために練習し、創意工夫を行うのがスポーツ。普段から練習している技を試し、更なる技術の研鑽のために試合を行うのが武術。

 ルールの専門家が審判を行うのがスポーツ。師匠や先輩等の熟練者が審判を務めるのが武術。

 反則行為は競技を否定する卑怯者なのがスポーツ。反則行為は技術の研鑽よりも他者を傷つけることを目的とする危ない人なのが武術。

 まあ、スポーツでもその競技の熟練者がルールにも詳しいということで審判を行うこともあるし、武術を習っていてもついつい試合に勝つことに熱を上げるということも珍しくありません。特に外から見て区別がつきにくい場合もあるでしょう。

 ただ、やっている本人には武術をやっているのかスポーツをやっているのかちゃんと意識して欲しいと思うのです。

 スポーツの試合ならば、勝つことに貪欲なくらいでなければ相手に失礼です。まあ、勝敗とは別なところで楽しむという場合もあるので、そのような集まりでは趣旨に合わせて真面目に楽しむ必要があるのですが。

 たまに、「運動会で勝ち負けを付けずに全員一斉にゴールする」などと言う話を聞きますが、あれってスポーツの楽しさを奪い去る行為だと思うのです。ひょっとして、見ている親とかが楽しむためにやらせていません?

 負けて悔しいのもスポーツの楽しみの一部なのです。それに、勝てない子供を見下してはいけないというのもしっかりと教えなければならないことです。

 また、武術をやっているというのならば、根底にある技術をしっかりと身に付けなければなりません。試合に勝ちたいという気持ちはよく分かりますが、小手先のテクニックや単なる力業でルールの隙を突いて勝っても意味がないのです。

 スポーツが武術と化すことはまずないでしょうが、平和な世の中では武術がスポーツになることはあり得ます。新しいスポーツが生まれること自体は良いことなのですが、武術として受け継がれてきた技術が失われることはとてももったいないと思うのです。


 さて、日本にはどこからどう見てもスポーツになっているのに、武術の要素を色濃く残している競技があります。それは大相撲です。

 相撲は、元は間違いなく武術です。日本書紀に記された最古の相撲と呼ばれる野見宿禰(のうみのすくね)当麻蹴速(とうまのけはや)の戦いは、野見宿禰が当麻蹴速を蹴り殺して勝利しています。

 荒々しい武術としての相撲から、殴る蹴るを禁止したり、怪我をし難い土俵を作ったりと安全対策を積み重ね、今のスポーツに近い競技としての相撲になったわけです。

 スポーツとしての相撲は、身体が大きくて体重が重い方が有利なことは間違いありません。にもかかわらず、体重別のクラス分けを行っていません。まあ、力士になるために身長制限とかありますが。

 また、行司は司会進行役ですが、審判ではありません。行司は勝敗を判定しますが、物言いがつくと親方などの相撲の経験者が協議します。行事に物言いに対する拒否権はありません。

 そして何より、「死に体」と言う概念が存在します。「死に体」がどういう状態なのかは明文化されていません。つまり、いくらルールに詳しい審判でも判定できません。経験者の判断が必要になるわけです。

 このような分かり難いものは普通スポーツの、ゲームのルールに入れません。スポーツならばより公正な判定ができるように、ルールから除外するものです。

 それでも相撲に「死に体」が残っているのは、相撲がルールによって規定された競技ではなく、相撲という技術を伝承してきたものだからだと思います。


 逆に、スポーツ化が進んでいる武術が剣道だと思います。これには歴史的な経緯があります。

 戦国時代が終わり、天下泰平の江戸時代になるとあらゆる武術は活躍の場を失いました。

 平和な時代に、それでも優れた武芸の技を後世に伝えようとするとそれなりに工夫が要ります。護身術や捕縛術、あるいは健康法として平和時にもある需要に合わせたり、武道と呼んで人格陶冶の側面を強調したりと色々やっています。

 剣道もそうした創意工夫から生まれた武道です。まず、武器として刀を選んだところからして工夫の一つです。昔の戦争で主要な武器は間合いの長い弓矢と槍、そこに戦国時代に急速に普及した鉄砲が加わります。刀はどちらかと言えば補助的な武器でした。

 しかし、平和な時には弓矢や槍は長すぎて持ち歩くのに邪魔です。鉄砲にいたっては管理が厳しくて一般人にはろくに練習もできないでしょう。その点、刀は長物の武器の中では唯一平時にも携帯できます。それに棒切れ一本あれば練習も可能です。

 つまり戦時には補助的な武器でも平時には身近な武器だったりするのです。刀が侍の魂になったのもこの辺りの事情からです。戦う機会のなくなった武士が武士である証は腰に挿した刀だけなのです。

 さて、身近な武器である刀を扱う技術に絞っても、それだけでは入門者は集まりません。平和な世の中ではまず使う機会のない技術であることに変わりないからです。

 そこでもうひと要素付け加えられました。それは、竹刀を使って打ち合う試合を多用したことです。

 同じ剣術でも、古流と呼ばれるものの中には型稽古だけで試合を全く行わないものも多くあるそうです。そして、そのような剣術はほとんど流行らなかったのです。

 血気盛んな若者には、打ち合う試合を行って勝負をつける方が受けたのです。これは、剣術という武術の中にスポーツ的な楽しみを導入したということにほかなりません。

 こうして誕生した剣道と言う剣術の一派は、天下泰平の江戸時代だけでなく、戦争の近代化と言うもう一つの武術を不要とする時代の流れをも生き延びて現代までその技術を伝えたのでした。

 しかし、その分試合偏重になり、試合に使わない技術がおろそかになりやすいのです。

 例えば、剣道には「脇構え」と言う構えがあります。これは簡単に言えば、刀の先端を自分の後方に向けた構えになります。

 この構えは、時代劇の殺陣なんかでは見かけることもあると思うのですが、剣道の試合ではまず見ることはありません。

 この「脇構え」について検索してみると、「相手から刀の長さが分からなくなるので奇襲に向いているが、現代の剣道では竹刀の長さが規格で決まっているので情報戦の意味が薄く使用されない。」と言ったことが書かれています。

 実戦で有効な技術が試合で勝てないから廃れるのならば、それはもう武術ではなく試合に特化したスポーツとしての技術とみなすべきでしょう。

 ただ、ここで一つややこしいのは、武術としての試合だからこそあえて特定の技を使用しないということもあり得るのです。

 武術の試合は鍛錬の一環であり、勝敗はともかく、試合を通じて何を学ばせるかという目的があるはずです。

 単純に考えれば剣道の試合の場合、「自由に動き回り、防御も反撃もしてくる相手に対して、狙った場所に正確に思い切り打ち込む練習」であると思います。

 積極的に打ち込む鍛錬である以上、防御寄りと言われる下段の構えや、体力の消耗を抑えて敵襲に備える八相の構えのように、待ちの体勢で試合に臨むのは、それで試合に勝てたとしても鍛錬の趣旨に反しているわけです。

 試合で使用しない技術は別の手段で鍛錬する必要があります。むしろ、試合では使用しない技術をよくぞ今日まで伝えてきたと称賛したいところです。


 武術の試合を元に新しくスポーツの競技を作る場合、注意しなければならないことがあります。それは試合のルールについてです。

 武術の試合のルールをそのままスポーツの試合のルールにしてしまうと、おかしなことが起こる危険性があります。

 武術の場合、試合のルール以前に技術の体系とか、受け継いできた伝統や思想など、前提となるものが色々とあります。試合のルール以前にやってはならないこととか、こういう場合はこうするといった暗黙の決まりがあります。

 しかし、スポーツの場合はルールが全てです。ルールで禁止されていないことを、それはだめだと言われても選手が困ってしまうのです。

 例えば、柔道がオリンピックの種目のJUDOになった当初、海外の選手が投げられることをブリッジで堪えるという光景を見ました。

 これは、武術としての柔道から考えるとあり得ない行為です。柔道の投げ技は、実は致死性の高い非常に危険な技です。柔道で剣道のような防具を付けないのは、防具が必要ないほど威力が弱いからではなく、柔道で扱う技は防具がほぼ意味をなさないからです。

 危険な投げ技を練習するために、柔道では厳重に安全対策を行っています。

 まず、柔道場の床は畳張りになっていますが、これは投げ落とされた際のショックを吸収するためのものです。

 次に、柔道を習う際は最初に受け身を覚えさせます。受け身は、地面に落とされた際の衝撃を分散して弱め、特に頭部を地面に打ち付けないように庇う動作です。

 そして、投げた相手をあえて背中から落とします。背中から落ちれば受け身もとりやすく、危険が少ないからです。下手に頭から落ちると、脳にダメージが入ったり、首の骨を折って最悪死にます。

 武術的に言えば、正しく投げた時点で鍛錬の目的は達成しており、あとは怪我の無いように受け身を取るだけです。投げられた後に危険を冒してまで背中から落ちることを避ける意味は無いのです。

 それを、よりによってブリッジで頭から地面に着くなんて論外です。私は子供が真似したらどうするんだ、と思って見ていました。

 しかし、スポーツとして考えた場合、奇麗に投げられたからと言ってそこで諦めたら試合終了なわけです。

 ルールが「背中から落ちたら相手のポイント」となっている以上、背中から落ちなければポイントは取られません。ブリッジをしたのはレスリングの経験者だからだと思いますが、スポーツになった以上は柔道の技術は絶対に使わなければならないものでなく、有用でルールに反していなければレスリングの技術を使用しても問題にならないのです。

 スポーツで危険な行為を禁止するためには、暗黙の了解ではなく、きちんとルールとして明記しなければなりません。それも、柔道の経験者だけでなく誰でもわかる明瞭なルールが必要です。

 実際に、オリンピックのJUDOのルールはしばしば変更が加わっているようです。こうしてだんだんと武術としての柔道から離れたものになって行くのでしょう。


 一年間延期された2020年東京オリンピックでは空手が正式種目になりました。

 実は、空手をオリンピックの競技にしようという動きはもっと前からありました。そして空手の関係者の中にもオリンピックの種目となることに反対する意見も多くあったと聞きます。

 反対する理由は色々あるでしょうが、やはり武術としての本質から外れたスポーツとしての空手が誕生し、スポーツの空手だけが空手だと思われることを嫌がったのではないかと思うのです。

 一年遅れのオリンピックで、競技としての空手が正式に誕生します。

 スポーツとしての空手がどうなって行くのか、長い目で見守りたいところです。


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