専業主婦は職業か?
書類とかユーザー登録とかの職業欄に、「主婦」とか「学生」とか書くことに疑問を感じたことはありませんか?
辞書的な意味で言えば、「職業」とは生計を維持するために継続的に行う仕事のことを指します。
主婦業も学業もそれだけでは収入がなく、生計を維持できません。
直接収入を得ることのない行為を「職業」と呼んでよいものでしょうか?
素朴な疑問ですが、深く考えると意外と難しい問題です。
専業主婦という概念が生まれたのは、産業革命以降なのだそうです。
それ以前は生産性が低くて、家事育児のみ行う人間を多数抱えられるほど社会に余裕はなかったのです。
日本の場合は、戦後の高度成長期からでしょう。
会社勤めのサラリーマンが一般的になったことで、その妻が専業主婦になりました。
「男は外に出て働き、女は内で家を守る」
そんなイメージから、太古の昔から専業主婦が当たり前だったように思っている人もいるかもしれません。
しかし、実際には「女は結婚したら家に入って専業主婦が当然」だった時代は、昭和後期の一時期に過ぎません出した。
昔の人々の生活を想像してみてください。
昔の日本人の職業で、最も数多かったのは農業です。
終戦直後で、日本人の約半分が農家だったそうです。
急速に近代化した明治以前ともなれば、九割近くが百姓だったでしょう。
農家の仕事は一家総出です。
働ける者は子供から爺さん婆さんまで、できる範囲の仕事をします。
野良仕事は一切せずに家事に専念するなんてことは許されません。
昭和の一時期、「農家の嫁」が敬遠されて農村の嫁不足が問題になったことがありました。
農家に嫁げばもれなく農作業が待っています。サラリーマン家庭に生まれた者には慣れない農作業は大変な重労働で、農家の嫁が嫌われた理由でしょう。
国民の大半が百姓だった時代では農家の娘が別の農家の嫁になるだけなのでそんな問題はありませんでした。
子供の頃から手伝っていた農作業を、嫁ぎ先でも続けるだけなので違和感はないでしょう。
農家の嫁の職業は農業。専業主婦の入り込む余地はありません。
農家以外の家庭でも似たようなものです。
企業に就職するという選択肢がなかった時代では、多くの職業が家業として行われていました。
父親だけが働きに出るのではなく、家全体で仕事をしていました。
家庭と仕事の境界が無いので、家族である以上稼業と無縁ではいられません。
商家に嫁いだら商売に無関係ではいられません。
職人の場合、重要な部分は技術を持った人にしかできませんが、その周辺の作業を家族が手伝うことになるでしょう。
漁師の場合、海に出るのは男の仕事だとしても、水揚げした魚介類を処理する部分で女衆の出番となるでしょう。
仕事で失敗しようとライバルに負けようと一定の給料が保障されているサラリーマンと違い、家業の場合は仕事の成否が生活に直結します。
旦那の仕事に無関心ということはあり得ないのです。
家業としてではなく雇われていた人もいたでしょうが、少数ですし、雇う側も少し規模の大きな家業でしょうから高給は期待できません。
勤め人の奥さんは主人の仕事に関与していなくても、生活のため内職くらいしていたでしょう。
明治時代に急速に近代化し、工場なども作られましたが、それでも多くの人は農家で家業として働いていました。
戦後復興期から高度成長期を経て企業に就職してサラリーマンとして働く人が増えて行きました。
これは、それまでにない仕事の仕方であり、人々の生活を大きく変えました。
まず、仕事と家庭が分離しました。
おそらく、その後の社会の変化の起点がこれです。
例えば、会社勤めが増えたことで核家族化が進みました。
大家族のメリットの一つは、同じ仕事仲間の集団が共同生活を行うことです。
しかし、会社勤めをするばあいは親子兄弟で別の企業に務めることが普通です。
家族は助け合うものですが、別の企業に勤める家族の仕事上の問題を助けるには限度があります。
父親だからと言って別企業の職場環境や人間関係に口出しできませんし、人生の先輩としてのアドバイスも一般論しか言えません。
そもそも、企業秘密とかがあるので仕事に関して家族に対してでも迂闊に相談できない場合も多々あります。
一人一人が企業秘密を抱えるようになると、プライバシーに配慮されない大家族のデメリットが浮かび上がってきます。
さらに、勤務地によっては実家から通えない、あるいは実家から通うことを前提にするとよい企業に就職できないといった事情があります。
家業の場合は農家のように田畑等の土地を持っていたり他の職業でも地域に密着していて地元を離れられないことが多いですが、会社勤めの場合は勤務先は企業側の都合があるので希望が通らないこともあります。
一人の仕事の都合で大家族全員が引っ越すというのも無理があります。
そうした諸々の事情を考えると、就職や結婚を機に家を出た方が良いという人が増えます。
「核家族よりも大家族にすべきだ」と主張する人は、「企業に就職するよりも家業で生計を立てるべきだ」と主張しなければいけない気がします。
他には、家長の権威が失墜しました。
昔の家長と言うものは、家族の代表というだけでなく、家業における社長の立場にあります。
仕事で問題があった場合、会社勤めならば企業が組織として対応します。しかし、家業の場合は家長を中心とする家族で対処する必要があります。
それだけ家長の責任は重く、その分家族に対して大きな権限を持ちます。
けれども、その家長がサラリーマンになってしまえば、仕事に対する責任は一社員としてのものになります。そして、仕事上の部下ではない家族に対しては無関係です。
仕事上の責任がなくなると、家族に対する責任はぐっと減ります。就職した子供が仕事で失敗いしても親が責任を取る必要はありません。
核家族化と合わせて家長の責任範囲は狭まり、それに伴い必要な権限も大幅に縮小しました。
実体のなくなった家長廃止されていて良かったと思います。
まあ、家長に家庭に対する絶対的な権限を与えた家制度を法制化したのは明治時代で、戦後に廃止されているのでそれほど長い歴史のある法律ではありません。
それほど日本に合った制度でもなかったのかもしれません。
それから、嫁と姑の関係も変わりました。
嫁姑問題は昔から色々とありましたが、昔の姑は単なる夫の母親というだけではありませんでした。
そもそも、「嫁に入る」とは単に結婚して夫の姓を名乗ることではありません。
夫の家族の一員としてその家業に参加することが前提となります。
同様に、「婿に入る」ならば妻の家業に参加することを意味します。
今は家業の方が例外扱いになっているので妻の姓を名乗るだけで「入婿」「婿養子」などと言われますが、本来の嫁入り婿入りは家業に参加することです。
家業に参加する立場の嫁にとって、姑は職場の先輩であり上司であり同僚であり理解の無い男性に対抗する同士でもあります。
その家の仕事の仕方を嫁に教え、仕事で失敗したらフォローし、男には言えない嫁の悩みを聞く。全て姑の役割です。
何かあった時に嫁が頼る相手であるため、姑の嫁に対する発言力は大きなものになります。
一方、嫁に対して立場の強い姑ですが、あまり無茶なことを言って仕事に差障りが出れば共倒れになります。
それに、女性の地位の低い社会では、女同士で協力し合わなければやっていられません。
嫁と姑はそれなりに上手くやっていたのでしょう。
しかし、会社勤めになるとこの関係が崩れます。
同じ仕事をしていないので、嫁が姑を頼る機会が大きく減ります。
そもそも、便宜上嫁と言っていますが、家業が無い以上嫁入りも婿入りもありません。
職場の上司でも先輩でもない姑との関係は、夫の母親でしかありません。
人生の先輩としてのアドバイスも、姑というだけで経験豊富な近所のおばさんよりも有用だという保証はありません。
過渡期には、嫁と姑が互いの関係性を模索してさぞや苦労したでしょう。
嫁と姑とでいがみ合えるだけの余裕ができたということでもあるのですが。
このようにして、社会の在り方、家族の形、おそらくは地域社会の人間関係なども変えながら、昭和という時代は過ぎて行きました。
色々なものを破壊しながらも家業を捨てて会社勤めに移行して行ったのは、戦争で何もかも無くした人が多くいたということもあるでしょうが、会社に就職した方が儲かったからです。
企業、特に大企業による経済活動は、家業とは比べ物にならないほど大規模になります。
家族だけでは手が足りなくなった家業に助っ人として雇われるのと、最初から労働者を雇って支払う給料以上の収入を見込む企業とでは支払われる賃金の額が違います。
戦後復興後の日本では、朝鮮戦争の特需で景気に弾みが付き、作れば作るだけ物が売れる状態が続きました。
生産能力において、家内制手工業では生産設備を整えた工場による大量生産に敵いません。
家業を廃業して企業に就職する人が続出しても不思議はないでしょう。
その結果、家族全員で働く家業よりも、父親一人が企業に勤めて給料をもらった方が収入が多いとなればなおさらです。
その後、受験戦争が過熱して行ったのも「良い学校を卒業して一流企業に就職すれば、安定した高収入を得て幸せな人生を送れる」というのがその当時の常識だったからです。
ついでに言うと、「日本の奨学金は貸与型がほとんどで教育ローンと変わらない」みたいな批判がありますが、当時はそれで十分だったのです。
大学さえ卒業すれば就職先は優良企業を選び放題で、奨学金の返済に困る心配はなかったのですから。
景気の良い時代は金利も高く、そんな中で奨学金は有利子でも銀行の定期預金よりも低い金利でした。困っていなくても借りられるなら借りなければ損な状態です。
そんなこんなで、誰もが企業に就職することが当たり前になってきた中で、日本の専業主婦は誕生しました。
家族全員で働かなくても、夫の収入だけで生活できることが大前提です。
夫が企業に勤めて馬車馬のごとく働けばそれだけで家族を養うことができたので、妻は家事育児に専念し、子供は学業に集中することになりました。
ここで誤解が生じたのだと思います。
元々「男は外、女は内」というのは、家業における仕事の役割分担の話だったのだと思うのです。家庭と仕事は不可分だったので。
それが、家庭の外で仕事をするようになったので「男は仕事、女は家庭」のように後から解釈が変わったのではないかと思います。
今では、「女は結婚したら仕事を辞めて家庭に入るべき」は古い考えだと言われるでしょうが、どの程度の古さかと言えば昭和後期止まりです。
専業主婦が当然だった時代は、昭和末期から平成にかけて変わって行きました。
理由は、不景気になったからです。
働けば働いただけいくらでも儲かった時代は終わり、利益の上がらなくなった企業は生き残りをかけてコストカットの嵐が吹き荒れました。
給料は下がりボーナスはカット、採算の悪い部門は解散か売却、余った人員は部署異動、あるいは子会社に出向、最悪早期退職で解雇。
新人採用も減らされた結果、就職氷河期、超氷河期などと呼ばれ、仕方なく始めたアルバイトや派遣社員は給料が安いうえにいつ解雇されるか分からない不安定な働き方。
不況でも解雇され難い公務員が勝ち組と言った考えが出てきたのもこの頃からです。それまでは民間企業の方が高給取りが多かったので。
給料が大幅に減った家庭では生活が苦しくなり、社会人になった若者は家族を養えるだけの経済力を得られずに結婚を躊躇しました。
経済的に苦しくなったことに加え、男女平等の見地から女性の社会進出も進んだことから共稼ぎ家庭が増えることになりました。
この時、企業への就職から家業に戻るのではなく、夫婦ともに企業に就職して働くようになったため、また新たな問題が発生します。
大きいのが育児の問題でしょう。
家業を営んでいた頃は、大家族だったこともあって、手の空いた誰かが子供の面倒を見ればそれで済みました。
家庭が職場なので仕事中でも子供に眼が届きますし、子供も家事を手伝う感覚で家業を手伝い、職業訓練にもなっていました。
しかし、核家族化が進んだ状況で両親が共に働きに出ると、子供の面倒を見る者がいなくなります。
会社に子連れで出勤できる環境は稀で、勤務先で子供に仕事を手伝わせたりしたら児童労働として問題になってしまいます。
仕事をする間子供を預かる保育施設の不足は、今でも深刻な問題です。
個人的に、今の日本の少子化の原因は、企業に就職するという働き方にあると思っています。
まず、子供の将来を考えたら、良い企業に就職するために大学くらい卒業しなければならないという考えが一般になりました。
結果として、子育てに金がかかるようになりました。
家業を継ぐのならば「就職に有利になるための学歴」など必要ありません。本気で学問を志す者だけが大学に行けばよいのです。
家業を手伝いながら覚えるので職業訓練も家でできますし、少しずつ戦力になってくのでどこかで収支はプラスになります。
しかし、企業に就職することが前提になると、学歴が重要になります。見ず知らずの相手に自分を売り込むには、学歴や資格といった客観的に分かり易い指標が有効です。
だから良い学校に進学できるように勉強の苦手な子供を塾に通わせたり、習い事に通わせたりするようになりました。
そして、子供一人当たりに掛けられるお金が増えたために、あまり多くの子供を育てる余裕が無くなりました。
終戦直後くらいの家庭では、兄弟が十人近くいることも珍しくありませんでした。
一人二人といった少数の子供を大切に育てるようになったことが、少子化の第一歩です。
その後、晩婚化が少子化を加速しますが、晩婚化を加速したのが不景気で経済的に結婚する余裕がなくなったことにあります。
景気の良い時代には、女性は二十代前半で結婚して寿退社が一般的でした。
さらに結婚しても共稼ぎ世帯では育児が大変なので子供を作ることに躊躇します。
特に働く女性の場合は、企業側が妊娠出産育児に対する理解と支援があまりないことも多かったため、妊娠出産を機に退職を余儀なくされたり、キャリアを諦めざるを得なくなったりすることも多々ありました。
制度はあっても、堂々と育休を取る男性が現れるようになったのは比較的最近の事です。
男女ともに、年齢が上がるほど妊娠し難くなって行きます。
晩婚化や高齢出産が増えるほどに不妊治療も増えて行きます。辛い不妊治療に耐えかねて子供を諦める夫婦も出て来るでしょう。
それから、子育ての環境も変わっています。
家業中心の大家族時代には家庭に育児に参加できる大人が複数いて、仕事中でも子供の面倒を見ることができました。地域のコミュニティもしっかりしているから、地域社会で協力しながら子育てもできました。
しかし、核家族化に伴い育児を行うのが両親だけになり、就職のために地元を飛び出して地域のコミュニティと切り離される人も増えて行きました。
それでも専業主婦が当たり前の時代には母親が育児に専念することで凌いでいました。
これが、共稼ぎでなければ生活して行けない状況になると、一気に深刻になります。
職場が産休育休を取れることは大前提。
仕事中に子供を預ける先が無ければ、子供が一人で留守番できるようになるまで仕事に復帰することもできません。
孫を預かってくれる両親が近くにいれば幸運で、大半が共稼ぎならば近所で助け合うこともできません。
そもそも、一方的に助けられる関係を助け合いとは呼びませんし。
結局、子供の預け先がある幸運か、有料の託児所等を利用したり子供の手がからなくなるまで夫婦の片方(だいたいは妻)が休職できるだけの経済力が無ければ子供を育てることは難しい状況です。
二人目三人目となればさらに厳しくなるでしょう。
養育費が貯まるまで待って高齢出産になったり、子供を諦めたりする要因がここにあります。
社会の変化は仕方のない面もあります。
しかし、大家族時代からの名残とも言える「子育ては家庭の問題」という固定概念に囚われ、好景気で専業主婦が当たり前だった時代にできた制度、慣習、保育所等の社会インフラなどを社会の変化に合わせて変えて行けなかったことが少子化対策に失敗した要因だと思います。
それは、単に行政だけの問題ではなく、私達の中にも固定概念が存在しているのです。
例えば、子供の貧困とか生活苦で育児放棄とかいった話題を聞いた時に、「育てられないのに子供を産むな!」とか思ったことはありませんか?
他にも、「子供が子供を産んではいけない」などと言う言葉も、親だけに子育ての全ての負荷と責任を負わせる発想があります。
核家族化で子供の面倒を見るのが両親(主に母親)だけの家庭が増え、共働きで育児に手をかける時間が限られてしまう。
それにもかかわらず、子育ての負担と責任は全て各家庭で負うものと当の親自身も含めて思っていたら、子供を何人も育てるなんてやっていられなくなります。
本気で少子化をどうにかしたいのならば、子育てを各家庭内の問題として両親だけが頑張るのではなく、社会全体として関わる必要があるのではないかと思います。
核家族化と地域コミュニティの弱体化で失った育児支援体制を今の世の中に合わせて再構築しなければなりません。
保育園等を作って終わりとか、困った時の窓口を作るだけでなく、もっと積極的に普段から関わって悩み事を聞いたり困ったことになる前に対応を指導するくらいした方が良いのではないでしょうか。
行政に任せっきりではなく、職場や地域社会など含めて社会全体で子育てをする意識を持ったり、育児の経験を個人ではなく社会で共有することも必要だと思います。
一人育てたら大変過ぎて「二度と子供は産まない」とならずに、「二人目でも三人目でも育てられる」と自信を持てるようになることが重要です。
一家庭当たりの子供の数が平均して二人を超えなければ少子化は止まりません。生涯未婚や子宝に恵まれれない人を考えると、三人以上兄弟がいる家庭が珍しくない状態にならなければ人口は減り続けるでしょう。
そのためには、若い夫婦が安心して子供を育てられる社会が必要なのです。
個人的には大学の無償化よりも、大学を卒業しなくても就職に苦労しない社会になった方が効果があると思います。
学歴で社員の優秀さはたいして変わらないと思ったことはありませんか?
余談ですが、専業主婦が当たり前の時代から共働きが増えて来る過渡期に「専業主婦vs兼業主婦」みたいな論争がありました。
外に働きに出る主婦が増えると、働きに出ない専業主婦が怠けているように見えて焦った人がいるのではないかと思います。
そんな中、「家事はこれだけ大変なのだから、専業主婦も職業と認めるべき」みたいなことを言う人がいました。
この主張、ものすごく筋が悪いと思っていました。
「兼業主婦はその家事と仕事を両立している」というツッコミは置いておくとしても、主観的に「大変だから」では他人を納得させることはできませんし、その理屈では色々と問題が出ます。
例えば子供が、徹夜で漫画を読破したとか大作RPGを一週間でクリアしたとかして「すごく大変だったからこれも仕事」とか言い出したらどう思うでしょう?
「専業主婦は職業」と主張する母親であっても、「屁理屈を言うんじゃない!」と叱るのではないでしょうか。
自分の屁理屈は棚に上げて。
それに、家事が大変な重労働であることを強調すると、その家事を子供に手伝わせることは児童労働に当たるのではないかという疑いが出てきます。
こんなことを言うと「大げさだ」とか「屁理屈だ」とか言う人も出そうですが、何事にも線引きは必要です。
小学生くらいの子供に家事の大半を押し付けて放置する親がいたら、ネグレクトとか児童虐待を疑うのではないでしょうか?
それからもう一つ。
昭和の後期は家事がどんどん楽になって行った時代でもあります。
上下水道が整備され、システムキッチンやガスコンロが普及、各種白物家電が登場し、どんどん改良されて行きました。
確かに、昔の時代の家事はとても大変でした。昭和の一時期こんな言葉があったそうです。
「息子を結婚させたかったら一人暮らしさせろ。」
家事が面倒になって必死に嫁さんを探すという意味です。
しかし、その家事がどんどん楽になって行きました。
洗濯は洗濯物を洗濯機に突っ込んでスイッチを押すだけ。
掃除は掃除機をざっとかけるだけ。
炊事は冷凍食品や買って来た総菜をレンジで温めて終わり。食洗器を使えば洗い物も楽々。
手をかければいくらでも凝ったことができるけれど、手を抜こうと思えばとことん手を抜けるのが家事です。
こうして、旦那と子供を送り出したら後はテレビでも見てだらだらしているぐーたらな専業主婦像が出来上がりました。
今なら一人暮らしを経て、「別に嫁さんなんていらなくない?」などと思う人も結構いるのではないでしょうか。
さて、本題に戻ります。
「専業主婦は職業か?」
それを考えるには、「職業」とは何かから考えていく必要があります。
辞書的な意味は最初に述べた通り。
ポイントは、「生計を維持する」ための行為であること。「継続的に行う」こと。「仕事」であること。
この三点でしょう。
ただ、この辞書的な定義ではちょっと曖昧な部分があります。
例えば「生計」とは何か?
生活のための手段や方法のことです。拡大解釈すれば、「生活のために行っているのだから、家事だって生計の一部」と言い張ることもできるかもしれません。
しかし、拡大解釈し過ぎると「食べることだって生活には必要」となり、職業「食べること」などと言う阿呆な結論を導き出すこともできてしまいます。
今の世の中お金が無いと生活して行けないので、「生計」というと生活費の事を指すことが多いようです。
家事をいくら頑張ってもそれだけでは生活費を維持できないので、そう考えると主婦業を職業に入れることは無理があるでしょう。
ただし、ほとんど自給自足でお金を使用しない生活をしている人がいれば、話はまたややこしくなります。
まあ、食を確保する必要があるので職業としては農業とかになりそうですが。
次の、「継続的に行う」点については特に問題はないでしょう。
たまたま一度だけ行った仕事とか、たまに手伝うことのある仕事ではそれで収入を得たとしても職業には当たりません。
一度限りの仕事で一生遊んで暮らせる大金を稼いだとしても、同じ仕事を行うことなく遊んで暮らしていたのならばただの無職です。
最後の「仕事」はほぼ「職業」を指しますが、継続的に行わない一過性の仕事でも仕事には違いありません。
ただ、何をもって仕事と呼ぶのかは議論の余地があります
例えば、ちょっとごまをすれば小遣いをくれる大金持ちの友人がいて、その友人からもらった金で生活しているのならば職業「太鼓持ち」と言ってよいのでしょうか?
あるいは、名義だけ貸して何もせずにお金だけもらっている人は仕事をしていると言えるでしょうか?
泥棒とか詐欺師とか、職業欄にはちょっとかけない犯罪行為で収入を得ている人は、金を稼いでいるのだから仕事をしていると言ってよいのでしょうか?
非合法ではなくても、知識と技術と強運でギャンブルに勝ちまくって大金持ちになった人は仕事をしたと言えるのでしょうか?
たぶん不労所得を得ることを「仕事をしている」と思う人はあまりいないでしょう。
もちろん、不労所得が発生するような凄いことを成し遂げた人は何らかの仕事をした場合が多いでしょう。
しかし、例えば親が歴史に残る有名小説を執筆し、その著作権を相続した子供が印税収入だけで生活していたとして、「小説の印税収入があるから小説家として働いている」と考える人はいないでしょう。
やはり、肉体労働でも頭脳労働でも労力を払わなければ仕事とは認め難いでしょう。
ただし、いくら労力をつぎ込んで頑張っているとしても、犯罪行為を仕事として認めることには難色を示す人も多いのではないでしょうか。
犯罪行為で得た金で生活し、継続的に行っているとしても、犯罪行為を職業として認めたくないのならば、犯罪を仕事から外すしかありません。
ギャンブルは本来娯楽です。金を払って楽しませてもらうのが正しい姿です。
掛け金以上のお金が戻って来るのも提供される楽しみの一つにすぎません。
だから、勝ち負けがあっても楽しみを提供する胴元が最終的に利益を得るようにできています。
ギャンブルに勝ち続けるというのは本来あり得ないイレギュラーです。確実に勝てる人がいるとしたら、何らかのインチキをしていると考えるべきでしょう。
偶然大きく買って大金を手に入れることもあるでしょうが、娯楽として遊んだ結果たまたま収支がプラスになったからと言ってそれを仕事と呼ぶのは変でしょう。
専業主婦や学生を職業に含めるかは、「生計を維持する」と「仕事」であることに該当するかが争点となります。
学生の場合は、学業で生計を維持しているというのは少々無理があります。学業で生計を立てられるのは教師の側でしょう。
よほど特殊な状況(他国の技術等を学ぶために国の方針で留学生として送り込まれたとか)でもない限り、学生を職業と呼ぶことはできないでしょう。
しかし、専業主婦に関しては一考の余地があります。
例えば、離婚する際に婚姻後に築いた財産を分配する財産分与を行いますが、収入源が夫だけの専業主婦の場合でも基本的には財産分与を受けられます。
これは、専業主婦が直接収入を得ていなくても、家事育児を引き受けることで夫の負担を減らし、財産を築くことに貢献していると考えるからです。
家業でなくても夫の仕事を手伝っていると見なしているようなもので、そこから類推すれば専業主婦も家計の維持に貢献していると言えるでしょう。
まあ、法律の記載は「家業中心だったころの名残」とか「就労経験の無い専業主婦が路頭に迷わないように配慮した」とか言う可能性もあるので必ずしも実態を表しているとは限りませんが。
一方、「仕事」に該当するかどうかは、「仕事」をどう定義するかによります。
ここで明確な定義や基準を設けずに「これは当然仕事、これは仕事じゃない」と感覚的に分けると必ずどこかで意見が対立し、納得できない人が出てくるケースが生じます。
それに、客観的な判断基準が無いとあらゆる事柄を個別に判断する必要がありますし、意見が対立した場合に感情的な言い争いになって収拾がつかなくなる恐れもあります。
また、「仕事」という言葉は使われる範囲が広く、それぞれ微妙に意味が異なったりするので混乱しやすいので注意が必要です。
極端なことを言えば、物理学では「物体に及ぼす力×物体の移動した距離」が仕事の定義です。
ここで必要なのは職業としての「仕事」の定義になりますが、あまり厳密な定義はないように思います。あったとしても狭い範囲で使われていて一般的ではないでしょう。
そもそも、何を目的として仕事や職業の話をしているのかによっても微妙に定義が変わってきます。
例えば、国としては多くの国民が働いて収入を得て税金を納めることが重要になります。
所得税等を考える時に収入の無い専業主婦も学生も無職と同じ扱いです。収入を表に出せない犯罪者も対象外になります。
失業率を考える場合は働きたくても働けない人を問題にするため、専業主婦や学生は無職扱いしません。同じ無職でも退職後の年金生活者も別扱いです。
ニートは、就学も就労も職業訓練も受けていない若者の事で、日本では家事労働を行っている専業主婦や主夫も除外されるようです。
こんな具合に、何を問題にするかによって無職側になったり職業扱いになったりします。
私は以前、独自に職業的な意味での「仕事」の定義を考えてみたことがあります。目的は、泥棒を仕事から外すこと。
その定義は、簡単に書くと以下のようになります。
「社会的な価値を生み出し、その対価を受け取る行為」
農林水産業なら自然の中から人の役に立つ動植物の資源を得たり、育てたりして価値を生み出します。
工業ならば、人の役に立つ工芸品を作り出すことで価値を生み出します。
一次産業ならば商品となる物が生み出された価値なので分かり易いです。
商業や流通業ならば生産者と消費者の間を取り持ち、生産者が自分で売り歩く労力を肩代わりしたり、消費者が欲しいものが手に入らない悩みを解消したりすることが価値となります。
サービス業ならば提供される技術や労力が、娯楽産業ならば娯楽で得られる楽しさがそれぞれ価値になります。
実体のある商品だけでなく、「便利」「楽」「楽しい」と言った実体のない価値でもその行為によって生み出され、その対価を受け取るならば立派な仕事になると考えました。
一方、泥棒は他人の物を奪って自分の物にする行為であり、社会的な価値は生み出しません。
他人から奪った金品で自分の資産が増えたとしても、その分他人の資産が減っていて、減った資産に見合う価値を受け取っていないのでトータルで何も生み出していないのです。
奪われた側は悔しかったり悲しかったり困ったりするのでむしろマイナスでしょう。
法律で禁止される行為は、基本的に社会に対して害になることなので、社会的価値を生み出すよりも減らす方向に働きます。
つまり、犯罪行為で儲けることを仕事や職業とは認めない、そういう「仕事」の定義になります。
この定義に基くと、「ギャンブルで勝って儲ける」ことも仕事には該当しなくなります。
前述したように、ギャンブルは娯楽であり、楽しさという価値を生み出して提供しているのは胴元の方です。客はお金を出してその楽しさを購入しているのです。
賭けに勝って大儲けするというのも胴元が提供する「楽しさ」の一環であり、客が価値を生み出して対価を受け取ったということではありません。
価値を生み出しているのはあくまで胴元であり、どれだけ儲けたとしても客は娯楽を購入した者でしかありません。
つまり、ギャンブルにどけだけ勝っても(この定義では)仕事をしたことにはなりません。
ゲームに勝ってお金を得るというと、プロスポーツも似たようなものに見えるかもしれませんが、実は全然違います。
プロスポーツの場合は、原則観客を入れて、観客からお金を徴収します。
プロのスポーツ選手は、プロとして鍛えた肉体と技術をもって素人にはまねのできない高度な試合を行います。
一流の選手が真剣に試合を行うことで観戦者に与える感動こそが生み出される価値です。
プロスポーツ選手とかプロゲーマーとかはちゃんと価値を生み出して対価を得る仕事をしています。遊んでいるだけで金をもらっている人ではありません。
私の考えた仕事の定義で考えて行けば、多くの仕事に対してその社会的意義を確認できますし、犯罪行為や法の穴を突く悪徳商売を「仕事ではない」と主張できると思います。
ただし、この定義を使用すると学生も専業主婦も仕事や職業とは認められれなくなります。
学生は勉強する立場の人間なので、そこで得た知識を社会に還元するのは主に就職して学生で無くなった後になります。
専業主婦の行う家事育児は、基本的に自分のために行うことです。家族のため、身内のためは社会的には自分のためと同義です。
自分のための価値を自分で生み出して自分で享受しているのだから対価も何もありません。
これを仕事と認めてしまったら、あらゆる趣味が仕事扱いになりかねません。
だから、私の作った定義では、専業主婦は職業とは認められません。
それともう一つ、この定義では自給自足している人を仕事をしているとみなすことができません。
社会的な役割としての仕事を定義してしまったので、社会と関わらず自己完結している人は、どれほどすごいことをやっていても無職扱いです。
一般的な職業欄の記入は、厳密な定義に基いた正確な職業が求められていることは無いと思います。
多くの場合は、「普段何をしている人か」程度の意味で、収入源を探ろうという意図も無い場合が多いのではないでしょうか。
まあ、ローンを組んだりクレジットカードを作ったりする場合は別として。
だから、普段家事育児に専念しているのならば「主婦」とか「主夫」とか、学校に通って勉強しているのならば「学生」と書いておけば問題ない。
会社に出勤してデスクワークとかやっているサラリーマンなら「会社員」と書いておけば良いし、もっと適した職業名があるならそれを書けばよい。
たぶん、普段の生活を大雑把に想像するのに手頃な質問が「職業」だったのでしょう。
考えてみると、厳密な定義に基く正確な職業が必要になる機会はほとんどないないのです。
あるいは、職業別の統計とかは細かいところで結構いいかげんと思うべきか。
仕事や職業について定義などを考えていて思ったのですが、厳密に考えて行くと例外はいくらでも存在します。
例えば、書いた小説が一作だけ書籍化されたけれどまったく売れずに次作以降も出版される予定が無く、印税で食っていけないのでバイトで生活している人がいたとして、職業を小説家と言ってよいのでしょうか?
まあ、自分で「小説家」と名乗れば小説家になれるのですが、実体としてはフリーターな気がします。
プロスポーツの選手なんかも似たような面があり、プロゴルファーはゴルフだけで食べて行ける人は極一部で、普段はゴルフ場でキャディのバイトをしているとか、プロボウラーも普段はボウリング場でバイトしている人が多いとか聞いたことがあります。
小説家になろうという志さえあれば小説家、プロスポーツ選手を目指している限りはプロスポーツ選手、と自称することは簡単ですが、それで食っていけない人をプロと認めてよいのかという点は議論の余地があります。
プロでも生活が苦しくて副業をしている人は珍しくないでしょうが、どちらを本業扱いするかという線引きは単純ではありません。
稼ぎの多い方を本業とするのが一般的でしょうが、「稼ぎは少ないけれど他人にはまねのできない技術を持ち、社会的にも重要で必要とあらば他の仕事に優先して行う仕事」ならば本業と呼んでも構わないのではないでしょうか?
試合があればバイトを休んだり辞めたりしてでも試合に出場する生活をしているのならば、たとえ賞金などの収入が少なくてもプロスポーツ選手と呼べる……かもしれません。
また、学生は多くの場合で仕事や職業とは別扱いになります。勉強するだけでは収入は入りませんから。
しかし、明治時代に西洋の技術や文化を吸収するために欧米に渡った留学生は、勉強することが仕事だったと言っても問題ないでしょう。
仕事としての本領は、留学を終えて帰国した後にありますが。
そこまで大げさなことでなくても、家族経営の中小企業の社長の子供で、仕事に必要な資格を取ったり、仕事や経営の理論や技術を学ぶために学校に通っているのならば、それはもう仕事の一環と言っても良いでしょう。
この手の例外的なケースでは、本人の気持ち一つで何が本業か変わって来ることもあるので厄介です。
自称小説家が、いくら売れなくても諦めずに次の作品を考え続けているか、プロは諦めて惰性で小説家と名乗っているだけなのか。
プロスポーツ選手が次こそは活躍してやろうと練習に明け暮れているのか、上を目指すことを諦めて引退のタイミングを計っているのか。
収入の少ない仕事を誇りと矜持をもって自分の本職と位置付けているのか、他にできる人がいないから仕方なく引き受けているだけなのか。
会社を継ぐために意欲的に勉強をしているのか、卒業したら親の意向を無視して大企業に就職するつもりで大学に通っているのか。
やっていることは同じでも、かなり印象が変わると思いませんか?
「専業主婦は収入が無いから職業ではない」とする立場でも、同じ家事を行う家政婦は職業と認めると思います。
私の考えた仕事の定義でも、「雇い主の手間を減らしたり、高い家事技術で快適さを提供することで価値を生み出し対価を得る」ということで仕事と認められます。
しかし、やっている仕事の内容は専業主婦も家政婦も同じです。
だから、特殊な状況を考えて行くと、その境界は曖昧になります。
何件もの家を担当するのではなく、特定の家専属の家政婦だとしたら。
週に何回か家事の一部を手伝うのではなく、住込みで全ての家事を行うのだとしたら。
雇用主は独り暮らしの若い男性で、若い独身女性の家政婦が来たとしたら。
そのまま雇用主と恋愛関係になってしまったら。
何だかラブコメのシチュエーションにありそうです。周囲が「さっさと結婚しろ!」という感じの。
当人たちがあくまで雇用関係と言い張れば家政婦だし、仕事抜きでの付き合いならば実質的に内縁の妻。
婚姻届けを出せば専業主婦に変わるけれど、やっていることは一切変わりません。
本人の意識や周囲の認識、後は紙切れ一枚で立場が変わります。
逆に、単なる住込みの家政婦なのだけれど、扶養家族にしておくと税金が安くなるから偽装結婚しているというケースはどうでしょう?
一見普通の夫婦で戸籍上も結婚しているけれど、実は専業主婦ではなく家政婦で、離婚時の財産分与を契約で取り決めた上で結婚している。
夫婦のあり方なんて人それぞれですし、よほど親しい人でなければバレない気がします。
まあ、そんなことをする人が増えたら、税務署が何らかの基準なり見分け方なりを作って偽装結婚の摘発を始めるかもしれませんが。
別の特殊な例としてこんなことを考えてみました。
ある夫婦が事故なり病気なりで幼い子供を残して亡くなったとします。
死期を悟ったその人物は、信頼のおける親友を呼んでこう言います。
「全財産をあげるから、子供のことを頼む。」
遺産を相続するには遺言の有効性とか遺留分とかあってややこしいのですが、諸々クリアして一生遊んで暮らせるほどのお金を手に入れたとします。
そして、親友の最後の願いを叶えるため、子供を引き取って育てることにしました。
仕事を辞めて育児に専念した場合、その人は専業主婦(主夫)になったのでしょうか?
それとも、先払いで報酬をもらっているのだから、シッターとか家政婦とか言った種類の仕事をしていると考えるべきでしょうか?
どちらを正解にしても異論が出そうです。
これも、子供を家族と思って育てているか、親友の最後の望みを叶えることに注力しているかで評価が変わりそうです。
しかし、人間の心理として、どちらか片方だけということは無いでしょう。
子供を育てていて家族としての絆が生まれないとは思えませんし、亡き親友のためという部分が消えることもないでしょう。
家族のための家事であり、他人のために行う家事育児代行の仕事でもあります。
どちらが主になるかは誰にもわかりません。
こうやって色々と考えてみると、あらゆる人の職業を全てきっちり決めることはできないし、意味がないと思うようになりました。
まあ、特殊な例外ばかり考えたせいですが。
昔、こんな話を聞いたことがあります。
明治生まれのお婆さんがまだ現役で家事をしていた頃の話。
そのお婆さんは、ガスコンロの火を消そうとしないのだそうです。
お湯が沸いたらコンロからやかんを降ろし、料理ができたら鍋を火から降ろす。そして火は点いたまま。
昔の竈や囲炉裏を使用した調理では火を簡単には消しません。
一度火を消せば、再び点けることは火打石があっても容易ではありません。
私は火打石を使ったことはありませんが、世の中にはマッチ一本で火を熾す競技なんかもあります。
小さな種火から調理に使えるだけの火力にまで持って行くのは大変で、失敗すれば火が消えます。
だから昔は火を絶やさないことが重要で、ガスコンロが登場する以前から家事をしていたお婆さんはその頃の慣習が染みついていたのでしょう。
逆に言えば、ちょっと捻るだけでいきなり十分な火力を得られるガスコンロがいかに便利なものかが分かるでしょう。




