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駄文庫  作者: 水無月 黒
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間違いだらけの進化論

「いいね」ありがとうございました。

 世の中、「相対性理論は間違っている」と主張する人は結構いるそうです。

 それも、真面目に物理学の研究をしたうえで問題点を指摘するのではなく、「常識的にあり得ない」「時計が遅れるというならその時計は故障しているのだ!」等、相対性理論を理解しているのかも怪しい主張が色々とあるらしいです。

 私もネット上で「相対性理論に代わる新しい理論を作った」などと言う主張を見たことがありますが、一部の現象をその新理論で説明できると言い張るだけで、相対性理論よりも何がどう優れているかも示せていないものでした。

 こんな感じに、どう見ても素人が素人考えで「間違っている」と気楽に主張してしまうのが相対性理論です。

 一方、量子力学に対して「間違っている」と言う主張はあまり聞いたことがありません。(私が知らないだけかもしれませんが)

 量子力学の世界の方が、よほど常識とはかけ離れた不可思議な現象が起こるのですが、「間違っている」などと思わないのでしょうか?

 その理由としては、相対性理論は分かり易く、量子力学は分かり難いからではないかと思っています。

 相対性理論が分かり易いというと信じられない人もいるかもしれませんが、相対性理論はニュートン力学の延長線上にあります。

 ニュートン力学は日常的に見慣れた物体の運動を説明するもので、直感的に理解しやすい理論です。

 相対性理論は方程式を解いて計算することは難しい場合も多々ありますが、概念的にはイメージしやすいのでしょう。

 相対性理論を否定したり、相対性理論に代わる新理論を主張したりする場合、だいたいがニュートン力学をベースにした説明が行われます。

 相対性理論はイメージはしやすいのだけれど、光速に使い速度や強い重力がある場合などの極限状況で日常的な感覚から外れた奇妙な現象が起こります。

 その辺りが批判したり否定したりしやすいのだと思います。

 対して、量子力学の世界は日常的な光景とはかけ離れています。

 光が波であると同時に粒子でもあると言われて素直に理解できる人はどれほどいるでしょうか?

 原子の中の電子が存在確率の波として広がっていると言われてイメージできるでしょうか?

 よく原子の構造として、原子核の周りを電子がぐるぐる回る惑星モデルのイメージで描かれることが多いですが、このモデルは量子力学で既に否定されています。

 量子力学的に正しいイメージを示しても素人相手には理解されないから分かり易い古典的なイメージを示しているのでしょう。

 最新の半導体等では量子力学が必須ですが、「よく分からないけれど計算結果が合うから利用している」と言う人も多いのではないでしょうか。

 つまり、量子力学は難しくて理解が及ばないから何をどう否定して、代わりにどのような主張をすればよいのか分からないのです。

 無理やり何か主張しても、聞く側も素人なら理解できないだろうし、理解できる専門家なら相手にもしないでしょう。

 相対性理論ならば「光速を超えられないなんて嘘だ、超光速で宇宙旅行できるはず!」等々、理論をまともに理解していなかろうが、誤解していようが、何となくそれっぽいことを主張する余地があるのです。


 量子力学よりも分かり易い相対性理論に誤解や否定する主張がが多く出るのなら、相対性理論よりもさらに分かり易い理論ならばどうなるのでしょう?

 相対性理論よりも分かり易く、素人考えの誤解や否定論の入り込む余地のある理論が、進化論だと思います。


 例えば、ダーウィンが「種の起源」を発表した後、ダーウィンを揶揄してこんなことを言った人がいるそうです。


「動物園にいるあのサルは、何時人間に進化するんだい?」


 この言葉は、進化論の内容をまるで理解していない発言であることは間違いありません。

 まず、進化による変化は単一個体の中で行われるものではありません。

 生まれた後にもDNAが変化することが分かったのは比較的最近のことで、世代を経る毎に少しずつ変化して行くというのがダーウィンの考えです。

 ある朝目覚めたらサルがいきなり人に変わる、なんてこと誰も主張していません。

 また、「サルが進化して人間になる」と考えることも間違っています。

 現在棲息しているサルの仲間が進化して別の種になったとしても、人間と同じような生物になる保証はどこにもありません。

 正確に言えば、「サルが進化して人間になった」ではなく、「サルと共通の祖先から枝分かれして現在の人間が生まれた」です。

 サルの仲間は、人間に進化する途中の動物ではありません。

 人間と共通の祖先をもち、独自に進化して今の姿になった、人間とは独立した種です。

 ダーウィンを非難した人達は「人間はサルから進化した」ということが気に入らなかったのだと思います。「お前の先祖はサルだったんだぞ!」などと言われると腹の立つ人も多いでしょう。

 でもそれは、ダーウィンの主張とは関係の無い内容を勝手に捏造して批判しているだけなのです。

 新しい学説が発表された当初はすぐには認められずに反論が多く出ることは当たり前ですが、内容を理解しないままに批判してもただの悪口でしかありません。

 具体的な内容を知らないままに、漠然とした反発から科学的に意味の無い悪口でしかない批判が行われたのでしょう。

 科学的に意味のある真っ当な批判に対しては、ダーウィンも丁寧に反論しているそうです。


 現代では進化論を間違っていると考える人はあまりいないでしょう。

 それでも、進化論を否定しようとする人は一定数います。

 例えば、宗教的な理由で否定する人がいます。旧約聖書で神様が人や動物を作っていることを根拠に進化論に反対します。

 キリスト教原理主義者の多いアメリカでは、州によっては進化論を教えることを法的に禁止していた時代もあったそうです。

 米ソ冷戦時代のソ連では、政治的イデオロギーの関係で進化論を否定していたこともあったそうです。

 政治や宗教以外では、単純に一般的に認められている常識やら権威やらをひっくり返したいという中二病的な気持ではないかと思うのです。

 個人的に、オカルトとか陰謀論とか変な新興宗教とかにはまる人の心理は、既存の正しさに反発する中二病と同じものではないかと思ってます。

(実はこの連載も「他の人が気付いていないことを思い付いてしまったかもしれない」と言う中二病的な発想が根底にあったりします)

 ただ、進化論を認めている人であっても、進化論を正しく理解しているとは限りません。

 ゲームやゲーム的な要素を取り込んだ物語の中で、「モンスターが進化して上位種に変わる」という現象が描かれることがあります。

 これは、「単一個体がそのまま別の種に進化する」「進化先の種はある程度決まっている」という点でダーウィンを批判した人達の持つ「サルから人間にに進化」のイメージと同じものなのです。

 勿論、物語の中の出来事であり現実とは違うと多くの人は理解しているでしょうが、そうした現象を「進化」と呼んであっさり受け入れられている時点で誤った「進化」のイメージは広範囲に定着しているのだと思います。

 極端な例では、アホロートルを陸生に「進化」させることに成功した! と主張した人がいるそうです。

 アホロートル(ウーパールーパー)は両生類ですが、水中ですごす幼体のままで一生を終え、陸上で生活する成体にならずに繁殖もしてしまう幼形成熟(ネオテニー)です。

 ところが、条件次第では成体に成長し、特徴的な外鰓を失って肺呼吸する陸生化する場合があります。

 知らなければ、水生生物が陸上に進出する「進化」の瞬間を目撃した! ような気分になるのかもしれません。

 実際には、オタマジャクシがカエルになるのと同じ現象なのですが。

 生物の進化を論じるならば一個体の性質だけに着目しても意味はありません。

 新たに獲得した形質が親から子へと受け継がれ、一定数数を増やして定着しなければ「進化した」などと言うことはできないでしょう。

 一体だけでは特異な個体というだけで、進化した新しい種とは言えません。

 けれども、生物学者でも何でもない一般人なら、大きく異なる外見やすごい能力を持った個体が誕生したら「進化した」と言われて納得してしまうことも多いのではないでしょうか。

 無知と思い込みからダーウィンを批判した昔の人と、同レベルの理解で進化論を知ったつもりになっている人は現代にも大勢いるのです。


「進化」の反対は何だと思いますか?

 例えば、「退化」と答える人も多いでしょう。

 それはある意味正しい答えです。

 能力の種類が増えたり強さが強化されたりすることを「進化」と定義するならば、その反対はそれまであった能力が無くなったり弱くなる「退化」となるしょう。

 新製品が開発されたときに、旧来のものよりも高機能高性能になっていれば「より進化した○○」と宣伝しますし、機能が削られていたり性能が低下していれば「退化している」と評されます。

 しかし、この意味での「進化」は生物における「進化」、つまり進化論の「進化」とは別物です。

 進化と退化は不可分です。生物は進化の過程で退化も行ってきました。

 人間は尻尾と多くの体毛を失って現在に至ります。

 海から陸上に進出した動物は、水中で呼吸する能力を失いました。

 新しい能力を獲得するだけでなく不要な能力を退化させて来たのが生物進化の歴史です。

 退化を進化の反対と考えてしまうのは、新たに獲得した能力にばかり目がいってしまうからで、それは偏った見方なのです。


「進化」の反対は「停滞」と考える人もいました。

 これはこれで説得力のある考えです。

 生物が進化によってさまざまに変化して来たからこそ、今の多様で豊かな自然が存在します。

 その「変化」の部分を進化の本質と見れば、その反対は変化を否定する「停滞」と言うことになります。

 ただ、私はこの考え方もまた「進化」の良い面ばかりを見ているのではないかと思うのです。

 例えば「生きた化石」という言葉に対してどのように感じますか?

 進化から取り残された終わった生物のようなイメージはありませんか?

 比喩的に人に対して使えば、「老害」と同じような意味になるでしょう。

 しかし、「生きた化石」と呼ばれる生物は、現在生存している種族なのです。

 何億年も昔の化石と同じ姿だとしても、過去の存在ではなく、今を生きているのです。

 自然の生物は、過去の栄光で生きて行くなんてことはできません。

 何億年もの間、同じような姿を維持したまま世代を重ね、命を繋いで来たのです。

 進化によって姿を変え能力を変え種を変えなかったとしても、何もしていないとは言えないのです。

 進化をして新しい種に変わって行った生物も、同じ姿を保ち続けた生物も、命を繋いで来たことに変わりはありません。

 生きた化石とは、同じ姿に進化し続けているとも言えるのです。

 生物は、進化しようと努力して進化するのではありません。ある環境に適応し繁栄した生物ならば、環境が変わらない限り同じ姿で栄え続けるものです。

 もしも「進化の反対は停滞」という考えで変化しないことを批判するのならば、それはやはり生物の進化の話ではなく、人の営みの中で行われるなにがしかの「進化」を指しているのです。


 個人的に、進化論は結果論なのだと思います。

 チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島で発見したのは、同じ種類の動植物が島によって少しずつ姿が異なるという事実でした。

 その事実を説明するために考えたことが、「その環境によく適応した個体の特徴を持つ子孫が増えた結果、環境ごとに異なる性質を持つようになる」という仮説です。

 そこから考えを推し進めて行って、全ての生物は一種類ないしは数種類の祖先から環境に応じて変化して、多種多様な生物に分かれて行ったと考えたのです。

 多種多様な、それこそ数えきれないほど多くの種類の生物が生息している現状を説明する学説なのです。

 進化論で論じていることは、どうしてこんな生物が生まれてきたのかという現状の説明であって、将来どのように進化していくかを完全に予測することはできません。

 そして、重要なことは「進化」は「進歩」ではないということです。

 過去の経緯を踏まえて良さそうな方向へ進化するとか、定められた目標に近付くように進化するといったことは一切ありません。


 進化に目的も方向性もありません。


 この辺りが多くの人が勘違いしている点ではないかと思います。

 進化さえすればより優れた生物が誕生するというのは幻想にすぎません。

 ただ、その場その時の環境に上手く適用してたくさんの子孫を残した種が増えて繁栄する、それだけです。

 しかも、どのような方向に進化するかは運任せみたいなところがあります。

 同じような環境でも、例えば素早く動き回ってたくさんの餌を取れるようになるか、それとも極力動かずにいて少ない餌で生きて行けるようになるかは、結果を見なければ分かりません。

 ネット上で「進化の度合いを測るパラメータはないか?」みたいな質問をしている人を見かけたことがあります。

 そんなものはありません。

 詳しく調べて行けば、特定のある種が何時頃誕生したか、生物がある能力を獲得したのは何時頃かといった分かるかもしれません。

 しかし、古い時代に起こった進化よりも、新しい時代に起こった進化の方がより進んだ進化だと言い切ることはできません。

 再度言いますが、進化には目的も方向性もありません。その変化が前に進んだとも後ろに戻ったとも言えないのです。

 例えば、抗生物質を乱用すると薬剤耐性菌が誕生しますが、ある意味こういうのが最新の進化です。

 数十万年前に登場したホモサピエンスよりも、最近になって誕生した薬剤耐性菌の方が進化している、と思いますか?

 進化の度合いではなく、ある環境にどれくらい適応しているかという判断も、その種の個体数が増えるか減るかで判断するくらいしかできません。

 ややこしいことに、「環境」にはどんな生物がどれだけ棲息するかも含まれます。

 特定の種が数を増やしたり減らしたりすると環境そのものが変わるのです。

 環境によく適応した種が現れて爆発的に数を増やしたと思ったら、餌を食べつくして絶滅したなどと言うこともあり得るのです。

 進化の行く末を予測することも制御することも困難です。


 進化に目的や方向性があるという思い込みは、さらなる誤解を生みます。

 例えば、生物に優劣を付けがちです。進化した優れた生物と、進化していない劣った生物といった具合に。

 確かに複雑な体の構造や、その複雑さを必要とする高度な能力は長い時間をかけて数多くの変化を重ねた後でなければ得られないでしょう。

 けれども、より複雑に進化した方が生物として優れている、とは単純に言い切れません。

 複雑な構造を整理したり、必要のなくなった能力を切り捨てたり、つまり退化を伴う進化を行うことも珍しくありません。

 また、同じような環境であっても同じように進化するとは限りません。

 例えば、捕食者から身を守る方法としては、身体を大きく頑丈にする、素早く走って逃げる、見つからないように隠れる、捕食者がなかなか来れない場所に住む等様々なことが考えられます。

 どの方法が正解で優れているということはありません。そして、進化の過程でその方法が変化することもあります。

 生物の形や能力を見ても、単純に進化の度合いを測ることはできません。進化に方向性がないというのはそう言うことです。

 物事の優劣を決めるためには何らかの基準、観点が必要になります。ある基準で見れば優れていても、別の観点から見れば劣っているなどと言うことは珍しくありません。

 多種多様な生物を、誰かが決めた一つの基準で測って優劣を決めても、それはあくまで人の価値観で行った評価の一つに過ぎません。

 そして、生物に優劣を付けようとする考え方の延長線上に優生学があります。

 同じ人間を優れた人、劣った人と優劣を付ける行為は、何らかの基準において優れている劣っていると評価できるだけです。

 ある基準では優れている人が、別の基準では劣っているとみなされることも、その逆も普通にあり得ます。

 医師のアスペルガーは、自閉症と診断された子供の中に特異な優れた能力を持つ者がいることを発見しました。

 日本人は遺伝的に酒に弱い人が多くいるのですが、アルコールを分解してできる毒素であるホルムアルデヒドが体内に長く残ることで病原体を殺して生存に有利だったのではないかという説があるそうです。

 劣っていると考えられた人、役に立たないと思われていた能力が、ある局面では非常に有用だったりすることもあります。

 優れていると考えられた人、役に立つと思われていた能力が、世の中の変化で無用の長物と化すこともあります。

 優生学の間違いは、中途半端な知見、限られた基準で人の優劣を判断し、劣った者、不要な者を排除しようとしたことです。

 最新の科学はだいたい間違っています。全否定されなくても、新しい事実が発見される度に修正や拡張を繰り返します。

 アスペルガー医師が異常とされた子供の中から優れた才能を見出したように、新たな発見により埋もれていた優秀さが見出される可能性は当時から分かっていたはずです。

 それでも未知の可能性を潰す「断種」が世界中で行われた背景には、「正しく選別すれば優れた人間が増えてよい社会になる」という思い込みがあったのだと思います。

 それは、「進化すればより上位の優れた存在になる」という、進化に目的や方向性、あるいは意味を求める考えと同じものです。


 進化に対する誤解でもう一つ多いのが、人間を「もっとも進化した生物」「進化の最先端」のように考えることです。

 SF作品などで、進化をなぞって姿を変えるモンスターが最終的に人の姿になるとか、地球にやって来た異星人がもっとも進化した存在としての人類にコンタクトして来るとか、その手の物語はよくあります。

 あるいは進化の目的を人類(または人類のような知的生命)を生み出すこととしたり、人類がさらに進化すことで神のような上位の存在になるとしたり。

 こうした発想は進化に目的や方向性を想定した上で、その方向の先端あるいは目的の近くに人類が存在すると考えるものです。

 しかし、それは根拠のない思い込みです。

 人間、自分が特別だと思い込みたがります。

 人類が特別で優秀だからこそ現在地球で繁栄している、と考えがちです。

 身体能力では敵わない動物はたくさんいるので、獣とは一線を画した知能こそが最も重要と考えます。

 だから、高い知能を獲得した人類こそがもっとも進化した種であり、その知能を用いて生存競争を勝ち抜き、地球の覇者となったのは必然である。

 そんな風に考えていませんか?

 人間が他の動物に比べて優れていると考える時、無意識に人間が優れている前提で基準を作ってしまうことがあります。

 例えば、頭の良い動物に対して「人間の三歳児くらいの知能がある」といった表現をすることがよくあります。

 とても分かり易い例えですが、これはあくまで人間を基準にしたものでしかありません。

 人間に近いほど知能が高いという表現で、人間以上の知能を表すことはできません。

「人間の百歳相当」と言われても、頭良いのを通り越してボケているのではないかと思うでしょう。

 頭が良いと言われている動物がいます。独自の言語を持っている動物もいます。道具を使う動物だっています。

 それでも、人間の方が知能が高いと考えるのは、動物が人間と同じことができないから。

 人間にできることを動物ができないから動物より人間の方が優れているという考え方は説得力があるでしょう。

 けれども、人間にできないことを動物がやってのけるという事実は無視されるのです。

 実際、動物の知能を調べるテストなどでは、課題によっては人間よりも素早く解いてしまうことだってあります。

 そんな光景を見ても一般の人は「わー、すごいねー」と上から目線の感想を言い、「本能」とか「野生の勘」とかで片付けてしまうのではないでしょうか。

 あくまで人間が基準なので、人間にできないことを動物ができても関係なく、人間にできることをその動物ができないと知能が低いとみなします。

 それは人間以外の生物に対してのみではありません。

 人間同士でも自分たちが最も進んでいて、それ以外は遅れていると考えることがあります。

 大航海時代に西欧諸国は、世界中の各所でその地に住む人々の文化や歴史や宗教を未開の物として認めず、植民地にしてキリスト教への改宗を迫りました。

 明治時代の日本もそうした欧米の真似をして、アイヌ民族の文化や言葉を潰して日本に同化させました。

 それでも、人間同士ならばまだ聞く耳さえ持っていれば理解し合うことは可能でしょう。

 しかし、人間以外が相手となるととても難しくなります。

 もしも知性の無い獣と思っていた動物が、あるいは植物が、高度で崇高な思想を持っていたとしても、人間に理解できなければ知性があるとは認められません。

 世の中には、「宇宙人がやって来れば相対性理論とかは過去のものになって自由に宇宙旅行できるようになる」と夢を語る人がいます。

 しかし、私は異星の進んだ科学技術を習得する以前に、異星人が何を言っているのか分からない状態になるのではないかと思っています。

 言葉は通じたとしても、地球人類に存在しない概念や感覚が山ほどあったら、相互理解は果てしなく困難になります。

 人類は、同じ地球に棲息する動物の言葉を理解して意思疎通することすらできていないのです。

 たぶん、高度な知能と文明を持つ異星人が地球人に合わせてくれることを期待しているのでしょうが、人類を遥かに凌駕する知能を持つ異星人が人類を知的生命とみなしてくれる保証はどこにもありません。

 理解できない知性は無いのと同じ、それは相手から見た場合にも成立します。


 また、人間を中心に考えているから、サル(と共通の祖先)から人間に一直線に進化したという思い込みもよくあります。

 ナックルウォークのゴリラのような類人猿から次第に立ち上がって人間になる図を見たことのある人も多いでしょう。

 しかし、近年の研究で、サルと共通の祖先から分かれた後、様々な人類の兄弟種が登場して滅びて行ったことが分かっています。

 滅びた人類の知能が低かったかと言うと、そうとも限らず、ネアンデルタール人などはホモサピエンスと同じくらいの知能を持っていたと考えられています。

 能力が高いから、より進化しているから、それだけで生き延びて繁栄する保証はどこにもありません。

 ホモサピエンスに関しては、むしろ弱かったからこそ大きな集団を作って助け合って生き延びた面があります。

 現在の人類は遺伝的なばらつきが非常に小さく、一時かなり人数が少なくなった時期があるのではないかと言う話もあります。

 人類が存続したのはただの偶然で、かなりきわどい絶滅の危機があったのかもしれません。

 それから、人類は環境に特化した進化をしていません。

 寒冷地仕様の毛皮を生やす代わりに、衣服を身に纏いました。

 その地に豊富に棲息する動植物を効率的に食べるよりも、手に入る食糧を何でもどん欲に食べてきました。

 ある意味、それ以上進化しなかったからこそ人類は地球のあらゆる場所に広がって行ったのです。

 今の人類の繁栄は、他の動物よりも数多くの進化を行って来たからではありません。

 進化の必然として人類や人類のような知性が生まれるという保証も確証もありません。

 それでも進化の果てに人類がいると考えがちなのは、人間が特別な存在と思いたい心理と、他の例を知らないからでしょう。

 人間を中心に考えると、人間と同等以上の知能を示さなければ高等生物とは思えないでしょう。

 そして、人間以外の例を知らないから、異星人でもファンタジー世界の異種族でも人間をベースにした姿を想像してしまうものです。

 タコ型の火星人を捜索したH.G.ウェルズの想像力は賞賛に値します。

 物語の中だけでなく、「恐竜が絶滅せずに進化を続けていたら、人間のような姿になっていたかもしれない」という想定でディノサウロイドと呼ばれる恐竜人間を考えた人がいます。

 知能が高かっただろうと考えられている恐竜をモデルにして、二足歩行する人間の姿に恐竜の特徴を付けた姿が描かれています。

 科学的考証を色々と行ってはいますが、進化すると「高い知能を持つ」ことと「二足歩行をする人間のような姿」になることがその根本にあります。

 実際の恐竜の子孫は、現在の鳥になったらしいですけど。


 進化論に対する誤解は、かなり広く一般に浸透しています。

 比喩的、あるいは文学的な意味で「進化」と言った場合、ほとんどが「進歩」や「成長」と同義で使っています。

 それを進化論で言う生物の進化と区別している人はあまりいないでしょう。

 他にも、こんな説明を聞いたことはありませんか?

「キリンは高い木の上にある葉を食べるために首が長くなった」

 この説明は間違っています。

 生物の進化は、目的を達成するために起こるのではありません。

 進化論の考え方では、キリンの祖先の中でちょっと首の長かった個体が餌の少ない時に木の上の方の葉を食べることで生き延びやすくなり子孫を増やした結果ちょっと首の長い個体が増加する、ということを繰り返した結果首の長い今のキリンが誕生した、と言った感じで説明します。

 同じ種の個体差の中でたまたま「首の長い」個体が子孫を残すのに有利な状況があり、だんだんと首の長い個体が増えて行って種として定着したということです。

 結果としてそのような変化が起こったのであり、目的のために進化したというのは間違いです。

「○○するために、××の能力を得るように進化した。」みたいな言い方は、結果から逆算して解釈しただけです。

 素人向けには分かり易い解説なのでしょうが、誤解を助長しています。

 テレビの科学系の教養番組などでも、生物が凄い能力を獲得することを「進化」と呼んでいることが多々あります。

 NHKで「超進化論」という番組をやっていましたが、内容的にはこれまで知られていなかった生物の生態とか、異なる種の生物同士での協力関係などが紹介されていました。

 面白い番組ではありましたが、従来の進化論の枠組みを大きく変えるような内容ではありませんでした。

 番組内では、「生存競争というから、こんなに助け合っているとは思わなかった」みたいな感想が語られていましたが、これは進化論の主張ではなく「生存競争」という言葉に対するイメージです。

 生存競争という言葉を、人間社会における競争と混同して、別種の生物をライバルとして敵対視するイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

 しかし、自然界の生物は自分が生き延びて子孫を増やそうとするだけで、他の種をライバルとして蹴落とそうなどとは考えていないはずです。

 生存戦略などと言う言葉も、生物がどうやって生き延びてきたのかを調べて、それを戦略と呼んでいるだけです。最初から戦略に従って進化してきたわけではありません。

 共生関係にある生物は以前から知られていました。

 これまで知られていなかった生物の共生関係が見つかったことは大きな発見ですが、進化論を修正する出来事ではありません。


 私見ですが、生物とか自然とかは結構テキトーです。

 生体の仕組みはとても複雑で精密に見えますが、多少問題はあってもどうにかなっているのならそれでよい、といういいかげんさがあります。

 例えば、人間の目には見えていない場所、「盲点」が存在します。明らかな欠点ですが、眼球を細かく動かすことでカバーできるので欠陥のある眼をそのまま使い続けているのです。

 なお、盲点の存在しない眼を持つ生物は存在します。盲点を持つことが生物としての必然なのではなく、盲点を持つ目を獲得した系統の生物も盲点を持たない眼を獲得した生物も等しく生き延びているだけです。

 人体の構造についても、知見が増えるにつれ何度も常識がひっくり返っています。

 脂肪が食欲をコントロールしているとか、腎臓が血圧を調整しているとか、何の役にも立たないと思われていた盲腸(虫垂)が免疫に関わっているとか。

 精巧で緻密な構造と言いますが、「とりあえずどうにかなっていれば、何処で何を行っても関係ない」といういい加減さを感じるのです。

 また、自然は絶妙なバランスで成り立っています。

 特定の種が増えすぎれば餌が減ったり天敵が増えたりして数が減るといったことよく知られているでしょう。

 とても精緻で精巧な仕組みがあるように見えますが、単にバランスを取れなかった生物は絶滅しただけとも言えます。

 だから、ちょっとした環境の変化でバランスは崩れ、生物は意外とあっさりと絶滅して行きます。

 気候が変わった、地形が変化した、偶然やって来た外来生物や突然変異的に発生した新種の生物が大繁殖した。

 そうした分かり易い環境変化だけでなく、ちょっとした事故等をきっかけにバランスが崩れて異なる生物相に変わって安定するなどと言うこともあり得ます。

 人間の行っている乱獲や自然破壊もそうした環境の変化の一つです。

 でもそれは、人間だけが環境を改変したり生物を絶滅させたりすることの出来る特別な力を持っているということではありません。

 長い生物の歴史の中では、生物の活動によって環境が大きく変わり、絶滅したり新しい種が繁栄したりといったことは繰り返し行われてきたことです。

 例えば、植物の祖先であるシアノバクテリアは、その昔大量の酸素を放出して地球の大気組成を変えてしましました。

 それを「良い事」と感じるのは、酸素が豊富に存在する環境で生まれて酸素を利用する生物として生きているからです。

 反応性の高い酸素は、本来生物にとって毒です。

 大気や海中に酸素が増えることで嫌気性の生物は生存できる範囲を狭められ、死滅してしまった種も数多くしたことでしょう。

 この環境の変化は一時的なものではなく、現在までずっと酸素の多い環境が続いています。

 自然には、「これがあるべき姿」「正しい自然」みたいなものはありません。

 一度破壊してしまった自然環境を、「人が手を加えなければ自然に戻るはず」と放置しても元に戻るとは限りません。

 また、海洋プラスチック問題などに関して「自然の生物の作り出した物は全て循環している(人間の作った物だけが自然に還らない)」と言う人もいます。

 これ、長い生物の歴史で見ると、常に正しいとは言えないのです。

 海中から陸上へと進出した植物の一部は樹木となって天高く幹を伸ばしました。

 硬い骨で体を支える動物と異なり、樹木は体全体を硬く丈夫にしました。

 そのために植物が作り出したのがセルロースとかリグニンと言った物質です。

 これらは非常に生物が分解しにくい物質です。

 食物繊維として有名なセルロースは人間が食べても消化できず、腸内細菌の助けを借りて一部の栄養を吸収できるだけです。

 特にリグニンはリグニン分解酵素を持つキノコが登場するまでは分解できる生物はいませんでした。

 地質時代の区分のひとつに「石炭紀」と呼ばれる時代があります。この時期の地層から石炭が多く産出することから名付けられています。

 つまり、この時期に既に大規模な森林が存在し、枯れた倒木は腐ることもなくその場に残り続けたのです。

 生命による物質の循環の中に入らなかった樹木が大量に存在したからこそ現在の石炭が産出するのです。

 現在自然に分解されないプラスチックゴミも、いずれは分解して栄養とする生物が現れるのではないでしょうか。

 豊富に存在して、しかも他に競争相手のいない資源を独占的に利用できる生物が誕生したら繁栄する可能性は高いです。

 それが百万年後か一億年後かは分かりませんが。

(あんまり早く登場すると、手入れしていなかったプラスチック製品がかびたり腐ったり虫に食われたりして面倒なことになります)


 再度言いますが、自然はテキトーでいいかげんです。

 そこに何らかの意味や目的を探しても無駄です。

 何らかの意義を見出したとしても、それはあくまで人間の価値観に当てはめて解釈したにすぎません。

 そこに意思も目的もありません。

 シアノバクテリアは大気を酸素で満たすために光合成を始めたのではありません。

 石油や石炭は地球温暖化を防ぐために地下に埋まっていたのではありません。

 生物の活動が自然環境を維持するように見えたとしても、そういう生態系を構築できた生物が生き延びて繁栄しただけです。

 生物はその環境でとりあえず生き延びて子孫を残せれば繁栄すると言うテキトーさがあるので、環境が変わると一気に衰退したり滅びたりすることもあります。

 だから、ガンガン環境を変えながら大増殖していく生物がいたとして、いずれ生存や繁殖に不向きな環境に行き当たって頭打ちになります。

 大増殖は一時的なもので、いずれは一定の数で安定する生態系を構築するか、絶滅するかのどちらかになります。

 結果として、人が目にするのは比較的安定した自然の有様ですが、それはあくまで人間の尺度で見た場合に過ぎません。

 長い目で見れば自然は環境の変化に合わせて形を変え続け、そこで繁栄する生物もまた入れ替わります。

 繁栄していた種を絶滅させるほどに環境が変化してもその環境に適応した種が現れ、絶滅した種の穴を埋めるように新しい種が栄える。

 進化とはそういうものです。

 ただ、注意して欲しいのは、「環境を破壊しても、生物を絶滅させても自然がどうにかしてくれるから問題ない」と言う話ではないことです。

 地球温暖化問題やSDGsが今ほど叫ばれていなかった頃、つまりコロナ禍以前でには、地球温暖化に懐疑的だったりCO2削減よりも経済対策を優先すべきといった主張をする人も多くいました。

 中には、「地球の歴史上もっと気温が高かった時期もあったのだから問題ない」みたいなことを言う人もいました。

 でも、この「大丈夫」は「これまで様々な種が絶滅しているのたがら、人類が滅びちゃっても大丈夫」と言う意味の「大丈夫」なんですよ。

 何をどう問題にしているかの前提を共有しないまま結論だけ持ってくると変なことになるので注意したいところです。


 極端な話、例えば核戦争や大規模な原発事故が連発して、地上が高レベルの放射性物質で溢れ、人類が滅亡したとします。

 その際、多くの生物が死に絶えるでしょうが、中には放射線に対する耐性を得て繁栄する生物が現れても不思議ではありません。

 それどころか、放射線を利用して現行の生物よりもずっと活発に活動する生物が現れるかもしれません。

 そんな生物が人類と同じような知能を得て今の時代の事を調べたら、人類の事を「放射線溢れる豊かな自然を作るために登場した種族」のように評価するのではないでしょうか。

 隕石の衝突がきっかけとなって恐竜が絶滅した大事件だって、「そのおかげで哺乳類が繁栄することができた」と肯定的に捉える人も多いでしょう。

 恐竜が絶滅しなければ生まれてこなかった私達には否定しようがありません。

 同様に、人類がいくら自然を破壊し、多くの種を絶滅に追いやって自滅したとしても、その後の世界に生きる生物はその世界でなければ繁栄できなかったか、誕生すらできなかったのです。

 破壊の限りを尽くした結果だとしても、人類に感謝するほかないでしょう。

 これが「人類が滅びちゃっても大丈夫」と言うことなのです。


 物語などで、地球や自然の意思のような存在が現れて命の大切さや自然保護の重要性を説くことがあります。

 教訓話としてはそう主張するしかないのでしょうが、私には少々空々しく感じます。

 それはどう見ても人間目線での意見なのです。

 自然は命を大切にしません。

 自然の中で、命は数多く生まれ、数多く死んでいくものです。

 多くの生物の生は、多数の他の命の死によって成立しています。

 子孫を残した後は死ぬことが前提、生まれた子供の大半が成体になる前に死ぬのが当然といった生態をしている生物も珍しくありません。

 命は地球よりも重いなどと言っているのは人間だけ、それも近代になってから現れた、ある意味不自然な思想です。

 進化と言えば新しく登場した種に注目が行きますが、新しい種が繁栄するまでには無数の個体の死や他の種の絶滅があるのです。

 多様性の重要性とは、異なる特性をもつ個体が多くいれば、環境が多少変わっても生き延びる個体が現れると期待できることです。

 その多様性を確保するために、一定割合で他の個体とは異なる特徴をもった個体が現れます。

 突然変異の場合もあれば、有性生殖のようにあえて親とちょっと違う子を生み出す仕組みが存在する場合もあります。

 しかし、親と違った特性が必ずしも有利に働くとは限りません。

 有利にも不利にもならない中立的な変化もあれば、生存や繁殖に不利になる変化もあります。

 不利になる変化を持って生まれた個体は、そのほとんどが生き延びて子孫を残すことができずに消えて行きます。

 それが自然淘汰です。

 自然は優しくも無ければ、平等でもありません。

 淘汰される個体は、当人の努力等関係なく淘汰されるべき存在として生まれてきます。

 進化とは、そうした無数の死と絶滅の先にあるものです。


 最後におまけを一つ。

 昔ネットなどで見かけた進化論を否定する意見が幾つかあります。

 印象に残ったものを紹介します。


・洪水から逃げ遅れた動物が低いところで死んだので、進化しているように見えただけだ!

 これは宗教的に創造論を主張する人の意見で、ノアの洪水の際に水から逃げようとした動物が、下等な生物ほど低い位置で死に、高等な生物ほど高い位置まで逃げて死んだという考えです。

 つまり、地層の下の方には最初に水に呑み込まれた動物が、上の方に行くほどその高さまで逃げ延びた動物の化石が出て来るから上の方の新しい時代の地層ほどより優秀で進化した生物が出て来るように見えるという主張です。

 この主張に納得した人はいますか?

 これ、素人でも反論できる杜撰な説です。「植物は?」あるいは「魚は?」と問えば説明がつかなくなります。

 まあ、それはそれでまた別の説明を始めるような気がしますが。

 都合の悪い部分を無視して、一部のそれっぽい部分だけ強調して断言すると言う強引な手法です。

 この手の変な主張や陰謀論なんかをする人は、自分のことは棚に上げて、一般の科学者や自説を認めない人を「都合の悪い真実を見ようとしない」とか言って中傷誹謗するので要注意です。

 そーゆーのに感化されて都合の悪い意見を無視する癖が付くと、非常に視野の狭い人間になってしまいます。


・クラシック音楽のCDを何回コピーしたらロック音楽が生まれるか?

 これは、生物の世代交代をCDのコピーと見立て、コピーの際に生じるエラーを突然変異などとみなした例え話です。

 音楽CDのコピーをいくら繰り返しても別ジャンルの音楽に変わることは考えられないでしょう。

 それと同様に、生物がいくら世代交代を繰り返しても別の種に変わることはあり得ない、と言う主張です。

 この説に、説得力を感じますか?

 実はこれ、詭弁です。全く関係の無い例え話をすることによって、話をすり替えているだけなのです。

 例え話は例えただけの別の話なので、例え話側の説明がいくら正しいとしても、元の話が正しいという根拠にはなりません。

 それに、元々進化論を否定するために持ち出した例えだけあって、不都合を無視して強引に結び付けた面があります。

 おそらく、生物の細胞分裂の際にDNAがコピーされ、たまに突然変異で少し変わったDNAが生まれるというイメージをCDのコピーに当てはめたのでしょう。

 ですが、CDのコピーとDNAのコピーとでは本質的に意味が異なります。

 音楽CDに記録されているのは、演奏された結果の音そのものです。

 演奏のミスも、うっかりくしゃみをしてしまった音も、その場のノリで行った一回きりのアドリブも、観客の拍手も、全てそのまま記録されます。

 一方、DNAは生物の生き様の記録ではありません。音楽に例えるなら、CDよりも楽譜に近いものでしょう。

 よく、DNAとか遺伝子とかを「命の設計図」と呼ぶことがあります。

 けれども、こんなことを考えたことはありませんか?

「設計図ならば、完成した後はもう必要ないんじゃない?」

 この疑問は間違っています。

 DNAが「命の設計図」と言う表現は間違ってはいませんが、完成図ではないのです。

 生物は完成図に合わせて体を作るわけではありません。DNAの情報は、「こういう場合は、このような働きをする」と言う手順を示したプログラムのようなものです。

 同じ手順で生命活動を行った結果、親と似た様な姿形に成長するのです。

 だから、DNAの一部が少し変わっただけで、生物の機能や外見に大きな変化が現れることもあり得ます。

 数ビットのコピーエラーが、音楽的な意味とは無関係に一部分の音だけをおかしくするCDとは性質が異なります。

 まあ、それ以前にCDのコピーの例えでは、両親の性質を両方引き継ぐ有性生殖を説明することができないのですけれどね。


・DNAの塩基配列の組み合わせは膨大で、その中から生物となる組み合わせを見つけることは宇宙の年齢よりも長い時間が必要。

 DNAを構成する核酸塩基はシトシン(C)、グアニン(G)、アデニン(A)、チミン(T)の4種類あり、その組み合わせで情報を保持しています。

 つまり、塩基配列は一ヵ所当たり四種類の情報、それがn個あれば4のn乗個の組み合わせがあります。

 DNAの二重螺旋が長くなるほどその組み合わせは天文学的な数値になります。

 そこで、最初の生命をn=50と仮定して、一秒間に一種類新しい組み合わせを試したとしても宇宙の年齢を超える時間がかかる。

 だから、生命の自然発生はあり得ない、と主張する人がいました。

 私もちょっとプログラムを組んで計算してみましたが、一秒に一種類で計算するとn=30当たりで全ての組み合わせを試すのに要する時間が300億年を超えました。

 正解を引き当てる期待値がその半分の時間としても、宇宙の年齢を超えます。

 計算に裏打ちされたこの説は、正しいのでしょうか?

 論理的に説明されて、それっぽい計算結果もあるともっともらしく見えますが、この説には幾つもの穴があります。

 この説明で否定できるのは生命誕生に関する諸説ある仮設の中の一部だけです。

 本人としては「確率的に無理だと証明したのだから、モデルに関係なく生命の自然発生そのものを否定した」つもりかもしれませんが、無意識のうちにいくつかの条件を仮定しています。

 まず、最初の生命のDNAの長さを50以上と決めつけています。

 DNAの長さが長くなると爆発的に組み合わせの数が増える半面、短くなると一気に数が減ります。

 一秒に一種類の条件でn=28なら23億年、n=27ならば6億年ほどで全ての組み合わせが出尽くします。

 微生物の研究などから、生物として活動するために最低限必要なDNAの量はおおよそ分かっているはずです。その辺りしっかりと調べて明示しないのは手抜きが過ぎます。

 また、一秒間に一種類の新しい組み合わせと言うのも根拠がありません。

 DNAは非常に小さな分子の世界の話です(分子としては大きなものですが)。

 人の身体は37~8兆個の細胞からできていると言われています。つまり、人一人の大きさの中に数十兆個ものDNAが存在しているのです。

 原始の海の中でどのようにして生命が生まれたかは分かりませんが、膨大な数の化学反応が同時並行で進んでいたことは想像に難くありません。

 毎秒何億何百兆の組み合わせが生まれていたとしても不思議はありません。

 もっと遅い可能性もありますが、「宇宙の年齢よりも時間がかかる」という否定の仕方をする以上、新たな組み合わせが現れる速度の上限を示す必要があります。

 そもそもの話、膨大な塩基配列の組み合わせの中で、生命として成立する組み合わせが何通りあるかと言う点を考えなければなりません。

 実際に発生した最初の生命はその中のたったの一通りだとしても、別の組み合わせでも生命となるのならば「生命の自然発生の確率」はそれだけ高まります。

 極端な話、半分の組み合わせで生命として成立するならば、確率1/2であっという間に生命が自然発生することになります。組み合わせの中の1%だけだとしても百回に一回は生物が発生します。

 組み合わせの総数の膨大さだけ考えてもなんの意味もないのです。

 しかし最大の問題は、「完全にランダムに作られる塩基配列が偶然に生物として成立する組み合わせにならなければ生物の自然発生はない」と考えているところでしょう。

 塩基配列が偶然の産物で作られたとは限りません。

 当人は「自然発生=塩基配列が偶然にできた」としているので、「だから自然発生ではなく何らかの意思が働いた」と主張しているのですが。

(ただしどんな意思がどう作用したかは明言していない)

 この人に限らず、DNAとか遺伝子とかを特別視し過ぎている人が多いように思います。

 確かに、今の複雑な生物にとってDNAに含まれる遺伝情報は非常に重要です。

 でも、DNAやRNAは生物を作るパーツの一つに過ぎません。決して、DNAこそが生物の本質などと言うことは無いのです。

 DNAさえできれば生物が生まれてくるなどと言うことはありません。

 特に最初の生命となると、DNAの役割も小さかったのではないかと思います。

 例えば、最初の生命はアミノ酸を合成して自己複製するタンパク質の塊で、アミノ酸にくっつく余計な塩基を取り除くためにリボ核酸が使われていたとかでもよいと思うのです。

 そして、最初は捨てられていたリボ核酸をタンパク質を合成するための鋳型として利用するようになったとすれば。

 この場合、塩基配列はランダムな組み合わせの中から偶然できたのではなく、生命を構成するタンパク質を合成した時の残滓から生まれたことになります。

 組み合わせの数がどれほど膨大でも、自然発生した後の生命の情報を記録する形で塩基配列が決まるのなら、完全にランダムを前提とした確率計算に意味はありません。

 生命誕生の神秘を解明しようとする生物学者は、奇跡的な偶然でいきなり遺伝情報が生まれたとは考えていないでしょう。

 奇跡とか神様とかに頼らなくても条件次第で生命が自然発生するプロセスを考え、それが実際に起こり得ることか検証したり、過去にこうした出来事が本当に起こったのか痕跡を探したりしています。

 そうした数々の仮説、そこで考えられたモデルを無視して、自分に都合の良い計算式で全否定しようとしても、何の根拠にもならないのです。


 素人が専門家の議論に参加してはいけない、とは思いません。

 けれども、素人が簡単に思いつく程度のことは、とっくに別の誰かが思いついていると考えた方が良いです。

 同じことを考えた別の誰かの説が世に広まらなかったのは、常識とか権威とかのせいだけではなく、それなりに重大な理由があるものです。

 多大な時間と労力を注ぎ込んで研究している専門家を出し抜くのに、アイデア一つだ大した労力もかけずに済むはずがありません。

 特に、既存の説を否定するために思い付いたアイデアで一点突破しようとすると、何処かで変に歪むものです。

 だから止めろとは言いませんが、他者に向かって主張する場合は注意と覚悟が必要です。

 科学は疑うことから始まります。

 常識を疑い、新説を疑い、定説だって疑います。

 でも、一番最初に疑わなければならないのは、自分自身だったりします。

 間違えるのも失敗するのも構わないのです。

 でも、そうした間違いを防ぐための検証や考察が不十分だったら手抜きと思われますし、間違いを指摘されても詭弁に終始して正面から議論できなければ相手にもされません。

 相手にされなくなったことを論破したと勘違いして調子に乗ると、傍目からはただのイタイ人になるので気を付けましょう。


進化の原動力となる自然淘汰は、最終的にはどれだけ確実に子孫を残せるかにかかっています。

戦って勝つような強さも、他の生物にはまねのできない特殊な能力も、子孫繁栄に貢献しなければ進化という点では意味を持ちません。

究極の生物と呼びたくなるような凄い能力を持っていても一個体一世代で終わったのならそれは進化したのではなく単なる奇形です。

退化したとか思えない変化や何に役立つのか分からない能力でも、トータルで子孫が増えて行くのならば進化した種として定着します。

いかに子孫を残すかが自然淘汰を生き延びるポイントになるため、進化に関連する能力は子供が生まれ、遅くても巣立つまでの間に役に立つ必要があります。

つまり、進化によって老後を健康で長生きできる能力を得ることは期待できないのです。

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