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駄文庫  作者: 水無月 黒
46/58

テストの点

「いいね」ありがとうございました。

 学生の皆さん。

 かつて学生だった皆さん。

 これから学生になる予定の皆さん(いるかな?)。

 勉強は好きですか?


 このように聞くと、「勉強が好きなわけないだろ!」とか「好きだと言うのは優等生だけ」あるいは「好きなどと言うのは建前だろだろう」などと思う人は多いのではないでしょうか。

 勉強が嫌いな人は大勢いるでしょう。

 けれども私は思うのです。勉強は本来楽しいものであるはずだ、と。

 だって、勉強をすれば、これまで知らなかったことを知り、できなかったことができるようになるのです。

 楽しくないはずがありません。

 楽しくないとすれば、「知らなかったことを知り、できなかったことができる」が実現できていないからでしょう。

 例えば、私は子供の頃から理数系が得意で好きだったのですが、小学生の一時期理科の授業がつまらないと感じていました。

 私は特に勉強熱心な人間ではありませんが、興味のあることに関しては貪欲に知ろうとする(たち)です。

 つまり、興味があれば教科書は勝手に先まで読んでしまいます。予習しているつもりは一切ないのですが。

 さらに、興味のあることに関してはテレビで見たとか本で読んだとかいった内容を憶えてしまい、授業では習わない範囲の知識まで蓄えていました。

 興味のある事柄に対して特異な才能を見せる小学生ってたまにいますよね。

 駅名を路線に沿って全部言えるとか、膨大な数の魚の名前を難しい漢字で書けるとか、ポケモンの名前をプロフィール付きで全部言えるとか。

 そうした興味の対象が授業と関係ある場合、一見優等生、中身オタクな小学生が出来上がります。

 また、私が小学校に通っている間に学習指導要領の改定でもあったのか、学年が上がったのに授業の内容が去年よりも簡単と感じることがありました。

 授業で習う内容は全部知っている、演習などでも問題が簡単で苦労しない、小学校の先生は専門家ではないので教科書には載っていない薀蓄とかも出てこない。

 何も得るものの無い授業、つまらないでしょう?

 授業に付いて行けずに苦しんでいる人からすればぜいたくな悩みでしょうが、「内容が分からない」も「全部知っている」も得るものがないという点では同じことです。

 集合教育の難しいところで、一番進んでいる生徒に合わせれば付いて行けない者が出る、遅れている生徒に合わせれば退屈でやる気を失う者が出て来る。

 なるべく多くの生徒に対応するようにしても、一定数の授業に付いて行けない者と知っている話しか無くて退屈する者が出ることになります。

 どちらにしても退屈で辛い時間になるので、勉強はつまらないものだという認識が広がるのでしょう。


 勉強をして、「知らなかったことを知る」ことは楽しい事だと私は思うのですが、そうは思えない人もいるでしょう。

 役に立つのか立たないのか分からない知識を詰め込まれたけどちっとも楽しくなかった、みたいな経験は誰にでもあるでしょう。

 おそらく、「知ること」と「記憶すること」は違うのです。重要なのは、「憶えること」ではなく、「理解すること」です。

 何の意味もない単語の羅列や数字を憶えても楽しくはありません。

 ですが、その言葉や数字の意味を理解し、他の何かと結び付くと面白くなります。

 勉強が苦手な人は、理解するところまで行っていないからではないでしょうか。

 私が理数系を好きな理由は、一つ理解すると幾つも応用が効くからです。

 数学では数多くの公式が存在しますが、全ての公式を憶えても数学を理解したことにはなりません。

 数学の勉強として公式を丸暗記してきた人にとって、数学はつまらなくて辛いものだったでしょう。

 でも、正しく理解していれば、公式は数学的思考の結論に過ぎないと分かるはずです。

 例えば、三角形の面積の公式は「底辺×高さ÷2」と小学校で習います。

 これは、同じ三角形をもう一つ用意して、ひっくり返してくっ付けると平行四辺形ができるので、平行四辺形の面積の半分が三角形の面積だと簡単に分かります。

 平行四辺形の面積の公式「底辺×高さ」も、平行四辺形の片側を垂線で切って反対側にくっつければ長方形になることから、長方形の面積である「縦×横」と同じ意味であることが分かるでしょう。

 数学は、公式を憶えていなくてもそこに至る道筋だけ理解していれば答えを出せます。

 公式は、憶えておけばその途中過程を省略できるショートカットに過ぎません。

 逆に、公式だけ憶えていても途中経過を理解していないと使える場面は限られてしまいます。

 公式が利用できる状態にしないと解けないので、公式に当てはめるために大回りしたり、何の公式を使えばよいのか迷ったるすることもあります。

 昔、囲碁に関してこんなことを言った人がいました。


「定石は理解したら忘れろ。」


 囲碁や将棋の定石は、数学における公式のようなものだと思うのです。

 定石はある局面における最善手です。知っていればその状況で有利に戦うことができます。

 けれども、定石を憶えているだけでは実はあまり役に立ちません。

 定石から外れることは、最善ではない手を打つということで本来悪手です。

 だから、なぜそれが定石になっているのかを正しく理解していれば、定石から外れた悪手を打った相手を追い詰める手を打つことができます。

 しかし、定石を憶えているだけでは、定石から外れた時にどうすればよいか分からなくなります。定石から外れた悪手への対応を全て憶えるのはまず無理です。

 せっかく相手が失敗したのに、それを活かせずに、相手につられて自分も失敗することになるのです。

 対戦している相手に対して、「どうして定石通りに打たないのだ!」と文句を言う人はとても滑稽でしょう。

 これが、「憶えている」と「理解している」の差なのです。


 理解さえしていれば憶えることは最小で良い理数系の科目と異なり、とにかく憶える必要のある地理や歴史は私は苦手でした。

 私が歴史を面白いと感じるようになったのは学校の授業でなく、陳舜臣さんの歴史読み物を読んだことがきっかけでした。

 陳舜臣さんの書籍は油断のならない所があり、歴史小説だと思って読んでいると雑学的に話が逸れ、古代中国やら中近東当たりの話をしていたはずなのに、いつの間にか現代の日本にまで話が繋がるようなことがよくあります。

 その脱線する雑学が面白くてよく読んでいたのですが、そこで改めて気付いたことが「歴史は繋がっている」という事実でした。

 歴史上の出来事は、それぞれバラバラに発生しているのではなく、過去の出来事が影響を及ぼして必然的に次の時代の出来事が発生します。

 そこには因果関係があり、物語があります。

 語呂合わせで年数を憶えるだけの暗記科目だと思っていた歴史が、歴史上の出来事の繋がりと、その裏にある物語を理解することであると気付きました。

 理解できると、勉強は面白くなります。

 歴史は遥かな過去から連綿と続く壮大な物語であり、その先に現在が繋がっています。

 繋がりという点では、日本史と世界史を分けて考えてはいけないのかもしれません。

 日本の歴史は想像以上に海外と繋がっています。三国志の時代に魏に使者を送り、元寇がきっかけで鎌倉幕府は衰退し、戦国時代には西欧の覇権争いとも関わっていたという話もあります。

 また、地理と歴史は密接な関係があります。

 地政学などと言うものがあるように、地理的な位置関係や地形、気候や生態系など自然環境は政治経済文化や軍事にも大きく影響します。当然、その結果としての歴史にも。

 秀吉の中国大返しが偉業と言われても、位置関係や道のりの険しさなどを知らないと何がどう凄いのかを本当の意味で知ることはできないでしょう。

 多くの学問はそれ単独で完結しているわけではなく、他の分野との繋がりがあります。

 一つの分野に興味を持てば、関連して他の分野にも詳しくなることはあり得ます。


 学生の学力を向上させたいのなら、大量の知識を詰め込むのではなくて理解を深めることが重要だと思うのです。

 理解してその面白さを知ればやる気も出るし、興味のあることならば勝手に憶えてしまうものです。

 まあ、生徒全般に理解を促す、興味を持たせる、やる気を出させるというのは教育者にとっては昔からの課題で、未だ解決できない難題かもしれませんが、諦めずに考え続けて欲しいところです。


 余談ですが、昔「小学校の算数で、掛算の順番を逆にしたら不正解になった」という話題を聞いたことがあります。

 掛算の乗数と被乗数を入れ替えても結果は変わらないことを知っていればすごく変な話に思えますが、問題の意図は見当が付きます。

 この算数の問題は、計算能力を見るため試験ではないのです。

 おそらくは、文章から数式を作るために教えた通りの方法を実践できるかを調べるための問題です。

 試験慣れした学生は、試験の内容ではなく問題の出題者の心理を読んで答えることがあります。

 小学生でも、要領の良い子供ならば似たような事をする可能性があります。

 つまり、「これは掛算の問題だから問題文にある数字を二つ拾ってきて掛ければいい」とやるのです。

 交換法則の成り立たない引算や割算でも「大きい数から小さい数を引く」「割り切れる数で割る」とすれば、問題文を理解せずに答えを導き出すことができます。

 しかし、こんな方法で良い点を取ったとしても、いずれ行き詰まることは目に見えています。

 そこで、問題を正しく理解しないと正解しないように工夫します。

 例えば、「リンゴを3個買うことになりました。店に行くとリンゴは一個100円と書いてありました。合計でいくらになるでしょう?」といった感じに問題を作ります。

 考え方としては、リンゴが一個100円だから、合計金額を求めるための被乗数は100、そのリンゴを3個買うから乗数は3と考えます。

 だから「100×3=300」と計算式を書けば正解とします。

 ここで、何も考えずに出てきた数字の順に「3×100=300」と書いたら不正解にして、「ちゃんと問題を読め!」と言うのです。

 ただ、この手法には致命的な欠点があります。

 教師側が想定した以外の考え方を全て否定してしまうのです。

 例えば、「リンゴ一個が100円ということは、リンゴは百倍の一円玉と等しい。だからリンゴが三個ならばその百倍の300円になる」と考える子供がいたとします。

 その子にとっては、問題を正しく認識したうえで「3×100=300」という答えを出したのです。

 考えの道筋が異なるだけで、どちらも正しい答えなのです。問題文を理解せずにいいかげんに出した回答ではありません。

 それでも不正解になってしまいます。

 常人とは異なる発想をする天才が子供の頃は落ちこぼれだったみたいな逸話がありますが、同じことが確実に起こります。

 それに、「子供の個性を大切にする教育」が建前だけの大嘘で、みんな同じ型にはめようとしているとしか思えません。

 また、教える側がその問題の意図を正しく理解していて、なぜそれが不正解になるのかを生徒に理解させなければなりません。

 間違えた者をあざ笑うための引っ掛け問題ではなく、ちゃんと意味があってやっていることを理解させなければ教育にはなりません。

 教師自身も分かっていなくて、ただ「この問題では掛ける順番を逆にしたら不正解」と指定されていたから×にしたとかだったら、ただ理不尽な設問にしかなりません。

 下手をすると、意味も分からずに「掛算はこの順番でなければならない」と思い込んだ人間が誕生します。

 でも、文章から数式を組み立てる技術は重要で、最後の答えさえ合っていれば良いというものでもないのも事実です。

 教育というのは本当に難しいものです。

 実際に、算数の授業で教えたことやその設問の意味か正しく理解されなかったから「小学校で変なことが起きている」と話題になったのです。

 さて、理解していなかったのは子供でしょうか? それとも大人でしょうか?


 学生にとって、学校教育の中で重要になるのはテストの点数でしょう。

 テストの点数は成績に直結し、場合によってはその者の人生を左右します。

 授業の内容よりもテストの点数の方がよっぽど重要、と思っている人も少なくないでしょう。


 そもそもの話、皆さんはテストの点数を何だと思っていますか?


 生徒の成績を決めるためのテストの点数は、生徒にとっても学校側にとっても重要なものです。

 全ての生徒が自分の受けている授業のテストを受けられるように試験の時間割を調整し、不正が行われないように監督の先生を配置し、全員で一斉に同じ試験問題を解きます。

 短い期間に全部の科目のテストを受けなければならない学生も大変ですが、全てを準備して正しく採点しなければならない学校側も大変です。

 ですが、テストの点数を重要視するあまり、その本質を忘れていないでしょうか?

 例えば、こんなことを言う人はいませんでしたか?


「試験日にテストを受けられなくて追試になった場合は、全問正解しても満点の七割の点数しか取れない。当日に試験を受けなかったのだから当然のことだ。」


 皆さんは、この台詞に納得しますか?

 私は納得しませんでした。

 納得できなかったので考え続け、今こんなことを書いています。

 私が問題にしたのは、「当然のこと」という部分です。

 当然と言い切れるほど自明のことには思えませんでした。

 そこで深く考えようと思ったのですが、この問題を追求するには、そもそも「テストの点数とは何か」という点を明確にする必要があります。

 この部分の前提が食い違うと、話が噛み合いません。

 例えば、テストの点数は「勉強を頑張ったことに対する報酬」と思っている人はいませんか?

 実を言えば、そう言う側面はあります。

 学生にとってあまり興味のない科目でも、努力した分点数が上がるならばやる気が出る人はいます。

 RPGなどで、雑魚敵を倒すだけの単調な作業でも、それでレベルが上がるならとコツコツやるようなものです。

 つまり、勉強のモチベーションを上げるために、報酬として点数を与えているという考え方です。

 頑張っても点数が上がらないと一気にモチベーションが落ちるという欠点もありますが。

 あるいは、テストの点数をゲームのポイントのように考えている人はいますか?

 この考えでは、試験日に欠席することは試合の当日に現れなかったことに相当し、当然不戦敗になります。

 追試とは敗者復活戦のようなもので、それでトップを取れないのは当たり前、ということになります。

 このように、前提とする認識が異なれば、「当然」の方向性も全く異なってしまいます。

 報酬として考えた場合、「給料日に休んだだけで給料が減るのはおかしい」となるでしょう。


 ではあらためて、テストの点数とは何か?

 私の答えは単純明快です。


 テストの点数は、生徒の学力を測って数値化したものです。


 当たり前の答えです。これを否定したら学校教育が成り立ちません。

 しかし、当たり前すぎて忘れている人もいるのではないでしょうか。

 そうでなければ、「試験日に欠席したら点数が下がって当然」という発想は出てきません。

 試験(テスト)と言うものは、可能な限り正しく測らなければ意味がありません。

 学力テストに限らず、あらゆる試験(テスト)は正しく測定するために工夫を重ねているのです。

 取り得る値を一部制限したテスト、人によって点数の意味が変わってしまう結果を並べて比較することは本来できません。

 分かり易い例で言うと、体育の授業で腕立て伏せを十回やったけど、「試験日に休んだから記録は七回」と言われたらどう思います?

 あるいは、「今年発売された各社の自動車の性能を比較する」と言って走行テストを行ったが、ある車種については「試験日に間に合わなかったので、後日制限付きで走行テストを行いました」と言ったらどう思います?

 そんなテストの結果に何の意味があるでしょう?

 人によっては、そんな学力テストを正当化するためにこんなことを言う場合もあります。


「体調管理できていない本人が悪い。」


 これは詭弁だと思うのです。

 国語の成績に、「体調管理ができていない」ことを含めたいでしょうか?

 数学の成績に、「身体が弱くて休みがち」なことを織り込みたいでしょうか?

 社会の成績に、「試験日当日にたまたま風邪を引いた」という運の悪さを反映したいでしょうか?

 成績はその科目の能力だけを知りたいはずなです。それ以外の要因はただのノイズです。

 その上で「体調管理ができていない」とか「身体が弱くて休みがち」といった情報は別途欲しいでしょう。

「運が悪い」ことに至っては本人の能力として評価できるものではありません。ゲームではないのだから。

 さらに、試験に欠席した理由は体調を崩した等の健康上の問題だけとは限りません。

 相手側の責任が100%の事故に遭っても、「事故を避けられなかったお前が悪い」と言うのでしょうか?

 親が急病で入院したといった場合でも、「親の体調管理ができていなかったお前が悪い」のでしょうか?

 当人に責任の無い状況はいくらでもあります。それを本人が悪いことにしてしまうのはとても理不尽です。

 それとも、欠席した理由を聞いて点数を操作しているのでしょうか?


 追試を受けた学生の成績を下げるのには理由があります。考えなしに「当然だから」でやっているはずがないのです。

 まず、人の学力を正確に測定することは非常に困難なのです。

 機械的にある問題に正解すれば学力が高い、などと言いきることはできません。

 学生だって自分の実力以上に点数を取ろうと努力します。

 毎年同じ問題が出題されると知られれば、その問題()()正解できる勉強をするでしょう。

 しかし、異なる問題を完全に同じ難易度で出題することは困難で、試験の内容によって同じ学力でも点数が上下することは避けられません。

 それでも可能な限り正確な学力を測ろうと、学校側は工夫を重ねます。

 まず、一つの科目に対して全く同じ問題を全員に解かせます。これで、問題の難易度の揺らぎを防ぎます。

 そして、同じ科目のテストを全員同時に受けさせます。テスト前に問題を知る学生が出ることを防ぐためです。

 同じ条件で行ったテストの結果ならば、少なくともそのテストを受けた学生の間での比較はかなり正確になることが期待できます。

 高校や大学をランク付けして優劣を決めたがるのは、同じテストを同じ条件で受けた者同士でないと成績の比較があまり信用できないことが理由です。

 昔の共通一次試験→センター試験→大学入試共通テストと学校に関係なく同じテストを実施する制度があるのもこのためです。

 逆に言えば、同じテストを同じ条件で受けられないと困ったことになります。

 追試は、同じ条件の同じテストにはなりません。

 本来の試験日の後に行われる追試では、先にテストを受けた学生から出題された内容が伝わっている恐れがあります。

 全く同じ問題を使用していなくても、出題の傾向が分かるだけで追試の方が有利になる可能性があるのです。

 だから、その有利になった分を補正するために、追試の点数を抑えているのです。

 追試の問題の難易度を上げるという方法もありますが、そう言う質的な補正を確実に行うことは難しいものがあります。

 それからもう一点、学校側の都合と言うものがあります。

 正しくテストを行うために学校側はかなりの労力をかけています。

 先にも述べましたが、テスト問題を作るだけでなく、試験の時間割を作り教室を確保し試験監督の教員を手配しなければなりません。

 追試であっても同じだけの厳密さでテストを行う必要があります。

 追試を受ける人数が増えるほどその労力は増大し、本試験の大変さに近付いて行きます。

 試験に労力を取られ過ぎて、授業やその他の教育活動が疎かになってしまったら本末転倒です。

 学校は生徒の教育を行うことが「本」であって、テストはその結果を確認するだけの「末」なのです。

 追試は、成績の精度を下げてしまうと同時に学校側の負担を増やすことになるので、なるべく追試を受ける生徒を減らしたいというのが本音でしょう。

 しかし、学生は実力以上に良い点数を取ろうとします。ある意味そう仕向けられています。

 もしも、本試験よりも追試験の方が高得点を出せる可能性があるなら、仮病を使ってでも追試を受けようとする学生が出て来るでしょう。

 そうでなくても、一夜漬けの勉強時間をギリギリまで稼ぐためにいくつかの科目のテストを追試に回そうとする学生も出て来るかも知れません。

 それで多くの学生が追試を受けるようになったら学校としては困ってしまいます。本試験を二回行うような手間をかけて、成績はより不正確になるのです。

 仮病で本試験を休むことを防ぐために、医師の診断書を求められたりしたら学生も困ってしまうでしょう。

 学校にとっても、学生にとっても不幸なことです。

 そこで、追試験は本試験よりも不利な条件を付けることで、学生がわざと追試験を受けようとすることを防いでいるのです。

 同じ実力ならば本試験の方が点数が上がるのならば、故意に追試験を受ける学生はほぼいなくなるでしょう。

 人数が少なければ追試のための労力も少なくて済み、本当に仕方のない事情で追試を受ける学生の成績はやや不正確になりますが、全体としてのテストの精度は上がります。

 成績的に不利な扱いを受ける人は少数で済みます。

 ただし、その本当に仕方のない事情で本試験を受けられなかった不運な人は、成績が下がるうえに「体調管理もできない人」扱いされかねない踏んだり蹴ったり状態になります。


 追試において点数を下げることは、それが絶対的に正しいとか、当然だとか言うことはありません。

 むしろ、制度上の穴を塞ぐために止むを得ず行っていることです。

 決して最上の方法ではなく、問題があることもはっきりしていて、それでも他にもっと良い方法が見つからないから仕方なくこの方法を取っているにすぎません。

 だから、決して「これが当然」などと言ってはいけません。

 学生がそう思い込んでしまうのは仕方がないにしても、特に教育者がそんなことを言ってしまうのは大問題です。

「当然」「当たり前」で思考を停止してしまえば、現状の問題を改善し、より良い方法を模索しようという行動が起こせなくなります。

 そして、より良い方法が開発されても、従来のやり方に固執して問題のある方法を続けることになりかねません。

 例えば、一人一人に別々の問題を出題して正確に学力を測る方法が開発されたとしたら。

 例えば、一回のテストの点数で成績を付けるのではなく、日頃の学習状況を記録して理解度を判定する仕組みができたとしたら。

 例えば、成績が悪ければ就職に苦労する学歴社会から、成績は適職を見つける判断材料くらいに認識が変わり、学生も良い点を取ることよりも自分の能力を正しく測定することを重要視する世の中になったとしたら。

 それでもなお「追試なのだから点数が下がって当然」と言い続ける人がいたら、とても滑稽で、有害だと思いませんか?


・おまけ

 余談ですが、学力を正確に測ることが目的と考えると、零点や満点を取る学生が出るテストはあまり良くないのです。

 零点と言うのは測定できる下限です。それ以下、いくら低いのか判断できません。

 満点と言うのは測定できる上限です。それ以上、いくら高いのか判断できません。

 どちらも、メーターを振り切った状態で正しく測定できていないのです。

 例えば、何かを測定する際に「測定機器の0付近は正確に測れないから使用してはいけない」という話を聞いたことはありませんか?

 100kgまで測れる秤で1gや2gのものを測ろうとしてもどうしても不正確になります。

 また、「日本では高速道路でも制限時速は100キロなのに、自動車の速度メータに100を超えるメモリがあるのはおかしい」と思ったことのある人はいませんか?

 その考えは間違っています。

 もしも自動車の速度計が時速100キロまでしか測れなければ、時速100キロと表示されていても100キロちょうどで走っているのか、実は150キロくらい出ているのか判別できません。

 測定範囲の上限と下限は異常値であり、正しく測定できていないのです。

 学生が「こんなテスト楽勝で満点取れる」などと言うのは仕方ないにしても、教師側が「この程度のテスト満点で当然」と言うのは間違っています。

 満点続出のテストは、満点を取った者が全員学力の測定対象外です。測定範囲(レンジ)の上限が低すぎるのです。

 授業の内容を憶えているのかを確認する小テストくらいならともかく、学力を測定するためのテストで、測定できない学生が出る前提の問題を用意するのはおかしいでしょう。

 同じ理由で、零点続出のテストも測定範囲(レンジ)が間違っています。

 零点も満点もデータとしては異常値です。範囲外の情報は得られていないので、統計処理を行っても有意義な値は出てきません。

 極端に言えば、「平均点が99点のテストで100点」とか、「平均点1点のテストで0点」とかいった点数に何の意味があると思いますか?

 そんなテストの点数でつけられた成績――ケアレスミスの1点差で優等生と落ちこぼれに分かれる成績が正しいと思えますか?

 異常値が出ること前提で行われるテストは間違っていますし、それが正しい基準で作成されたテストだというのなら、カリキュラムか教え方が間違っています。

 零点が一人二人ならともかく、多数いるなら教え方の問題を疑うべきでしょう。

 満点続出の場合も、授業がつまらなくてやる気をなくす学生が現れる恐れがあります。


 まあ、素人があれこれ言わなくても現場の教師や教育関係者はちゃんと分っているとは思います。

 ただ、教師はとても忙しい仕事だと聞きます。

 日常の業務の忙しさにかまけて、教育の本質を見失わないことを願います。


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